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番外編 春香(はるか)の場合
6.彼女の訴え
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夫が家に帰って来る頻度が多くなったような気がする。
一方食卓では、何かと松島が絡んでくるようになった。以前の彼女は寡黙で、こちらから声を掛けない限り、口を開くようなタイプでは無かった筈だ。私が出産で里帰りしている間に、いったい彼女にどういった変化が訪れたのだろうか……? その問いを口にすることは、できそうもない。
松島は私達それぞれに、交互に話し掛けて来る。その様子はさながら、言葉の通じない二人を取り持つ通訳のようだ。私は夫に話し掛けないし、夫も私に話し掛けて来ないから自然とそうなってしまう。
相変わらず寝室は別だし、食事を一緒に取った後は夫は部屋に籠ってしまう。ひょっとして食事を終えて片付けを済ませた後、松島が帰ってしまうからだろうか? だとすれば、松島に会う為に、夫は以前より頻繁にこのマンションに帰って来る……と言えるかもしれない。
このマンションには、松島の明るい声と航太郎の泣き声だけが響いている。航太郎の泣き声がまるで耳に入らないかのように振る舞い、松島の質問に応える夫の声は、少しだけ柔らかみを持っているような気がして―――気が狂いそうになった。
とうとう神経が限界を迎えたある夜、私は夫の部屋を訪れ、松島を追い出せと詰め寄った。更にそうしなければ、再び私は実家へ戻ると訴えて。妻の自分と松島、夫がどちらを選ぶのかは明白な筈だった。しかし、私の握りしめた掌はびっしりと汗を掻いている。
『松島と何かあるんでしょう? 私がいない間に何があったの?』と問い質したかった。しかし不快気に眉を顰める夫を目の前に、意気込みは空気の抜けた風船のように萎んでしまう。彼が発する迫力だけで、私の体は委縮してしまうのだ。
彼等の決定的な証拠を手にしている訳ではない。私も母のように、探偵を雇うべきなのだろうか?……夫が松島に拘るようなら、その時はそうすべきなのかもしれない。
意外な事に、夫は反論を口にしなかった。じっと私を正面から見据え、その視線に耐え切れずに目を逸らした私に溜息をついて―――分かった、好きにしろと頷いたのだ。
新しく派遣される家政婦の人選は、私に委ねられる事になった。
慎重に選ばなけば。松島のように、夫に粉を掛けるような女は駄目だ。出来れば年嵩の方が良い、若い女、ましてや男をその気にさせる容姿の女は論外。余計な口をきかない人間が望ましい。
これは無駄な足掻き、なのかもしれない。けれどもせめて私の領域からは、夫の女の気配を排除したかったのだ。何よりも―――私の心の平穏の為に。
新しい家政婦が決まり、やっと穏やかに過ごせるとホッと息を吐いた頃。解雇された松島が、休日を狙いドアを叩いた。松島は、夫に会いたかったのかもしれない。生憎、彼は休日も仕事で不在だったが。
玄関で『お世話になりました』と頭を下げた後、松島が懇願するように上目遣いで私を捕らえた。
「奥様、何か私が至らないことがあったでしょうか」
「……」
「解雇が不満、と言う訳ではありません。でも精一杯、務めたつもりです。もし私に不手際があったなら、今後に活かしたいのです」
「……どんな人を雇おうと、私の自由よね?」
