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【番外編】この手を離さないで
7【完】シャネルのルージュ
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マンションの前に止まったパトカーに押し込められる前、身体を捩るようにして振り返った玲子が言った。
「どうして、わかったの」
その目は、晶にではなく、ただ一心に晶の肩を抱く雅治に向けられていた。
遂に告白することのなかった想いを打ち明けるような必死さがあった。
「シャネルのルージュ」
「え?」
「写真の上にあったキスマークを調べたらシャネルのルージュだった。去年の玲子の誕生日に、オレが贈ったのもそうだった」
玲子が目を見開いた。
驚きのなかに、かすかに喜びがある。
「覚えていて、くれたのね」
「覚えてるさ。あれは、晶と二人で選んだんだ。晶が、玲子にはあの色が似合うと」
震える唇を噛んで、玲子は雅治を睨みながら涙をこぼした。
車に乗ってドアが閉まる前、涙で濡れた目を懸命に開いて、挑戦的に呟いた。
「どこがいいのよ」と。
***
家に戻ると、晶はリビングのソファーに座って沈んだ顔で黙り込んでいる。
雅治はキッチンでミルクを温めて、晶の前に置いた。
「隣に座ってもいい?」
雅治の問いかけに晶は視線を逸らしたまま、首を振った。
「なんで」
「雅治に、慰められたくない」
「そうか」
答えて、雅治はL字型になっているソファの、晶が座っているのとは別のソファに腰掛けた。
「おまえ、玲子の気持ちに気づいていたか」
唐突に晶にそう聞かれて、少し考えたあと雅治は「なんとなく。でもオレにはどうしようもなかった」と答えた。
「オレも、気づいていた。本当はずっと前から、玲子が雅治を好きなことに、気づいていたんだ。でも、オレは玲子のこと好きだったから、いつか玲子が別の人を好きになって、幸せになればいいなって、自分に都合のいいこと考えてた」
「それは別に、自分に都合のいいことってわけじゃない」
「都合のいいことだろ?玲子には、そんなこと出来なかったんだ。簡単に諦められるような想いじゃなかった」
「そのことで、晶が自分を責める必要はない」
晶は首を振った。
「オレが、誰よりオレが一番、玲子の気持ちをわかってやれたんだ。同じ男を好きなオレが」
「晶…」
「本当に、オレたち、なにも出来なかったのかな。玲子に、してやれること、なかったのか」
雅治は晶の目の前に立ち、複雑な表情で晶を見下ろした。
「晶、オレは、おまえが思っているより余裕がないんだ。おまえを、守りたい。晶を守るためなら、他の誰を犠牲にしても構わない」
「玲子でも?」
「玲子でも、だ」
今は、雅治のその言葉を素直に喜べるような心境ではない。
晶は拗ねたように顔を顰めた。
「冷たいんだな、雅治は」
「今まで気づかなかった?オレは、誰にでも優しく出来るような性質のいい人間じゃないよ。もし、断崖絶壁の崖に垂れたロープがあって、そこに晶が掴まっていたとする。ロープには、晶の後ろに大勢の人間が掴まっている。そんな状況なら、オレは迷わずロープを切る。晶だけを残して。オレは迷わない、ほんの一瞬も」
「雅治……」
残酷な喩えだと思った。
誰かを愛するということは、そんなふうに選ばなければいけないことなのだろうか。
他の人を犠牲にしてもと雅治は言う。
自分は、そんなに価値のある人間じゃない。
玲子の言うように、雅治にとってハンディキャップにしかならない存在なのに。
「どこがいいんだよ。オレなんかの、どこがいいんだ」
晶は、玲子が言った言葉を、そのまま雅治にぶつけた。
今まで、雅治に愛されることを負担に感じたことはなかった。
けれど、玲子が呟いたその言葉は晶の心に澱のようにわだかまった。
雅治は晶の前で腰を落として、ソファーに腰掛ける晶の膝の上に手を置いて、下から晶を見上げた。
「わからないか。晶はね、誰にも似ていなくて、特別なんだ。どんなにわかったつもりになっても、オレの知らない晶がいる。オレにとって晶は掴めそうで掴めない星みたいな存在なんだ」
