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誓いの章
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悠真の葬儀から、ちょうど一週間が経った。
葵は、悠真と一緒に撮った写真をすべてベッドの上に広げ、彼と過ごした約4年間を思い返して過ごした。
楽しかった。いつも悠真の背中を見てオートバイを走らせていた。
悠真の背中は、常に葵に語り掛けていた。
「俺の後ろをついて来い!」
葵は一片の疑いも持たず、悠真を信じて背中を追いかけていた。
「おおっ! だから2月は短いんだ」
悠真のあの言葉はけっして忘れない。
葵が落ち込むところで、悠真は絶対に同じようには落ち込まないと、確信した日だった。
必ず全く違う視点で物事を判断し、葵を救いあげてくれた。
「悠真はそういう奴だった」
葵は呟いた。
突然、ノック音が聞こえた。
「葵。小林さんがいらしたわよ」
母親の声が響いた。
(巧が?)
なんだろうと思いながら、玄関へ向かった。巧が立っていた。
「どうしたの?」
「葵、明日予定通り、今年最後のツーリングに行く」
「え?」
巧の言葉に、悠真の死から未だ立ち直っていない自分が、「バイクに乗るのは怖い!」と思った。
「俺は、どうしても納得がいかねぇ。和田峠程度のちんけなカーブを、悠真ほどの奴が曲がれなかったとはどうしても思えねぇ」
「確かに……。『峠』なんて名ばかりの、車道も広いし緩やかなカーブしかないわ」
葵は和田峠を思い描いた。
長い峠道ではある。下り坂が長いので、ブレーキばかり踏んでいる自動車が、フェード現象を起こしてブレーキが利かなくなることが多い峠だ。
だから下り坂の途中に、退避用に20メートルほどの上り坂がところどころ設置されている。
しかし、登りは、カーブも大きくて何ら問題なく走れる。登坂車線があるくらいだ。
「わかったか! あの悠真だぞ? あんなちんけなカーブが曲がれない訳ない! あの腕だ。夜だろうが雨が降っていようが、問題なく登ってこられたはずだ。それなのに、悠真はカーブを曲がれずに転落死した。絶対に何かが起きたんだ!」
巧が叫んだ。
葵は巧ほど、まだオートバイには詳しくない。
しかし、巧はすごい腕を持っている。
悠真の力量だって熟知している。
その巧が、悠真の死を納得していない。
彼は何か異常を察知しているのだと思った。
「事故後、悠真のモト・グッツィの破片は、できるだけ回収してもらって、文ちゃんの整備工場に運んだ。悠真が、バイクのメンテナンスを怠ることは、まずありえねぇ。しかし、絶対はない。バイクが故障していた可能性も否定できない。葬儀が終わった夜から、文ちゃんは寝る暇も惜しんで、総ての部品の、ねじ一本まで調べてくれた。あいつの整備士の腕は一級品だ。その文ちゃんが調べても、ねじ一本緩んではいなかったそうだ。ということは、バイクのせいじゃねぇ! 悠真の腕だ! けれど俺たちは知ってる。あんなちんけなカーブが曲がれないような奴じゃない! 何かが。悠真が曲がれなかった、何かが、絶対にあるはずだ!」
巧の目は「獲物を狙う豹」だった。
「明日、和田峠の事故現場へ行く。もちろん、悠真の弔いもかねてだ。文ちゃんと小松とも話し合った。俺たちは自分の目で確かめてぇんだよ! なぜ、あれだけのテクニックを持った悠真が、あんなちんけな峠で死んだのか。確かめないと、俺たちは終われねぇ。今の俺たちの頭ん中は、疑問しかねぇんだよ。なぜ! なぜ! なぜ! ってな!」
巧は、一気にまくしたてると、そっぽを向いて唇を震わせた。
「わかった。巧が言うんだから、間違いない。悠真がどうして曲がれずに崖下に転落したか。自分たちの目で確かめよう」
葵は頷いた。
2019年11月17日。仲間は、いつも通り文一のオートバイ・ショップにいた。
「これから和田峠を通って駒ヶ岳まで行くぞ。事故現場で、悠真がなぜ曲がれなかったのか、それを確かめる!」
巧が全員を見回した。
「ああ、悠真に聞きに行こうぜ」
文一がKATANAにまたがると、スターターボタンを強く押した。
爆音が響き渡り、晩秋の高い青空を突き抜けた。
それを合図に、全員が各自のオートバイに火を入れた。
小松がハーレーのスロットルを回して、咆哮をあげた。
巧のドゥカが、それを上回る爆音を轟かせた。
巧が軽く右手を挙げた。
いつもだったら葵は悠真の後に続くのだが、その悠真はもういない。
巧の後に続いた。文一・樹・小松の順で走り出した。
和田峠に入った。ここからは岡谷市に向けて、長い下り坂になる。
全員エンジンブレーキを使って、カーブを降りていった。
やがて、すぐ目の前に大きなカーブが現れた。
そこには、いくつもの花束や飲み物の缶・酒瓶が置かれていた。
悠真が飛んだカーブだった。
巧は邪魔にならない空きスペースにドゥカを滑り込ませた。
全員が、その横へと次々と駐車し、エンジンを止めた。
葵はリアシートに括りつけておいた、白ユリや白菊をふんだんに使った大きな花束を抱きしめた。
カーブに近づくと、悠真がぶち当たったと思われるところのガードレールが、大きく歪んでいた。
そこから斜面を見下ろすと、悠真が落ちていったであろう50メートルほどに渡って、細い木々や草などがなぎ倒されていた。
