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5.不安

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部屋を訪ねると、昼間だというのに珍しく那智はベッドで眠っていた。
窓が少し開いたままになっているのか、レースのカーテンの端が揺れていた。
樫野は慌てて窓際に歩み寄り窓を閉めてから、那智の寝顔を覗いた。

誰でも昼寝に誘われそうな、暖かく柔らかい春の日差しの中で眠る那智の顔は子供のようにあどけない。
この病院に入院して2年、自分も那智も同じだけ年齢を重ねたはずなのに、那智の中の時間は止まったまま少しも進んでいない。
そのせいか、見た目にも、那智だけが昔と変わらないように見える。
那智が変わらないことは時に樫野に焦燥を、時に安堵をもたらした。

「那智…」
眠りを妨げないように、小さく呼びながら、樫野は自分の胸に問う。
オレはおまえにどうなって欲しいんだろう。

記憶を取り戻して欲しい。
出会い、喧嘩して仲直りして、少しづつ近づいて、そして誰よりも大切だと思うようになったこと。
あの想いをまた共有することが出来るなら、どんなものとでも引き換えに出来る。
けれど、記憶を取り戻した那智は、あのときのように自分を拒むかもしれない。
触れ合うことを、拒むかもしれない。
愛してると云いながら、目に見えない壁で自分を遠ざけようとするかもしれない。

感傷を振り払うように樫野は那智の上掛け布団をかけ直した。
そのとき、不意に那智のこめかみを涙の滴が流れた。

「那智!」
驚いて、樫野は名前を呼んだ。
悲しい夢でも見ているのだろうか。
夢の中で苦しんでいるのなら、目覚めさせて「大丈夫だよ」と言ってやりたい。

「どうしたの?大丈夫?どこか、痛いの?」
那智の顔を覗き込んで、樫野は聞く。
「那智?」
呼んでも那智は瞼を開かない。
泣きながら小さく首を振って、何か言おうとしているのか唇を動かした。
「なに、那智。何が言いたいの」
息を吸いこんでは吐き出し、もがくように必死で言葉を紡ごうとしているようだった。
樫野は、那智の口許に耳を寄せて、那智の言葉を聞き取ろうとした。
「…か…し…の…」

はっとした。
那智が口にしたのは、自分の名前だった。
回復した那智に樫野が教えた自分の名前は「拓人」だった。
「樫野」という単語は教えていない。
その言葉は那智の記憶の中にしかないはずだった。

「かしの」と、もう一度、今度ははっきりそう言った。
「那智、おまえ、思い出したの?!」
その問いには答えずに、那智はまた深い眠りにおちた。

「……夢?夢の中で、オレのこと呼んでくれたの?それともオレが夢でも見てるのか。那智…」
樫野は那智の濡れた瞼の下をそっと指で拭って、そのまま頬に触れた。
那智の中で起きている変化を予感して、期待と不安を同時に感じた。



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