「雅治」
そんな風に言われて、本当は、嬉しい。
でも今夜は素直に「嬉しい」と言えない。
「さっきロープの話をしただろ。時々、心配になるんだ。いくらオレが晶だけを助けようとしても、晶は、同じロープに掴まっているのが、友達や家族だったら、オレがナイフを使う前に、自分から手を離すような気がするから。晶には、そういうところがあるだろ」
晶の前に跪いて、まるで懺悔のように雅治は言葉を繋げる。
「無力なんだよ、オレは。すべての人間を助けられるヒーローとは違う。助けたいとも思っていない。自分にとって一番大事な人を守れれば、晶さえ守れれば、他の人間がどうなっても構わない」
晶、と名前を呼んで、雅治は晶の頬に触れた。
「オレのこと、嫌いになった?」
それ以上聞くのは堪えられなくて、晶はソファから降りて雅治の首にしがみついた。
「嫌いになるわけ、ないだろ!馬鹿!」
雅治は、ぎゅっと強く晶を抱きしめた。
「さっき、怖かった。晶がベランダから身を乗り出してるのを見たとき。今思い出しても、膝が震える」
「オ、オレも…怖かった」
あのまま、夜の闇に飲み込まれるように落下していたら、もう二度と雅治に会えず、こんな風に抱き合うことも出来なかったのだ。
晶は「ごめん」と雅治の胸に、呟いた。
その言葉は心配をかけた雅治と、そして、もう一人、自分と同じ男を愛した女に向けられた。
玲子、ごめん。
オレはやっぱり、雅治が好きで、雅治と一緒に生きていきたい。
手放すことなんか出来ない。
たとえ、自分たちの愛が、人を、玲子を、傷つけても。
人が人を愛し、成就する想いがあれば、叶わない想いもある。
想いの数だけ幸福な愛があるわけじゃない。
わかっていて、人は自分にとって一番大事な人を精一杯愛することしか出来ない。
「晶、もう二度と自分のどこがいいかなんて、聞くな。そして、頼むから、自分からオレの手を離したりしないで」
懇願するように耳元に吹き込んで、強く、強く抱きしめてくる腕の中で晶は頷いた。
本当は、誰を傷つけてもこの手を離せないのは自分も同じだと伝えようとして、思いとどまる。
わかりきっていることをわざわざ口にするよりも今は、雅治の温もりを感じていたいと思った。
■おわり■
「どうして、わかったの」
その目は、晶にではなく、ただ一心に晶の肩を抱く雅治に向けられていた。
遂に告白することのなかった想いを打ち明けるような必死さがあった。
「シャネルのルージュ」
「え?」
「写真の上にあったキスマークを調べたらシャネルのルージュだった。去年の玲子の誕生日に、オレが贈ったのもそうだった」
玲子が目を見開いた。
驚きのなかに、かすかに喜びがある。
「覚えていて、くれたのね」
「覚えてるさ。あれは、晶と二人で選んだんだ。晶が、玲子にはあの色が似合うと」
震える唇を噛んで、玲子は雅治を睨みながら涙をこぼした。
車に乗ってドアが閉まる前、涙で濡れた目を懸命に開いて、挑戦的に呟いた。
「どこがいいのよ」と。
***
家に戻ると、晶はリビングのソファーに座って沈んだ顔で黙り込んでいる。
雅治はキッチンでミルクを温めて、晶の前に置いた。
「隣に座ってもいい?」
雅治の問いかけに晶は視線を逸らしたまま、首を振った。
「なんで」
「雅治に、慰められたくない」
「そうか」
答えて、雅治はL字型になっているソファの、晶が座っているのとは別のソファに腰掛けた。
「おまえ、玲子の気持ちに気づいていたか」
唐突に晶にそう聞かれて、少し考えたあと雅治は「なんとなく。でもオレにはどうしようもなかった」と答えた。
「オレも、気づいていた。本当はずっと前から、玲子が雅治を好きなことに、気づいていたんだ。でも、オレは玲子のこと好きだったから、いつか玲子が別の人を好きになって、幸せになればいいなって、自分に都合のいいこと考えてた」
「それは別に、自分に都合のいいことってわけじゃない」
「都合のいいことだろ?玲子には、そんなこと出来なかったんだ。簡単に諦められるような想いじゃなかった」
「そのことで、晶が自分を責める必要はない」
晶は首を振った。
「オレが、誰よりオレが一番、玲子の気持ちをわかってやれたんだ。同じ男を好きなオレが」
