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病院生活・世良樹(せらいつき)の章

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 それほど恐怖したのに、いつの間にか死体を運ぶストレッチャーを見ても、葵は「今日も死んだか」と思うだけで慣れてしまった。

 病院にいる限り、「死」は身近にある。

 もしかしたら、うようよと廊下の天井付近を徘徊はいかいしながら、連れていく人間を物色しているのではないかと思うこともあった。

 そう思えるほど「死」が平気になったのは、葵の怪我がかなり良くなってきていたからだった。

(健康を取り戻しつつある自分に、『死』が取り憑くわけない)

 葵は確信していた。

 見知らぬ人の死は、どこか自分とは関係のないところで起きたことのようで、その人の死を悲しいとは思えなかった。

 けれど人が死んでいくことについては、切なさを感じていた。

 どんなに戦っても、死ななければならない運命の人は死んでいく。

(世界のどこかで人は死んでるのよ。戦争、病気、事故。人生何が起きるかわからない。誰であれ、いつ死ぬかなんてわかんないもん。それらをくぐりぬけて、天寿を全うした人って、すっごくラッキーだと思うわ。私だって首の骨でも折ってたら、死んでたかもしれない。足一本で済んだんだもん。ラッキーだったのよ。うん。ラッキー、ラッキー)

 思わず右足を、「いい子・いい子」してねぎらった。

「よう......!」

 毎週必ず一度は見舞いに来てくれている悠真が、ノックしながらドアを開けた。

「悠真!」

(やっぱり癒されるわぁ~)

 悠真はめったなことでは動じない。

 いいことも悪いことも、そっくりそのままの状態で受け止めるだけの強さと、心に余裕を持っている。

 それは「十王」の資格の一つ、「優しさは心の余裕の部分に住んでいる。その場所を持ち続けられるもの」だ。

 葵のことも「絶対にまたオートバイに乗れる」と言い切り、葵の足が、少しでも前回より動くようになっていると、大きな手を頭に乗せて、くしゃくしゃと撫でてくれた。

 頭を撫でて欲しくて、葵もリハビリを頑張っている。部屋に入ってきた悠真は、その後、何も言わずに丸椅子に座った。

「......? あれ? それだけ?」

「よう......!」と言っただけだし、その声も不明瞭だった気がする。

 今もうつむき加減で、口を開けて笑わない。葵はピンっと来た。

「悠真。にっ......。して」

 葵は椅子に座った彼の顔を覗き込んだ。

「やだよ」

 彼は口をきつく閉じて、横を向いた。

「ゆ・う・ま」

 葵は彼の顔を強引に引き寄せてキスをした。ちょっと唇がゆるんだから、さかず舌を差し込んだ。

「きゃあ! やっぱり―――!」

「おまえって奴はぁ!」

 悠真は真っ赤になって怒鳴った。

 大きく開けた口の中で、前歯が2本、見事になくなっていた。

 悠真は慌てて手で口を押えたが、もう遅い。

「アイスホッケー? ドジね~」

「これは違う!」

 顔を真っ赤にして否定した口が、歯抜けじじいになっていた。

 冬季はアイスホッケー・クラブに所属している悠真は、大学生時代、相手のタックルを受けて前歯を折ってからは差し歯だった。

 前歯をなくした端正な悠真の顔が、やけにすっとぼけて見えた。

「じゃぁ、どうしたのよ」

いつきの奴だよ!」

 樹と言えば、ドジの代名詞で通っている。



       *

 世良樹が「十王輪友会」に入ったのは、ちょうど1年前の、2018年5月だった。

 葵より一つ年下で、佐久大学の人間福祉学科1年生になったばかりの18歳のときだった。

 樹を「十王」として認めるまでにはかなりもめた。というか、今も「十王」見習いのポジションにあると言った方が正しい。

 葵はその腕を認められて入会したが、樹は「こいつは一人で乗らせると危ない」と文一が放っておくことができなかったのだ。

「んな奴、俺らには関係ねぇ。オートバイに乗る奴はいくらでもいる。わざわざ『十王輪友会』に入れることはねーだろ? 勝手に走らせとけ!」

 葵が加入したとき以上の拒否反応を、巧は見せた。

「確かにそれはそうなんだけど、一風変わった奴なんだ。確かにテクニックはすぐ『十王』にはなれそうもない。しかし、なぜか人を惹きつけるんだよ。不思議な気性って言うか、人を『ほんわか』させる奴なんだ」

