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無敵の人
しおりを挟むどことない閉塞感に包まれた空気に、ゴールのない迷路を進む無味乾燥さ――田辺健司は毎朝、そんな感覚を抱きながら目を覚ます。
三日連続で日雇いのバイトをこなしていた彼は、今日を休みにしようと決めていた。肉体労働で酷使された体には潤いが必要である。起床して早々、彼は枕元に散らばった缶チューハイに手を伸ばした。
都心のボロアパート。家賃月々四万五千円。その日暮らしの田辺にとっては手痛い出費だが、家賃の安い郊外に住む気は起きなかった。明確な理由などはなく、漠然と都会にいたいと、そう思ってのことである。
「……」
虚ろな目をしながら、片手に酒、片手に携帯を持ち、SNSを眺める。眼球の表面を滑っていく情報に、価値のあるものはない。ただ、大学を卒業後、定職に就くことなくフラフラと過ごしていた彼にとって――SNSだけが他人と関われる場所だったのだ。
もっとも、自ら誰かに構いにいくようなことはしない。適当にフォローした人物の適当な話を見て――ああ、人生を無駄にしている奴は俺以外にもいるんだと、実感する程度のものである。
ふと、最近世間を騒がせているニュースに目が止まる。その見出しは、「電車内で死傷事件、無敵の人か」というものだった。
「無敵の人ね……」
仕事もせず、貯金もなく、親と疎遠で、友人関係は破綻、恋人なんて当然おらず、罰せられることを恐れない人間――それこそが無敵の人だと、記事はまとめていた。
それを見て、田辺は思う。自分も正に、この無敵の人なのではないかと。
日雇いのバイトで食いつなぎ、休日は朝から酒を飲むだけ。金が無いから遊びにもいけず、いつしか友人と呼べる存在は消えていた。田舎に住む親とはすっかり連絡を取らなくなり、安否すらもわからない。学生時代に恋人はいたが……こんな状態の自分が恋愛をするなんて、全く想像ができなかった。
ただ、生きているだけ。
人生の中で何を為すでもなく、何に成るでもなく――ただ生きているだけ。
そう気づいた瞬間、彼の中にユラユラと燃える炎が灯った。それは無意味な人生に終止符を打たんとする、決意めいた炎。同時に、救いのない社会に一石を投じてやりたいという、使命感にも似た炎だった。
暗く陰鬱な内心とは裏腹に、どこか晴れやかな面持ちで、彼は酒缶を片手に外へ出る。この燃える炎を消さないために、とにかく行動を起こさなければならないと思ったのだ。
しばらく町を歩いていると、脳内にどんどんとアイデアが湧いてくる。先人に倣って電車で暴れるのもいいし、どこかの学校に侵入するのも面白そうだ。
理不尽な社会に対する抵抗、手を差し伸べない者たちへの制裁……なるほど、行き詰まった時に散歩をする人が一定数いるのはこういうわけかと、彼は妙な納得感を覚える。
「……ん?」
ここ数年で一番の上機嫌さで歩いていると――視界の端に何かが映り込んだ。それは電柱に貼ってある、一枚のチラシ。そこには無駄な装飾は一切なく、太い黒文字で必要最低限な情報だけが書かれていた。
『無敵の人、大募集! 電話番号×××―○○○〇―□□□□』
「……」
何故こんなものに気を取られたのかと、田辺は首を捻る。恐らく、今朝方意識に上がった「無敵の人」という文字が引っ掛かって、このチラシを認識できたのだろう。普段なら気づきもしないが……しかし何という偶然か。
自分自身が無敵の人だと自覚したその日に、こんな訳の分からない文言を目にするとは、中々どうして小気味良い。彼は愉快な気持ちになり、ポケットから携帯電話を取り出す。面白半分、この番号にかけてみようという気になったのだ。
大方、いたずらか何かだろう。どうせ電話は繋がりはしないと思っていたが……番号を打ち終わり発信ボタンを押すと、プルルッとコール音が鳴る。
『はい、もしもし』
三コール鳴った後、電話の向こうから声が聞こえた。相手は年のいった男性のようで、しゃがれた声が鼓膜にこびりつく。
「……あの、もしもし? チラシを見てお電話したのですが」
