3 / 79
3 出会い
しおりを挟む
翌朝七時、セットした目覚まし時計の音で目を覚ました。物凄く眠い。フラフラになりながらも何とか用意を済ませた。
部屋を見ると恭也と涼介はまだアホみたいな顔で寝ていた。寝ている二人を羨ましく思いながら「結局泊まりやがって」と独り言を呟き俺はアパートを出た。
電車で俺の住む駅から大和相国寺駅まで二十分、乗り換えて三つ目の駅の天野川六丁目駅、そこからさらに徒歩で十五分の距離にある神奈関大学が最寄りの試験会場だ。
券売機の料金表を見て大和相国寺の駅から更に二つ乗り換えてあの鳳村の方に行ける電車があったことを発見して嬉しくも驚いた。
案内ハガキ裏面の駅周辺略地図を見ると駅から真っすぐ大通りを進んでから東に曲がる様に矢印で教えてくれているのだが、商店街を抜けて細い斜めに緩やかにカーブを描く様に流れる川沿いを行く道の方が斜めになっている分、近道に思えたので、川沿いを行く事にした。
駅を出て道を曲がり川沿いへ出た俺は思っていた景色とかなり違っていた事に少し戸惑った。
深さニメートル位の石の壁で舗装された浅い川で、砂利道に川沿いにガードと桜の木が数メートルおきに並んでいる。
見上げるとビックリするぐらい澄んだ青い空で気持ちが良く眠たさも吹き飛んだ。もう桜の咲く季節ではないが、春は凄く綺麗だったのだろうなと、こちらの道を選んで良かったと自分の決断に満足した。
川沿いを歩き始め、横に逸れる道が一向に無い。ずっと一本道なので、もしこの道が間違いでも戻るか、進むしかないって事に気が付いた。ひょっとして、だから、案内ハガキにはこのルートを推奨していなかったのかと思うと少し不安になり焦ってきた。
誰か人が通ればこの道で間違いないかを確認できるのだけど、こんな時に限って誰ともすれ違わない。
今更、道を引き返す時間は無いと少し急ぎ足で歩き出した矢先、緩やかなカーブの向こうから自転車に乗った髪の長い女性がこちらへ向かって来るのが見えた。
自転車はカーブを曲がり切り俺の歩く一直線の道に差し掛かった。この自転車を逃すと後はもう無いという思いでタイミング良く声を掛けるため、俺は慎重に相手と自分の距離を測りながら歩き続けた。
目測で俺との距離二十メートルの距離、長い髪を風になびかせながらやって来る、十メートルの距離、白い長袖カットソーにジーンズのシンプルな恰好、顔が判別出来る距離になった時、その娘が整った顔の綺麗な女の子だと判り急にドキドキした、そして意外と向かって来るスピードが速いと気がついて慌てた。
「すっすすみません」
緊張と焦りでかなりの距離からうわずった声を掛けてしまった。道を塞ぐように立つ俺を見て、その女の子は慌てて自転車を止め片足を地面に付けた。肩よりも長いロングヘアーのいで立ちの少し驚いた表情でこちらを見る彼女はすごい美少女だ。年齢は二十歳前後だろうか。
「あのー、この道はずっと一本道で、そのー神奈関大学に着くのでしょうか? 」
何を言っているのだ、俺は。しかし美人を前にして話すのは、とにかく緊張した。
「ええ、この道をこのままずっと真っすぐに行くだけですよ。」
俺の声のかけ方は不自然だったし、道の聞き方も怪しげだっただろうが彼女は爽やかな笑顔で答えてくれた。
彼女はもの凄く美人だ。美人にも色々なタイプの美人がいる、彫の深い派手な顔の美人や、色気のある美人、スタイルの良い美人や雰囲気の華やかな美人。
今、目の前にいる彼女はそよ風のように爽やかな美人だ。声も雰囲気も爽やかだ。びっくりするほど爽やかだ。何より、怪しく声をかけてしまったこんなバカな奴にさえ、笑顔で答えてくれたのだから。