そうだ、ここは私の家なのだ。誰を雇おうと、誰を解雇しようと私の好きにできる筈だ。松島の責めるような視線に、怯みつつ私は答えた。私は本来、自分の意見を主張するのが苦手な人間なのだ。学校でも、皆に混じって頷くのが精一杯。だから今まで、ずっと不満を口に出せないまま燻らせて来た。
けれども、松島の夫に対するジットリとした視線と、そこはかとなく漂う圧力―――これだけは耐え切れなかった。だから勇気を振り絞って、夫に直談判したのだと言うのに。
「それは、もちろんそうですが……」
以前は滅多に口を開か無かった松島だが、これが本来の姿なのだろうか。何故そのまま私の目の前から消えてくれなかったの。自分の思い通りに物事が進まないのが、それほど悔しいのだろうか。私の胸に一気に苛立ちが充満する。思わず、不満が漏れだした。
「自分の夫に親し気に擦り寄る女がいたら……我慢できるわけないでしょう」
松島はハッと目を見開いて、顔を上げた。図星を突かれて、慌てたのだろう。頬が羞恥を表すように桃色に染まる。
「わ……私はそんなつもりじゃ……。その、お二人に仲良くしていただきたくて、お節介をしたことは謝ります。せめて旦那様と奥様の橋渡しが出来れば、と……」
被害者ぶった物言いに、つい言うつもりも無かった本心を放ってしまう。
「貴女……夫に好意を抱いているでしょう。私がいない間に、何があったの?」
「……え……」
虚を突かれたように、ポカンと口を開ける松島。
見抜かれていたことに、驚いたのか。
それとも夫への好意は秘めたもので、現実に踏み込むまでに至らなかったのか。
「奥様、誤解ですっ……旦那様は、そんな……っ」
一気に蒼白になる顔を見て、確信する。実際夫が手を出したにせよ、出さなかったにせよ、彼女の夫への好意は明確に存在していたのだと。深まる苛立ちを知ってか知らずか、松島は無駄な足掻きを重ねる。しどろもどろに、こう口にしたのだ。
「確かに、旦那様には良くしていただきましたが……」
「なっ……」
その瞬間、怒りが爆発した。
その言葉の端に、密かな優越感を感じとってしまったのだ。
私一人の錯覚かもしれない。いや、確かにその瞬間、彼女は私に対して対抗心を露わにしたのだ。まるで自分の方が、夫に近い存在であることを匂わすように。悄然とした表情―――その一部、口角が僅かに上がるのを目にしたのだ。
思わずカッとして、その体を突き飛ばしてしまう。よろけた松島の体。その手が、飾り棚に置かれていた大きなガラスの壺に触れた。パリン! 破片が床に飛び散り、その一つが松島の頬を掠める。
「あっ……!」
頬を抑える松島の指の間から、ツッと薄く血がにじむのが見える。
私は思わず息を飲んだ。もちろん、危害を加えるつもりなど毛頭無かった。ただ抑えきれない衝動に体が揺り動かされ、結果として松島を突き飛ばしてしまったのだ。
「あの」
手を伸ばし、声を掛けようとすると、ビクリと身を竦めた松島が一歩退いた。
「「……」」
静けさがその場を支配する。どちらも口を開く事もない時間がそこに鎮座していた。ジリジリとした気配が続いたのは数分にも思えたが、実際は数秒だったかもしれない。
『……あぁう~ぁ……!』
居間のベビーベッドに寝かせて置いた、航太郎が泣きだすのが聞こえた。このままにしておけない。一度泣きだしたら、航太郎はなかなか泣き止まないのだ。ハラハラしつつも、しかしこの場を離れる口実を得て何処かホッとして―――玄関に背を向ける。
「……申し訳ありませんでした」
背中に小さな声が掛かって、扉が閉まる音がした。
振り向くと後には散らばった破片が、残されていた。
その日、夫が珍しく早く帰って来た。
「松島に怪我をさせたそうだな」
「……」
