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本編
9.【弁護士】小田切雅治
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遠くに聞こえる波の音が、子守唄のように気持ちを静め、時折吹く優しい風は、心地よく肌をくすぐる。
「晶、晶って……」
「…うん…も、ちょっと、寝かせて…」
肩を揺すられて、晶は眠くてたまらない重たい瞼を開いた。
逆光のせいで、自分を覗き込む人の顔がよく見えない。
誰、だっけ?
覚?慎太郎?それとも、光司?
ま、まさか沢渡速人?!
はっきりしない頭で考えているうちに、少しつづ目が慣れて焦点があってくる。
「ま、雅治?!」
呆れたような表情で晶を見下ろしているのは、他の誰でもなく夫の雅治だった。
「おまえ、せっかくこんなとこまで来て寝てたらもったいないじゃん」
こんなところまで、と雅治が言うのは、ここが日本ではないからだ。
ここは最後の楽園、南の島バリ島。
結婚して以来、やっと取れたお正月の長期休暇を利用して、二人はバリ島に来ていた。
ところが長旅に疲れた晶はプライベートプールつきのコテージのテラスで、籐のカウチに体を丸めて、贅沢に惰眠を貪っていた。
「起きて、ビーチに行こう。海、すげえ綺麗だから」
雅治が晶の手を引く。
「いいよ、オレは。休んでるから」
晶は拗ねたように言った。
楽園まで来て眠ってばかりの自分も自分だが、こっちに着いた途端に海だプールだと一人で遊び回っている雅治も雅治だと晶は思う。
今まで散々ほっておかれたせいもあって、素直になれないのだった。
「本当に行かない?」
雅治は残念そうにそう聞いてくる。
ちょっとだけ悪い気がして晶は「雅治は一人で行って来ていいよ。オレはもう少し寝ていたい」と返事をした。
「そっか。じゃあ、気が向いたら来いよ。ほら、そこの道路を挟んだすぐ向こうだから、わかるだろ?」
こくんと、頷いて応えると、雅治は微笑して晶の前髪をかきわけて額にキスした。
「じゃあ、な」
雅治の後ろ姿を見て、ため息が出る。
どうしていつもこうなるのか。
どうして、自分は雅治に、あんなふうにしか言えないのだろう。
雅治でなければ晶はもっと上手に甘えることも出来るし、海なんていいから一緒にいてと、可愛くねだることだって出来る。
オトコを手玉に取るのは唯一の得意分野だ。
それなのに、肝心の雅治にだけ、それが出来ない。
多分、好きという気持ちが邪魔している。
雅治が自分のことを好きな気持ちより、いつだって自分の方が多く、雅治のことを好きで、それが悔しくて素直になれない。
好きだからこそ、恋の駆け引きが出来ない。
そんな余裕はない。
だから、うまくいかない。
思い立ってカウチから下りると、晶はビーチに向かって歩き出した。
「ごめん」と言わなくても雅治なら「一緒に泳ごう」と言うだけで、自分の気持ちを理解してくれると思う。
一緒にいた時間の長い二人には、仲直りするにはそれで充分なのだ。
日本の夏の海岸とは違い、驚くほど人が少ないビーチで雅治を見つけるのは簡単だった。
雅治は、大きな胸がはみ出そうなビキニ姿の白人の女二人に挟まれ、なにやら楽しげに喋っていた。
どうやら自分の夫は外国人の女から見ても魅力があるらしい。
晶は踵を返してコテージに戻った。
***
並んだヤシの木の向こうに沈む黄金の太陽を眺めながら、豪華なディナーとワインを楽しんだあと、二人はコテージのリビングの床に敷いたムートンの上で寝そべってくつろいでいた。
仕事から離れたせいか、雅治は家にいるときよりも寛いでいるように穏やかな表情をしている。
けれど晶は昼間のことが心にひっかかって、普段よりずっと無口だった。
食事の時も、晶の好きなものを皿に乗せ、嫌いなものを避けてくれたり、飲み物のオーダーにも気を配ってくれた雅治に対し、笑顔のひとつも返すことが出来なかった自分自身への自己嫌悪もあった。
「なあ、晶、今まで忙しくて、寂しい想いをさせてごめんな」
突然、雅治にそう言われて、晶は驚いた。
「なに、急に」
「覚に、言われたよ」
その言葉に内心の焦りを隠して「な、なにを?」と、小首を傾げながら雅治を見る。
「あんまり晶をほっておくと誰かに取られちゃうよ、って」
晶は慌てて首を振って否定した。
「そ、そんなことあるわけねえじゃん!あいつ、なに言ってんだ。オレが好きなのはっ、雅治だけなんだからっ」
