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地獄からの帰還

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 気がつくと、みちるは拓郎を引きずった状態で、見たことのないマンションの前にいた。

 スマートフォンを取り出して日時を確認すると、みちるは胸をなでおろした。ゴミ箱に落ちた日のままだった。

「深夜の11時過ぎか。他の日だったら、今頃警察に、あたしの捜索願いが出てたわね」

 父親の勤続何十年かのご褒美だとかで、両親は1週間ほど海外旅行に出ている。

「でも、ここはどこなのかしら?」

 みちるは座り込んでいる拓郎の肩を叩いた。

「拓郎。人間界に戻ってきてるんだけど、ここがどこかがわからないの」

「戻ってる?」

 拓郎は座り込んだまま、周囲を見渡した。

「……俺のマンションの前だ」

 拓郎は立ち上がると、みちるに支えられながらマンションへと向かった。

「拓郎、鍵を開けて」

 みちるはまだ茫然としている拓郎に、エントランスホールで声をかけたが、これといった反応がなかった。

「ドアを開ける呪文。部屋番号は? 吐けぇ――――――!」

 拓郎の肩を揺らすと、機械のように無機質な声でそれを口にした。

 みちるがディスプレイを操作すると、マンションへ入るためのドアが開いた。2人は静かに歩いていった。

「拓郎。鍵」

 みちるは再び声をかけたが、今度は何も答えてはくれなかった。

 しかたがないから、拓郎のジーンズに下がっていた鍵の束をはずして、それらしき鍵を見つけだすと、ドアに差し込んだ。

「あったり――――――!」

 ドアを開けると、玄関脇にかけてある姿見を眺めてぎょっとした。

 泥だらけだった。

 服はもちろんのこと、顔や手、髪までが泥をかぶり、すでに乾きかけていた。

 刀葉林で大暴れしていた拓郎を、押さえようとしていた自分を思いだした。

「悲惨」

 拓郎を見ると、彼はみちる以上に泥だらけだった。

「拓郎、大丈夫?」

 声をかけても反応がなかった。

「心を地獄に置いてきちゃったみたいじゃない」

 みちるはどちらかというと短気だ。ついでに阿修羅の性質を持っている。

「あたし、こういうのって許せないのよね」

 みちるは自分に言い聞かせるように唸ると、容赦なく拓郎の服を脱がし始めた。

「本当に人形そのものね」

 みちるは拓郎の上半身を裸にした。

 ジーンズはさすがに脱がせなかったが、乱暴に靴を脱がせ、靴下も脱がせてしまった。

「さあ、立って」

 みちるは拓郎を引きずって、バスルームへ入った。

 シャワーのノブを回すと、座り込んでいる拓郎の頭から、熱い湯を思いっきりかけた。

「あ……つい」

 拓郎はぼんやりとした表情で呟いた。

「そりゃ熱いでしょう。熱くしてるんだもん!」

 みちるは容赦しなかった。

「熱い。……熱いよ、みちる」

 拓郎がようやくまともに反応した。

 身体をびくびく動かし、手で熱い湯をさえぎるような仕草をしながら、みちるを見上げた。

 みちるは少し温度を下げた。

「やっと、地獄から還ってきたね」

 みちるは拓郎の正面に座り、そっと彼の顔についた泥を落としながら、眼を覗き込んで笑った。

「ここは?」

 拓郎は、眼の前に垂れ下がった髪の毛を掻き上げた。

「自分のマンションだって、言ったじゃない。覚えてないの? 部屋番号も言ったし、鍵もあってたわよ」

「ああ、そうなのか。覚えてないや……」

「日常的にしてることって、考えなくてもできちゃうってことね」

 みちるは笑うと立ち上がった。

「さあ、もう大丈夫ね? あたしは出るから、シャワーをびなさい。熱いお湯をどんどんとかけて、うんと汗をかくのよ。そうしてね、自分の中のどろどろしたものも、全部流してしまうの」