 文一の説明では、こいつを全く理解できなかった。

「だから何だってんだ? オートバイに乗る奴が『ほんわか』だろうが、多少『ブチ切れて』ようが、『十王』の資格があればそれで十分だ。俺はテクがない奴のせいで事故りたかねぇ! 『お荷物』だったら論外だ! 俺についてこられない奴なんか、絶対に認めねぇからな!」

 巧はプイっと横を向いて沈黙した。

 文一のあまりにも抽象的過ぎた説明では、「世良樹」という人物像を、誰も想像できなかった。

 巧はもう聞く耳持たないといった表情で腕組みし、ソファに沈み込んで、この話題を完全に無視した。

 悠真は前かがみになり、両手を顔の前で組んで、何やら考えているようだった。

 小松は中立の立場を決め込んでいた。

 葵は「自分が口出しする問題ではない」と、黙ってソファの端に座っていた。やがて悠真が声を発した。

「つまり、『十王』たるテクニックは、今のところない奴だな。オートバイを御せるだけの精神力はどうなんだ?」

「実は、それも......。なんか一本筋が通ってねぇな? って奴なんだ」

 文一が言った瞬間、小松が口を開いた。

「それが『ほんわか』だろ?」

 文一は言葉に詰まってうつむいた。そしてそのまま言葉を続けた。

「ああ、そう言われたら、反論できねぇ。でも、チャラさはねぇんだよ!」

 そう言いながら、全員を見渡した。

「ものすごくまじめに、オートバイに乗ろうとしてる。だからこそ、俺は奴を見放せないんだ。バイクが好きで、乗りたくて、乗りたくて、不器用だけれど頑張ってる。俺は奴をバイクに乗せてやりたいと思った」

 文一の言葉に、悠真は彼を見つめた。

「それは、同情じゃないのか?」

 悠真の言葉は文一の気持ちを言い当てていた。

「確かに、同情だろう。けど、今、奴はオートバイ乗りになるために教習を受けてる。この部分を手助けしてやることは誰にもできない。樹が這い上がってきたら、俺は仲間に加えたいと思ったんだ」

 文一の「這い上がる」という言葉は、少なからず全員の心の中に入り込んだ。

「十王」の資格の中には、「バイクに対するゆるぎない信念。どんなに辛いことにも屈しないで立ち上がる。絶対に諦めない」という条件が含まれている。

 世良樹という男は、本当に這い上がってくるだろうか? ただ、オートバイの免許を取るだけなら、せっせと教習を受ければ、そのうち取れるだろう。

 しかし、お情けで免許を取った奴を仲間に加えようなどという考えは、誰も持っていなかった。

「文ちゃんの言い分はわかった。巧もちゃんと聞いてくれ。まずはその世良樹という男の教習を全員で見よう。どの程度のテクかはその時点でわかる。後は合格条件だ。葵は一発、しかもトップ合格した。俺たちはそれを条件にして、葵を『十王』と認めて仲間に加えた。しかし、そいつはどうやら、一発合格は難しそうだと俺は思った。どうだ? 文ちゃん」

 悠真の問いに、文一はうつむいてうなずいた。

「女の葵が、男すべて蹴散らしてトップ合格したんだぞ? だから俺も、葵を認めたんだ!」

 巧が身体を起こして怒鳴った。

「いや、それは違うぞ、巧。トップを取る奴に、性別は関係ない。俺たちは、女の葵を『十王』にしたんじゃない。オートバイ乗りとして『十王』たる資格があると判断したから加えたんだ」

