恋風

高千穂ゆずる

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ふた欠片の情夫(いろ)

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「嫌です」
強く抵抗している声が聞こえたものだから、思わず足音を忍ばせ庭先へと潜り込んだ。
 遊ぶ約束をした幼馴染みを迎えにやって来た朝之は、普段、聞いたことのない友の荒げた声を耳にして驚いた。
 少女のような外見とは裏腹に、馨はとても負けん気が強かった。それでも自らが好んで争うような性質ではなく、どちらかというと静かに怒りを表す方だったからだ。
その馨が声を荒げるなど、ついぞ聞いたことがなかった。
 庭の植え込みに身を潜め、耳を欹てる。
「うちには兄さんがいるじゃありませんか」
馨の語気は強いままだ。
 みつからないように顔を少しだけ覗かせた。
 部屋の奥にいるのは馨の父親で、口答えしている友人を叱っているように見えたが、庭で潜んでいる朝之に、会話の内容までは聞き取れない。
「水揚げなんて絶対に嫌です。兄さんは売れっ子なんだから、兄さんだけにやってもらえばいいじゃありませんか」
 怒気を含んだ言葉のひとつひとつが意味不明だった。──水揚げ? ──売れっ子?
 馨のうちは料亭のはず。何のことだろう。
「あいつは駄目だ」
 低い男の声が耳に飛び込んできて、驚いたように顔を上げ、視線を戻した。いつのまにか奥から父親が縁側まで出ていて、──あいつは売れっ子だが駄目だと繰り返した。
「客といい仲になっては相手を破滅させていく。小さな町工場の道楽息子を死なせる程度までは庇えるが、それも限度というものがある。のお力に縋れるのも今回で最後だろう」
「だからって、どうして僕が……。僕があんな年寄りに抱かれなきゃいけないんです」
 縋るような瞳が今にも涙に濡れてしまいそうで、胸が痛んだ。今の一言で、水揚げの意味も、売れっ子の意味も掌握できたからだ。
「お前に選択権などない。今夜、黙ってに水揚げしてもらえ」
 一度も泣いたことのない馨の瞳から、花びらが散るようにはらはらと涙が零れ落ちていく。
 気がつくと植え込みから立ち上がっていて、泣いている馨と視線がかち合った。
 馨はこちらをきつく睨んでいて、男に抱かれろと言われた少年の羞恥や嫌悪は見受けられなかった。目の回りを赤くさせ、傷ついた顔をしている。
 それがよけい胸を痛ませた。
 そいつを摘み出せという怒号を聞きながら、馨から目が離せないでいる朝之は、掛ける言葉がみつからなくて、黙って立ち尽くしている。
 助けてくれとも言わない少年は、庭から引き摺りだされて行く友人を目で追うだけだった。
「馨!」
その叫び声が合図みたいに、馨は畳の上へ突っ伏した。それとわかるほど震えている肩を凝視したまま、朝之は表へ放り出された。
「そんな莫迦な話があるか!」
眼前で締め切られた木戸を何度も殴ったり蹴ったりしたが、中からの反応はなかった。
「だって、まだ俺たち十二じゃないか……」
押し潰されそうな悲しみで、朝之は喘ぐように呟いた。

 馨の兄が、客の一人と一緒に入水自殺を図り、相手の男が先に死んだ。その後を追うように彼も息を引き取ったが、その心中事件を揉み消すために……馨が使われたのだと後で知る。


 嫌な夢見で朝之は目覚めた。
 腕の中で寝息を立てている血色の悪い頬を撫で、二年くらい前にも起きた、男同士の心中事件を思い出した。
 新聞の一面を賑わせたその記事を指しながら、酷く冷たい表情で、──ああ、ここにも鶯がいたよ──と馨は呟いていた。
「……思い出した。思い出したよ、馨。お前の兄さんのこと」
 鶯は、馨の兄の源氏名じゃないか。