ああ壁画の神様か妖精かどなたか判りませんが、壁画の剣を持っていた方、壁画の主様、どうかこんな女の人と僕は付き合えたなら僕は一生感謝します。感謝の念を忘れずに何かしますのでどうか………いや流石に無理だろう。流石に二十六年間彼女も出来なかった俺にはどう考えても高嶺の花過ぎるだろう。
俺は邪《よこしま》な考えを捨て笑顔で彼女にお礼を言うと、未練たらたら試験会場に向かった。そういえば時間がないのを忘れていた。もう一度振り返って美人の後ろ姿を見ようかと思ったが、馬鹿みたいなのでやめておいた。
「ガシャン」
突然の金属音に驚いて振り返ると、彼女は自転車ごと倒れていた。かなり派手に転倒した様子で彼女はまだ起き上がれないでいる。
「大丈夫ですか? 」
倒れている彼女に駆け寄り、自転車を引き起こして、声を掛けた。
「ええ、なんとか」
彼女は痛みを堪えている様子で、少し恥ずかしそうに言った。
彼女は足首をひどく捻ったみたいで一人で立てないので手を貸して、自転車の後ろへ座らせた。先程の転倒で自転車のチェーンが外れたので彼女を自転車の後ろに座らせ、自転車を引いて彼女の家まで行くことにした。
「すいません、わざわざ送ってもらう事になって。それよりも神奈関大学の事を聞いてらっしゃたけど、何か用事があるのではないのですか? 」
「いえいえ、全然全く何も用事なんかありませんよ。それよりも、その足、病院に行った方がいいんじゃないのですか? 」
「ええ足は痛みはしますが、今日一日じっとしていれば大丈夫だと思います」
今日から何かいい事が起こりそうな予感がしていたのは、ひょっとして、もしかしてこの事かと、これをきっかけにもしかして………
出会い、恋人、そして結婚………なんて事を一瞬考えたが、流石に無理がある。
「家はこの辺りですか? 」
「この道をずっと行って右ある橋を渡った所にあるアパートです」
この一本道を真っ直ぐ戻り駅と逆方向に行けば着く様だ。
「この道は春には桜が満開で綺麗なんでしょうね」
「ええ、とっても綺麗ですよ。大学に通う為に越して来たんですけど、毎年春はすごく綺麗ですよ」
「ひょっとして神奈関大学の学生さんですか? 」
「いえ、神奈関大の方が近いんですけど、私は大和大学に通っています」
ここで彼女は年下だという事が解ったと同時に高校をギリギリ卒業出来た俺よりも数十倍賢い事も判った。
大和大学なら大和相国寺駅から直ぐのはずだけど、あそこは大きな駅だから周辺の家賃も高いはずだ。だから桜南筋六丁目駅周辺に住む事にしたのかと、勝手に一人で納得した。
「あの、この辺の地理に詳しくはないんだけど、どこか薬局があれば、寄って湿布でも買って帰りましょうか? いやそうしましょう、あの駅の近くの商店街に多分ありますよね」
「はい、ありがとうございます、じゃあ寄ってもらおうかな」
「よし、じゃあ、商店街に寄って行こう。その道は判るんで」
「この辺の人ではないってことはやっぱり何か用事があって来られたんじゃないんですか?」
「いやいや、ほんとうに、何も大した用事なんかなくて、ええ、暇すぎて送らせてもらって逆に助かったみたいなハハハ」
涼介なら君みたいな美人と話しを出来るだけでも幸せとか何とか軽口を叩くのだろうけど、俺には逆立ちしたって絶対に言えない。
同じ軽口を叩くにしてもどうでもいい事しか言えないのが俺の残念な所だ。
「ありがとうございます」
爽やかな彼女の声を聴く度に俺の脳がクラクラする。
