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ねじ磨きとモモンガの章

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 8月最後の週末だった。「十王輪友会」は恒例の1泊2日のツーリングに行くことになった。

 会の紅一点、葵はいつも1日目の昼まで一緒にツーリングをして、そこから仲間は目的地へ、葵は帰路に就くのだった。

 今年は秋の気配も感じられないほど暑かった。

 葵は股の間に大きな熱いエンジンを抱え、フルフェイスのヘルメットの中で額が汗まみれになっていた。

 むっとするようなコールタールの臭いとともに、アスファルトの照り返しが全身を這い上がってきた。

「暑い――――!」

 葵はヘルメットの中で叫んだ。

 道路は、最後の夏休みを惜しむかのように、自動車が列を作っていた。

 しかし先頭を走る巧が、ドゥカティのスロットルを1回吹かすと爆音が轟き、幅寄せしていた自動車が慌てて道を開けてくれた。

 その様子を3番目の位置で見ていた葵は、笑いながら自動車の横を通り抜けた。

 彼女の後ろは文一だ。彼の背中を追うように、樹が走っていた。

 最後尾は小松だ。彼はハーレーのローライダーにどっかりと腰を降ろし、後方にいる自動車から全員を守っていた。

 再びオートバイに乗れたうれしさで、葵は高揚こうようしていた。空を見上げると、夏の高気圧は未だ健在で、容赦なく強い光で葵を射抜いていた。

「あんたが一番偉いわ」

 葵は、太陽と上空に張り巡らされている太平洋高気圧に向かって、ヘルメットの中で呟いた。

 葵はだぼっとした桃色のトレーナーを着ていた。

 リーダーの悠真は、流れるような身のこなしで、穏やかな走りをする。

 巧はあまり仲間のことまでは気を配らず、自由に走っていってしまうタイプだ。

 信号が黄色に変わりそうになると、悠真は速度を落として仲間が分裂しないように気を配っていた。

「十王輪友会」は、すれ違うオートバイの集団に全員がピースサインを出して、お互いの安全と仲間意識を、その立てた二本指に託しながら走った。

 やがて悠真が先頭を行く巧を追い越した。

 感じの良い喫茶店を見つけると、そこへ自分のオートバイを滑り込ませた。

 ものすごい爆音の集団が喫茶店の駐車場に入ってきたので、駐車場にいたライダーたちの注目を一身に浴びた。

 葵は「キャンレッドダグちゃん」を降りると、フルフェイスのヘルメットを取り、セミロングの髪の毛をかき上げた。

 額は汗でびっしょりだった。

 ロングのライダー・ブーツを半分だけ降ろすと、「バグバグ」と音を立てながら、悠真の背中に続いた。

 他の奴らもそれぞれに、喫茶店へと入っていった。

 席が決まると、巧は再び外へと出ていった。

 彼は自分の眼が届くところへ、ドゥカを移動させてきた。

 高価で珍しいオートバイだ。傷をつけられたりしたら、たまったものじゃないだろう。

 巧はかがみこんで、ドゥカの腹を見ていた。

 席に戻ってきたかと思ったら、おもむろに自分のお冷が入っているグラスとおしぼりを握った。

「葵。俺のコーヒーが来たら、持ってきてくれ」

 巧は葵をちらっと見ただけで、そのまままた外へ出ていってしまった。

「何事?」

 葵は不思議そうに、残った全員を見渡した。

「え? これって、久しぶりじゃね?」

 文一が、くはっと笑った。

「葵。コーヒーを持っていったときに、巧に『まだ行きの途中なんだから、ほどほどにしろ』って伝えてくれ」

 悠真も諦めたような声で言った。

「う......ん? わかった」

 葵は怪訝けげんな顔で答えると、とりあえず汗で濡れている顔を、おしぼりで拭きまくった。

「それを、おっさんという......」

 ここにいない巧以外の誰かが呟いた。

「言ったのは誰だ!」

 葵は残った者を見回したが、全員ヒョロヒョロ~っと、葵から視線を外した。

「勝手に言って。私だって一応、21歳の女なんだからね。日焼け止めくらいはつけるわよ!」

 葵はウエストバッグの中から、UVクリームを取り出して顔中に乱暴に塗りたくった。そうこうしていると、アイスコーヒーが運ばれてきた。

「巧はガムシロップだけだったよね?」

 葵は呟きながらガムシロップを入れて、ストローでかき回した後、それを持って外へ出ていった。

「はいよ、た......」

 そこまで言ったところで、葵は茫然ぼうぜんとして固まった。

 見下ろした先で、巧が、んこずわりしてねじをみがいているのだった。

(こいつ、何やってんの? そのねじ、どこから外してきた? 今、ツーリングの途中なんだけど? どうしてお冷とおしぼり使って、ねじ、磨いてんのよ?)