 頬を打つ雨に気づき、ゆるゆると瞼を開けた。
 漆黒の天から幾つもの雨が筋になって落ちてくる。ばしゃばしゃと水を撥ねながら、おい、と叫ぶ男がやって来た。
 憎憎しげな舌打ちをして身体を起こしてみる。体中がぎしぎしと軋んで、機敏な動きが取れない。
 駆け寄ってくるのは警官かもしれなかった。喧嘩で派手な立ち回りを演じてしまったから、店主が通報でもしたのだろう。
 喬一はやけくそ気味に立ち上がったが、すぐに足元がふらついてすっ転んでしまった。空のごみ箱が派手な音を立てて喬一の横に倒れた。
「こりゃあ、しょっぴかれるな」
くらくらする頭を抱え、覚悟を決めた喬一の腕を、警官と思われる男が掴んだ。
 腫れ上がった瞼に力を込めて、脇に立つ影を見上げた。
 雨が勢いよく顔に当たってきて、目を開け続けるのも一苦労だ。
「キョウイチだろ? あんた」
 どこかで聞いた声が耳に飛び込んできた。酷く頭を殴られたせいか、さまざまな記憶が朧でなにも思い出せない。顔が見えればいくらかでも思い出せるのにと、目を凝らしてみる。
 喬一が泥まみれであることに気づいた男は、
「なんてぇ、格好だよ。汚いねぇ」
溜息混じりに呟く。それでも喬一に肩を貸しながら、腫れ上がった顔を見て呆れたように溜息を吐いた。
「派手にやったもんだなぁ。男前が台無しじゃないか」
 その軽口と、濡れた身体から咽返るような白檀の香りが立ち上ってきて、ようやく思い当たる男の姿が脳裏に浮かんだ。
 ──あの男だ。
「離せ……」
突き放したつもりが、打撲の痛みと酩酊状態が重なり、足元をよろめかせただけで終わる。
 ちくしょうだとか、ふざけるなだとか罵声を吐きながらも男の肩を借りている。無様な格好で薄汚れた路地裏から救い出してもらう。
 一人で歩けているのかもわからない。ひたすら視界に入ってくるのは、ぬかるんだ路面と自分を運んでくれている男の足元だけである。
 暗い視界を闇が侵蝕し始め、終いには安物の電球が切れるみたいにぷつんと途切れた。