 みちるはやさしく微笑むとバスルームから出て、洗面所で顔だけ洗った。

 玄関脇のクローゼットから、拓郎のフードつきジャンパーを選び出して羽織ると、すぐ近くのコンビニエンス・ストアーで下着だけ買ってきた。

「気持いい」

 拓郎がバスルームから出てきた。

「パジャマに着替えてくるよ。みちるはどうする?」

「近くのコンビニで、下着だけは買ったわ」

「違うよ。家に帰らなくて大丈夫?」

 そう言った拓郎の眼は、捨てられた仔犬のように見えた。

「忘れた? あの人たちバカンスに出るって言ってたじゃない。今日はちょうどその日よ」

「じゃあ、帰らなくてもいいんだ」

 なぜか拓郎の眼に、ほっとしたような色が見えた。

「拓郎が置いてくれるならね。あの家は、おそらく六条院たちが見張ってると思うから、帰りたくないことは確かなのよ」

 みちるは呟いた。

「ああ、あいつらの問題もあったっけ……。いいよ。いてくれた方が嬉しい」

 最後の方は消えそうな声だった。

「俺の洋服じゃぁ、でかすぎるけれど、小さいよりはましだもんな。何か出しておくから、シャワーを浴びてこいよ」

「うん。ありがとう。あたしも泥だらけなの。それに疲れたから、熱いお湯をじっくりと浴びたいわ」

「うん。気持がいいよ。すっきりする」

 拓郎は言葉とは裏腹に悲しげに笑った。

 それを見て、みちるはバスルームに行きかけていた歩みを止め、拓郎に再び近づき、彼の眼を見つめた。

「私たちは、地獄から還ってきたの。わかった? 還ってきてるのよ」

 みちるの赤い眼が、射るように拓郎を見つめた。

「うん。わかってる。わかってはいるんだけど……、見たくなかったんだ」

 拓郎はうつむいた。

 濡れた髪の毛から雫が顔に流れていった。みちるはそれをタオルで拭いた。

「もう、何も考えたくない。この苦しみからのがれたい」

 拓郎はみちるの手からタオルを取り、その中に顔を埋めた。

「馬鹿ね。苦しみから逃れられないことは、拓郎が一番良く知ってるでしょう?」

「でも、心が壊れそうなんだ」

 拓郎は絞り出すような声で言った。

「わかってる。わかってるよ、拓郎。でも、私たちには何もできない。あれが彼らの今の生きざまなのだと、納得するしかないじゃない」

「今の生きざま?」

「変な表現だったかな? 人間界にいた時の彼らと、地獄で生きてる彼らは、もう生きてる世界が違うんだと思ったの。その世界のことわりの中で生きてるんだと思ったの」

「理……」

「うん。何となくそんな感じがした」

 みちるはゆっくりと拓郎から離れた。

「シャワー浴びてくるわ」

 シャワーを浴びてバスルームから出てきたみちるは、リビング・ルームの入り口に立ち髪を拭きながら、ソファに座る拓郎を見つめた。

 うつむいている彼の身体が、少年のように小さく華奢に見えた。

 みちるの気配に気がついた拓郎が顔を上げ、泣きそうな顔で微笑んだ。

「ごめん。俺の方がずっと年上なのにな。こんな醜態を見せられて、嫌になるだろう」

 拓郎は小さな声で呟いた。

「ううん。拓郎だもん」

 みちるは躊躇したが、意をけっして、拓郎の両ひざの間にごそごそと入り込んで、ソファに座った。

「み……みちる?」

 拓郎は驚いて、ちょっと大きな声を出した。

「だ……だから……。ぬいぐるみだと思ってくれ。拓郎、寒いでしょう? あたしに、泣き顔見られたくないでしょう? でも泣きたいでしょう? 泣いていいから。弱音よわねを吐いていいから。ずっと我慢してきたこと。溜め込んできたこと。ここで全部流しちゃえ!」

 みちるは真っ赤になりながらも、拓郎の両腕を持つと自分の身体に巻きつけ、ソファに身体を埋めるようにうながした。

「う……ん。辛かった。本当は今も辛い」

 拓郎は、みちるの身体を抱き締めた。

「うん。うん。でもね。もうすべて済んだことなんだよ。拓郎は人間界で、この苦しみを抱いたまま生きる。彼らは地獄に転生して、その罪をつぐなう。もう関わりがないんだよ」