『はいはいどうも。ということは、あなたは無敵の人ですね?』
「ええ、まあ……。お宅の考えるものとは違うかもしれませんが、概ねそうだと思います」
『結構結構。それでは、私がお迎えに上がりますので、今から言う場所までご足労の程お願い致します。なあに、そこまで遠くではございません』
相手は住所を告げると、他には一切を残さず電話を切った。言われた場所を検索すると、どうやら最寄りから二駅ばかり先らしい。わざわざ出向くのも面倒臭いが、しかしこんな手の込んだ悪戯を受けるのは初めてなので、彼は誘いに乗ることにした。
――それに俺は、無敵の人だ。何が起きても関係ない。
彼の人生の中で、今がとにかく全盛期であろうことは言うまでもない。その堂々とした態度と自信に満ちた足取りは、恐怖や心配事とは無縁の様相だった。
彼は電車に乗り込み、言われた通りの住所へ赴く。そこは都心ながら下町の風情を残した場所で、辺りに人通りはない。近所にこんなところがあったのかと驚きつつ、彼は来るという迎えを待つ。
程なくして、真っ黒なリムジンが田辺の真横に乗りつけられた。まさかこれが迎車なわけはないだろうと高をくくっていたが……運転席から初老の男性が降り、彼に近づいてくる。
「あなたが無敵の人ですね。お待たせして申し訳ありません。では、こちらにお乗りください」
電話の相手と同じくしゃがれた声の男は、そう促してくる。
「何だって? もしかして、これに乗っていくのかい?」
「ええ、その通りです。ささ、早く乗ってください。旦那様がお待ちです」
言われるがまま、田辺は車に乗り込んだ。一体どんな悪戯なのかと考えていたが、リムジンまで用意しているとなると……これはとんでもない事態なのかもしれない。彼は内心、少し焦り出す。
「それでは出発致します。お屋敷まではしばらくかかりますので、どうぞおくつろぎください」
運転席の男はそれだけ言って、車を発進させる。
くつろげと言われても、こんな高級車に初めて乗る田辺には、くつろぎ方などわからなかった。ソワソワと座り直したり車内を見渡したり、最初の数分はひたすら緊張していたが、しかしすぐに考えを改める。
――そうだ、俺は無敵の人なんだ。いつ死んだって構わないのに、ビビッてどうするんだ。
そう思うと、この状況を楽しむ余裕も生まれてくる。備え付けられているバーカウンターから高そうな酒を見繕い、グラスに注がずラッパ飲みする。
「ああ、愉快だ! どこに連れて行く気かは知らないが、俺は無敵の人だからな! 何があってもへでもないのさ!」
用意してあった酒を一頻り飲むと――酔いが回ったのか、田辺は眠りに落ちてしまった。
それから、しばらくして。
「……んん」
酷い二日酔いにうなされ、田辺は目を覚ます。ボーっと周りを見ると、見知らぬ大きな部屋にいることに気づいた。部屋の奥には、謎の暗幕。遅れて、自分が椅子に座らされていることにも気づく。
「目が覚めたようだね」
そう声をかけるのは、田辺の前で同じく椅子に腰かける男性。その見た目から、かなりの金持ちであることが窺える、気品ある出で立ちをしている。
「お、おい。ここは一体どこなんだ。それに、あんたは誰だ」
自分が置かれている状況に頭が追いつかず、田辺は焦る。しかし段々と頭が冴え始め、ここに至った経緯を思い出してきた。
「どうやら、頭がはっきりしてきたようだね。そう、私はあのチラシの募集主。君のような無敵の人を探していたんだ」
男は不敵に笑う。田辺を迎えに来た男と歳は近そうだが、しかしその佇まいや声のハリは全く別物で――全身から自信が溢れ出ているようだ。
田辺は直感する。目の前にいる人物は、成功者なのだと。自分のような底辺と比べるのもおこがましい、絶対的強者なのだと。
「さて……田辺健司くん。三十歳、独身。日雇いのバイトで生計を立て、ボロアパートに一人暮らし。交友関係はないに等しく、趣味と呼べるものも一切ない。休日は酒を飲み、動画配信サイトを見るだけ……ふむ」
男は何かの資料を見ながら呟く。いきなり個人的なことを並べ立てられ、田辺は驚きと共に恐怖を抱いた。
「……まさに理想だ! 君こそ、無敵の人だよ!」