 葵は、巧のちまちまとねじを磨く姿に、言葉を失って立ち尽くした。

 葵の中では、巧は「豹男」のイメージで完成している。

 その豹がちまい爪を、これまたちまちまと切っているようなものだった。

「おう、サンキュー。そこのブロックの上に置いてくれ」

 巧はちらっと葵を見上げただけで、再び熱心にねじを磨きだした。

「え......とぉ、悠真からの伝言です。『まだ途中なんだから、ほどほどに』だそうです」

 危うく落としそうになった、アイスコーヒーのグラスを指定された場所へ置くと、夢中でねじを磨いていて聞いていないんじゃないか? と思わしき巧に、葵は敬語を使ってしまった。

「ん―――――!」

 巧も心ここにあらずと言った様子で、適当に返答した。

 葵は後ろ手に手を組むと、ゆっくりと3歩後ずさり、それから方向転換して首を傾げながら席に戻った。

 ソファに座った葵を見て、悠真が深いため息をついて納得していた。

「巧......さぁ? んこ座りしてねじ磨いてた」

 葵の信じられないというトーンの声に、樹以外の奴らは「やっぱりかぁ」という表情で頷いた。

「あれを始めたら長いんだ。まぁ、奴とて、ここが自宅でないことは重々承知だろうから、丸一日やることはないだろう。ちょっと長い休憩にはなりそうだ」

 文一が後頭部で両手を組み、思いっきり伸びをした。

「え? 巧さん。ツーリング中でもメンテナンスするんですか?」

 樹が驚いたように聞いた。

「いや、メンテじゃないんだよ。あいつのドゥカに対する潔癖症けっぺきしょうは、常軌じょうきいっしてる? まぁ、そんなところだ。自宅にいたら、丸一日かけて、すべてのねじを外して磨き上げるって聞いたことがある」

 悠真もあきらめ声で、巧の性癖とやらを暴露ばくろした。

「げ―――――! あのちまいねじを、これまたちまちまと一本一本磨くの? あの巧だよ? 『豹男』だよ?」

「それは、おまえの勝手な妄想だろ? 豹だろうがハイエナだろうが、んこするときにはするんだ。ってわけで、あれは奴の病気だ」

 悠真はアイスコーヒーに口をつけた。

「なるほどねぇ~。まぁ、確かに、ドゥカはいつもピカピカに磨かれてるよね。しかぁ~し! 私にはできないわ。ねじなんか外したら、磨き終わったころには、どこにはまってたか忘れちゃうわよ」

 葵は驚き半分、尊敬半分で呟いた。

「だから、始めたら、次から次へとねじを外しては磨き、はめ込む。納得するまで辞めないんだよ」

 文一が大きなため息をついた。それに重なるように、小松がクックと肩で笑った。

「そういえば、葵。後ろから見てると、そのでかいトレーナーがはためいて、おまえモモンガみたいだったぞ」

 それを聞いた瞬間、葵は呆然とした。

(モモンガァ―――?)

