理想の夫

ねがえり太郎

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番外編 理想の夫 石堂(いしどう)の場合

3.初めての子育て

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 灯の決定に対して、俺がここまで強く異を唱えたのは初めてのことだった。

 彼女は俺の勤める会社の社長なのだから、当然と言えば当然だ。俺は意見も助言も、する。しかし、決めるのは彼女だ。選択の権利も責任も、全て彼女の肩に掛かっている。そしてひとたび方針が決まったなら、それを全力で支えるのが俺の仕事だった。


 しかし俺は今回、強硬に自分の我を押し通した。

『申し訳ない』『家族の問題とだから』と、立ち入り過ぎる俺のサポートプランを退けようとしていた彼女を頭ごなしに叱り飛ばしたのだ。その上で噛んで含めるようにその必要性を説き、力技で屈服させようとした。

 自分より年下とは言え、仮にも雇用主である彼女に対して俺がそんな態度をとったことは終ぞなかった。

 実際かなり、驚かせただろう。怖がられ嫌われることも覚悟したが、トコトンやり合った翌朝、病室の彼女はスッキリとした表情をしていた。


 一旦俺の申し出を受け入れると決めた後の彼女は、素直だった。

「よろしくお願いします」と頭を下げ、「そうと決めたらドンドン頼りますから覚悟してください。後で『幾らなんでも頼り過ぎだ!』って後悔しても、遅いですからね!」

 と、こけた頬に、久し振りに笑みを浮かべる。


 一瞬、不覚にも泣きそうになった。


 こんなにも彼女の笑顔を、自分が切望していたなんて意識していなかったのだ。


 そうと決まれば、俺の行動は早い。

 灯から合鍵をもらい受け、自分の荷物を纏めると彼女のマンションに泊まり込む。同時に退院までの間、委任状を手に出来得る限り彼女の代理で様々な手続きを片付けた。

 満の送り迎えの為に幼稚園を往復し、家事を一手に引き受ける。

 独り暮らし歴が長いから、家事はある程度要領良くこなせた。ボランティアで指導している道場で子供と触れ合うこともあるから、子供の相手が苦手な訳ではない。また、幸いなことに次の四月に小学生になる満は、トイレも風呂も自分一人で始末できるよう仕込まれているようだ。


 とは言え、付きっきりで幼児の身の廻りの世話などしたことはない。身近な子持ちの社員に相談を持ち掛けた。

 独身の俺が社長の娘の世話をするなど、どう考えても不適任だしおかしいのではと思われただろう。しかし皆は、俺の選択を批難することもなく、快く助言してくれた。

 ある育休中の女性社員などは、時間のある時は子連れでマンションに訪れてくれて、満とその子を遊ばせてくれたりした。あまつさえ俺が子育てを引き受ける、と決めた決意に賛辞を送ってくれたのだ。

 年下で、部下の部下だった大人しい性質の彼女をフォローすることはあっても、フォローされるなど職場ではあり得なかった。それが立場が途端に逆転したのだから、おかしなものだ。子の親の先輩として見る彼女は新鮮で、俺の目にも頼もしく映った。これは怪我の功名、得難い貴重な体験である。


 満が疲れて寝付いた後は、片付けや雑多な仕事が残っている。育休社員とその息子が帰った後、俺は溜息を吐きながら洗い物に手を付ける。これが終わったら洗濯機のタイマーをセットして―――ああ、そうだった。幼稚園の連絡帳を書かなきゃならないんだ……!


 家事だけならともかく、子育てしながらというのは……楽じゃないな。


 そうしみじみと感じ入る時、それを難なくこなしていた悠馬のことを思い出す。

 そんな時の俺は、苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう。家事と子育てをこなした上で、浮気さえもちゃっかりこなしていた男の器用さに呆れたからだ。

 いや、そこにはもう拘るまい。アイツは家庭の仕事をきっちりこなした上で、娘の教育にも手を抜かなかった。この年でお風呂に入って身の回りのことをちゃんとこなせる子供は、いるにはいるけれども少数派なのだと子育ての先輩である彼女達に教わった。


 俺は仕事で手一杯だ。女と付き合った経験がないワケではないが、いつでも仕事を優先して来たからせっかく付き合っても忙し過ぎて振られてしまう。積極的に捕まえようと言う気も無かったから、『来る者』はそれほどいたわけではなかったが、去る者を全く追おうともしなかった。