 ふいに身体が浮いたと思ったら、次の瞬間には顔面をしこたま打ちつけていた。
 ううっと呻いて目を開けると、畳が目に入る。そこを、ずぶ濡れになったズボンの裾が通り過ぎていく。
 ここまで丁寧に運んでおきながら、そいつはさっさと自分だけ着替えを始め、こっちは放ったらかしだった。
 むくりと起き上がり、胡坐をかいた。まだかなり目が回る。両手で頭を支えていないと吐きそうなくらいに気分が悪かった。俯いたまま管を巻く。
「なんで……てめぇの世話っに……っく。なんねえ……っと。……っけねえんだっよ」
 言葉はさっぱりだったが、言いたいことは伝わるだろう。
「おい。あんた、そこからこっちに来るなよ? いいか? まだ、そのまんまでいろ」
 頭の上から命令されて腹は立つが、今はまだ動けない。とりあえず舌打ちして不満を表した。
 ぶつぶつと意味不明な言葉の羅列を繰り返していた喬一の身体が、ふわりと浮いて仰向けにされる。
 電灯の明かりが逆光になり、男の顔がよく見えない。眩しそうに手を翳し、目を眇めた。
「そんな泥だらけの服で入って来てもらっちゃ、後始末が面倒だろ?」
 男の手が伸びてきて泥に塗れた服を脱がしにかかる。
 ふざけんなと闇雲に振り回した拳が男の顔面に何発か命中する。部屋が汚れるのを嫌うそいつは、表情も変えずに衣服を剥がす。
 泥水に染まった下着が出てきて「ここもかよ」と呆れた男の声が、血流の良い頭の中で大きく響く。
 さすがに下着までは脱がせられないようで、奥へ引っ込むと、自分の下着を持って来た。
「これを穿け」
わざと喬一の顔面へ落とした。
 酔いと不満で腐っている喬一は、大の字になったまま動こうとしない。
「それ新品だから大丈夫だよ。おまけに返せとも言わないから安心しろ」
 男は笑っているようだ。楽しげな声音からそれが窺えた。
 新品だからということもないのだろうが、身体を起こした喬一はなんとか自力で穿き替えた。
「見てんじゃねえ」
視線を感じると毒づいた。
「穿き替えたんなら、こっちに来い。服も貸してやるから」
「いらねえよ。このまんまでいい」
 足を抱えて子供のように蹲る。
「俺の部屋で風邪を引かせたなんて、亮には言えないからな。──いいから、こっちに来いよ」
男がやって来て喬一の腕を掴んだ。
「亮……? 何で、お前が呼び捨てするんだ? ええ、おい?」
 男の腕を払うと、その反動で背中からひっくり返って尻餅をつく。
 男の溜息を真上で聞きながら、
「オレはこのまんまでいい。誰がお前なんかの服を借りるかよ」
「裸がいいってことは、なに? 俺のこと、誘ってんのか?」
 男は喉を鳴らし、からかうように笑った。
「ふざけんな!」
 寝っ転がったまま、男の顔面へ向けて拳を放った。しかし、酔っ払いの拳が素面の人間に当たるはずもなく、空を切って振り下ろされただけだった。
 その腕を掴み上げられ、縋る格好で喬一は奥の部屋へと運ばれる。
 白檀の匂いが、喬一の鼻先をくすぐる。幼い頃から焦がれていた匂いだ。
 亮の身体に傷を負わせ、自分の元から奪い去り、そうして最期には深い疵まで追わせた憎い兄……。
 その兄を未だに忘れられない亮がいる。
 出会った頃の───身体だけの繋がりがいつしか恋になったように、もう一度やり直せるのではないかと、それなりに奮闘してきたこの二年間を……たった一人の男に狂わされそうになっている。
 まだ早い。亮はまだ雪也を完全に忘れていないのに、どうしてこの男は現れたんだろう。雪也の匂いを出せないオレは選ばれることはないんだろうか。
 喉を詰まらせて、喬一の身体は脱力していき、支えきれなくなった男と共に畳の上に倒れ込む。
「何でなんだ」
呻くように喬一は呟いた。
「アニキが死んで……。亮がオレの元に返って来たのに……。──何でまた……現れたりするんだ?」
 近距離からの攻撃はさすがに避けられなかったようだ。男の横っ面を喬一の拳が捉えた。
「痛ってえ」
そう呟く男の声はさほど痛がってはいない。むしろ拳を振るった喬一の方が苦痛に眉を顰めている。
「まるでアニキの死を望んでいたように聞こえるよ」
 男の言葉に、体温の戻った剥き出しの肩がびくりと跳ねる。
 そうかもしれない───。
 これは本心なのだろう。いなくなってくれたおかげで大切なものを取り戻せたのだ。
亮を道連れにしないでくれたことは感謝している。その気持ちも嘘ではない。
「オレは……最低の男だ」
 の死を望んだ。喬一はそう付け加えて言葉を結ぶ。