思わずそう声を張り上げてしまい、気がついて顔を真っ赤にした。
雅治は嬉しそうに目を細めた。
「オレはね、結婚したから仕事の手を抜くようになったとか、仕事が減ったとか、そういうことを誰にも言わせたくなかったんだ。それに、晶のためにも、二人の将来のことはちゃんと考えなきゃいけないって」
その誠意と真実味のある雅治の言葉に、晶の胸は熱くなった。
そんな夫の気も知らずに、構ってもらえないと不満を溜めて遊び惚けていた自分を少しだけ反省もした。
「雅治…オレこそ、ごめん。昼間、あんなこと言って」
「あんなこと?」
雅治はなにを謝られているのかわからないらしい。
「オレも…本当は、一緒に泳ぎたかったのに、その、ちょっと意地になっちゃって」
「なんだ、晶も泳ぎたかったの?じゃあ、今から泳ぐ?プライベートプールで」
「え…ええ?!」
そういうつもりで言ったわけではなかったが、雅治は夜のプールはムーディだよ、と言ってすっかりその気になってはしゃいでいる。
確かに、裸の上半身にパーカーを羽織り、下はジーンズを太腿の上で切った短パン姿の晶は、今すぐにプールに飛び込んでも支障のない格好ではある。
雅治は晶のその格好を眺めて、何かを企んだように笑うと、いきなり晶を抱きかかえた。
「わっ、なにすんだっ!雅治っ」
コテージはガラスの仕切りを開けばそこがプールつきのテラスという造りになっている。
オレンジや青の照明でライトアップされたプールの中に、雅治は晶を横抱きしたままで飛び込んだ。
派手に水飛沫をあげ、ブクブクと泡を立てて二人は水に沈む。
水中でもがきながら目が合って、急におかしくなり吹き出した拍子に水を飲んでしまった。
同時に水面に顔を出し、晶は「ばか!」と口では怒ったようなことを言いながら、目は笑っていた。
雅治も笑いながら、晶の濡れた髪の下の濡れた顔を両手で挟む。
「晶」と、囁くような小声で名前を呼んで、晶の額に自分の額をつけた。
雅治の前髪から垂れた水滴が晶のこめかみを伝い頬に滑り落ちる。
「雅治…」
ここは最後の楽園。
神様のいるところ。
世界中で一番幸福な島。
群青の空には砂のような星。
最高のシチュエイション。
どんなに意地っ張りでも、こんな時は誰でも素直に本当のことが言える。
「…好きだ…大好き…」
雅治の首に腕を回し、しがみついた。
他に誰もいないことをいいことに、そのまま水に抱かれてキスを交わした。
「晶、晶って……」
「…うん…も、ちょっと、寝かせて…」
肩を揺すられて、晶は眠くてたまらない重たい瞼を開いた。
逆光のせいで、自分を覗き込む人の顔がよく見えない。
誰、だっけ?
覚?慎太郎?それとも、光司?
ま、まさか沢渡速人?!
はっきりしない頭で考えているうちに、少しつづ目が慣れて焦点があってくる。
「ま、雅治?!」
呆れたような表情で晶を見下ろしているのは、他の誰でもなく夫の雅治だった。
「おまえ、せっかくこんなとこまで来て寝てたらもったいないじゃん」
こんなところまで、と雅治が言うのは、ここが日本ではないからだ。
ここは最後の楽園、南の島バリ島。
結婚して以来、やっと取れたお正月の長期休暇を利用して、二人はバリ島に来ていた。
ところが長旅に疲れた晶はプライベートプールつきのコテージのテラスで、籐のカウチに体を丸めて、贅沢に惰眠を貪っていた。
「起きて、ビーチに行こう。海、すげえ綺麗だから」
雅治が晶の手を引く。
「いいよ、オレは。休んでるから」
晶は拗ねたように言った。
楽園まで来て眠ってばかりの自分も自分だが、こっちに着いた途端に海だプールだと一人で遊び回っている雅治も雅治だと晶は思う。
今まで散々ほっておかれたせいもあって、素直になれないのだった。
「本当に行かない?」
雅治は残念そうにそう聞いてくる。
ちょっとだけ悪い気がして晶は「雅治は一人で行って来ていいよ。オレはもう少し寝ていたい」と返事をした。
「そっか。じゃあ、気が向いたら来いよ。ほら、そこの道路を挟んだすぐ向こうだから、わかるだろ?」
こくんと、頷いて応えると、雅治は微笑して晶の前髪をかきわけて額にキスした。
「じゃあ、な」
雅治の後ろ姿を見て、ため息が出る。
どうしていつもこうなるのか。
どうして、自分は雅治に、あんなふうにしか言えないのだろう。
雅治でなければ晶はもっと上手に甘えることも出来るし、海なんていいから一緒にいてと、可愛くねだることだって出来る。
オトコを手玉に取るのは唯一の得意分野だ。