こんな美人と話す事に、緊張しながらもなんとか会話を続ける事が出来るのは、自転車を引いている俺が、自転車の後ろで座っている彼女の顔を正面から見ずにいられるからで、もし面と向かって話す事になれば、緊張で過呼吸になっただろう。
只、彼女は魅力的な顔をした美人でありながら、それを感じさせない自然な振る舞いが俺の緊張を少し和らげる。ああ、俺の女性に対する経験値がもっと高ければもう少し気の利いた会話でも出来るのになあ………
彼女をアパートの二階の部屋の前まで送り届けた。
湿布と消毒液を渡すと彼女は
「秋吉 里香です。改めてお礼をしたいので良ければ連絡先を教えて下さい」と言った。
秋吉 里香ってなんて素敵な名前だろう、なんて素晴らしい響きだろう。
「古川 晴一です。お礼なんて結構ですよ。それよりも足、お大事に」
俺は精一杯の笑顔で答え、彼女の部屋を後にした。
俺の一度は言ってみたいセリフ辞典に、「名乗るほどの者ではございません」が入っているが向こうが名乗っているのにこちらが名乗らないなんて只々、失礼だろうと思い名乗ったけれど、お礼は遠慮しておいた。只「当然の事をしたまでです」と言うのは恥ずかしくて言えなかった。まあ俺にしてみれば上出来の答えだっただろう。
試験を受ける事は出来なかったが、人助けをして美人にお礼まで言われ、清々しい気持ちで帰路についた。
アパートの部屋に戻ると恭也も涼介も既に帰ってしまったようで部屋には居なかった。
この状況に少しだけ寂しく感じた。
急に酷い孤独感に襲われ、別に見たくもないテレビの電源を入れて暫くニュース番組を見ている俺に後悔の大波がドッと押し寄せた。
自分の駄目さ加減に落ち込んだ。俺は本当になんて意気地なしだ。なぜ携帯番号くらい聞かなかったのか。そして、次に会う約束をしなかったのか。ただ、下心で助けたと思われるのが嫌だった。本当は彼女も「お礼など結構です」と相手が言うのを期待はしながらも、常識的にお礼をすると言わざるを得なかっただけかも知れない。
なのに、ハイそうですかと連絡先を渡し、「次会うのは何時にしましょうか? 」なんて言おうものならどういう反応をされたのだろう。
そんな事、想像するだけで寒気が止まらない。完全に白い眼を向けられながら会う約束をする様な鋼鉄の心は俺には無い。
恭也や涼介なら向こうが連絡先を聞いているのだから教えて、こちらも聞いておけば良いだろと言うに決まっている。なぜそんな事も出来なかったのか。
連絡先を交換して、また後日会いに行くなんて白々しい真似は出来ない。ドラマみたいにそれがきっかけに仲良くなるなんてよっぽど図々しい奴だけだろう。
正解はどれだったのか、俺には解らないが、助けた人に図々しくまた会いに行くなんて事は俺には出来ないし、これからもやらないだろう、いや、やるべきなのか? どうしても恋人が欲しいのならば。今回は完全に選択を間違えた。
小学生の頃は大人になれば恋人なんて自然に出来るものだと思っていた………が、出来ない。自分から行動を起こさない限り出来るわけがないのはもう判っている。
出会いさえあれば………いや、それなら高校で既に彼女を作れたはずだ。共学だったんだから出会いは山程あった。問題は、女性に対して消極的なこの性格だ。事実たった今さっきも出会いはあったのだから。
もう今更くよくよ考えても仕方がない、チャンスが巡って来れば次こそは頑張ろう。いや、頑張るしかない。頑張りますのでどうか宜しくお願いします、壁画の主様。
秋吉 里香さん………。まあ、あれだけの美人だからどう考えても恋人くらいは、いるだろう。そう思い込めば諦めもつくというものだ。昨日のからの寝不足と今日の緊張で疲れたので、兎に角バイトに行く時間まで、寝る事にした。