何となく、早く帰って来た理由には察しがついていた。夫は感情を全く表に出さずに淡々と、言葉を継いだ。
「連絡があった」
「それは……わざとではなくて。その、少し体を押したら、松島が壺に触れてそれを倒してしまったの。だからその破片がたまたま当たって……」
「……」
ジロリ、と無言で睨まれて、私は慌てた。
夫が自分の言葉を、全く信用していないと感じたからだ。
「本当よ! その、声を掛けようとは思ったのだけど……航太郎が泣いて。それで様子を見に行ったら、もう玄関にはいなくて」
まさか、松島が私に危害をを加えられたと訴えたのではないか。嫉妬に狂った妻に、害されたのだと、夫に好意を抱く彼女はこれ幸い、と夫に泣きついたのだろうか。咄嗟に急峻な崖の上に、追い詰められたような気分になる。
「松島を、信じるの」
悪いのは、松島なのに。
いや、ひょっとすると最初から―――その時ある閃きが、頭の隅に宿った―――松島の目的は、私を追い詰めることだったのかもしれない。大体ちょっと押しただけで、あれほど体がよろめくものだろうか? 手が当たったのも偶然では無いのかもしれない。
「……派遣事務所から連絡があっただけだ。玄関に飾っていた壺を壊してしまったので補償をしたいと。近くまで出ていたから、事務所に寄ったら松島が顔に怪我をしたのだと、知った。こちらで治療費を持つことで示談にして貰った」
「え?……でもそれは、松島が自分で……」
「こちらが傷を負わせたんだから、当たり前だろう。壺は比較的新しいものだし百万もしないから、不問にした」
簡潔な物言いに、夫の怒りを感じた。
どうしてもっと、私に詳しく状況を訪ねようとしないの? 私の言い分を聞いてくれないの?! 松島の話は、ちゃんと聞いたのに。私の話は途中で遮って―――妻である私の言葉より、他人の……別の女の言い分を信じるのね。
たちまち反論せずにはいられなくなった。誠実そうな表情の裏でほくそ笑んでいるであろう彼女の正体を夫に知らしめなければ、と思ったのだ。
「あの人、わざと私を怒らせたのよ? ひょっとすると壺を割ったのも、わざとかもしれない。それを口実にあなたの関心を買おうとして……」
「何を言っているんだ」
またしても、彼は私の言い分を遮ってしまう。
その声にはハッキリと、私への軽蔑が現れている。絶望と共に、私は声を絞り出した。
「そうなの。……私より、彼女の言い分を信じるのね」
「お前は……」
ハーっと、大きな溜息を吐かれる。
その時プツリと、微かに二人を繋いでいた細い糸が切れる音がした気がした。
「確かに」
冷たい声が返って来る。
「妄想で当たり散らす女より、黙々とやるべきことをやる女の方が好ましいな」
「……!……」
「松島には、もう関わるなよ。今度は、治療代じゃすまなくなるぞ」
「……は……」
怒りで、呼吸が苦しくなる。
とうとう、夫の本心を知ってしまった。
やはり、そうなのだ。この夫は妻の本心を顧みようとはせず、心地の良い言葉ばかりを吐く女の言葉には耳を貸す男なのだ。私が出産や育児で、こんなに苦しんでいる時に。苦しさだけを私に押し付けて、彼は他の女と楽しんでいる。航太郎は、あなたの子供なのに……! 何故私ばかりが苦しい思いをして、孤独にさいなまれなければならないの。
「私が彼女を呼んだわけじゃない……松島が、勝手に文句を言いに来たんじゃないの!」
そもそも私が松島を呼んだわけじゃない。なのに、何故私がわざわざ危害を加えるような、そんな物言いをするの?! どうしてあなたは、妻の味方で居てくれないの?! おかしいじゃない!!
