MASK 〜黒衣の薬売り〜

天瀬純

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祝詞

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 暦では季節が変わろうとしているはずなのに、夜になるとまだ冷えている。バイト帰りの俺は早く家に帰ってコーヒーを飲みたい気分だった。実家にいた頃からコーヒーをよく飲んでいた。大学に進学して一人暮らしを始めてからは、貯めたバイト代でコーヒー器具を少しずつ集めている。できれば手動のエスプレッソマシンが欲しいんだが、学生が買うにはあまりにも高すぎる代物だ。だから今は、スマートフォンのロック画面にその欲しいエスプレッソマシンの画像を設定して我慢している。でも、あともう少しでその夢が叶いそうだ。大学が長い春休みに入ってから俺は、諸々の生活費+αを稼ぐためにバイトを1つ増やした。普段は大手チェーン店のカフェでバイトしているが、今は引っ越し業者のバイトもやっている。短期のバイトが可能な一方で少し大変だけど、比較的高いバイト代を手に入れられる。

(ちょっと、筋肉痛に悩まされるけど…)

高校卒業するまで陸上部で1500m走を専門に走っていたから体力に自信があったけど、足腰だけでなく腕の筋力も求められるから、部分的筋肉不足であることを痛感した。

(運送業の人たちは、全員超人だな)

「あっ」

いつの間にか、バイト先からの帰宅途中にある神社の境内へと続く石造りの階段の前に来ていた。あたりは暗く、参拝客はいなそうだ。

(…たまには拝んでみるか)

大学への進学で引っ越してきてから初詣に1回来て以来だろうか。誰もいないとはいえ、とても静かだ。というより厳かだ。俺は鳥居の前で一度立ち止まり、お辞儀をした。

(参拝でお辞儀しなかったときは、おばあちゃんに注意されたっけな…)

手水舎で手を洗い、参道の端を歩き、狛犬の側まで来た。

(なんだか俺の全てを見透かしているみたいだ)

参道の両脇にある狛犬を見つつ、俺は境内の中心にある御社殿にたどり着いた。そして、二拝二拍手一拝の作法に倣って拝礼を始めた。

(“神頼み”という言葉があるために、ついお願い事しちゃいそうになるが我慢。我慢。今日は神様への意思表示をしよう。…えっと、大学の長期休暇中は生活費と新しいコーヒー器具の購入のために誠実にバイトと向き合って頑張ります‼︎っと……)

最後に少し後ろに下がって、御社殿を見上げた。

(そういえば、むかし、お参りのときにおばあちゃんから“神様への挨拶”みたいなものをよく教えてもらったっけ。たしか……)

「……祓え給い、清め給え、神ながら、守り給い、幸せ給え…」

(おお、言えた。…覚えているもんだな)

自宅に帰ろうと後ろを振り向いたところ、

「っ⁉︎」

参道の左手にある狛犬の前に木製の扉が何故か立っている。しかも、扉の前に上下黒のスーツ姿の男がいる。

(なんだよ…、見てはいけない物?)

俺が身構えていると、

「いやぁ、お若いのに祝詞のりとをしっかりと言えるとは素晴らしいですね」

「え…」

男は黒い布マスク越しであるが、俺に向かって微笑みながら拍手してきた。

「驚かせてしまい申し訳ありません。私はこちらの神社と古くからの付き合いのある薬売りでございます。あなたのように夜更けに来られる参拝客の方を神社の方に代わって時折もてなしております」

(ここって、そんな不思議な神社だったの⁉︎)

「では、ご案内いたします」

「えっ。ちょ、ちょ、ちょっと…⁉︎」

いつの間にか近くまで来ていた男は、俺の手を引いて扉の向こうへと案内した。

(なんだよ、ここ……)

扉の向こうは、明らかに神社の境内とは違う空間だった。まず、地平線の彼方にまで続く透き通った綺麗な湖が拡がっていた。俺は男に連れられて、湖の上に架かる木でできた真っ赤な橋を進んでいった。橋の両サイドには無数の竹が湖の底から生えており、巨大な竹林となっていた。そして上を見上げれば、満点の星空が目に入った。

「あちらが私の応接室になります」

男が紹介する方向を見ると、湖に浮かぶ小さな孤島ともいうべき場所に2つのソファが向かい合うように置かれ、その間にテーブルがあった。その奥にはバーカウンターがあり、ヨーロッパの街並みで見られる街灯がそれらを照らしていた。橋はその島まで続いており、呆気に取られながらも島に踏み込んだ。

「ようこそ、私の島へ。どうぞ、そちらのソファで自由にくつろいでください」

男に案内されるがままに、手前にあったソファに座った。

(不思議なところだ…)

「飲み物はホットコーヒーでよろしいですか?それともアルコール類で?」

「あ、コ…コーヒーでお願いします」

俺が周囲を見渡して観察していると、男はカウンターの下からコーヒー豆が入っているであろうキャニスターを取り出し、ミルに入れた。そして、酒棚の隣で数多く飾られているコーヒーカップとソーサーを2つずつ取り出し、まるで魔法がかけられているかのようにひとりでに動いている手動のミルの横に並べて、それぞれにドリッパーとペーパーを乗せた。その後は、見惚れるほどの慣れた手つきでドリップし、俺のもとへ運んできてくれた。

「お待たせしました」

「…ありがとうございます」

彼は俺と向かい合うようにソファに座ってコーヒーを飲み始めた。

「…コーヒーがお好きなんですね」

「えっ」

「あんなに熱心にコーヒーを淹れているとこを眺めらていらっしゃったので、もしかしたらと思いまして」

(観察力、高いなぁ…)

「コーヒーが好きなもんでして…つい」

「ほお…。となると、バイト代を貯めては欲しいコーヒー器具を集めていらっしゃったり…」

「…鋭いですね」

静かに彼は微笑んだ。

「私も似たようなものでしたので…」

その後、彼とはお互いが好きなコーヒーや世間話で話が弾んだ。やがて、

「さて、名残惜しいですが遅くなると貴方の明日のバイトに影響が出そうですので、お開きとしましょう。帰りは、先ほど歩いてきた橋を進んでいただければ大丈夫です」

「はい、色々とありがとうございました」

「そうだ。今宵の出会いを記念して何かプレゼントしましょう」

カウンター内に戻った彼は、アタッシュケースを開いて何かを取り出した。そして私のもとへ戻ってくると、

「コーヒー好きの貴方にオススメの品がちょうどありました。こちらは【浄化胃散α】という飲み薬になります」

「【浄化胃散α】…?」

(初めて聞く名前の薬だな)

「こちらの薬を1日1錠、胃もたれを感じられた際に服用されますと瞬時に胃の不快感が消えます。よろしければどうぞ」

「へぇ~。確かにコーヒーの飲み過ぎのときには、ありがたいですね」

(この不思議な空間で貰う薬のことだから、市販では売っていないんだろうなぁ)

「あ、この薬代は?」

「コーヒー愛好家としてのプレゼントですからお気になさらず。それに、この空間とつながりのある寺社仏閣や諸々の関係者から契約料でいくらか貰っていますので大丈夫ですよ」

(この人、かなりの商売上手なのでは…)

その後、彼に見送られながら再び真っ赤な橋を渡り、参拝に訪れていた神社の境内に戻ってきた。振り返ると、彼のいる空間へと続く扉は消えていた。

(いつか、もう一度、彼と一緒にコーヒーを飲みたいな)
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