それなのに、肝心の雅治にだけ、それが出来ない。
多分、好きという気持ちが邪魔している。
雅治が自分のことを好きな気持ちより、いつだって自分の方が多く、雅治のことを好きで、それが悔しくて素直になれない。
好きだからこそ、恋の駆け引きが出来ない。
そんな余裕はない。
だから、うまくいかない。
思い立ってカウチから下りると、晶はビーチに向かって歩き出した。
「ごめん」と言わなくても雅治なら「一緒に泳ごう」と言うだけで、自分の気持ちを理解してくれると思う。
一緒にいた時間の長い二人には、仲直りするにはそれで充分なのだ。
日本の夏の海岸とは違い、驚くほど人が少ないビーチで雅治を見つけるのは簡単だった。
雅治は、大きな胸がはみ出そうなビキニ姿の白人の女二人に挟まれ、なにやら楽しげに喋っていた。
どうやら自分の夫は外国人の女から見ても魅力があるらしい。
晶は踵を返してコテージに戻った。
***
並んだヤシの木の向こうに沈む黄金の太陽を眺めながら、豪華なディナーとワインを楽しんだあと、二人はコテージのリビングの床に敷いたムートンの上で寝そべってくつろいでいた。
仕事から離れたせいか、雅治は家にいるときよりも寛いでいるように穏やかな表情をしている。
けれど晶は昼間のことが心にひっかかって、普段よりずっと無口だった。
食事の時も、晶の好きなものを皿に乗せ、嫌いなものを避けてくれたり、飲み物のオーダーにも気を配ってくれた雅治に対し、笑顔のひとつも返すことが出来なかった自分自身への自己嫌悪もあった。
「なあ、晶、今まで忙しくて、寂しい想いをさせてごめんな」
突然、雅治にそう言われて、晶は驚いた。
「なに、急に」
「覚に、言われたよ」
その言葉に内心の焦りを隠して「な、なにを?」と、小首を傾げながら雅治を見る。
「あんまり晶をほっておくと誰かに取られちゃうよ、って」
晶は慌てて首を振って否定した。
「そ、そんなことあるわけねえじゃん!あいつ、なに言ってんだ。オレが好きなのはっ、雅治だけなんだからっ」
思わずそう声を張り上げてしまい、気がついて顔を真っ赤にした。
雅治は嬉しそうに目を細めた。
「オレはね、結婚したから仕事の手を抜くようになったとか、仕事が減ったとか、そういうことを誰にも言わせたくなかったんだ。それに、晶のためにも、二人の将来のことはちゃんと考えなきゃいけないって」
その誠意と真実味のある雅治の言葉に、晶の胸は熱くなった。
そんな夫の気も知らずに、構ってもらえないと不満を溜めて遊び惚けていた自分を少しだけ反省もした。
「雅治…オレこそ、ごめん。昼間、あんなこと言って」
「あんなこと?」
雅治はなにを謝られているのかわからないらしい。
「オレも…本当は、一緒に泳ぎたかったのに、その、ちょっと意地になっちゃって」
「なんだ、晶も泳ぎたかったの?じゃあ、今から泳ぐ?プライベートプールで」
「え…ええ?!」
そういうつもりで言ったわけではなかったが、雅治は夜のプールはムーディだよ、と言ってすっかりその気になってはしゃいでいる。
確かに、裸の上半身にパーカーを羽織り、下はジーンズを太腿の上で切った短パン姿の晶は、今すぐにプールに飛び込んでも支障のない格好ではある。
雅治は晶のその格好を眺めて、何かを企んだように笑うと、いきなり晶を抱きかかえた。
「わっ、なにすんだっ!雅治っ」
コテージはガラスの仕切りを開けばそこがプールつきのテラスという造りになっている。
オレンジや青の照明でライトアップされたプールの中に、雅治は晶を横抱きしたままで飛び込んだ。
派手に水飛沫をあげ、ブクブクと泡を立てて二人は水に沈む。
水中でもがきながら目が合って、急におかしくなり吹き出した拍子に水を飲んでしまった。
同時に水面に顔を出し、晶は「ばか!」と口では怒ったようなことを言いながら、目は笑っていた。
雅治も笑いながら、晶の濡れた髪の下の濡れた顔を両手で挟む。
「晶」と、囁くような小声で名前を呼んで、晶の額に自分の額をつけた。
雅治の前髪から垂れた水滴が晶のこめかみを伝い頬に滑り落ちる。
「雅治…」
ここは最後の楽園。
神様のいるところ。
世界中で一番幸福な島。
群青の空には砂のような星。
最高のシチュエイション。
どんなに意地っ張りでも、こんな時は誰でも素直に本当のことが言える。
「…好きだ…大好き…」
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