「晶…」
「本当に、オレたち、なにも出来なかったのかな。玲子に、してやれること、なかったのか」
雅治は晶の目の前に立ち、複雑な表情で晶を見下ろした。
「晶、オレは、おまえが思っているより余裕がないんだ。おまえを、守りたい。晶を守るためなら、他の誰を犠牲にしても構わない」
「玲子でも?」
「玲子でも、だ」
今は、雅治のその言葉を素直に喜べるような心境ではない。
晶は拗ねたように顔を顰めた。
「冷たいんだな、雅治は」
「今まで気づかなかった?オレは、誰にでも優しく出来るような性質のいい人間じゃないよ。もし、断崖絶壁の崖に垂れたロープがあって、そこに晶が掴まっていたとする。ロープには、晶の後ろに大勢の人間が掴まっている。そんな状況なら、オレは迷わずロープを切る。晶だけを残して。オレは迷わない、ほんの一瞬も」
「雅治……」
残酷な喩えだと思った。
誰かを愛するということは、そんなふうに選ばなければいけないことなのだろうか。
他の人を犠牲にしてもと雅治は言う。
自分は、そんなに価値のある人間じゃない。
玲子の言うように、雅治にとってハンディキャップにしかならない存在なのに。
「どこがいいんだよ。オレなんかの、どこがいいんだ」
晶は、玲子が言った言葉を、そのまま雅治にぶつけた。
今まで、雅治に愛されることを負担に感じたことはなかった。
けれど、玲子が呟いたその言葉は晶の心に澱のようにわだかまった。
雅治は晶の前で腰を落として、ソファーに腰掛ける晶の膝の上に手を置いて、下から晶を見上げた。
「わからないか。晶はね、誰にも似ていなくて、特別なんだ。どんなにわかったつもりになっても、オレの知らない晶がいる。オレにとって晶は掴めそうで掴めない星みたいな存在なんだ」
「雅治」
そんな風に言われて、本当は、嬉しい。
でも今夜は素直に「嬉しい」と言えない。
「さっきロープの話をしただろ。時々、心配になるんだ。いくらオレが晶だけを助けようとしても、晶は、同じロープに掴まっているのが、友達や家族だったら、オレがナイフを使う前に、自分から手を離すような気がするから。晶には、そういうところがあるだろ」
晶の前に跪いて、まるで懺悔のように雅治は言葉を繋げる。
「無力なんだよ、オレは。すべての人間を助けられるヒーローとは違う。助けたいとも思っていない。自分にとって一番大事な人を守れれば、晶さえ守れれば、他の人間がどうなっても構わない」
晶、と名前を呼んで、雅治は晶の頬に触れた。
「オレのこと、嫌いになった?」
それ以上聞くのは堪えられなくて、晶はソファから降りて雅治の首にしがみついた。
「嫌いになるわけ、ないだろ!馬鹿!」
雅治は、ぎゅっと強く晶を抱きしめた。
「さっき、怖かった。晶がベランダから身を乗り出してるのを見たとき。今思い出しても、膝が震える」
「オ、オレも…怖かった」
あのまま、夜の闇に飲み込まれるように落下していたら、もう二度と雅治に会えず、こんな風に抱き合うことも出来なかったのだ。
晶は「ごめん」と雅治の胸に、呟いた。
その言葉は心配をかけた雅治と、そして、もう一人、自分と同じ男を愛した女に向けられた。
玲子、ごめん。
オレはやっぱり、雅治が好きで、雅治と一緒に生きていきたい。
手放すことなんか出来ない。
たとえ、自分たちの愛が、人を、玲子を、傷つけても。
人が人を愛し、成就する想いがあれば、叶わない想いもある。
想いの数だけ幸福な愛があるわけじゃない。
わかっていて、人は自分にとって一番大事な人を精一杯愛することしか出来ない。
「晶、もう二度と自分のどこがいいかなんて、聞くな。そして、頼むから、自分からオレの手を離したりしないで」
懇願するように耳元に吹き込んで、強く、強く抱きしめてくる腕の中で晶は頷いた。
本当は、誰を傷つけてもこの手を離せないのは自分も同じだと伝えようとして、思いとどまる。
わかりきっていることをわざわざ口にするよりも今は、雅治の温もりを感じていたいと思った。
■おわり■
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