夏の終わりに

佐城竜信

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彰久がアマチュア格闘大会に参加する日の朝、由紀子は自宅で用意をしていた。
千里には予定があっていけないとは言っていたが、由紀子は彰久の応援に行く気でいた。
千里に嘘をついてしまったのには訳がある。それは。
「お姉ちゃん、どこかにお出かけするの?」
小学五年生の妹、沙耶に声をかけられて由紀子はどきりと心臓を高鳴らせる。
「え、ええ。ちょっと今日は予定があるの」
「お友達と約束してるの?」
「いいえ、違うけど……」
思わず本当のことを言ってから、しまった、と由紀子は思う。
「じゃあさ、プール連れてってよ!プール!」
沙耶は目を輝かせてそう言ってくる。友達との約束じゃなければ問題ない、とでも思っているのだろう。
「ごめんなさい、今日は……」
「いいじゃない、由紀子。普段は部活だの遊びだのばっかりなんだから、たまには沙耶の面倒をみてあげないさい!」
沙耶の後ろから現れた母、友梨佳がそう言う。
「お母さん……」
「よかったわね、沙耶。お姉ちゃんがプールに連れて行ってくれるって!」
「わーい!やったー!!」
「だから、今日は予定があるんだって……」
由紀子はそう言おうとしたが、途端に友梨佳の目が冷たくなる。そしていつも通り、ヒステリックにわめきたてるのだ。
「いいじゃない!沙耶が遊びに行きたいって言ってるのよ!だいたいあんたはいつもいつも部活だの遊びだの、好き勝手に遊びまわって!少しくらいは私たち家族のために何かやろうって思わないの!?だいたいあんたはいつもいつも――」
こうなってしまっては友梨佳が止まることはない。
(自分の思い通りにならないとすぐ喚き散らして、なんでもかんでも人に押し付けようとする。お母さんってこの年になっても子供のままなのよね……)
由紀子はため息をつく。
聞き分けのいい妹と聞き分けの悪いわがままな妹。まるで二人の姉をやっているような気分になる。
友梨佳がいつからこんな感じなのかと言えば、おそらくは生まれた時からなのだろう。子供の時のまま精神の成長が止まった友梨佳のせいで由紀子は相当に窮屈な思いをしてきた。それでも、七歳の時まではまだよかった。沙耶が生まれるまでは。
沙耶が生まれてから、由紀子はいつもことあるごとに『お姉ちゃん』であることを求められるようになった。お手伝いはもちろんのこと、妹の世話もすべて押し付けられてきた。たまにスイッチが入ったように爆発しては、由紀子を怒鳴りつけることもあった。
そんな日々を過ごせば、誰だってグレたくなるものだ。だが、由紀子がグレることはなかった。なぜなら、どんなにつらくても自分が我慢すればいいだけの話なのだから。
「聞いてるの!?」
「……はい」
「まったく!どうせまた男絡みなんでしょう!?」
「違います」
「ふんっ!どうせそうなんでしょう!?」
「だから、違うって……!」
「うるさいわね!言い訳なんかしないでよ!」
「……」
もううんざりだった。なぜ自分ばかりがこんな理不尽な目に合わなければならないのか。
そんなことを考えているうちに、心の中にどす黒い感情が芽生えてきた。
(……そうだ。どうせ私は、ずっとこのままなんだろう。だったら……)
「……わかったよ。じゃあ沙耶、行こうか」
「……うん!」
母親の剣幕に怯えていた沙耶も、その小さな手を握ってあげると途端に笑顔になった。
「なっ!?」
友梨佳の表情が一瞬にして青ざめる。
「ちょっ……待ちなさいよ!どこ行くつもり!?」
「プールよ。最初からそう言う話だったでしょ!」
「そんな!まだ話は終わってないわ!」
「終わったわ!それに、いつまでも私に構ってる暇はないんじゃなかったの?ほら、早く行かないとお店閉まっちゃうわよ!」
「……くっ!」
由紀子の態度に腹を立てた友梨佳は、怒りのあまり言葉が出ないようだった。
「さあ、行きましょう」
「わ~い!」
沙耶の手を引いて玄関へと向かう。こうして由紀子の日常は続いていくのだ。

***
沙耶とプールに行って、帰ってきたときには午後三時を回っていた。朝の続きとばかりにわめきたてようとする友梨佳を無視して家を飛び出し、武道館にたどり着いたころにはすでに最後の試合がはじまっていることろだった。
彰久と大人の男性が闘っている。年齢差や経歴の差からくる技術の差。彰久は苦しい闘いを強いられていたが、それでもなんとか食らいついている。
それでも。このままでは押し負けてしまうのではないか。由紀子ははらはらとしながら相手の攻撃をひたすらにさばき続ける彰久の姿を見ていた。
「彰久!負けるなっ!!」
由紀子と同じ。入り口近くで立ち見をしている男性がそう叫ぶ。その瞬間、彰久の動きが止まったように見えた。
「俺はお前を信じてるぞ!絶対に勝て!!」
その声が聞こえたのだろうか。彰久が笑ったように見えた。
そして、それからの彰久はすごかった。その動きは先ほどよりも早くなり、攻撃もより正確になる。まるで先ほどまでは全力を出していなかったかのような。そして今は全力で闘っているように、由紀子には見えた。
その彰久はきらきらと輝いている。夢に向かって全力で突き進む少年の輝き。それが彰久を輝かせていた。
(……そういうことだったんだ!)
その輝きが教えてくれた。どうして自分が彰久に魅かれたのかを。どうして自分が彰久を好きになったのかを。
そして――自分が彰久のことをどう思っているのかを。
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