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57焦れったい
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早朝。寝所の手前で、侍女一同が列をなして待機し始める。
物音に耳を研ぎ澄まし、全神経を覚ましながら主の起床を窺っていた。傍から見れば滑稽な姿であるが、これが皇家に仕える直臣の慣わしで、れっきとした業務の内訳に含まれていた。
(起きたかしら……)
モゾモゾと動きがある。壁一枚を挟んで、皇太子夫妻の私的な会話や笑い声が聞こえてくる。
だが、まだ挨拶に向かうには時期尚早だ。間違っても、皇太子と妃のやり取りを邪魔してはいけない。途中から生々しい接吻音を拾い聞きしてしまっても、緊張の糸を切らすことはない。
主の寝起きに何度も立ち会って、どのような間をもって、いつ扉を叩くべきか従者たちの身にも沁みついてきた頃だ。
「イヴ。いるでしょう?」
夢見心地の甘い声。この一言がすべての合図となって、従者たちの業務が幕を開ける。
我先にと寝室に飛んでいったのは妃に呼ばれた侍女。その後ろから化粧係、服飾を担当する者たち、他の従者が追従していく。
華美で超大なベッドの上に座りこんだ妃の身支度が徹底的に行われる。この間は侍女たちがあくせく働くのであるが、仰々しい髪の手入れや洗顔などは貴族のそれと大差はなかった。
「本日の衣装はいかがなさいますか?」
「ふふ……ぜんぶイヴに任せるよ。僕のセンスで服を選ぶと、怒り出す人がいるから」
ぐりぐりと髪の毛を整える貴人の立ち姿。変に気取らなくても絵になりそうな、鏡に向かい合うその人の顔を、妃はじっと眺めていた。
「それは俺のことか?」
「貴方以外いないよ」
ひどい言い草だと皇太子はおかしそうに笑った。話をしながらもテキパキと手を動かし、お決まりの香水や装飾具を身に付けていく。
国家元首の代理として、議会や軍事会議にも顔を出さなければならない。彼の過密な仕事日程には従者も狼狽えてばかりである。
「その軍服、いつも着てるよね。もしかして軍服以外に着るものがなかったりとか」
「寝室では違うものを着ているだろう?ほら、いつも何を見ているんだか」
「寝間着だよね」とひそひそと妃がイヴに耳打ちし、笑う。屈託のないその笑顔には、親衛の従者たちの理性が試されることであった。
「アルベールもちゃんとした服を着られるようになったら一人前だね」
「おい俺を子ども扱いするな。仕事に行きたくなくなるだろう?」
「代わりに僕が行ってあげるから軍服を貸してよ」
「馬鹿言え、議場を男どもの鼻血で染め上げる気か。却下だ」
夫婦のような友人のような。絶妙に軽口を叩き合える二人の空気感が、侍女たちは堪らなく好きだった。彼らが同じ部屋で寝起きするようになったのはつい先月のことだという。仲を縮めるしてもトントン拍子がすぎると新参者は思う。
しかし二人の関係性の深さを知っている廷臣、イヴのような侍女に言わせれば、あたかも自然なやり取りに感じられた。
残念なことに、そんな温かな雰囲気も寝所を出ると途端に豹変してしまう。妃の一人称が「僕」から「私」に変わり、皇太子の目つきは光が薄れるところがわかりやすい。
まるで別の顔を用意していたように、二人の物腰は、まるで皮をかぶったかのように逆転するのだ。
「清掃はするな、侍女の仕事だ。それに公文書の取りまとめは執事に任せておけばいい。書類の押印だけで官僚を煩わすことになるからな。お前の仕事はここにいることだけだと、肝に銘じておけ」
「……わかりました」
厳かに朝食を摂る様子は、さながら宮廷の威圧感にぴったりだった。
「手のかかることは何もするな」
事務的な、渇いた受け答えに収束する。付かず寄らずの距離感でいる彼らの関係はまるで赤の他人だ。寝室にいた時とは真逆の印象であり、いささか演技という程度を超えていた。
「では行ってくる」
「ご武運を。殿下」
触れあうだけのキス。最後にそれだけして二人は別離した。彼らの素っ気なさ、切り替えの早さに周りの方が追いついていないこともしばしばである。
お互いの関係に綻びが生じないようあえて感情を隠す。まだ婚礼もあげていないから。下手に仲の良さを見せつけることはしない。