 悠真の言葉に、巧は再びソファに沈み込んだ。

「俺は、その世良樹という男が、今の段階でどれほどの技量があるか、全員で見極めることには賛成だ。今がへたっくそでも、それはそれで認めよう。1度は試験に落ちると、文ちゃんが考えてるのもわかった。問題はその後だ。落ちる程度の技量から、2度目の試験までにどこまで這いあがってくるかだ。それは『十王』の条件。『絶対に諦めないで立ち上がる』心意気がある奴だ」

 珍しく小松がみんなをまとめた。

 それを聞いていた巧が大きなため息をついた。

「わかった。小松の意見に俺も賛成だ。2回目の試験の腕が、俺が納得できる技量だったら、『十王』に加えてもいい」
 
 次の日曜日、仲間全員で1回目の試験を見学にいった。

 余計な期待を持たせないために、樹には自分たちが見ていることは言わなかった。

 中肉中背。眼を惹くようなオーラはなかった。しかし、何となく「コアラ」をイメージする「ぽよーん」とした表情と動作が、ふっと笑ってしまうような愛嬌を持っていた。

 教官が現れ、試験が開始される雰囲気が教習場をつつんだ。

 樹を見ると、先ほどの「ぽよーん」がなくなっていて、どちらかというと顔が引きつっていた。

「あいつ、かなり緊張してねぇか?」

 巧が全員を見まわして呟いた。

「あれを俗に『舞い上がる』って言うんじゃね?」

 小松も腕を組んで見つめた。

「右手と右足を同時に出しそう......」

 葵が呟いた瞬間、樹がとてっとつまずいた。 

「あっ! あぶねっ!」

 悠真も思わず叫んだ。

「検定始まる前に落ちそうだ......」

 巧は大きなため息をついた。

 何人かの検定を見終わると、樹の番になった。

 走り出しはスムーズで何ら問題なく、S字カーブへ入っていった。

「体幹に問題はねぇな。バランスも悪くない」

 さすが、トライアスロンの選手だ。巧は緻密に分析していた。

 ところが、一本橋を渡るところから、樹が破綻してきた。

「うそっ! あっという間に渡っちゃった。規定は7秒以上なんだけど? どうして3秒で渡っちゃうの?」

 葵は大きな声を出した。

「橋に乗った瞬間、舞い上がったな。落ちないように気をつけたら、低速走行の課題が頭から吹っ飛んだんだ」

 悠真が呆れた声を出した。

「この、落ち着きのなさ、つーか、てんぱっちまうところが、樹の弱点なんだよ」

 文一が頭を抱えた。

 その後はみんなではらはらしながら眺めていた。

 最後の課題、線路手前の一時停止後、それは起こった。

 坂道発進の課題だから、上手にクラッチをつながないとエンストを起こす。

 樹はあろうことか、盛大にアクセルを吹かしてしまったのだ。

 ぐわっと前輪が持ち上がり、ウイリーしながら線路を渡ってしまった。

「落ち着け! 樹!」

 メンバー全員が思わず叫んだ。

 自分がつい叫んでしまったことに、お互い顔を見合わせて大笑いした。

「おもしれぇ奴!」

 巧は腹を抱えて笑った。

「だなぁ」

 小松もうつむいて笑った。

「なんだか、雲をつかむような感じの、不思議な男の子ね」

 葵もくすくす笑った。

「まぁ、これで確実に今回の検定は、文ちゃんが言った通り不合格確定だな」

 悠真は笑いつつもため息をついた。

 しかし、全員の中に、樹を会に入れてもいいという雰囲気が流れ始めていた。

 集会部屋に戻ると、それぞれソファに座った。

 葵は端にしつらえてあるテーブルに近づくと、インスタントコーヒーを淹れ始めた。

「いやぁ~。見事なウイリーだったな」

 巧がゲラゲラ笑った。

「みんな、どう見る?」

 悠真が本題に入った。

「体幹はちゃんと鍛えてあった。バランス感覚も悪くない」

 巧は、見学していたときと同じことを言った。

「しっかり見て覚えさせれば、俺らについてこられるだろう」

 小松の意見も似たようなものだった。

「問題はあの落ち着きのなさだ。バイク乗りには、冷静な判断力が必要だ。自分をクールダウンさせられるだけの、強い精神コントロール力が要求される。それを獲得できるか? だな」

 悠真は腕を組むと、背もたれに身体を預けた。

「俺は、樹にそれを教えたいんだ。ドカッと、大地に足をつけたバイク乗りになって欲しいんだよ。まだ18歳だ。6年後、俺たちを超えるようなバイク乗りにしてやりたい。確かにあの『ほんわか』としたキャラは魅力だ。見た奴が、無条件で樹には笑いかけてしまう。そのキャラは残しつつ、バイクに乗ったら、咆哮をあげる勇猛な男にしてやりてぇんだよ」

 文一が吐き出すように言葉を続けた。

「あいつを見てると、おまえらとつるんだ当初を思い出すんだ。おまえら3人は、根っから重てぇもん持ってた。けど、俺は......。俺にはそんなすげーもんはない。バイク屋だから、そりゃバイクの知識は誰にも負けねぇ! でも、俺は重いもんを持ってなかった。『十王』。たぶん俺が、一番その名に相応しい男になろうと、今もあがいてるんだ......」

 葵は、文一の本当の心の中を、初めて覗いた。

(文ちゃんが、こんなこと考えてたなんて......)

 葵は教習所で最初に会ったときの文一を思い出していた。

 彼の優しさは、他の誰にも負けるものではないと思った。

「文ちゃんが、自分をどう思っていようがさ。誰に対してでも、一番優しいのは文ちゃんだと私は思う。確かに、他の3人は特殊なもん、持ってんのかもしんない。でも、それはその人の個性でしょう? 『樹を重たい男にしてやりたい』って願う気持ちは、文ちゃんじゃなくちゃ持たなかったと思う。他人を思いやれる文ちゃんって、カッコいいよ」

 葵は各自にコーヒーカップを配りながら呟いた。

 しかし、自分たちがそんな眼で見られていたことを吐き出された3人は、どう答えたらいいのか言葉を失っていた。

 その雰囲気を察した葵は、再び話し出した。

「いいんじゃないかなぁ? 私は悠真の背中を見て、ライディングスタイルを盗んでる。巧が『こいつはバイク乗りの背中をしてる』って言ったからね。文ちゃんが、育てたいと思うんなら、文ちゃんの背中を追わせればいいと思う」
  
「確かに俺たちは、葵の加入を認めた時、『十王に育てよう』と全員が暗黙の了解を持った」

 悠真がコーヒーを、自分の前に置いた葵を見上げて微笑んだ。

「ああ、そうだったな。今回も、文ちゃんが見つけてきた奴だ。今日の検定を見る限りでは、スキルは俺たちの背中を追えるだけの伸びしろがあると、俺も思う。問題は、あの『おっちょこちょい』な性格を、クールダウンさせることだ。次の検定で、俺らを納得させるだけの走りで合格したら、『十王』見習いとして、俺も文ちゃんに預けてもいいと思う」

 巧は相変わらずソファに沈み込んで腕を組んで呟いた。

 1週間後、再び全員で検定の様子を見にいった。

「あいつ、何やってんだ?」

 巧が少し眼を細めた。

 樹はフルフェイスのヘルメットを腕にかけて、左手に何かをして、その手を口に持っていった。

「ジーちゃんに教えてもらったまじないだ。手のひらに『人』って漢字を書いて飲み込むと、落ち着くんだそうだ」

 文一が「どうだ!」という顔で全員を見た。

「まじないで受かるんなら、ここにいる奴ら、全員受かるぞ」

 小松がぼそっと言った。

「そうだな」

 文一はにっと笑うと、教習コースまで降りていった。

「樹。しっかりと周りを見渡せ! やるべきところで、やるべきことをするんだ!」

 文一の声に気がついた樹は、文一に向かってぺこりと頭を下げた。

「やるべきところで、やるべきことをする......か。簡単そうな言葉だけれど、やるべきことを選択するのは、けっこう難しいわよ」

 葵は樹を見つめた。

 教習が始まった。

 メンバーは樹の走行順が来ると「何一つ見逃すまい」という表情に変わった。

 樹はオートバイにまたがると深呼吸をした。

 やがて真正面を見て、静かに発進した。

 きれいな走りだった。姿勢がいい。

 本人は気がついていないが、身体が斜めに傾いた状態で走る「癖」を持ったライダーは意外と多い。

 問題の一本橋に入った。

 樹は制動をかけ、ゆっくりと橋に登った。

 クラッチを握ったり離したりして、低速走行で微妙なバランスを取りながら、幅30センチの橋を渡っていった。

「7秒以上で渡った! やるべきところで、やるべきことをちゃんとしたわ!」

 葵が叫んだ。その後の一時停止してからの坂道発進も、静かに半クラッチにした。

「よし、半クラで渡り始めた。もう大丈夫だ」

 小松が樹の左手がかすかに開いたことを確認して呟いた。

「合格だ。帰ろうぜ。あとは文ちゃんの仕事だ」

 巧がその場を離れた。

 部屋で待っていると、文一が樹を連れてきた。

 全員が自己紹介をし、悠真が「十王」の説明をした。

「言っておくが、おまえはまだ『十王』を名乗ることは許さねぇ。その『おっちょこちょい』がある限り、俺は認めない。一本橋の感覚を忘れるな。細い橋だ。公道では落ちたら確実に死ぬ。死にたくなかったら、常に感覚を研ぎ澄ませて走れ。路面のちょっとした窪みにも気をつけろ! 少しの油断が、大惨事につながる。うわっついた気持ちは、さっさと捨てろ!」

 容赦しないのが巧だ。けれど、彼にとって、どうでもいい奴には忠告なんかしない。

 つまり、仲間だと認めたのだ。

「はい! よろしくお願いします。俺、皆さんに認めてもらえるようなバイク乗りになります」

 樹が深々と頭を下げた。

「樹。代表として、おまえを歓迎する。いいか! おまえはこれから、文ちゃんの背中を追え! 必死でついてけ!」

 悠真は大きな笑顔で樹を見た。

       *



 つまり、かなりのおっちょこちょいなのが樹だ。

 昨年のツーリング中、樹は、文一の背中を追っていた。

「樹になにされたの?」

「あいつ、文ちゃんの整備工場で、エンジン調整をしてもらってたんだ」

 樹は葵と同じカワサキの「Ninja 400 KRT EDITION」エボニー×メタリックマグネティックダークグレーに乗っている。

 カワサキ・レーシング・チームがレースで使用しているマシンのカラー、鮮やかな黄緑色の車体だ。

「で?」

「できあがったから、工場から出したところでNinjaを倒しちゃったんだよ」

「ありゃまっ!」

 葵は口に手を当てた。

「初心者あるあるの『立ちゴケ』? 樹はよく倒すよね」

「本当だよ。あいつのカバーは傷だらけだぜ? バックミラーを壊さなかっただけ、奇跡だったよ。起こせなくて四苦八苦してたから、手伝おうと思って近づいたら『だめだ!』って叫んで、突然立ち上がったんだ」

「まさか、ヘルメットをかぶった頭が、起き上がってきたんじゃないよね」

「そのまさかさ」

「そりゃ、折れるわ」

 悠真はため息をついた。

「リーダーとして、俺、やっぱり樹が一番心配」

「失礼しますぅ」

 樹の声だ。

「ども。葵さん、大丈夫っすかぁ?」

(来たな『コアラ!』。相変わらず、『ぽよーん』としてるわね)