 けれども漸く心底惚れた、自分から動いて手に入れたいと思う女に初めて出会った時。既にその女は他人のモノだった。




 一方で仕事については、部下の春日とザっと進行中の案件と社長の予定を洗い出すことから始めた。

 分担を粗方振り分け、新しい企画については可能であれば一旦ペンディングするよう、手配する。どうしても止められない所は俺と春日で判断し、のちのち灯に確認することに決めた。しかし事務的なことは素早く処理できても、俺には灯のような特別な感性が備わっていない。だからその辺りは慎重に担当部署の意見も十分に踏まえ、迷いを抱えながらも決断するしかないと割り切った。


 こうして会社はしばらく春日と俺が中心になる形で進め、彼女の調子が浮上した頃合いを見て、ネット電話やメールの遣り取りで指示を仰ぐこととした。

 疲労と睡眠不足、栄養失調、精神的なストレス……そう言った体調不良がある程度解消された頃、漸く自宅療養にシフトすることになる。まだ全快にはほど遠い、と医者には言われたものの、彼女の強い主張で退院する事となった。


 医者から安静を言いつけられたものの、そもそもの彼女は家で大人しくしていられる性質では無かった。案の定退院後二、三日ほどで溜まった仕事を処理するため、職場へ通うと主張し始める。

 結局灯の強い主張にこちらが折れ、短い時間なら、と満を幼稚園に送り出した後、車で会社に連れて行くことになった。ブランクを埋めようと夢中になり、根を詰めそうになる彼女を「満が寂しがる」などと口実をつけて説得し、連れ戻す。なかなかこれも手の掛かる作業だ。

 しかし仕事に対してやる気があるのは、良いことだと思う。心配しながらも、以前の灯が戻って来たようで何処かでホッとする気持ちもあった。


 ただし既に子育ての大変さを幾らか齧った俺には、まだ母と娘を二人切りにするのは危険だと想像がついた。彼女がマンションに戻った後は、満の世話だけおおむね彼女に任せ、その他家事をほとんど引き受けることとする。

 彼女が満を寝かしつけたのを確認して、俺は家へ戻ると言う手筈で過ごしていた。が、その体制に入って三日目のことだ。家事も全て片付けてしまいダイニングテーブルでノートパソコンを開いてメールチェックで時間を潰していたが、寝かしつけに随分時間が掛かり過ぎていると気が付いた。


 満の部屋を覗くと、ベッドの上で娘に添い寝する灯がいた。そっと中に入り覗き込むと、案の定寝息を立てて彼女は眠っている。随分と疲れているのだろう。起こすのも悪い気がして俺は暫くそこを立ち去ろうか、それとも一声かけて家を出ようかと逡巡した。


「……」


 だが、足が縫い留められたように動かない。


 彼女のこんな無防備な表情を、見たことがあっただろうか。


 病院で漸く笑顔を見せてくれたものの、最近はほぼ憔悴しきった表情しかみていない。例え笑顔を見せたとしても、それは幾分遠慮がちなものだ。倒れる前は果たしてどうだっただろうか? と記憶を探らなければならないくらい、ちょっと風が吹いただけで足元が崩れて遥か崖下に落ちそうな、そんな張り詰めた表情をしていた。

 以前は……そうだ。体の中にマグマでも抱えているのかってぐらい、パワフルでタフで、いつもどんな局面でも笑顔を忘れない前向きな顔ばかり、俺達部下には見せて来た彼女なのに。


 今娘に寄りそう寝顔は、一度も俺が目にした事がないどこかあどけなさを感じさせるものだ。


 灯がこの家に戻ってから、満の我儘が爆発していた。ずっと堪えていて、その反動だろうか。俺や、他の社員と一緒の時はこのようにぐずったりはしなかったから。

 満は彼女が戻るとべったりと甘え、かと思うとあろうことか「パパはいつ帰るの? どこに行ったの?! 会いたい!!」と駄々を捏ね始めた。情緒の不安定さに、傍から見ていてもハラハラする日が続く。

 それまでずっと、満は良い子でいたのだ。悠馬のことを尋ねられた時、最初に「遠くに行かなきゃならなくなって、一緒にいられなくなった」と俺が説明したら、納得したのかは分からないが、それ以上追及してこなかった。ただ単に、俺が恐ろしくて聞けなかっただけかもしれない。


 泣きじゃくる彼女を部屋に連れて行き、そのまま灯は添い寝をしていたのだろう。

 子ども相手に疲れ果てて眠ってしまった……と言う態の、その幼げな痛ましい頬を俺はジッと見下ろしていた。

 髪の毛が張り付いていて、口元に入り込んでいる。

 思わず、手が出た。

 その髪の毛を指でよけようとして―――ふと、頬に走る涙の跡に気付く。


 泣いていたのか。


 伸ばし掛けた指を、ギュッと握り込む。

 俺は彼女の寝顔を覗き込むように屈みこんでいた背を伸ばし、足音を忍ばせて部屋を後にしたのだった。
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