怒りに立ち上がった所で、航太郎が泣き声を上げた。
眉間に眉を寄せ、夫が煩そうに言う。
「泣いてるぞ」
その言葉に、カッと頭が煮えた。
「『貴方の子』でしょう?」
「『お前の仕事』だろう。……そもそも誰の所為で疲れていると思っているんだ」
そう言って立ち上がり、ネクタイに手で緩めながら夫は泣き声とは逆方向に、歩き出した。
「風呂に入って、寝る」
航太郎の泣き声が響き渡る。
その声はまるで、動けない私を責めているようだ。
早く来い、何故来ないのか。母親のくせに。
そう訴えている。―――航太郎は、確かに夫の子供だと思う。見た目だけでなく……中身までそっくりだ。
私は暫く泣き声をそのままに、怒りに震える体を抱きしめていた。
夫の背中が浴室に消えてから、私は徐に、クッションを手に立ち上がる。
そして振りかぶり―――思いきり、ソファにたたきつけた。
一方食卓では、何かと松島が絡んでくるようになった。以前の彼女は寡黙で、こちらから声を掛けない限り、口を開くようなタイプでは無かった筈だ。私が出産で里帰りしている間に、いったい彼女にどういった変化が訪れたのだろうか……? その問いを口にすることは、できそうもない。
松島は私達それぞれに、交互に話し掛けて来る。その様子はさながら、言葉の通じない二人を取り持つ通訳のようだ。私は夫に話し掛けないし、夫も私に話し掛けて来ないから自然とそうなってしまう。
相変わらず寝室は別だし、食事を一緒に取った後は夫は部屋に籠ってしまう。ひょっとして食事を終えて片付けを済ませた後、松島が帰ってしまうからだろうか? だとすれば、松島に会う為に、夫は以前より頻繁にこのマンションに帰って来る……と言えるかもしれない。
このマンションには、松島の明るい声と航太郎の泣き声だけが響いている。航太郎の泣き声がまるで耳に入らないかのように振る舞い、松島の質問に応える夫の声は、少しだけ柔らかみを持っているような気がして―――気が狂いそうになった。
とうとう神経が限界を迎えたある夜、私は夫の部屋を訪れ、松島を追い出せと詰め寄った。更にそうしなければ、再び私は実家へ戻ると訴えて。妻の自分と松島、夫がどちらを選ぶのかは明白な筈だった。しかし、私の握りしめた掌はびっしりと汗を掻いている。
『松島と何かあるんでしょう? 私がいない間に何があったの?』と問い質したかった。しかし不快気に眉を顰める夫を目の前に、意気込みは空気の抜けた風船のように萎んでしまう。彼が発する迫力だけで、私の体は委縮してしまうのだ。
彼等の決定的な証拠を手にしている訳ではない。私も母のように、探偵を雇うべきなのだろうか?……夫が松島に拘るようなら、その時はそうすべきなのかもしれない。
意外な事に、夫は反論を口にしなかった。じっと私を正面から見据え、その視線に耐え切れずに目を逸らした私に溜息をついて―――分かった、好きにしろと頷いたのだ。
新しく派遣される家政婦の人選は、私に委ねられる事になった。
慎重に選ばなけば。松島のように、夫に粉を掛けるような女は駄目だ。出来れば年嵩の方が良い、若い女、ましてや男をその気にさせる容姿の女は論外。余計な口をきかない人間が望ましい。
これは無駄な足掻き、なのかもしれない。けれどもせめて私の領域からは、夫の女の気配を排除したかったのだ。何よりも―――私の心の平穏の為に。
新しい家政婦が決まり、やっと穏やかに過ごせるとホッと息を吐いた頃。解雇された松島が、休日を狙いドアを叩いた。松島は、夫に会いたかったのかもしれない。生憎、彼は休日も仕事で不在だったが。
玄関で『お世話になりました』と頭を下げた後、松島が懇願するように上目遣いで私を捕らえた。
「奥様、何か私が至らないことがあったでしょうか」
「……」
「解雇が不満、と言う訳ではありません。でも精一杯、務めたつもりです。もし私に不手際があったなら、今後に活かしたいのです」
「……どんな人を雇おうと、私の自由よね?」
