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1.過保護

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ノックをして病室に入ると、そこには先客がいた。
「なんだよ、おまえら。来てたの」

二人掛けのソファーに窮屈そうに並んで座って、芳彦と圭太が入ってきた樫野に先を越したと得意げな顔をしてみせる。
「樫野くん、おっせーよ!」
ベッドの上に座る那智に目を向けると、少し疲れた笑顔で目を細めて賑やかな部屋を眺めていた。

「拓人」
樫野の来訪を素直に喜びながら微笑んで、嬉しそうに名前を呼ぶ。

「那智、今日は顔色が良くないね。疲れてるんじゃないか。圭太、おまえ煩くしたんだろ」
そう言って圭太をひと睨みした樫野は、那智に駆け寄って心配そうに額に手を置き、平熱だと判断するとほっとして那智の肩の上着をきちんとかけ直した。

「拓人ってほんと、過保護だよね」
樫野の甲斐甲斐しい世話ぶりに、呆れた声で芳彦が言う。
「うるさい。おまえたちが気、遣わなすぎんだよ」
「え~、そんなことないよ。ねえ、那智くん。僕ら、那智くんにFake Lipsのこと、話してたんだよ。那智くんはすごかったんだって!」
「え?」

圭太の言葉に驚いて那智を見ると、那智は交わされる会話の意味がわからないのか困惑した顔で樫野を見た。
「圭太、那智はまだそこまでは…」
わからないんだと、口に出すことは出来なかった。
その言葉が、最近やっと日常会話なら理解出来るようになった那智を傷つけるような気がして。

そんな拓人を芳彦がやれやれという、また過保護だねと揶揄するような目で見ていたが、誰にどんなふうに思われても樫野は那智を少しでも傷つけるつもりはなかった。

「拓人、そういえばさっき先生が来て、君が来たら部屋まで来るように伝えてくれって」
「池下先生?」
「そう。僕も一緒に行っていい?」
芳彦に言われて樫野は少し考え、頷いた。
圭太にあまり煩くするなと注意して、二人は病室を出た。



***



「那智、すごくよくなってるね。会うたびに会話がしっかりしてくるから驚かされるよ」
病室から医局に向かう廊下を歩きながら、芳彦が言った。

「記憶するコツを覚えたんだよ。でも思い出してるわけじゃない」
樫野の声が僅かに苛立ちを含んでいることに気付きながら、芳彦は口調を変えずに言う。
「拓人って、呼ぶんだね、君のこと」

それには答えずに、樫野は芳彦にきつい視線を送る。
「那智に滅多に昔の話をするのはやめろ。混乱させる。そうだろ」
そうだろ?と、自分の考えが間違っていないことを確認するように言った。
「でも、今のままじゃあ、本当に回復したとは言えないよ」

それはわかっていた。
けれど樫野は怖いのだ。
記憶を取り戻した那智が、その重さに潰れて、また自分の殻の中に閉じこもってしまうのではないかと。

進行性記憶喪失症の原因が那智が自ら選んだ逃避の結果ならその可能性は十分あるし、今の那智には以前よりもっと自分を守る鎧がない。
思い出すことで、前より深いダメージになるかもしれない。

「わかってる。わかってるけど、焦らせるなよ。頼むから」

記憶を取り戻した那智がどうなるかわからないから、樫野は怖かった。
その現実を拒絶して、また自分の手の届かないところに行ってしまったら。
澄んだ大きな瞳がなにも映していなかったときの那智を思い出して、樫野はぞっとする。

美しいスリーピングドール。
名前を呼んでも耳にも心にも届かず、想いがすり抜けていった。
また、あのときに戻るのなら、今のままでいいと樫野は思う。
そう今は、自分の存在を認めて名前を呼び、笑顔を見せてくれる。
失った記憶にこだわって、那智の笑顔を手放したくなかった。



***



芳彦と圭太が帰ったあと、樫野は那智をベッドに寝かせながら話しかけた。
「那智、今日は疲れたろ。圭太さあ、嬉しいんだよ、またおまえと話せるようになって。だからってあれは騒ぎ過ぎだけどね」
那智はじっと樫野の声を聞きながら、何かを問いたげな瞳を向ける。

「圭太ってね、おまえにすごく憧れていたんだよ。おまえも圭太にはいつも甘くて、オレ、嫉妬したこともあったよ」

圭太に、嫉妬したことがあった。
いつも世話を焼かせているように見えて、無邪気な明るさで那智の心の支えになっていた圭太に、嫉妬した。
その時の胸の痛みを思い出しながら、那智の前髪を撫でる。
けれど今はこんなにも自分だけのものだ。

「Fake Lips…」
樫野を縋るような目で見て、不意に那智が言った。
「え…?」
「拓人、Fake Lips、なに…。圭太、Fake Lips…」
「圭太が言ってた、Fake Lipsってなにかって?」

わからないことが苦しい。
そんな顔をしている。
樫野は返事に詰まった。
それはおまえがなによりも大切にしていたものだよ。
情熱と青春のすべてをかけて愛したもの。

「焦るなよ、那智。大丈夫だから、焦んなって。無理しなくても、自然に思い出すさ」
今はまだ教えられない。
那智の記憶を取り戻すのに、Fake Lipsのことを話すことが近道になるかもしれないとわかっていても、樫野には話せなかった。

エゴだろうかと樫野は自分の胸に問う。
もちろん、那智に過去を思い出してほしい。
一緒に過ごした時間を、愛しあい、求めあったあの感情を思い出してほしい。

そう願う気持ちと同じ強さで、那智を自分だけのものにしておきたいとも思う。
樫野はわかっていた。
こんな気持ちはエゴなのだと。



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