誰もが「これではひとたまりもない」と思った。
みんなで悠真が落ちていった斜面を、言葉を失ったまま眺めている中で、巧の声が遠くで聞こえた。
「悠真を殺したのはこいつだ!」
巧は腰に手を当てて、ライダー・ブーツで地面を蹴っていた。
残りの全員が、巧のそばへ駆け寄った。
巧が蹴っているものを見て、全員が息を飲んだ。
「まさか? こんなもので?」
葵が呆然と呟いた。
「本当に、こんなもので……? ですか?」
樹も信じられないといった顔つきで、巧を見つめた。
それは、子供だろうが80歳過ぎた老人であろうが、見た人は「こんなもの」と表現する代物だった。
「こんなもの」とは、工事中に段差をなくすために敷かれている、たった一枚の、1メートル四方にも満たない鉄板だった。
「ハイドロプレーニング現象……」
文一が呟いた。
「ああ。あの夜は大雨だった。ここは常夜灯もない登りのカーブだ。悠真はおそらく、時速50キロメートルは出していただろう。水に濡れたこんなちいせえ奴に、気づく訳はない。カーブを曲がろうと身体を倒した悠真と一緒に、オートバイも当然傾斜した。こいつと、斜めになって接地面が極端に減ったタイヤの間に水が入り込んだんだ」
巧は小さな鉄板を睨みつけていた。
「こんなもののせいで、悠真は死んだの?」
葵は、膝をガクッと折って、座布団程度の鉄板の上に座り込んだ。
「そうだ。雨の日のライダーが、一番恐れるものがこいつだ。こいつの上に乗ったら、絶対にブレーキは踏めねぇ。摩擦係数が限りなくゼロになって、制御できなくなりケツが振れる」
巧は悔しそうに唸った。
「ああ。氷の上に乗っかったようなもんだ」
小松も呟いた。葵と樹は3人から見れば、まだひよっこだ。
鉄板で滑った経験はない。
しかし、ライダー歴10年の3人は、おそらく経験があるのだろう。
その時、オートバイを制御できなくなった恐怖を知っているのだ。
「何で、こいつがカーブにあるんだよ!」
文一が悔しそうに怒鳴った。
「雨の夜に、カーブにあるこいつの上に乗ったら、悠真でなくてもクラッシュする。悠真も、どうしてバイクが滑ったのかわからず、一瞬でガードレールに激突し、そのまま崖下まで落ちたんだ。おそらく悠真は、何が起きたかわからないまま逝った……」
巧が空を見上げた。
「悠真! 悠真! 悠真!」
葵は泣きながら悠真を呼んでいた。
「悠真がどうしてカーブを曲がれず、ガードレールを飛び越えて崖下に落ちて死んだかはわかった。これは、あれだけのテクニックと精神力がある悠真でも、回避は無理だ!」
巧は全員を見まわした。
「ああ。こいつには勝てねぇ!」
小松もボソッと呟いた。
葵はゆらりと立ち上がり、泣きながら巧を見た。
「巧でも、同じ状況下だったら、悠真と同じになったの?」
「なった!」
巧はきっぱりと言った。
「悠真……」
葵は花束を強く抱きしめた。
「こんな小さな鉄板のせいで……、あの悠真でも命を落とした。こんなに小さなものでも、人は死ぬ……。人なんか、何で命を落とすかわからないってことじゃない!」
葵は大声で叫んだ。
葵の叫びに、他の男たちは言葉を失っていた。
しばし沈黙が続いた。
「何をどう嘆いても、この小さな鉄板のせいで悠真は逝った。俺たちは、悠真がなぜ死んだのか、やっと納得できた。でも、『仕方がなかった……』なんかで収められねぇ!」
文一が泣きそうな声で言った。
「あのっ!」
今まで口出ししなかった樹が叫んだ。
全員が樹を見た。
「俺、悠真さんが亡くなってから、毎日、悠真さんの実家へ通っていました。悠真さんが『お守りだ』って言って、これをくれたんです」
樹がウエストバッグから、長さ12センチ幅5センチほどの短冊のようなものを取り出し、両手を伸ばして全員に見えるように差し出した。何やら絵なのか文字なのだかわからない表紙だった。
「なんだ? それ?」
文一が、樹に尋ねた。
「般若心経です。たった270文字しかない、一番短いお経です!」
「ああ……。私も怪我したときに、悠真が部屋の壁に貼ってくれたわ」
葵も呟いた。
「そういえばあの時、『おっちょこちょいの樹のヘルメットに書いてやれ』って、私、言ったわ」
「そうです。悠真さん。俺がおっちょこちょいだから、何しでかすかわからなくて心配だって、この短冊状の『般若心経』を渡してくれました。『ありがたい経だからな。お守りになる。いつも肌身離さず持っていろ』って言ったんです。俺、それからずっと、いつもウエストバッグの中に入れていました。悠真さんが亡くなって、俺、悠真さんのお兄さんを訪ねたんです。このお経のことが知りたくて。お兄さんは俺に、『目の前にある苦しみを、あると思うから苦しいのです。苦しみを【そうである】と認めなさい』って、言ったんです。悠真さんは亡くなりました。それに対して俺たちはただ悲しみ、苦しむだけではなくて、悠真さんが死んだ事実。それに対しての俺たちの『悲しくて苦しい』という感情。それら全部ひっくるめて『そうだ』と認めろ! って、お兄さんは言いたかったんだと思いました!」
樹の必死の言葉に、全員が考え込んだ。
「悠真が死んだことを、俺たちに『そうである』と認めろ。ってことだな?」
小松が深い沈黙の中から湧き上がるような声で、ズバリと言った。