そうだ、ここは私の家なのだ。誰を雇おうと、誰を解雇しようと私の好きにできる筈だ。松島の責めるような視線に、怯みつつ私は答えた。私は本来、自分の意見を主張するのが苦手な人間なのだ。学校でも、皆に混じって頷くのが精一杯。だから今まで、ずっと不満を口に出せないまま燻らせて来た。
けれども、松島の夫に対するジットリとした視線と、そこはかとなく漂う圧力―――これだけは耐え切れなかった。だから勇気を振り絞って、夫に直談判したのだと言うのに。
「それは、もちろんそうですが……」
以前は滅多に口を開か無かった松島だが、これが本来の姿なのだろうか。何故そのまま私の目の前から消えてくれなかったの。自分の思い通りに物事が進まないのが、それほど悔しいのだろうか。私の胸に一気に苛立ちが充満する。思わず、不満が漏れだした。
「自分の夫に親し気に擦り寄る女がいたら……我慢できるわけないでしょう」
松島はハッと目を見開いて、顔を上げた。図星を突かれて、慌てたのだろう。頬が羞恥を表すように桃色に染まる。
「わ……私はそんなつもりじゃ……。その、お二人に仲良くしていただきたくて、お節介をしたことは謝ります。せめて旦那様と奥様の橋渡しが出来れば、と……」
被害者ぶった物言いに、つい言うつもりも無かった本心を放ってしまう。
「貴女……夫に好意を抱いているでしょう。私がいない間に、何があったの?」
「……え……」
虚を突かれたように、ポカンと口を開ける松島。
見抜かれていたことに、驚いたのか。
それとも夫への好意は秘めたもので、現実に踏み込むまでに至らなかったのか。
「奥様、誤解ですっ……旦那様は、そんな……っ」
一気に蒼白になる顔を見て、確信する。実際夫が手を出したにせよ、出さなかったにせよ、彼女の夫への好意は明確に存在していたのだと。深まる苛立ちを知ってか知らずか、松島は無駄な足掻きを重ねる。しどろもどろに、こう口にしたのだ。
「確かに、旦那様には良くしていただきましたが……」
「なっ……」
その瞬間、怒りが爆発した。
その言葉の端に、密かな優越感を感じとってしまったのだ。
私一人の錯覚かもしれない。いや、確かにその瞬間、彼女は私に対して対抗心を露わにしたのだ。まるで自分の方が、夫に近い存在であることを匂わすように。悄然とした表情―――その一部、口角が僅かに上がるのを目にしたのだ。
思わずカッとして、その体を突き飛ばしてしまう。よろけた松島の体。その手が、飾り棚に置かれていた大きなガラスの壺に触れた。パリン! 破片が床に飛び散り、その一つが松島の頬を掠める。
「あっ……!」
頬を抑える松島の指の間から、ツッと薄く血がにじむのが見える。
私は思わず息を飲んだ。もちろん、危害を加えるつもりなど毛頭無かった。ただ抑えきれない衝動に体が揺り動かされ、結果として松島を突き飛ばしてしまったのだ。
「あの」
手を伸ばし、声を掛けようとすると、ビクリと身を竦めた松島が一歩退いた。
「「……」」
静けさがその場を支配する。どちらも口を開く事もない時間がそこに鎮座していた。ジリジリとした気配が続いたのは数分にも思えたが、実際は数秒だったかもしれない。
『……あぁう~ぁ……!』
居間のベビーベッドに寝かせて置いた、航太郎が泣きだすのが聞こえた。このままにしておけない。一度泣きだしたら、航太郎はなかなか泣き止まないのだ。ハラハラしつつも、しかしこの場を離れる口実を得て何処かホッとして―――玄関に背を向ける。
「……申し訳ありませんでした」
背中に小さな声が掛かって、扉が閉まる音がした。
振り向くと後には散らばった破片が、残されていた。
その日、夫が珍しく早く帰って来た。
「松島に怪我をさせたそうだな」
「……」
何となく、早く帰って来た理由には察しがついていた。夫は感情を全く表に出さずに淡々と、言葉を継いだ。
「連絡があった」
「それは……わざとではなくて。その、少し体を押したら、松島が壺に触れてそれを倒してしまったの。だからその破片がたまたま当たって……」
「……」
ジロリ、と無言で睨まれて、私は慌てた。
夫が自分の言葉を、全く信用していないと感じたからだ。