 確かに桃色のだぶだぶのトレーナーだから、風にはためいて、実際の身体よりは膨らんで見えていただろう。

葵の脳裏に、空中で両手両足をおっぴろげて、木から木へと飛び移るモモンガの姿が浮かんだ。

「小松さん~~~」

 葵はショックで言葉を失った。

 仲間は桃色のトレーナーを着た彼女を見て、一斉に大笑いした。

「こんな服、着てくるんじゃなかったぁ―――!」

 葵は真っ赤になった顔を、両手で隠して呟いた。

「そこが葵ってもんだ。すれ違う奴らが、『おっ! モモンガ!』とか思いながら、通り過ぎるんだろうなぁ?」

 文一が、わざと葵の反応を楽しんでいた。葵は泣きたくなった。

「おまえは目立ったほうがいい。その方が安全だ」

 悠真がなぐさめた。

 確かにライダーは目立ったほうがいい。

 自動車より小さい分、近くまで来ていても、対向の運転手はライダーが遠くにいるように錯覚さっかくし、強引に右折して衝突する事故はよくある。

「わかった。モモンガしながら走ります」

 葵は自嘲気味じちょうぎみに呟いた。

「さて、行くか。巧も満足しただろう。先は長いぞ」

 悠真が全員を見回した。

 葵は巧のウエストバッグを、自分の分と一緒に持った。

 駐車場に出ると、葵たちのオートバイの横に、数台のオートバイが止まりエンジンを切った。

 先頭を走ってきたライダーがヘルメットを取り、にこやかに笑いながら声をかけてきた。

「こんにちは。これからどちらへ行くんですか?」

 こういうときの対応は悠真に任せていた。

 各々が彼らに笑いかけながら、自分のオートバイへと向かった。

 巧も満足したらしい。

 葵からウエストバッグを受け取ると、グラスを戻しに店内へ入っていった。

「これから能登半島を一周してきます」

 悠真は能登の方角を指さして答えた。

 葵たちはヘルメットをかぶり、各々のオートバイに火を入れた。

 巧のドゥカと小松のハーレーが一際ひときわ大きな音を轟かせた。

「僕たちは能登から帰ってきたところです。気をつけて行ってきてください」

 青年は満面の笑みを浮かべて叫んだ。悠真もモト・グッツィにまたがるとにっと笑った。

「ありがとう。君たちも気をつけて」

 悠真はヘルメットを被ると、モト・グッツィのエンジンをかけて、ゆっくりと走り出した。

 青年たちが、次々と動き出した「十王輪友会」の面々に手を振った。

 一列になって動き出した葵たちは、彼らにピースサインを送り、国道へと滑り出した。

 彼らとの出会いは一瞬だった。もう二度と会うことはないだろう。

 それでも、この瞬間を2つのライダー集団は共有した。

(自動車では得られない、オートバイ乗りだからこそできる、心の通い合いだ)

 葵はさわやかに笑った青年の顔を思い浮かべた。

(オートバイはいい。ライダーというだけでみんなが仲間だ。みんなが風だ。自然と一体になって、私たちは駆けてる)

 葵は、小松にモモンガと言われた、大きな桃色のトレーナーの中に風を呼び込んで、魂を上昇気流に乗せながら走った。

 やがて富山県に入り、国道8号から国道415号へと分岐する地点へ来た。

 悠真が冬の積雪時、チェーンを装着するために作られた広場へ入り、ヘルメットをとってエンジンも止めた。

「さて、能登半島へと入る。葵はここで帰れ」

 悠真の言葉に、葵は額の汗をぬぐいながら頷いた。

「うん。わかった。みんなも気をつけてね」

 葵が全員の顔を見つめた。

「ここからは独りだ。十分気をつけて帰れよ」

 悠真が葵をうながした。

 葵はヘルメットを被るとエンジンをかけ、フルフェイスのシールドを上げると、ゆっくり動き出した。

「じゃあね」

 来た道を戻ろうと、方向転換しながら葵は叫んだ。

 残った全員が手を振った。

 葵は彼らに背中を向けると、来た道を戻りながら大きく後方に手を振った。

 バックミラーに見送る彼らの姿をとらえた。

 仲間と別れて独りになった葵は、来た道を戻り始めた。

 左側に海が迫っていた。

 国道8号は、海に張り出したような造りをしている。

 コンクリートの防波壁があるので、座っていたらその全景を見ることはできない。

 葵は前後に自動車がいないことを確認し、ステップの上で立ち上がった。

「う......わぁ......!」

 思わず呟きが漏れた。

 日本海は夏だけ波が優しい。真っ青な空と、平たんでささやかなうねりが確認できた。

 海なし県に住む葵は、日本海が大好きだった。

 同時に、日本アルプスをかかえる長野県は、オートバイ乗りにとっては程よいワインディングロードがどこにでもあったので、機動力の醍醐味を楽しむにはもってこいの県だった。

 そして、何といってもオートバイは、瞬発力が魅力だ。

 どんなにすごいスーパーカーであっても、スタートダッシュだけはオートバイには勝てない。

 身体を置いていかれるほどの粘りとスタートダッシュは、一度体感したら取り憑かれてしまうものだった。

 真正面から風を受けると、ひょぉ―――っと、魂が浮き上がる感覚がある。

 これはバイク乗りでないと絶対にわからない。

 これが「風になって走る」ということだ。

「風になりたい」

 そう思うのは人間の本能かもしれないと、葵は常々思うのだった。

 人間は、肉体は飛べずとも、魂または精神と呼ばれるものが、風に乗って空へと運ばれるという空想ができる「夢見る」生き物だ。

「夢を持てるって、いいねぇ」

 葵は、時々ステップの上に立って海を見てはまた座り、身体にあたる海風に魂を乗せながら、来た道を戻っていた。
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