二人の繊細な心配りに、もどかしいと思うのは従者たちの方であった。
物音に耳を研ぎ澄まし、全神経を覚ましながら主の起床を窺っていた。傍から見れば滑稽な姿であるが、これが皇家に仕える直臣の慣わしで、れっきとした業務の内訳に含まれていた。
(起きたかしら……)
モゾモゾと動きがある。壁一枚を挟んで、皇太子夫妻の私的な会話や笑い声が聞こえてくる。
だが、まだ挨拶に向かうには時期尚早だ。間違っても、皇太子と妃のやり取りを邪魔してはいけない。途中から生々しい接吻音を拾い聞きしてしまっても、緊張の糸を切らすことはない。
主の寝起きに何度も立ち会って、どのような間をもって、いつ扉を叩くべきか従者たちの身にも沁みついてきた頃だ。
「イヴ。いるでしょう?」
夢見心地の甘い声。この一言がすべての合図となって、従者たちの業務が幕を開ける。
我先にと寝室に飛んでいったのは妃に呼ばれた侍女。その後ろから化粧係、服飾を担当する者たち、他の従者が追従していく。
華美で超大なベッドの上に座りこんだ妃の身支度が徹底的に行われる。この間は侍女たちがあくせく働くのであるが、仰々しい髪の手入れや洗顔などは貴族のそれと大差はなかった。
「本日の衣装はいかがなさいますか?」
「ふふ……ぜんぶイヴに任せるよ。僕のセンスで服を選ぶと、怒り出す人がいるから」
ぐりぐりと髪の毛を整える貴人の立ち姿。変に気取らなくても絵になりそうな、鏡に向かい合うその人の顔を、妃はじっと眺めていた。
「それは俺のことか?」
「貴方以外いないよ」
ひどい言い草だと皇太子はおかしそうに笑った。話をしながらもテキパキと手を動かし、お決まりの香水や装飾具を身に付けていく。
国家元首の代理として、議会や軍事会議にも顔を出さなければならない。彼の過密な仕事日程には従者も狼狽えてばかりである。
「その軍服、いつも着てるよね。もしかして軍服以外に着るものがなかったりとか」
「寝室では違うものを着ているだろう?ほら、いつも何を見ているんだか」
「寝間着だよね」とひそひそと妃がイヴに耳打ちし、笑う。屈託のないその笑顔には、親衛の従者たちの理性が試されることであった。
「アルベールもちゃんとした服を着られるようになったら一人前だね」
「おい俺を子ども扱いするな。仕事に行きたくなくなるだろう?」
「代わりに僕が行ってあげるから軍服を貸してよ」
「馬鹿言え、議場を男どもの鼻血で染め上げる気か。却下だ」
夫婦のような友人のような。絶妙に軽口を叩き合える二人の空気感が、侍女たちは堪らなく好きだった。彼らが同じ部屋で寝起きするようになったのはつい先月のことだという。仲を縮めるしてもトントン拍子がすぎると新参者は思う。
しかし二人の関係性の深さを知っている廷臣、イヴのような侍女に言わせれば、あたかも自然なやり取りに感じられた。
残念なことに、そんな温かな雰囲気も寝所を出ると途端に豹変してしまう。妃の一人称が「僕」から「私」に変わり、皇太子の目つきは光が薄れるところがわかりやすい。
まるで別の顔を用意していたように、二人の物腰は、まるで皮をかぶったかのように逆転するのだ。
「清掃はするな、侍女の仕事だ。それに公文書の取りまとめは執事に任せておけばいい。書類の押印だけで官僚を煩わすことになるからな。お前の仕事はここにいることだけだと、肝に銘じておけ」
「……わかりました」
厳かに朝食を摂る様子は、さながら宮廷の威圧感にぴったりだった。
「手のかかることは何もするな」
事務的な、渇いた受け答えに収束する。付かず寄らずの距離感でいる彼らの関係はまるで赤の他人だ。寝室にいた時とは真逆の印象であり、いささか演技という程度を超えていた。
「では行ってくる」
「ご武運を。殿下」
触れあうだけのキス。最後にそれだけして二人は別離した。彼らの素っ気なさ、切り替えの早さに周りの方が追いついていないこともしばしばである。
お互いの関係に綻びが生じないようあえて感情を隠す。まだ婚礼もあげていないから。下手に仲の良さを見せつけることはしない。
二人の繊細な心配りに、もどかしいと思うのは従者たちの方であった。
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