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本編 平凡地味子ですが『魔性の女』と呼ばれています。
88.逃げないで
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七海はそれだけ言うと方向転換して、駅に向かって歩き出した。
が、タクシー代を負担して貰ったお礼を言っていない事に気が付き、クルリと振り向く。
するとドカンと体当たりされて思わず「ぐぇっ」と呻くことになった。
胸が苦しいのは、腕ごとぎゅうぎゅうに抱き締められているからだ。
目の前にあるのは、見覚えのあるギンガムチェック。
さっきまで自分の横にいた、黛のボタンダウンシャツだった。
「逃げるな」
「逃げてなんか……っ、つーか苦しいんだけどっ!」
七海の抗議に聞く耳を持たず、黛は腕の拘束を緩めなかった。
「話を聞け」
「聞きたくない」
「何でいつもいつもお前は、そう―――」
苛立った声に、胸がざわつく。
黛はいつもこうだ。自分勝手に言いたい事を言って、七海の心中はお構いなし。
好きだと自覚してしまえば、更にその振る舞いに対して、身の内に痛みが増してしまう。
ジタバタと暫く七海は暴れて―――もう一度自慢の頭突きを食らわそうとしたが、敵もさるもの、不意打ちでも無ければ力の強い男に細身の七海が敵う訳が無かった。
「駅前で暴れんな。落ち着いて話を聞いてくれ」
命令形が懇願に変わった。
そこで七海は少し力を緩める事にした。どちらにせよ、抵抗虚しく防がれたため疲れ切って攻撃も逃げるのも無理な状態になってしまった。
腕の中に囲い込んだ獲物の抵抗が収束した感触を得て、黛はホッと息を吐き噛んで含めるように尋ねた。
「逃げないか?逃げないなら―――手を離すぞ、あっ!頭突きも腹蹴りも禁止!いいか?」
「……」
七海は暫く思案したが、やがてゆっくりと頷いた。
全く不愉快だが、話くらい聞いても何かが変わる訳では無い。溜息を吐いて「逃げないから、離して」と言うと、やっと拘束が緩んで体を包んでいた圧迫感が消えた。
そこで彼女は周囲の好奇の視線に気が付いた。
まるで痴話喧嘩だ―――と七海はその時漸く状況を客観的に把握する事ができた。
男に頭突きを食らわせ倒し、仁王立ちで言葉を投げつけ去ろうとした所を縋られて。しかも七海みたいな平々凡々の地味な女が、キラッキラした美形を足蹴にしているのだ。七海だってこんな場面に居合わせたら、他人事ながら思わずジロジロ眺めてしまうかもしれない。
「あのさ」
黛は後ろ頭を掻きながら、気まずそうに提案した。
「うち、来るか?」
「え……」
七海はブンブン頭を振った。
以前酔っぱらった黛を送って行って、ヒドイ目に遭ったのだ。
まさかあれだけ謝って置いて同じ轍は踏まないだろうとは思うが―――未だに七海が何に怒っているのかちっとも分かっていない様子の男にホイホイ付いて行くわけにはいかなかった。
「ヤダ」
すると黛は眉を下げて、真剣な顔で七海を見て言った。
「前みたいな事には……ならない。今日は親父が家にいるからな。―――どっちにしろ、こんな人目のあるところでいつまでも立ちっぱなしで喧嘩する訳に行かないだろう」
「……」
「お前が嫌がる事は、何もしないから」
「……本当に?」
「ああ、俺は嘘はつかない」
黛は大真面目な顔で頷いた。
暫く疑わし気に黛を睨んでいたが―――七海はふと力を抜いてソッポを向く。そして「わかった。行く」と言って神妙な顔で頷いたのだった。
が、タクシー代を負担して貰ったお礼を言っていない事に気が付き、クルリと振り向く。
するとドカンと体当たりされて思わず「ぐぇっ」と呻くことになった。
胸が苦しいのは、腕ごとぎゅうぎゅうに抱き締められているからだ。
目の前にあるのは、見覚えのあるギンガムチェック。
さっきまで自分の横にいた、黛のボタンダウンシャツだった。
「逃げるな」
「逃げてなんか……っ、つーか苦しいんだけどっ!」
七海の抗議に聞く耳を持たず、黛は腕の拘束を緩めなかった。
「話を聞け」
「聞きたくない」
「何でいつもいつもお前は、そう―――」
苛立った声に、胸がざわつく。
黛はいつもこうだ。自分勝手に言いたい事を言って、七海の心中はお構いなし。
好きだと自覚してしまえば、更にその振る舞いに対して、身の内に痛みが増してしまう。
ジタバタと暫く七海は暴れて―――もう一度自慢の頭突きを食らわそうとしたが、敵もさるもの、不意打ちでも無ければ力の強い男に細身の七海が敵う訳が無かった。
「駅前で暴れんな。落ち着いて話を聞いてくれ」
命令形が懇願に変わった。
そこで七海は少し力を緩める事にした。どちらにせよ、抵抗虚しく防がれたため疲れ切って攻撃も逃げるのも無理な状態になってしまった。
腕の中に囲い込んだ獲物の抵抗が収束した感触を得て、黛はホッと息を吐き噛んで含めるように尋ねた。
「逃げないか?逃げないなら―――手を離すぞ、あっ!頭突きも腹蹴りも禁止!いいか?」
「……」
七海は暫く思案したが、やがてゆっくりと頷いた。
全く不愉快だが、話くらい聞いても何かが変わる訳では無い。溜息を吐いて「逃げないから、離して」と言うと、やっと拘束が緩んで体を包んでいた圧迫感が消えた。
そこで彼女は周囲の好奇の視線に気が付いた。
まるで痴話喧嘩だ―――と七海はその時漸く状況を客観的に把握する事ができた。
男に頭突きを食らわせ倒し、仁王立ちで言葉を投げつけ去ろうとした所を縋られて。しかも七海みたいな平々凡々の地味な女が、キラッキラした美形を足蹴にしているのだ。七海だってこんな場面に居合わせたら、他人事ながら思わずジロジロ眺めてしまうかもしれない。
「あのさ」
黛は後ろ頭を掻きながら、気まずそうに提案した。
「うち、来るか?」
「え……」
七海はブンブン頭を振った。
以前酔っぱらった黛を送って行って、ヒドイ目に遭ったのだ。
まさかあれだけ謝って置いて同じ轍は踏まないだろうとは思うが―――未だに七海が何に怒っているのかちっとも分かっていない様子の男にホイホイ付いて行くわけにはいかなかった。
「ヤダ」
すると黛は眉を下げて、真剣な顔で七海を見て言った。
「前みたいな事には……ならない。今日は親父が家にいるからな。―――どっちにしろ、こんな人目のあるところでいつまでも立ちっぱなしで喧嘩する訳に行かないだろう」
「……」
「お前が嫌がる事は、何もしないから」
「……本当に?」
「ああ、俺は嘘はつかない」
黛は大真面目な顔で頷いた。
暫く疑わし気に黛を睨んでいたが―――七海はふと力を抜いてソッポを向く。そして「わかった。行く」と言って神妙な顔で頷いたのだった。
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