部屋を見ると恭也と涼介はまだアホみたいな顔で寝ていた。寝ている二人を羨ましく思いながら「結局泊まりやがって」と独り言を呟き俺はアパートを出た。
電車で俺の住む駅から大和相国寺駅まで二十分、乗り換えて三つ目の駅の天野川六丁目駅、そこからさらに徒歩で十五分の距離にある神奈関大学が最寄りの試験会場だ。
券売機の料金表を見て大和相国寺の駅から更に二つ乗り換えてあの鳳村の方に行ける電車があったことを発見して嬉しくも驚いた。
案内ハガキ裏面の駅周辺略地図を見ると駅から真っすぐ大通りを進んでから東に曲がる様に矢印で教えてくれているのだが、商店街を抜けて細い斜めに緩やかにカーブを描く様に流れる川沿いを行く道の方が斜めになっている分、近道に思えたので、川沿いを行く事にした。
駅を出て道を曲がり川沿いへ出た俺は思っていた景色とかなり違っていた事に少し戸惑った。
深さニメートル位の石の壁で舗装された浅い川で、砂利道に川沿いにガードと桜の木が数メートルおきに並んでいる。
見上げるとビックリするぐらい澄んだ青い空で気持ちが良く眠たさも吹き飛んだ。もう桜の咲く季節ではないが、春は凄く綺麗だったのだろうなと、こちらの道を選んで良かったと自分の決断に満足した。
川沿いを歩き始め、横に逸れる道が一向に無い。ずっと一本道なので、もしこの道が間違いでも戻るか、進むしかないって事に気が付いた。ひょっとして、だから、案内ハガキにはこのルートを推奨していなかったのかと思うと少し不安になり焦ってきた。
誰か人が通ればこの道で間違いないかを確認できるのだけど、こんな時に限って誰ともすれ違わない。
今更、道を引き返す時間は無いと少し急ぎ足で歩き出した矢先、緩やかなカーブの向こうから自転車に乗った髪の長い女性がこちらへ向かって来るのが見えた。
自転車はカーブを曲がり切り俺の歩く一直線の道に差し掛かった。この自転車を逃すと後はもう無いという思いでタイミング良く声を掛けるため、俺は慎重に相手と自分の距離を測りながら歩き続けた。
目測で俺との距離二十メートルの距離、長い髪を風になびかせながらやって来る、十メートルの距離、白い長袖カットソーにジーンズのシンプルな恰好、顔が判別出来る距離になった時、その娘が整った顔の綺麗な女の子だと判り急にドキドキした、そして意外と向かって来るスピードが速いと気がついて慌てた。
「すっすすみません」
緊張と焦りでかなりの距離からうわずった声を掛けてしまった。道を塞ぐように立つ俺を見て、その女の子は慌てて自転車を止め片足を地面に付けた。肩よりも長いロングヘアーのいで立ちの少し驚いた表情でこちらを見る彼女はすごい美少女だ。年齢は二十歳前後だろうか。
「あのー、この道はずっと一本道で、そのー神奈関大学に着くのでしょうか? 」
何を言っているのだ、俺は。しかし美人を前にして話すのは、とにかく緊張した。
「ええ、この道をこのままずっと真っすぐに行くだけですよ。」
俺の声のかけ方は不自然だったし、道の聞き方も怪しげだっただろうが彼女は爽やかな笑顔で答えてくれた。
彼女はもの凄く美人だ。美人にも色々なタイプの美人がいる、彫の深い派手な顔の美人や、色気のある美人、スタイルの良い美人や雰囲気の華やかな美人。
今、目の前にいる彼女はそよ風のように爽やかな美人だ。声も雰囲気も爽やかだ。びっくりするほど爽やかだ。何より、怪しく声をかけてしまったこんなバカな奴にさえ、笑顔で答えてくれたのだから。