「私も悠真に言われたことがある。『ありのままを見て、ありのままを認めろ』って……。私、『Sey Yes』って言葉が浮かんだわ」
「はい! それは、とても難しいと思います。だって、俺たち、悠真さんを失って、苦しんでいます。苦しいと思うなと言われて、『はい、そうですか』なんて簡単には言えません。俺は、苦しんでいる俺たちごと、『そうである』と認めろ。ってことだと思います!」
「でかいな……。すっげー! でかい考え方だ。悠真のすべてを。悠真に起きたすべてのことを。丸ごと認めろ。ってことだろ? 悠真を失ったことさえも、俺たちに認めろと、悠真の兄貴は言ったんだ」
巧から、ものすごく強い精神波が全員に向かって押し寄せてきた。
「俺たちに……。俺がさっき言った『仕方がなかった』なんて収められねぇって言ったことを、『仕方がなかった』と認めて、心の中に収めろ! って、悠真の兄貴は言うんだな」
文一も、ぐっとこらえるような声を出した。
「葵はどうだ?」
小松が葵を見つめた。
「私はさっき言った。人間なんか、何で命を落とすかわからない。あの悠真でも、この小さな鉄板で死んだ。こいつがここにあることが、こいつが悠真を殺したという証拠だわ。もしも、こいつがなかったら……。なんて考えたって、何も変わらない。だって、事実ここにあるもの! 認めるしかないじゃない!」
葵は、鉄板を強く踏みつけて叫んだ。
「よし! 悠真がなぜ死んだか、俺たちは納得した。納得した俺たちを、今度は、俺たちが認めるんだ!」
巧は自分に言い聞かせるように強い声を発した。
「あのっ! 俺、ここでやりたいことがあります。葵さんも、大きな花束を抱えているし……」
樹は自分のNinjaへ走っていくと、タンクバッグの中から何やら出して、みんなのもとにまた走って戻ってきた。樹の手には、1束の線香と2合の酒瓶があった。
「俺。悠真さんのお兄さんから、『般若心経』の詠み方を教わりました。まだへたくそですが、ここで悠真さんを、俺たちがちゃんと送りたいと思ったんです。巧さんが昨日来てくれたから、急いで用意しました! 線香は、悠真さんのお兄さんが、寺で使っているものを分けてくれました。きっと、悠真さん。自宅の匂いだと思ってくれます!」
樹のさっきからの気合が入った言葉が、仲間たちを柔らかくしていた。
みんなが「こいつらしい……」と思った。
「十王らしくなった」とも思った。
文一が、樹の頭をくしゃくしゃっと撫でると、みんなに声をかけた。
「行こうぜ」
全員が、悠真がぶち当たり、そのまま崖下へ転落した場所に集まった。
樹は凹んだガードレールの下にしゃがみ込むと、線香の束にライターで火を点けようとしていた。
風で炎が激しく揺れ、線香になかなか火が点かなかった。
文一がしゃがみ込み、線香の周りを両手で覆った。
線香の束から白い煙が上がると、樹はそっとガードレールの支柱に立てかけた。
葵はその横に花束を置いた。
立ち上がった葵に、樹がポケットから二2の数珠を取り出した。
「悠真さんのお兄さんから、葵さんに渡して欲しいと頼まれました。これは、悠真さんの数珠だそうです。男ものですから、葵さんが使うことはできないけれど、数珠は『お守り』にもなるそうです。もし、嫌じゃなかったら、持っていて欲しいそうです」
葵は数珠を受け取りながら、泣き笑いした。
「嫌な訳ないわ。ありがとう。樹。大事にする」
「でも、もう一つ、お兄さんからの伝言があります!」
「なぁに?」
葵は数珠を握りしめて小首を傾けた。
「『数珠は確かに悠真の形見になるけれど、悠真のことは、早く暖かい想い出にして欲しい。悠真は、葵さんの幸せを願っている。自分のことは忘れてもいいから、必ず幸せになって欲しい。あいつはそう願っているはずだ』だそうです」
聞いた瞬間、葵は激高した。
「何、言ってんよ! 悠真を忘れる? できる訳ないわよ! なに馬鹿なこと言ってんのよ!」
葵は真剣な声で怒鳴った。
「いや、悠真の兄貴が言っていることは、間違いじゃない」
小松が葵をじっと見つめた。
「できる訳、ないじゃない!」
葵の目から、大粒の涙が流れだした。
「俺も男だ。女のお前にはわからねぇかもしれないが、男は女の負担にはなりたくない! 俺が死んだら、俺のことは早く忘れて、幸せになって欲しい。俺でもそう言う!」
小松がきっぱりと言い切った。
「そんなの! 男の勝手よ! 負担なんかじゃない! 悠真を忘れるくらいなら、悠真が死んだあの時、私だって一緒に逝きたかった!」
葵はボロボロと泣きだした。
「葵! おまえ、矛盾しているぞ? さっきおまえはなんて言った! 『人間なんか、何で死んでもおかしくない!』そう言ったんだぞ? だったら生きろ! 悠真のことは、想い出にしろ! 俺もぜってぇ――――! そう言う!」
文一も怒鳴った。
葵は悠真の数珠を握りしめて、声を立てずに泣いていた。
(そうだった。私は悠真の死を受け入れたんだった。悠真でも、あんな小さな鉄板で滑って死んだ。私だって、去年、崖を見落として、大怪我を負った。一歩間違えていたら、私も死んでたって、思ったじゃない! 『死』はいつも天井近くをうようよと徘徊していて、連れていく人間を物色してるって思ったじゃない! 世界のどこかで、今この瞬間も、人は死んでるって、自分で言ったんじゃない!)