「本当よ! その、声を掛けようとは思ったのだけど……航太郎が泣いて。それで様子を見に行ったら、もう玄関にはいなくて」
まさか、松島が私に危害をを加えられたと訴えたのではないか。嫉妬に狂った妻に、害されたのだと、夫に好意を抱く彼女はこれ幸い、と夫に泣きついたのだろうか。咄嗟に急峻な崖の上に、追い詰められたような気分になる。
「松島を、信じるの」
悪いのは、松島なのに。
いや、ひょっとすると最初から―――その時ある閃きが、頭の隅に宿った―――松島の目的は、私を追い詰めることだったのかもしれない。大体ちょっと押しただけで、あれほど体がよろめくものだろうか? 手が当たったのも偶然では無いのかもしれない。
「……派遣事務所から連絡があっただけだ。玄関に飾っていた壺を壊してしまったので補償をしたいと。近くまで出ていたから、事務所に寄ったら松島が顔に怪我をしたのだと、知った。こちらで治療費を持つことで示談にして貰った」
「え?……でもそれは、松島が自分で……」
「こちらが傷を負わせたんだから、当たり前だろう。壺は比較的新しいものだし百万もしないから、不問にした」
簡潔な物言いに、夫の怒りを感じた。
どうしてもっと、私に詳しく状況を訪ねようとしないの? 私の言い分を聞いてくれないの?! 松島の話は、ちゃんと聞いたのに。私の話は途中で遮って―――妻である私の言葉より、他人の……別の女の言い分を信じるのね。
たちまち反論せずにはいられなくなった。誠実そうな表情の裏でほくそ笑んでいるであろう彼女の正体を夫に知らしめなければ、と思ったのだ。
「あの人、わざと私を怒らせたのよ? ひょっとすると壺を割ったのも、わざとかもしれない。それを口実にあなたの関心を買おうとして……」
「何を言っているんだ」
またしても、彼は私の言い分を遮ってしまう。
その声にはハッキリと、私への軽蔑が現れている。絶望と共に、私は声を絞り出した。
「そうなの。……私より、彼女の言い分を信じるのね」
「お前は……」
ハーっと、大きな溜息を吐かれる。
その時プツリと、微かに二人を繋いでいた細い糸が切れる音がした気がした。
「確かに」
冷たい声が返って来る。
「妄想で当たり散らす女より、黙々とやるべきことをやる女の方が好ましいな」
「……!……」
「松島には、もう関わるなよ。今度は、治療代じゃすまなくなるぞ」
「……は……」
怒りで、呼吸が苦しくなる。
とうとう、夫の本心を知ってしまった。
やはり、そうなのだ。この夫は妻の本心を顧みようとはせず、心地の良い言葉ばかりを吐く女の言葉には耳を貸す男なのだ。私が出産や育児で、こんなに苦しんでいる時に。苦しさだけを私に押し付けて、彼は他の女と楽しんでいる。航太郎は、あなたの子供なのに……! 何故私ばかりが苦しい思いをして、孤独にさいなまれなければならないの。
「私が彼女を呼んだわけじゃない……松島が、勝手に文句を言いに来たんじゃないの!」
そもそも私が松島を呼んだわけじゃない。なのに、何故私がわざわざ危害を加えるような、そんな物言いをするの?! どうしてあなたは、妻の味方で居てくれないの?! おかしいじゃない!!
怒りに立ち上がった所で、航太郎が泣き声を上げた。
眉間に眉を寄せ、夫が煩そうに言う。
「泣いてるぞ」
その言葉に、カッと頭が煮えた。
「『貴方の子』でしょう?」
「『お前の仕事』だろう。……そもそも誰の所為で疲れていると思っているんだ」
そう言って立ち上がり、ネクタイに手で緩めながら夫は泣き声とは逆方向に、歩き出した。
「風呂に入って、寝る」
航太郎の泣き声が響き渡る。
その声はまるで、動けない私を責めているようだ。
早く来い、何故来ないのか。母親のくせに。
そう訴えている。―――航太郎は、確かに夫の子供だと思う。見た目だけでなく……中身までそっくりだ。
私は暫く泣き声をそのままに、怒りに震える体を抱きしめていた。
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