 そこでようやく男の顔に視線をやると、酷く驚いた顔でこちらを見ていた。実の兄の死を望んだと告白すれば、大抵の人間は驚くだろう。
 しかし、男の驚きはそこではなかったようだ。
「亮は心中事件を?」
 喬一は怪訝そうな顔で、ああ、とだけ答えた。
「相手の男は……死んだのか?」
「ああ、そうだ。さっきからそう言ってるだろ。その心中相手がオレのアニキで──田上雪也だ」
 喬一は、そこで何かを思い出したように、ちくしょうと毒づいた。
 自分を置いて逝った雪也を未だに焦がれている亮の前に、忽然と姿を現したこの男。
 亮に興味を持って欲しくない。単純にそう思う。二度も三度も奪われるなど、耐えられるはずがない。
「それは……二年くらい前に起こったか?」
 喬一は煩わしそうに頷いた。あの時は、どの新聞もこぞって二人の心中事件を取り上げていたから、この男が事件のあらましを知っていたところで不思議はない。
「亮が……死なせたのか?」
 男は信じられないことを口走る。
 あれは心中事件であるのに、まるで亮が雪也を殺したみたいに言う。
「死なせたんじゃない。アニキが勝手に死んだんだ」
 何にも知らないくせに勝手なことを言うなと、語気を強めて言い放つ。
 あの二人は───本当に───心から求め合って──────。
 少なくとも亮は共に果てることを心から望んでいた。しかし雪也はそれを選ばなかった。何故だか知らない。兄は死んでいるのだから知りようもない。
 疵を残すことが目的だったのなら憎くも思えるが、もしそうでなかったら……。
 手前勝手な解釈かもしれないが、亮に生きることを選ばせて、自分の元へ返したのだとするなら……。
「キョウイチ。あんたは人は死んで幸せになれると思うか?」
 真剣な顔で男が訊ねる。
 凄みのあるその表情に、ごくりと唾を飲み込んだ。飄々とした軽口を叩くこれまでとは人がまるで違っていた。
 真剣に訊いているのならば、相応に答えてやろうと、男の顔を真正面から見据えた。
「死んだらお終いだ」
 男の眉が僅かに攣れるのが見えた。
「一緒に死ねれば本望だろうが。残された方は堪らない。──生き地獄だよ。どうせ人間いつかは死ぬんだ。だったらそれまで……美味いモン食って、楽しいことやって笑って……心底愛し合って……それから死んじまえばいいさ」
 そう答えながら、心が幾分軽くなっていることに喬一は気づいた。
 こいつに亮を奪われたくないと依怙地になっていたのが嘘のようだ。
 目の前の男が笑んでいた。嫌悪すら感じていた甘い匂いも気にならない。
「それが正解だ、キョウイチ。あんたの傍に亮が居たがるのも無理はない。そこが唯一幸せになれる場所だって……知っているんだろうよ」
 この男の言葉は胸にくる。切なくなって堪らなくなる。
 欲しかった言葉を投げかけられて、涙が溢れてくる。
 ほんとうは雪也から欲しかった言葉。
 喬一の傍が幸せになれる場所だと。
「お前は────誰だ……?」
 やはり酔いは醒めていないのだろうか。憎たらしい態度を取っていたこの男が、生前の兄に思えてくる。
 甘ったるい匂いが思考力を奪っているのか。それとも欲しかった言葉をくれたからか。
「亮はオレを……選んでくれるかな」
 女々しくもそんな科白を吐いて泣き出した。
 男の手が肩にやさしく触れる。剥き出しの肩に、触れている男の手の温もりがそこからゆっくりと広がっていく。
「生きて幸せになるんだって気持ちがあるなら、亮はきっと選ぶよ。だからさ……あんたは絶対に壊れたりしたらいけないよ」
 壊れるとはどういうことだろうと思いながら、喬一は頷いた。
 くしゅんと、と一つくしゃみをして、悪いがやっぱり服を貸してくれと頼み込む喬一に、男は笑顔を見せて奥へと引っ込んだ。
 着替えを投げて寄越すと、呑み直そうと男が言う。
結局明け方近くまで男に付き合った。殴られて切れた口の中が酷く沁みて、酒の味など、ちっともわからない。
それでも妙なくすぐったさが胸に残った。
「俺は朝之。川端朝之ってんだ」
いよいよ帰る頃になってから名乗りを上げた。
「田上喬一だ。その……この間の映画館のことは悪かった。亮を送り届けてくれたし。礼がまだだったよな」
 ありがとうとぼそりと呟いた。
 照れ臭そうに礼を言う喬一に、屈託のない笑顔を見せた。
「どういたしまして」

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