葵は心の中で叫び続けていた。
「今すぐでなくていい。悠真が逝ってまだ一週間だ。心の整理ができていないのは、みんな同じだ。ただ、心の中に入れておけ! 今はそれだけでいい。今の葵を、誰も責めない」
巧が数珠を握りしめて俯いている葵の頭を撫でた。葵は、ただただ頷き続けた。
「では。俺が般若心経を詠みます!」
樹は、悠真にもらったという短冊状の「般若心経」を開いた。
「合掌!」
樹が思いっきり大きな声で叫んだ。
その言葉に、全員が合掌し頭を垂れた。
葵も、悠真の数珠を握りしめた。短い般若心経を唱え終わると、樹は酒瓶の封を開けた。
「巧さん」
樹はそれを巧に渡した。
巧は受け取ると、すぅっと腕を伸ばして酒瓶をほんの少し傾けて、ひしゃげたガードレールに酒を垂らした。
「悠真。俺はお前が手にしていた可能性を、すべて使い切って死んだとは思ってない。お前はお前がもつ可能性を遺したまま逝ってしまった。けれど人間は、この手に持つ可能性を、すべて使い切って死ぬこともないと俺は思う。それは頭ではわかってる。だが、お前の死は、お前と10年間一緒に走ってきた俺たちにとって、でかすぎる事実だ。これを俺たちは認めなければならない」
巧は谷底に向かって呟くと、酒瓶を文一に渡した。
文一はそれを受け取ると、悠真が落ちていった谷底へ酒を垂らした。
「俺はお前のでかい懐が好きだった。なぜ、こうも深い懐を持てるんだろうって、いつも憧れてた。なのに、逝っちまったんだな。あの、穏やかで、でかくて温ったけぇ笑い顔を、もう見られないと思うと、俺は泣きたい。でも、泣ちゃいけねぇんだよな! お前が生きた証は俺の胸の中にある。高校生の時から、ずっと一緒だったお前は、俺の中で生きてる。それも、やがて過去になるんだろうな。だが、俺は忘れねぇ! お前と過ごした時間は、確かにここにある。それでも、お前がいないと、ちー――と寒い……」
文一はくしゃくしゃの顔をしながら、拳骨で心臓の上を叩いた。
小松が文一から酒瓶を受け取った。
「お前は俺たちの中では一番、優しくてでかい奴だった。多少のことでは動じない、強いもんを持ってた。俺たちは、時々、お前が大きく広げた腕の中で、すっげぇ温かけえもんを感じてた。お前は、でかすぎた。でかすぎたから、俺はお前が大好きだった」
小松も酒を垂らした。次に受け取った樹は、そっとガードレールに触れた。
「俺は、悠真さんに心配ばっかりかけてたけれど、『十王輪友会』に入れてもらえてうれしかったです。『文一さんの背中を追え』って言ってくれた悠真さんを、俺は絶対に忘れません。文一さんや巧さん、小松さん。皆さんすごい人です。その中でも、悠真さんは抜きんでてました。もっと、一緒にいたかったです。いろんなこと、教えてもらいたかったです。悠真さん……」
樹はそこまで言うと、言葉に詰まってしまった。
俯いたまま、酒瓶を葵に差し出した。
葵はそれを受け取ると、大きく息を吸い込んだ。
「大好きな悠真。逝っちゃった悠真。来月の11日は、27歳の誕生日だったね。レストラン、昨日キャンセルしたよ。まさか悠真に、誕生日が来ないなんて、疑いもしなかった。人間なんか、誰だって明日なんかわかんない。私だって、午後みんなで駒ヶ岳まで行くけれど、途中で事故って、悠真のところへ逝っちゃうかもしれない。ねぇ、悠真。あなたは、たった27歳までも生きられなかったけれど、私は、『命』って、長いとか短いとかじゃないと思う。それは、悠真を見ていたから思えることなの。『自分の人生をどう生きたか!』が問題だと私は思う。以前、悠真が言ってた。『おんなじ道を通る奴なんかいなし、誰一人、同じ色をした奴もいない。それが人間だ!』って。悠真は、自分を一生懸命に生きてた。ものすごく優しい奴だった。この世の中のすべてを、ありのまま受け入れてるような眼差しをしてた。きれいなものも汚いものも、すべて大事なものだと、私に教えてくれた。悠真はすごい奴だった。悠真の人生は、すっげーカッコよかった。悠真! よく生きた! 私は胸を張って、そう言える! その悠真とともに生きられたことを、私は誇れる! 悠真の人生は、最高だった。だからね。私も生きる。長く生きるとか、そんなんじゃないの! 『自分をどう生きるか!』なのよ。だから、私は立ち上がる!」
葵は全員を振り返った。
「私に『十王』の資格を教えてくれたのは悠真だわ。『十王』になれるだけのテクニック。オートバイを御せるだけの精神力。バイクに対するゆるぎない信念。どんなに辛いことにも屈しないで立ち上がる。絶対に諦めない。『やさしさ』は心の余裕の部分に住んでいる。その場所を持ち続けられるもの。それが、俺たちが目指す『十王』だ。悠真はそう言った。どんなに辛くても、私は屈しない! 立ち上がってみせる! 絶対に諦めない。悠真に負けないくらい、すごい人間になる! だって私は、悠真やみんなに認められた『十王』だよ? 今、この瞬間から、私は『自分をどう生きるか!』考えながら生きるんだ!」
葵は叫んだ。
「そうだったな……。 俺たちは『十王』だ! 悠真の『死』を乗り越えて、立ち上がる。ぜって――諦めねぇ! 自分をきっちり生きようじゃねぇか!」
巧も強く言い放った。全員が葵を見つめて頷いた。その姿を確認した葵は、再び崖下を見つめた。
「私たちは『十王』だ! 悠真の死を認めて、さらに先へと歩き出す! 悠真に負けないほど、すごい人生を生きてやる!」
葵は酒をすべて土に呑ませた。
「悠真―――――――! 私たちは『十王』だ! 『十王』は何事にも屈せず立ち上がり、絶対に諦めない奴らなんだよ―――――! 『自分をどう生きるか!』この一秒先は、もう、その時間なんだ! だから、立ち止まっている暇なんか、どこにもないんだよ――――――!」
葵は涙声で谷底に向かって叫ぶと、ガードレールに手をついて泣きじゃくった。
文一が葵の手から酒瓶を取り上げて、彼女の頭を撫でた。
「そうだな、葵」
「十王は、何事にも屈しないで、自分を生きる奴だ!」
巧が笑いながら、葵の背中を「ポン」と叩いた。
「行きましょう。葵さん」
樹が葵に笑いかけた。
「これからも、自分の足で大地踏みしめて歩くぞ!」
小松も声をかけた。
「うん」
彼女はもう一度谷底を見つめて、話しかけるような声を発した。
「行くね……」
その声に、全員が谷底に背を向けると、自分のバイクへと散っていった。
巧がドゥカに火を入れ、スロットルを大きく回した。
特有の、強烈な爆音が轟いた。
メンバー全員も自分のオートバイに火を入れた。
そして、アクセルを大きく回して、次々に爆音を空へと轟かせた。
それが悠真への鎮魂だった。
動き出した巧は、ステップの上に立ち、ピースサインを谷底に向かって出した。
それに習い、一人ずつ、悠真の最期に向かってピースサインを出して、再び走り出した。
葵は、悠真と一緒に撮った写真をすべてベッドの上に広げ、彼と過ごした約4年間を思い返して過ごした。
楽しかった。いつも悠真の背中を見てオートバイを走らせていた。
悠真の背中は、常に葵に語り掛けていた。
「俺の後ろをついて来い!」
葵は一片の疑いも持たず、悠真を信じて背中を追いかけていた。
「おおっ! だから2月は短いんだ」
悠真のあの言葉はけっして忘れない。
葵が落ち込むところで、悠真は絶対に同じようには落ち込まないと、確信した日だった。
必ず全く違う視点で物事を判断し、葵を救いあげてくれた。
「悠真はそういう奴だった」
葵は呟いた。
突然、ノック音が聞こえた。
「葵。小林さんがいらしたわよ」
母親の声が響いた。
(巧が?)