ああ壁画の神様か妖精かどなたか判りませんが、壁画の剣を持っていた方、壁画の主様、どうかこんな女の人と僕は付き合えたなら僕は一生感謝します。感謝の念を忘れずに何かしますのでどうか………いや流石に無理だろう。流石に二十六年間彼女も出来なかった俺にはどう考えても高嶺の花過ぎるだろう。
俺は邪《よこしま》な考えを捨て笑顔で彼女にお礼を言うと、未練たらたら試験会場に向かった。そういえば時間がないのを忘れていた。もう一度振り返って美人の後ろ姿を見ようかと思ったが、馬鹿みたいなのでやめておいた。
「ガシャン」
突然の金属音に驚いて振り返ると、彼女は自転車ごと倒れていた。かなり派手に転倒した様子で彼女はまだ起き上がれないでいる。
「大丈夫ですか? 」
倒れている彼女に駆け寄り、自転車を引き起こして、声を掛けた。
「ええ、なんとか」
彼女は痛みを堪えている様子で、少し恥ずかしそうに言った。
彼女は足首をひどく捻ったみたいで一人で立てないので手を貸して、自転車の後ろへ座らせた。先程の転倒で自転車のチェーンが外れたので彼女を自転車の後ろに座らせ、自転車を引いて彼女の家まで行くことにした。
「すいません、わざわざ送ってもらう事になって。それよりも神奈関大学の事を聞いてらっしゃたけど、何か用事があるのではないのですか? 」
「いえいえ、全然全く何も用事なんかありませんよ。それよりも、その足、病院に行った方がいいんじゃないのですか? 」
「ええ足は痛みはしますが、今日一日じっとしていれば大丈夫だと思います」
今日から何かいい事が起こりそうな予感がしていたのは、ひょっとして、もしかしてこの事かと、これをきっかけにもしかして………
出会い、恋人、そして結婚………なんて事を一瞬考えたが、流石に無理がある。
「家はこの辺りですか? 」
「この道をずっと行って右ある橋を渡った所にあるアパートです」
この一本道を真っ直ぐ戻り駅と逆方向に行けば着く様だ。
「この道は春には桜が満開で綺麗なんでしょうね」
「ええ、とっても綺麗ですよ。大学に通う為に越して来たんですけど、毎年春はすごく綺麗ですよ」
「ひょっとして神奈関大学の学生さんですか? 」
「いえ、神奈関大の方が近いんですけど、私は大和大学に通っています」
ここで彼女は年下だという事が解ったと同時に高校をギリギリ卒業出来た俺よりも数十倍賢い事も判った。
大和大学なら大和相国寺駅から直ぐのはずだけど、あそこは大きな駅だから周辺の家賃も高いはずだ。だから桜南筋六丁目駅周辺に住む事にしたのかと、勝手に一人で納得した。
「あの、この辺の地理に詳しくはないんだけど、どこか薬局があれば、寄って湿布でも買って帰りましょうか? いやそうしましょう、あの駅の近くの商店街に多分ありますよね」
「はい、ありがとうございます、じゃあ寄ってもらおうかな」
「よし、じゃあ、商店街に寄って行こう。その道は判るんで」
「この辺の人ではないってことはやっぱり何か用事があって来られたんじゃないんですか?」
「いやいや、ほんとうに、何も大した用事なんかなくて、ええ、暇すぎて送らせてもらって逆に助かったみたいなハハハ」
涼介なら君みたいな美人と話しを出来るだけでも幸せとか何とか軽口を叩くのだろうけど、俺には逆立ちしたって絶対に言えない。
同じ軽口を叩くにしてもどうでもいい事しか言えないのが俺の残念な所だ。
「ありがとうございます」
爽やかな彼女の声を聴く度に俺の脳がクラクラする。
こんな美人と話す事に、緊張しながらもなんとか会話を続ける事が出来るのは、自転車を引いている俺が、自転車の後ろで座っている彼女の顔を正面から見ずにいられるからで、もし面と向かって話す事になれば、緊張で過呼吸になっただろう。
