上 下
57 / 75

57焦れったい

しおりを挟む
 早朝。寝所の手前で、侍女一同が列をなして待機し始める。

 物音に耳を研ぎ澄まし、全神経を覚ましながら主の起床を窺っていた。傍から見れば滑稽な姿であるが、これが皇家に仕える直臣の慣わしで、れっきとした業務の内訳に含まれていた。


(起きたかしら……)


 モゾモゾと動きがある。壁一枚を挟んで、皇太子夫妻の私的な会話や笑い声が聞こえてくる。


 だが、まだ挨拶に向かうには時期尚早だ。間違っても、皇太子と妃のやり取りを邪魔してはいけない。途中から生々しい接吻音を拾い聞きしてしまっても、緊張の糸を切らすことはない。


 主の寝起きに何度も立ち会って、どのような間をもって、いつ扉を叩くべきか従者たちの身にも沁みついてきた頃だ。


「イヴ。いるでしょう?」


 夢見心地の甘い声。この一言がすべての合図となって、従者たちの業務が幕を開ける。
 我先にと寝室に飛んでいったのは妃に呼ばれた侍女。その後ろから化粧係、服飾を担当する者たち、他の従者が追従していく。

 華美で超大なベッドの上に座りこんだ妃の身支度が徹底的に行われる。この間は侍女たちがあくせく働くのであるが、仰々しい髪の手入れや洗顔などは貴族のそれと大差はなかった。


「本日の衣装はいかがなさいますか?」


「ふふ……ぜんぶイヴに任せるよ。僕のセンスで服を選ぶと、怒り出す人がいるから」


 ぐりぐりと髪の毛を整える貴人の立ち姿。変に気取らなくても絵になりそうな、鏡に向かい合うその人の顔を、妃はじっと眺めていた。


「それは俺のことか?」


「貴方以外いないよ」


 ひどい言い草だと皇太子はおかしそうに笑った。話をしながらもテキパキと手を動かし、お決まりの香水や装飾具を身に付けていく。

 国家元首の代理として、議会や軍事会議にも顔を出さなければならない。彼の過密な仕事日程には従者も狼狽えてばかりである。


「その軍服、いつも着てるよね。もしかして軍服以外に着るものがなかったりとか」


「寝室では違うものを着ているだろう?ほら、いつも何を見ているんだか」


 「寝間着だよね」とひそひそと妃がイヴに耳打ちし、笑う。屈託のないその笑顔には、親衛の従者たちの理性が試されることであった。


「アルベールもちゃんとした服を着られるようになったら一人前だね」


「おい俺を子ども扱いするな。仕事に行きたくなくなるだろう?」


「代わりに僕が行ってあげるから軍服を貸してよ」


「馬鹿言え、議場を男どもの鼻血で染め上げる気か。却下だ」


 夫婦のような友人のような。絶妙に軽口を叩き合える二人の空気感が、侍女たちは堪らなく好きだった。彼らが同じ部屋で寝起きするようになったのはつい先月のことだという。仲を縮めるしてもトントン拍子がすぎると新参者は思う。

 しかし二人の関係性の深さを知っている廷臣、イヴのような侍女に言わせれば、あたかも自然なやり取りに感じられた。


 残念なことに、そんな温かな雰囲気も寝所を出ると途端に豹変してしまう。妃の一人称が「僕」から「私」に変わり、皇太子の目つきは光が薄れるところがわかりやすい。

 まるで別の顔を用意していたように、二人の物腰は、まるで皮をかぶったかのように逆転するのだ。


「清掃はするな、侍女の仕事だ。それに公文書の取りまとめは執事に任せておけばいい。書類の押印だけで官僚を煩わすことになるからな。お前の仕事はここにいることだけだと、肝に銘じておけ」


「……わかりました」


 厳かに朝食を摂る様子は、さながら宮廷の威圧感にぴったりだった。


「手のかかることは何もするな」


 事務的な、渇いた受け答えに収束する。付かず寄らずの距離感でいる彼らの関係はまるで赤の他人だ。寝室にいた時とは真逆の印象であり、いささか演技という程度を超えていた。


「では行ってくる」


「ご武運を。殿下」


 触れあうだけのキス。最後にそれだけして二人は別離した。彼らの素っ気なさ、切り替えの早さに周りの方が追いついていないこともしばしばである。

 お互いの関係に綻びが生じないようあえて感情を隠す。まだ婚礼もあげていないから。下手に仲の良さを見せつけることはしない。

 二人の繊細な心配りに、もどかしいと思うのは従者たちの方であった。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

日本一のイケメン俳優に惚れられてしまったんですが

五右衛門
BL
 月井晴彦は過去のトラウマから自信を失い、人と距離を置きながら高校生活を送っていた。ある日、帰り道で少女が複数の男子からナンパされている場面に遭遇する。普段は関わりを避ける晴彦だが、僅かばかりの勇気を出して、手が震えながらも必死に少女を助けた。  しかし、その少女は実は美男子俳優の白銀玲央だった。彼は日本一有名な高校生俳優で、高い演技力と美しすぎる美貌も相まって多くの賞を受賞している天才である。玲央は何かお礼がしたいと言うも、晴彦は動揺してしまい逃げるように立ち去る。しかし数日後、体育館に集まった全校生徒の前で現れたのは、あの時の青年だった──

モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)

夏目碧央
BL
 兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。  ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?

転生したら魔王の息子だった。しかも出来損ないの方の…

月乃
BL
あぁ、やっとあの地獄から抜け出せた… 転生したと気づいてそう思った。 今世は周りの人も優しく友達もできた。 それもこれも弟があの日動いてくれたからだ。 前世と違ってとても優しく、俺のことを大切にしてくれる弟。 前世と違って…?いいや、前世はひとりぼっちだった。仲良くなれたと思ったらいつの間にかいなくなってしまった。俺に近づいたら消える、そんな噂がたって近づいてくる人は誰もいなかった。 しかも、両親は高校生の頃に亡くなっていた。 俺はこの幸せをなくならせたくない。 そう思っていた…

消えない思い

樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。 高校3年生 矢野浩二 α 高校3年生 佐々木裕也 α 高校1年生 赤城要 Ω 赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。 自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。 そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。 でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。 彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。 そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

淫愛家族

箕田 はる
BL
婿養子として篠山家で生活している睦紀は、結婚一年目にして妻との不仲を悩んでいた。 事あるごとに身の丈に合わない結婚かもしれないと考える睦紀だったが、以前から親交があった義父の俊政と義兄の春馬とは良好な関係を築いていた。 二人から向けられる優しさは心地よく、迷惑をかけたくないという思いから、睦紀は妻と向き合うことを決意する。 だが、同僚から渡された風俗店のカードを返し忘れてしまったことで、正しい三人の関係性が次第に壊れていく――

処理中です...