なんだろうと思いながら、玄関へ向かった。巧が立っていた。
「どうしたの?」
「葵、明日予定通り、今年最後のツーリングに行く」
「え?」
巧の言葉に、悠真の死から未だ立ち直っていない自分が、「バイクに乗るのは怖い!」と思った。
「俺は、どうしても納得がいかねぇ。和田峠程度のちんけなカーブを、悠真ほどの奴が曲がれなかったとはどうしても思えねぇ」
「確かに……。『峠』なんて名ばかりの、車道も広いし緩やかなカーブしかないわ」
葵は和田峠を思い描いた。
長い峠道ではある。下り坂が長いので、ブレーキばかり踏んでいる自動車が、フェード現象を起こしてブレーキが利かなくなることが多い峠だ。
だから下り坂の途中に、退避用に20メートルほどの上り坂がところどころ設置されている。
しかし、登りは、カーブも大きくて何ら問題なく走れる。登坂車線があるくらいだ。
「わかったか! あの悠真だぞ? あんなちんけなカーブが曲がれない訳ない! あの腕だ。夜だろうが雨が降っていようが、問題なく登ってこられたはずだ。それなのに、悠真はカーブを曲がれずに転落死した。絶対に何かが起きたんだ!」
巧が叫んだ。
葵は巧ほど、まだオートバイには詳しくない。
しかし、巧はすごい腕を持っている。
悠真の力量だって熟知している。
その巧が、悠真の死を納得していない。
彼は何か異常を察知しているのだと思った。
「事故後、悠真のモト・グッツィの破片は、できるだけ回収してもらって、文ちゃんの整備工場に運んだ。悠真が、バイクのメンテナンスを怠ることは、まずありえねぇ。しかし、絶対はない。バイクが故障していた可能性も否定できない。葬儀が終わった夜から、文ちゃんは寝る暇も惜しんで、総ての部品の、ねじ一本まで調べてくれた。あいつの整備士の腕は一級品だ。その文ちゃんが調べても、ねじ一本緩んではいなかったそうだ。ということは、バイクのせいじゃねぇ! 悠真の腕だ! けれど俺たちは知ってる。あんなちんけなカーブが曲がれないような奴じゃない! 何かが。悠真が曲がれなかった、何かが、絶対にあるはずだ!」
巧の目は「獲物を狙う豹」だった。
「明日、和田峠の事故現場へ行く。もちろん、悠真の弔いもかねてだ。文ちゃんと小松とも話し合った。俺たちは自分の目で確かめてぇんだよ! なぜ、あれだけのテクニックを持った悠真が、あんなちんけな峠で死んだのか。確かめないと、俺たちは終われねぇ。今の俺たちの頭ん中は、疑問しかねぇんだよ。なぜ! なぜ! なぜ! ってな!」
巧は、一気にまくしたてると、そっぽを向いて唇を震わせた。
「わかった。巧が言うんだから、間違いない。悠真がどうして曲がれずに崖下に転落したか。自分たちの目で確かめよう」
葵は頷いた。
2019年11月17日。仲間は、いつも通り文一のオートバイ・ショップにいた。
「これから和田峠を通って駒ヶ岳まで行くぞ。事故現場で、悠真がなぜ曲がれなかったのか、それを確かめる!」
巧が全員を見回した。
「ああ、悠真に聞きに行こうぜ」
文一がKATANAにまたがると、スターターボタンを強く押した。
爆音が響き渡り、晩秋の高い青空を突き抜けた。
それを合図に、全員が各自のオートバイに火を入れた。
小松がハーレーのスロットルを回して、咆哮をあげた。
巧のドゥカが、それを上回る爆音を轟かせた。
巧が軽く右手を挙げた。
いつもだったら葵は悠真の後に続くのだが、その悠真はもういない。
巧の後に続いた。文一・樹・小松の順で走り出した。
和田峠に入った。ここからは岡谷市に向けて、長い下り坂になる。
全員エンジンブレーキを使って、カーブを降りていった。
やがて、すぐ目の前に大きなカーブが現れた。
そこには、いくつもの花束や飲み物の缶・酒瓶が置かれていた。
悠真が飛んだカーブだった。
巧は邪魔にならない空きスペースにドゥカを滑り込ませた。
全員が、その横へと次々と駐車し、エンジンを止めた。
葵はリアシートに括りつけておいた、白ユリや白菊をふんだんに使った大きな花束を抱きしめた。
カーブに近づくと、悠真がぶち当たったと思われるところのガードレールが、大きく歪んでいた。
そこから斜面を見下ろすと、悠真が落ちていったであろう50メートルほどに渡って、細い木々や草などがなぎ倒されていた。
誰もが「これではひとたまりもない」と思った。
みんなで悠真が落ちていった斜面を、言葉を失ったまま眺めている中で、巧の声が遠くで聞こえた。
「悠真を殺したのはこいつだ!」
巧は腰に手を当てて、ライダー・ブーツで地面を蹴っていた。
残りの全員が、巧のそばへ駆け寄った。
巧が蹴っているものを見て、全員が息を飲んだ。
「まさか? こんなもので?」
葵が呆然と呟いた。
「本当に、こんなもので……? ですか?」
樹も信じられないといった顔つきで、巧を見つめた。
それは、子供だろうが80歳過ぎた老人であろうが、見た人は「こんなもの」と表現する代物だった。