只、彼女は魅力的な顔をした美人でありながら、それを感じさせない自然な振る舞いが俺の緊張を少し和らげる。ああ、俺の女性に対する経験値がもっと高ければもう少し気の利いた会話でも出来るのになあ………
彼女をアパートの二階の部屋の前まで送り届けた。
湿布と消毒液を渡すと彼女は
「秋吉 里香です。改めてお礼をしたいので良ければ連絡先を教えて下さい」と言った。
秋吉 里香ってなんて素敵な名前だろう、なんて素晴らしい響きだろう。
「古川 晴一です。お礼なんて結構ですよ。それよりも足、お大事に」
俺は精一杯の笑顔で答え、彼女の部屋を後にした。
俺の一度は言ってみたいセリフ辞典に、「名乗るほどの者ではございません」が入っているが向こうが名乗っているのにこちらが名乗らないなんて只々、失礼だろうと思い名乗ったけれど、お礼は遠慮しておいた。只「当然の事をしたまでです」と言うのは恥ずかしくて言えなかった。まあ俺にしてみれば上出来の答えだっただろう。
試験を受ける事は出来なかったが、人助けをして美人にお礼まで言われ、清々しい気持ちで帰路についた。
アパートの部屋に戻ると恭也も涼介も既に帰ってしまったようで部屋には居なかった。
この状況に少しだけ寂しく感じた。
急に酷い孤独感に襲われ、別に見たくもないテレビの電源を入れて暫くニュース番組を見ている俺に後悔の大波がドッと押し寄せた。
自分の駄目さ加減に落ち込んだ。俺は本当になんて意気地なしだ。なぜ携帯番号くらい聞かなかったのか。そして、次に会う約束をしなかったのか。ただ、下心で助けたと思われるのが嫌だった。本当は彼女も「お礼など結構です」と相手が言うのを期待はしながらも、常識的にお礼をすると言わざるを得なかっただけかも知れない。
なのに、ハイそうですかと連絡先を渡し、「次会うのは何時にしましょうか? 」なんて言おうものならどういう反応をされたのだろう。
そんな事、想像するだけで寒気が止まらない。完全に白い眼を向けられながら会う約束をする様な鋼鉄の心は俺には無い。
恭也や涼介なら向こうが連絡先を聞いているのだから教えて、こちらも聞いておけば良いだろと言うに決まっている。なぜそんな事も出来なかったのか。
連絡先を交換して、また後日会いに行くなんて白々しい真似は出来ない。ドラマみたいにそれがきっかけに仲良くなるなんてよっぽど図々しい奴だけだろう。
正解はどれだったのか、俺には解らないが、助けた人に図々しくまた会いに行くなんて事は俺には出来ないし、これからもやらないだろう、いや、やるべきなのか? どうしても恋人が欲しいのならば。今回は完全に選択を間違えた。
小学生の頃は大人になれば恋人なんて自然に出来るものだと思っていた………が、出来ない。自分から行動を起こさない限り出来るわけがないのはもう判っている。
出会いさえあれば………いや、それなら高校で既に彼女を作れたはずだ。共学だったんだから出会いは山程あった。問題は、女性に対して消極的なこの性格だ。事実たった今さっきも出会いはあったのだから。
もう今更くよくよ考えても仕方がない、チャンスが巡って来れば次こそは頑張ろう。いや、頑張るしかない。頑張りますのでどうか宜しくお願いします、壁画の主様。
秋吉 里香さん………。まあ、あれだけの美人だからどう考えても恋人くらいは、いるだろう。そう思い込めば諦めもつくというものだ。昨日のからの寝不足と今日の緊張で疲れたので、兎に角バイトに行く時間まで、寝る事にした。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる