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きっかけの章

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 葵の中で、オートバイに関する一番古い記憶は、前方を走る1台のオートバイだ。

 真横で、オートバイが吠える音がしていた。それは「鼓動」のようだと思った。

 季節は晩秋だった。サイドカーに乗っている葵は、小学5年生だった。

 フロントガードはついていたが、それですべての風を遮ることはできない。ダウンジャケットやネックウォーマーでかなり寒さを防いではいたが、晩秋の風は、容赦なく葵の体温を奪っていた。

 それでも、風の直撃を受けると、「寒い」と感じることができる自分をうれしいと思った。晩秋がとても身近なところにあり、路面は次々と後方へと流れていった。それらすべてが、露出した葵の身体に、直接刻み込まれていくのだった。

「体感する」

 きっと、当時の葵にもう少し語彙があったら、それらをこの言葉で表現できただろう。

 前方を走っているのは母親だった。野尻湖の周遊道路には、行き交うものは誰もいなかった。オートバイをあやつる母親の背中を、葵は「きれいだ」と記憶している。

 風で舞い落ちてくる無数の枯れ葉を、母親は軽く踊るような動作で、オートバイを右へ左へと切り返しながら、鮮やかにけて走っているのだった。

 左カーブに差し掛かると、ヘルメットがある角度で固定された。母親のオートバイは、カーブの一番深いところを通り過ぎ、ふわっと真ん中へと戻った。

 続いて、サイドカーに乗った葵も、カーブへと進入していく。道がまぁるくなる。身体が左側へと傾いた。くるっとカーブを抜けた瞬間、葵の身体は左側に生じていた重力から解放された。この感覚は、遊園地のコーヒーカップ状の遊具に乗り、手元のハンドルを操作してカップを回し、遠心力で身体が外へと飛び出しそうとするのを、興奮しながら踏みこたえる感覚に似ていた。葵にとって、風とともにカーブを抜ける感覚は、このときに理由もなく身体に刻み込まれたのだった。

 母親が、湖畔にある喫茶店へと入っていった。葵を連れた父親もそれに続いた。停車した瞬間、突然冷気が容赦なく体内に突き刺さり、葵は震えあがった。

「大丈夫? 葵」

 オートバイに乗っているときには、身体に受ける風の温度が気温より15度以上低くなる。

 指先がかじかんでうまく動かなかった。母親がヘルメットを脱ぐのを手伝ってくれた。

 喫茶店に入ると、大きな暖炉が眼に入った。太い薪が3本ほど組まれた状態で放り込まれ、そこから暖かい空気が部屋中を満たしていた。葵は足早に暖炉へ近づいた。

「あったかい......」

 こごえた手を突き出して、指先から沁み込んでいく暖気を、ゆっくりと身体全部へと巡らしていった。それはじんわりと、心の奥底まで行き渡っていった。

「葵? 幸せ?」

 母親が運ばれてきた葵のココアを持って、近づいてきた。

「うん。暖かいって、心が幸せになる」

 ココアが入ったカップを受け取りながら、葵は母親を見上げた。

「オートバイに乗ってきたから、自然の力を感じてこられたんだよ。寒い季節にはちゃんと寒さを感じ、暑い季節にもちゃんと暑さを感じる。これはとても大切なことなんだ」

 父親の言葉の中で「自然の力を感じる」という一節が、葵の心に強く残った。

 いつかオートバイに乗って、自然を友にしてどこまでも走っていきたい。葵が強く思った日だった。

 中学生になったとき、母親から葵が乳児のときからもらっていた「お年玉」を貯金してくれていた通帳を手渡された。

 葵はその後も「お年玉」は一切いっさい手をつけずに貯め続けた。

 高校に進学してからは、長期休みにはアルバイトをして、貯金を増やしていった。自分の手でオートバイを買い、自分の責任でオートバイに乗ろうと決めていたのだった。
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