「こんなもの」とは、工事中に段差をなくすために敷かれている、たった一枚の、1メートル四方にも満たない鉄板だった。
「ハイドロプレーニング現象……」
文一が呟いた。
「ああ。あの夜は大雨だった。ここは常夜灯もない登りのカーブだ。悠真はおそらく、時速50キロメートルは出していただろう。水に濡れたこんなちいせえ奴に、気づく訳はない。カーブを曲がろうと身体を倒した悠真と一緒に、オートバイも当然傾斜した。こいつと、斜めになって接地面が極端に減ったタイヤの間に水が入り込んだんだ」
巧は小さな鉄板を睨みつけていた。
「こんなもののせいで、悠真は死んだの?」
葵は、膝をガクッと折って、座布団程度の鉄板の上に座り込んだ。
「そうだ。雨の日のライダーが、一番恐れるものがこいつだ。こいつの上に乗ったら、絶対にブレーキは踏めねぇ。摩擦係数が限りなくゼロになって、制御できなくなりケツが振れる」
巧は悔しそうに唸った。
「ああ。氷の上に乗っかったようなもんだ」
小松も呟いた。葵と樹は3人から見れば、まだひよっこだ。
鉄板で滑った経験はない。
しかし、ライダー歴10年の3人は、おそらく経験があるのだろう。
その時、オートバイを制御できなくなった恐怖を知っているのだ。
「何で、こいつがカーブにあるんだよ!」
文一が悔しそうに怒鳴った。
「雨の夜に、カーブにあるこいつの上に乗ったら、悠真でなくてもクラッシュする。悠真も、どうしてバイクが滑ったのかわからず、一瞬でガードレールに激突し、そのまま崖下まで落ちたんだ。おそらく悠真は、何が起きたかわからないまま逝った……」
巧が空を見上げた。
「悠真! 悠真! 悠真!」
葵は泣きながら悠真を呼んでいた。
「悠真がどうしてカーブを曲がれず、ガードレールを飛び越えて崖下に落ちて死んだかはわかった。これは、あれだけのテクニックと精神力がある悠真でも、回避は無理だ!」
巧は全員を見まわした。
「ああ。こいつには勝てねぇ!」
小松もボソッと呟いた。
葵はゆらりと立ち上がり、泣きながら巧を見た。
「巧でも、同じ状況下だったら、悠真と同じになったの?」
「なった!」
巧はきっぱりと言った。
「悠真……」
葵は花束を強く抱きしめた。
「こんな小さな鉄板のせいで……、あの悠真でも命を落とした。こんなに小さなものでも、人は死ぬ……。人なんか、何で命を落とすかわからないってことじゃない!」
葵は大声で叫んだ。
葵の叫びに、他の男たちは言葉を失っていた。
しばし沈黙が続いた。
「何をどう嘆いても、この小さな鉄板のせいで悠真は逝った。俺たちは、悠真がなぜ死んだのか、やっと納得できた。でも、『仕方がなかった……』なんかで収められねぇ!」
文一が泣きそうな声で言った。
「あのっ!」
今まで口出ししなかった樹が叫んだ。
全員が樹を見た。
「俺、悠真さんが亡くなってから、毎日、悠真さんの実家へ通っていました。悠真さんが『お守りだ』って言って、これをくれたんです」
樹がウエストバッグから、長さ12センチ幅5センチほどの短冊のようなものを取り出し、両手を伸ばして全員に見えるように差し出した。何やら絵なのか文字なのだかわからない表紙だった。
「なんだ? それ?」
文一が、樹に尋ねた。
「般若心経です。たった270文字しかない、一番短いお経です!」
「ああ……。私も怪我したときに、悠真が部屋の壁に貼ってくれたわ」
葵も呟いた。
「そういえばあの時、『おっちょこちょいの樹のヘルメットに書いてやれ』って、私、言ったわ」
「そうです。悠真さん。俺がおっちょこちょいだから、何しでかすかわからなくて心配だって、この短冊状の『般若心経』を渡してくれました。『ありがたい経だからな。お守りになる。いつも肌身離さず持っていろ』って言ったんです。俺、それからずっと、いつもウエストバッグの中に入れていました。悠真さんが亡くなって、俺、悠真さんのお兄さんを訪ねたんです。このお経のことが知りたくて。お兄さんは俺に、『目の前にある苦しみを、あると思うから苦しいのです。苦しみを【そうである】と認めなさい』って、言ったんです。悠真さんは亡くなりました。それに対して俺たちはただ悲しみ、苦しむだけではなくて、悠真さんが死んだ事実。それに対しての俺たちの『悲しくて苦しい』という感情。それら全部ひっくるめて『そうだ』と認めろ! って、お兄さんは言いたかったんだと思いました!」
樹の必死の言葉に、全員が考え込んだ。
「悠真が死んだことを、俺たちに『そうである』と認めろ。ってことだな?」
小松が深い沈黙の中から湧き上がるような声で、ズバリと言った。
「私も悠真に言われたことがある。『ありのままを見て、ありのままを認めろ』って……。私、『Sey Yes』って言葉が浮かんだわ」
「はい! それは、とても難しいと思います。だって、俺たち、悠真さんを失って、苦しんでいます。苦しいと思うなと言われて、『はい、そうですか』なんて簡単には言えません。俺は、苦しんでいる俺たちごと、『そうである』と認めろ。ってことだと思います!」