 みちるは身体に回された拓郎の手に、自分の手を重ねた。

「わかってる。頭ではわかってる。でも感情がついてかない」

「拓郎は人間だもん。当然じゃない」

 みちるは拓郎の胸の中で、ただぬいぐるみのように、おとなしくしていた。

 拓郎が肩を震わせ、みちるを強く抱きしめて、嗚咽を漏らし続けた。

 みちるは拓郎の胸の中で、うとうとしていた。

 さすがにここまでの旅で、かなり疲れていた。

 やがて、頭上で大きなため息が聞こえて、眼を覚ました。

「ありがとう。みちる。もう落ち着いた」

 拓郎はみちるを強く抱きしめた。

 みちるは拓郎の胸に、頬を押しつけた。

「そうか。すぐに答えが出ることじゃないけど、状況に納得できたんならよかった。そういえばさぁ、さっき人間界についたとき、大きな月が見えてたわよ」

 みちるは拓郎の腕の中で呟いた。

「今日は十六夜だと思う」

「そうね。昨晩夢を見たから、昨日が十五夜だったはずだわ」

 みちるは呟いた。

「夢? もしかして、歓喜苑の夢?」

 拓郎はみちるを見おろした。

「たぶん……ね。あたし十五夜の日には、閻魔さまが言ってたとおりの風景の夢を見るの」

「俺もだよ。もしかしたら俺は、かぐや姫の記憶を、夢として見てるんじゃないかって思ったよ」

「あたしも。あたしたちの中の兎が、かぐや姫を記憶してるんだわ」

「うん」

 やがてみちるが呟いた。

「ああ、早くかぐや姫の欠片をすべて見つけて、黒い眼に戻りたい」

「本当の自分に戻りたいよな……?」

「うん。本当の自分ってどんな人間か、もう忘れちゃった気がする」

「それは大丈夫だ。全身癇癪玉」

 拓郎は笑いながら言った。

「癇癪玉ぁ?」

「それに、愛嬌もあるし、おもしろい奴だよ、おまえは」

 拓郎はくすくす笑いながら続けた。

「家へ勉強を教えに行ってるときはさぁ、サングラスをかけて、誰も近づけさせない『みちる』を演じてた」

 みちるは、そのときの自分を思い出していた。

「負けてたまるか。って思ってた」

 みちるは拓郎に寄りかかった。

「なんか……。疲れたな……」

 みちるは弱々しい声で呟いた。

「俺たちさ、本当の自分では、立ち向かえる自信がなかったから、別の人格を作って、逃げてたんだ」

 拓郎がみちるを見た。

「うん。そうだね。でも、私たちは、きっとまだやり直せるよ。人間界はそういうところなんだから」

 みちるの言葉に、拓郎はにっと笑った。

「よし。決めた!」

 拓郎はみちるを抱いたまま立ち上がった。

「うぉ――――――?」

 急な行動に、みちるは慌てて拓郎の首に両腕でしがみついた。

「今晩はゆっくりと眠ろう。そして明日から遊ぼうぜ。兎が現れるまで、思いっきり楽しもうよ」

 拓郎の言葉に、みちるは強く彼を抱きしめた。

「遊ぶの? 普通の人のように?」

 床に降ろされたみちるは、わくわくして叫んだ。

「しかも、男つきだ。いい男だと思わない、俺?」

「かっこいいよ」

「お姫さまも、とっても美人だ」

 拓郎は天井を見上げて笑った。

「遊ぼう!」

 二人で手をつないで寝室へと向かった。

「あ……」

 拓郎が、突然立ち止まった。

「ベッド、1つしかない。クイーン・サイズだから、2人で寝ても寝ることはできるけど……。俺、ソファで寝ようか」

「ふかふかのベッドでゆっくりと眠りたいのは、あたしだけじゃないと思うんだけど?」

 みちるは拓郎を見つめた。

「いいの?」

「手ぇ、出すなよ」

 ドアを開けると、すごく大きなベッドが置いてあった。

「行くぞ!」

「え?」

 拓郎はかけ声をかけるとみちるの手を引っ張り、2人はベッドに向かってちゅうを飛んでいた。

「きゃ――――――! ふかふかだぁ」

 みちるは着地と同時に叫び、掛け布団にくるまった。

「半分よこせ」

 拓郎はみちるから掛け布団を引きはがすと、隣に入って来た。

「ちょっとぬくぬくちょうだい」

 みちるは笑いながら、拓郎の胸の中へ入り込んだ。

「こりゃ! 男を挑発するようなまねをするんじゃない」

 そう言いながらも、拓郎もみちるを抱きしめた。

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