SMの世界

静華

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 そして、脂ぎった顔が触れそうなほどに近づいて、ドブ臭く生温かい息が頬を掠めたその時だった。
「翔!」
 部屋に響いた大声と共に背中にのしかかっていた重みが消え、代わりにドンと壁に何かがぶつかったような鈍い音がした。
「ぐぇ……」
 蛙が潰れたような声を上げた男は体を丸めたまま動かない。
「有聖さん! 翔!」
 血相を変えて飛び込んできた颯斗が惨状に立ち尽くす。
 ――あんな有聖さん見たことなかったぜ? 俺、あの時マジでやばいと思ったもんな。
 後日何があったのか詳しく聞いた際、颯斗がそう言って大きくため息をつくほど、酷い有り様だったらしい。
「っ、……ゆ、有聖さん」
「翔、動かないで。すぐに解いてあげるよ」
 ぎちぎちに締め上げられた手首に有聖が触れた。
「まずいな。……颯斗くん、鋏を!」
「え? ……っ、はい!」
 呆然としていた颯斗がハッとしたように走りだし、翔が片付けたワゴンから大きな鋏を持って戻ってきた。
 鋏を受け取った有聖がぐるぐる巻きになった縄の間に鋏を入れる。
「動かないよ。縄を切るだけだから」
 思わず身じろいだ翔の腕を有聖が掴んだ。
 ジャキジャキと音がしたかと思うと、ぐるぐる巻きにされた手首が解放される。
 翔の口から無意識に安堵の息が漏れた。
 ――助かった。
 強張っていた体がぐにゃりと力を失う。やけに心臓の音がうるさかった。手の先だけじゃなく、体全体がどくどくと脈打っていて体が上手く動かせない。
「翔?」
 有聖が顔を覗き込む。温かい手がそっと翔の頬に添えられた。
「ゆうせい、さん……」
「もう大丈夫だよ」
 力の入らない体を抱き抱えられる。見かけによらずしっかりとしたぬ胸元に縋ろうとしたが、指先に力が入らなかった。
「あの、有聖さん、あとのことはこっちでやっとくんで……」
 遠慮がちな颯斗の声がした。
 そういえば、あの男はどうなったのか。そっと目線だけを動かすと、投げ出された脚が見えた。ぴくりともしないその脚の持ち主はどうやら失神してしまったらしい。
「翔、立てる?」
「え、……あ、だ、大丈夫」
 指先はまだドクドクと痺れているが、足はなんとか動きそうだった。抱き起こされ、有聖に抱えられながら立ち上がる。
「颯斗さん、あの、ありがとう」
「ゆっくり休めよ。こいつは二度と現れないように、オーナーにしっかり対処してもらうからな。心配すんなよ」
 完全に失神した男を足蹴にしながら颯斗が言った。
 二度と現れないように、一体どうするのだろうか。まさか何か犯罪まがいのことをするのかと心配になったが、翔は何も言わずに小さく頷いた。
(オーナーがそんなことするわけないもんな……)
 変態野郎がどうなったとしても自業自得だが、翔が襲われたせいでオーナーや颯斗たちに迷惑をかけるのは不本意だ。
「翔、行こうか。颯斗くん、あとを頼むよ」
 有聖に半ば抱えられるようにして、翔は店をあとにした。
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