「でかいな……。すっげー! でかい考え方だ。悠真のすべてを。悠真に起きたすべてのことを。丸ごと認めろ。ってことだろ? 悠真を失ったことさえも、俺たちに認めろと、悠真の兄貴は言ったんだ」
巧から、ものすごく強い精神波が全員に向かって押し寄せてきた。
「俺たちに……。俺がさっき言った『仕方がなかった』なんて収められねぇって言ったことを、『仕方がなかった』と認めて、心の中に収めろ! って、悠真の兄貴は言うんだな」
文一も、ぐっとこらえるような声を出した。
「葵はどうだ?」
小松が葵を見つめた。
「私はさっき言った。人間なんか、何で命を落とすかわからない。あの悠真でも、この小さな鉄板で死んだ。こいつがここにあることが、こいつが悠真を殺したという証拠だわ。もしも、こいつがなかったら……。なんて考えたって、何も変わらない。だって、事実ここにあるもの! 認めるしかないじゃない!」
葵は、鉄板を強く踏みつけて叫んだ。
「よし! 悠真がなぜ死んだか、俺たちは納得した。納得した俺たちを、今度は、俺たちが認めるんだ!」
巧は自分に言い聞かせるように強い声を発した。
「あのっ! 俺、ここでやりたいことがあります。葵さんも、大きな花束を抱えているし……」
樹は自分のNinjaへ走っていくと、タンクバッグの中から何やら出して、みんなのもとにまた走って戻ってきた。樹の手には、1束の線香と2合の酒瓶があった。
「俺。悠真さんのお兄さんから、『般若心経』の詠み方を教わりました。まだへたくそですが、ここで悠真さんを、俺たちがちゃんと送りたいと思ったんです。巧さんが昨日来てくれたから、急いで用意しました! 線香は、悠真さんのお兄さんが、寺で使っているものを分けてくれました。きっと、悠真さん。自宅の匂いだと思ってくれます!」
樹のさっきからの気合が入った言葉が、仲間たちを柔らかくしていた。
みんなが「こいつらしい……」と思った。
「十王らしくなった」とも思った。
文一が、樹の頭をくしゃくしゃっと撫でると、みんなに声をかけた。
「行こうぜ」
全員が、悠真がぶち当たり、そのまま崖下へ転落した場所に集まった。
樹は凹んだガードレールの下にしゃがみ込むと、線香の束にライターで火を点けようとしていた。
風で炎が激しく揺れ、線香になかなか火が点かなかった。
文一がしゃがみ込み、線香の周りを両手で覆った。
線香の束から白い煙が上がると、樹はそっとガードレールの支柱に立てかけた。
葵はその横に花束を置いた。
立ち上がった葵に、樹がポケットから二2の数珠を取り出した。
「悠真さんのお兄さんから、葵さんに渡して欲しいと頼まれました。これは、悠真さんの数珠だそうです。男ものですから、葵さんが使うことはできないけれど、数珠は『お守り』にもなるそうです。もし、嫌じゃなかったら、持っていて欲しいそうです」
葵は数珠を受け取りながら、泣き笑いした。
「嫌な訳ないわ。ありがとう。樹。大事にする」
「でも、もう一つ、お兄さんからの伝言があります!」
「なぁに?」
葵は数珠を握りしめて小首を傾けた。
「『数珠は確かに悠真の形見になるけれど、悠真のことは、早く暖かい想い出にして欲しい。悠真は、葵さんの幸せを願っている。自分のことは忘れてもいいから、必ず幸せになって欲しい。あいつはそう願っているはずだ』だそうです」
聞いた瞬間、葵は激高した。
「何、言ってんよ! 悠真を忘れる? できる訳ないわよ! なに馬鹿なこと言ってんのよ!」
葵は真剣な声で怒鳴った。
「いや、悠真の兄貴が言っていることは、間違いじゃない」
小松が葵をじっと見つめた。
「できる訳、ないじゃない!」
葵の目から、大粒の涙が流れだした。
「俺も男だ。女のお前にはわからねぇかもしれないが、男は女の負担にはなりたくない! 俺が死んだら、俺のことは早く忘れて、幸せになって欲しい。俺でもそう言う!」
小松がきっぱりと言い切った。
「そんなの! 男の勝手よ! 負担なんかじゃない! 悠真を忘れるくらいなら、悠真が死んだあの時、私だって一緒に逝きたかった!」
葵はボロボロと泣きだした。
「葵! おまえ、矛盾しているぞ? さっきおまえはなんて言った! 『人間なんか、何で死んでもおかしくない!』そう言ったんだぞ? だったら生きろ! 悠真のことは、想い出にしろ! 俺もぜってぇ――――! そう言う!」
文一も怒鳴った。
葵は悠真の数珠を握りしめて、声を立てずに泣いていた。
(そうだった。私は悠真の死を受け入れたんだった。悠真でも、あんな小さな鉄板で滑って死んだ。私だって、去年、崖を見落として、大怪我を負った。一歩間違えていたら、私も死んでたって、思ったじゃない! 『死』はいつも天井近くをうようよと徘徊していて、連れていく人間を物色してるって思ったじゃない! 世界のどこかで、今この瞬間も、人は死んでるって、自分で言ったんじゃない!)