男は喜びの余り立ち上がる。その感情の昂ぶりは些か狂気じみていたが、本人には関係のないことだった。
「失礼、取り乱してしまったね。では、早速だがこちらの用件を伝えよう」
男が指を鳴らすと、部屋の奥にかかっていた暗幕が上がる。
その先には――三つの扉があった。
「君にはこれから、あの扉のうちどれか一つを選んで、中に入ってもらう――
一つは、『野獣の間』。血に飢えたライオンが五頭、腹を空かせて待っている。もちろん、共食いをしているなんて間抜けなことはないから、安心してくれたまえ。
二つ目は、『針の間』。天井から無数の針が落下してきて、肉体を貫く。一本一本は小さいが、大量に用意しているから大丈夫だ。
そして最後が、『炎獄の間』。ここは至ってシンプルで、部屋の端から段々と火の手が回ってくる。私一押しの部屋だ、シンプルなものが好きなたちでね。
さ、どれを選んでくれるんだい?」
男の説明を、田辺は聞いていた。聞いていたが、しかし内容が頭に入ってこない。ライオンに針に炎だって? 冗談じゃない、そんなの――
「そんなの、死んでしまうじゃないか」
田辺の消え入るような呟きに、男は首をかしげる。
「当たり前だろう? 君は無敵の人なんだから、死んで当然じゃないか」
男の言葉を聞いて、田辺は小さく悲鳴を漏らした。
――何を言っているんだ、こいつは。狂っている。
狂人を見るような彼の目に気づき、男は心外だと言わんばかりに首を振る。
「田辺くん。田辺健司くん。仕事は日雇いで、ぼろっちい部屋に住んで、友人はいなくて、恋人もいなくて、肉親に愛想もつかされて、やることと言えば酒を飲んでくだらない動画を見るだけ……。そんな君だから、無敵の人になれたんだろう? 人生に意味がない者、意味を見つけられない者……そんな人間は、死んで当然じゃないかね?」
男は朗々と語る。
「大体、死んでもいいと思っているんだろう、君は。無意味な人生を終わらせたいと、そう思っているんだろう。だったら、その死を私にくれてもいいじゃないか。さあ、選びなさい。獣か、針か、炎か……。死に様を選ばせてあげるなんて、粋な計らいだと思わんかね」
気づけば、男は田辺の眼前に立っていた。鬼気迫る形相で、彼に死に方を選ばせてくる。
どの部屋に入るか、選択を迫る。
「ちょ、ちょっと待って……」
「何を待てというんだね? 君の人生は、これから先、いつまで待っても好転なんかしやしない。このままズルズルと日銭を稼いで、何も為さずに終わるだけだ。ならばここで死んでくれ。
私はね、人が死ぬところを見るのがたまらなく好きなんだよ。
人生最後に、誰かの役に立てるなら本望だろう? さあ、遠慮することはない。どうせ死んでも気にしないのだろう、君は。だって、無敵の人なんだから」
男に両肩を掴まれ、田辺は恐怖する。そこには、死を恐れない今朝の彼の姿はなかった。
――いやだ、いやだ! 死にたくない!
彼はグッと両腕に力を込めると、男を突き飛ばす。そして一目散に部屋を飛び出し、そのままの勢いで屋敷の窓を突き破る。ここがどこかはわからないが、とにかく逃げなければ! 彼は明確な意志を持って、暗い夜道を走り去った。
夢中で走った田辺は、なんとか駅を見つけ、電車に飛び乗る。
警察に通報するとか、誰か人に助けを求めるとか――そんなことは考えていなかった。
今はただ、あの部屋に。
自分の住むボロアパートに、帰りたかった。
電車に揺られながら、彼は考える。
――そうだ、いくら意味のない人生でも、死んだら終わりなんだ。他人を殺して社会に抗ったって、それで死刑になったら元も子もないじゃないか。
――ああ、生きているって素晴らしい!
車窓からのぞむ何でもない町の風景を見て、彼はそう思ったのだった。
『昨晩二十二時ごろ、○○線内で無差別殺人事件が発生し、犯人の三村隆が現行犯逮捕されました。警察によると、昨今多発する無敵の人事件に触発され、犯行に及んだそうです。亡くなられたのは、東京在住の花崎舞さん、田辺健司さん、近藤さちえさん……』
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