 葵は樹を、心の中で「コアラ」と呼んでいた。

 どことなく愛嬌があって、ふっと心が和む天性の純粋さがあった。

 メンバー全員口には出さなかったが、樹のそのキャラクターが好きだった。

「ありがとう。だいぶ良くなったわ」

「悠真さん。はい、缶コーヒー」

 樹は悠真に差し出した。

「バカ野郎! 俺はいらねぇよ!」

「あっ、喉が渇いてませんか?」

 このおとぼけっぷりが、樹のいいところであり、バイク乗りとしては心配なところでもあった。

「防波堤がないと逆流しちゃうのよ」

 葵はくすくす笑った。

「はっ? 防波堤ですか?」

 樹は全く理解していないようだった。

「唇だけでは押しとどめきれないのよ」

「はぁ?」

「ジュースはね。両足を肩幅に開いて腰に手を当ててね、天井をあおいで一気に喉に流し込むの」

 葵は真剣な顔で、樹を見つめた。

「それは、難しそうな飲み方ですね。炭酸ではできませんよ。肺活量がある人でも、かなり難しいですよね!」

 樹も真剣な顔で答えた。それを見た葵は笑い出したいのを我慢して、再び樹に言った。

「でも、口の中に入れておいたら、溢れ出ちゃうでしょう? だから漏斗ろうとを喉に差し込んでね。あっ? 漏斗って知ってる?」

 葵はもう笑いを我慢できなくなっていた。

「やめろ! おまえらのおちゃらけ話を聞いてられるほど、俺は人間ができてないんだ!」

 恨みがこもったように唸る悠真の言葉に、樹はきょとんとした。

「え? 今の悠真さんのことだったんですか?」

 樹は本気で驚いていた。葵はすでに大笑いしていた。

「他に誰がいる! おまえのせいで前歯が取れちゃったから、水すら飲めないんだぞ!」

「うわぁ、ごめんなさい!」

 樹は慌てて葵の膝にジュースを置くと、ドアの方へ走っていった。

「あの、積もる話もあるでしょうし。俺はこれで失礼します。葵さん、お大事に」

 華々しい音を立てて、ドアの向こうに姿を消した。

「彼は何をしにきたのぉ――――!」

 葵はキャラキャラ笑いながら、悠真に聞いた。

「見舞いに来たことを、すっからかんに忘れてたな」

 悠真は大きなため息をついた。

「もうちょっと落ち着いてくれるといいんだけれどね。文ちゃんも、育てがいがあるんじゃない?」

 葵は笑うのをやめて、悠真を見つめた。

「俺、とっても心配。おまえと一緒だよ」

 悠真はため息をついた。

「どこが? 私はドジじゃないわよ」

「この足は何だ? がけに向かって飛んだ奴が何を言う」

「これは雪が乱反射して、何も見えなかったの。仕方ないじゃん」

「はっ! 生きてるから言える言葉だぞ」

 悠真は突然立ち上がると、ベッドの反対側の壁に近づきながら、折って持ってきた大きな紙を壁に貼りつけた。

「ちょっと。なによ、それ?」

「これか? 『般若心経』だ。持ってるだけでお守りになるといわれるほど、ありがたいきょうだ。これ以上災難を背負い込まないように毎朝みな。『色即是空しきそくぜくう』。この言葉くらい聞いたことがあるだろう? あ、ルビもふっておいた。下手でも何でも、とにかく毎日詠め! いいな、執着を捨て日々心安らかに精進しょうじんしろ」

「寺の息子がぁ!」

 悠真は、僧侶のときには「ゆうしん」と呼ばれていた。

「また来る」

 貼り終えた悠真は、椅子に置いたウエストバッグを持とうと屈んだ。

「待って、玄関まで送る」

 その言葉に、悠真はふっと触れる程度に葵にキスをすると、彼女を抱きあげてベッドから降ろした。

「重いでしょう? 動けなかったから太っちゃった」

 葵は少し恥じらって呟いた。

「いや。変わってないようだ。リハビリ、頑張ってるんだな」

 悠真は松葉づえに手をかけている葵の眼を覗き込んで頭を撫でた。
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