葵は心の中で叫び続けていた。
「今すぐでなくていい。悠真が逝ってまだ一週間だ。心の整理ができていないのは、みんな同じだ。ただ、心の中に入れておけ! 今はそれだけでいい。今の葵を、誰も責めない」
巧が数珠を握りしめて俯いている葵の頭を撫でた。葵は、ただただ頷き続けた。
「では。俺が般若心経を詠みます!」
樹は、悠真にもらったという短冊状の「般若心経」を開いた。
「合掌!」
樹が思いっきり大きな声で叫んだ。
その言葉に、全員が合掌し頭を垂れた。
葵も、悠真の数珠を握りしめた。短い般若心経を唱え終わると、樹は酒瓶の封を開けた。
「巧さん」
樹はそれを巧に渡した。
巧は受け取ると、すぅっと腕を伸ばして酒瓶をほんの少し傾けて、ひしゃげたガードレールに酒を垂らした。
「悠真。俺はお前が手にしていた可能性を、すべて使い切って死んだとは思ってない。お前はお前がもつ可能性を遺したまま逝ってしまった。けれど人間は、この手に持つ可能性を、すべて使い切って死ぬこともないと俺は思う。それは頭ではわかってる。だが、お前の死は、お前と10年間一緒に走ってきた俺たちにとって、でかすぎる事実だ。これを俺たちは認めなければならない」
巧は谷底に向かって呟くと、酒瓶を文一に渡した。
文一はそれを受け取ると、悠真が落ちていった谷底へ酒を垂らした。
「俺はお前のでかい懐が好きだった。なぜ、こうも深い懐を持てるんだろうって、いつも憧れてた。なのに、逝っちまったんだな。あの、穏やかで、でかくて温ったけぇ笑い顔を、もう見られないと思うと、俺は泣きたい。でも、泣ちゃいけねぇんだよな! お前が生きた証は俺の胸の中にある。高校生の時から、ずっと一緒だったお前は、俺の中で生きてる。それも、やがて過去になるんだろうな。だが、俺は忘れねぇ! お前と過ごした時間は、確かにここにある。それでも、お前がいないと、ちー――と寒い……」
文一はくしゃくしゃの顔をしながら、拳骨で心臓の上を叩いた。
小松が文一から酒瓶を受け取った。
「お前は俺たちの中では一番、優しくてでかい奴だった。多少のことでは動じない、強いもんを持ってた。俺たちは、時々、お前が大きく広げた腕の中で、すっげぇ温かけえもんを感じてた。お前は、でかすぎた。でかすぎたから、俺はお前が大好きだった」
小松も酒を垂らした。次に受け取った樹は、そっとガードレールに触れた。
「俺は、悠真さんに心配ばっかりかけてたけれど、『十王輪友会』に入れてもらえてうれしかったです。『文一さんの背中を追え』って言ってくれた悠真さんを、俺は絶対に忘れません。文一さんや巧さん、小松さん。皆さんすごい人です。その中でも、悠真さんは抜きんでてました。もっと、一緒にいたかったです。いろんなこと、教えてもらいたかったです。悠真さん……」
樹はそこまで言うと、言葉に詰まってしまった。
俯いたまま、酒瓶を葵に差し出した。
葵はそれを受け取ると、大きく息を吸い込んだ。
「大好きな悠真。逝っちゃった悠真。来月の11日は、27歳の誕生日だったね。レストラン、昨日キャンセルしたよ。まさか悠真に、誕生日が来ないなんて、疑いもしなかった。人間なんか、誰だって明日なんかわかんない。私だって、午後みんなで駒ヶ岳まで行くけれど、途中で事故って、悠真のところへ逝っちゃうかもしれない。ねぇ、悠真。あなたは、たった27歳までも生きられなかったけれど、私は、『命』って、長いとか短いとかじゃないと思う。それは、悠真を見ていたから思えることなの。『自分の人生をどう生きたか!』が問題だと私は思う。以前、悠真が言ってた。『おんなじ道を通る奴なんかいなし、誰一人、同じ色をした奴もいない。それが人間だ!』って。悠真は、自分を一生懸命に生きてた。ものすごく優しい奴だった。この世の中のすべてを、ありのまま受け入れてるような眼差しをしてた。きれいなものも汚いものも、すべて大事なものだと、私に教えてくれた。悠真はすごい奴だった。悠真の人生は、すっげーカッコよかった。悠真! よく生きた! 私は胸を張って、そう言える! その悠真とともに生きられたことを、私は誇れる! 悠真の人生は、最高だった。だからね。私も生きる。長く生きるとか、そんなんじゃないの! 『自分をどう生きるか!』なのよ。だから、私は立ち上がる!」
葵は全員を振り返った。
「私に『十王』の資格を教えてくれたのは悠真だわ。『十王』になれるだけのテクニック。オートバイを御せるだけの精神力。バイクに対するゆるぎない信念。どんなに辛いことにも屈しないで立ち上がる。絶対に諦めない。『やさしさ』は心の余裕の部分に住んでいる。その場所を持ち続けられるもの。それが、俺たちが目指す『十王』だ。悠真はそう言った。どんなに辛くても、私は屈しない! 立ち上がってみせる! 絶対に諦めない。悠真に負けないくらい、すごい人間になる! だって私は、悠真やみんなに認められた『十王』だよ? 今、この瞬間から、私は『自分をどう生きるか!』考えながら生きるんだ!」
葵は叫んだ。
「そうだったな……。 俺たちは『十王』だ! 悠真の『死』を乗り越えて、立ち上がる。ぜって――諦めねぇ! 自分をきっちり生きようじゃねぇか!」
巧も強く言い放った。全員が葵を見つめて頷いた。その姿を確認した葵は、再び崖下を見つめた。
「私たちは『十王』だ! 悠真の死を認めて、さらに先へと歩き出す! 悠真に負けないほど、すごい人生を生きてやる!」
葵は酒をすべて土に呑ませた。
「悠真―――――――! 私たちは『十王』だ! 『十王』は何事にも屈せず立ち上がり、絶対に諦めない奴らなんだよ―――――! 『自分をどう生きるか!』この一秒先は、もう、その時間なんだ! だから、立ち止まっている暇なんか、どこにもないんだよ――――――!」
葵は涙声で谷底に向かって叫ぶと、ガードレールに手をついて泣きじゃくった。
文一が葵の手から酒瓶を取り上げて、彼女の頭を撫でた。
「そうだな、葵」
「十王は、何事にも屈しないで、自分を生きる奴だ!」
巧が笑いながら、葵の背中を「ポン」と叩いた。
「行きましょう。葵さん」
樹が葵に笑いかけた。
「これからも、自分の足で大地踏みしめて歩くぞ!」
小松も声をかけた。
「うん」
彼女はもう一度谷底を見つめて、話しかけるような声を発した。
「行くね……」
その声に、全員が谷底に背を向けると、自分のバイクへと散っていった。
巧がドゥカに火を入れ、スロットルを大きく回した。
特有の、強烈な爆音が轟いた。
メンバー全員も自分のオートバイに火を入れた。
そして、アクセルを大きく回して、次々に爆音を空へと轟かせた。
それが悠真への鎮魂だった。
動き出した巧は、ステップの上に立ち、ピースサインを谷底に向かって出した。
それに習い、一人ずつ、悠真の最期に向かってピースサインを出して、再び走り出した。
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