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エピローグは神様と 004

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 十月九日。

 叶凛音の、十六歳の誕生日。

 本来なら喜ぶべきこのイベント当日の朝を――俺は陰鬱とした気持ちで迎えていた。

 『悪夢ブラックカーペット』を殺したあの日から。

 凛音の声が――聞こえなくなったのだ。

 橙理の手によってこの部屋に魂を移された彼女は、姿は見えずともその声を感じることはできた。

 毎朝、おはようと挨拶をしてくれて。
 家を出る時は、優しく見送ってくれて。
 帰ってきたら、暖かく迎え入れてくれて。
 眠る前は――おやすみと言ってくれた。

 妹を助けられなかった引け目から、長い時間の会話はできなかったけれど……それでも、些細な会話ができるだけで、俺は救われていた。

 救われていた――なのに。

 この一週間、彼女の声が聞こえない。
 元々、死んだ人間と会話ができるという状況の方が異常ではあったのだが……それは神様と奴隷契約を結んだ見返りであって、異常が常識だったのだ。

 だが今になって、その常識が崩れ去った。

 異変に気付いたのは、俺のことを心配した立花の電話を終えて、しばらくしてからだった。いつまで経っても凛音の声が聞こえず、いくら問いかけても自分の声のみが反響する部屋で一人――俺は、今までに味わったことのない焦りを覚えた。

 次いで、恐怖。
 最後は、悲しみだった。

 俺は急いで橙理に連絡を取ったが……全く応答がない。今日に至るまで何度電話をしたかわからないが、ただの一度も、彼の携帯につながることはなかった。

 もちろん、直接会うために第四研究棟目指し、キャンパス内をくまなく探したが……あの白い建造物の影も形も、そこにはなかった。
 渚さんや江角さん、立花に声をかけるも、誰一人として橙理の行方を知らず。

 天津橙理と叶凛音は。
 俺の前から――完全に消えてしまったのである。


「……」


 そして迎えた、十月九日。
 布団から這い出る気も起きなかったが、橙理を探さなければという脅迫めいた思いはあるので、何とか体を這い出させる。

 無力感と悲壮感に苛まれながら体を起こし、洗面所で顔を洗う。冷蔵庫の残り物を食卓に並べ、食べたくもない朝食を喉に流し込む……無理矢理にもそうするのは、最低限人間としての生活を保たないと、自分の存在まで消えてしまいそうだからだ。

 叶凛土の魂は――もう死んだ。

 妹を助けるために自殺を思いとどまった俺は――その妹を無くしてしまったことで、生きる意味を見失ってしまったのである。

 それでも、まだ辛うじて生きられているのは。
 もしかしたら、朝起きたら凛音が戻ってきているんじゃないかと。
 そうやってズルズルと、惰性を引きずっているからに他ならない。

 当たりの入っていないくじ引きを、永遠と繰り返しているような感覚。
 中身が見えない以上、最後の一枚を引くまでは希望を持ってしまう――例え、事前に当たりがないことを聞かされていたとしても。

 それが、一度異常を常識と知ってしまった者の末路。
 神様を知ってしまった人間の――成れの果て。


「……」


 冷えたおかずと米を、温めることもなく口に運ぶ。こんなのはただの栄養補給で、一日でも長く生きるための手段でしかない。

 生きる……と言うのは、少し違うか。

 毎朝、目を開ければ凛音がいるかもしれないという希望。
 希望と呼ぶには浅ましすぎる、そんなくじ引きのために――叶凛土は、何とか生命活動を維持しているのだった。


「……」


 ここ最近の日課は、朝、凛音がいないことを確認し、橙理を探しに大学へ行く。閉門時間までキャンパスを練り歩き――部屋に戻って寝る。そのルーティーンだ。

 初めの内は、構内で俺を見つけた立花が声をかけることもあったが……今は意図的に会わないようにしてくれているのだろう、彼女の姿を見かけることもなくなった。

 そんな風に無為に無味に、日々を過ごしている――本当は二カ月前に終わっていたはずの命だ、どう無駄に使おうと気が咎めることはない。


「……」


 俺はまずい朝食を食べ終え、食器を片付ける。そして、着の身着のまま家を出ようと、戸に手をかけた時。


 ブーッ、ブーッ


 ポケットの携帯が――振動した。


「……っ!」


 液晶には――ゴシュジンサマの文字。

 実に一週間ぶりとなる、天津橙理からの電話だった。

 そしてその電話は。

 この世の何よりも、心待ちにしていたものでもある。


―――――――――――――――――


「お久しぶりです、凛土先輩」


 天津橙理は白々しく、そう挨拶をする。一週間という期間を長いと捉えるかは人によるだろうが、しかし俺にとって、この一週間は永遠に感じられた。
 だからこうして六十四研究室に入るのも、気持ちとしては百年ぶりくらいに思える。


「……橙理。説明してくれ」


 今朝の電話で、彼は一言、会いにきてくれとだけ言った。問い質そうと思っていたあれこれを全部無視された俺は、全速力で大学まで走ってきたのである。

 積もる話は何もない――聞きたいことはただ一つ。


「凛音は……死んだのか」


 俺の妹は。
 もうこの世に、存在しないのか。


「まず一つ、先輩に言っておくことがあります」


 橙理はソファから立ち上がり、部屋の入り口で立ちすくんでいる俺のところまで歩いてくる。その一々芝居がかった動きは普段ならイラっとくるだろうが……今はただ、知りたい。

 妹に、何があったのかを。

「……言っておくことってのは、なんだ」


「僕は性格が悪いということです。性根が腐って曲がっています……実は、その自覚はあるんです。まあ、それを悪いとは微塵も思っていませんが」


 自分の性格の悪さをよくご存じのようだが、そんなことを改まって言われても挨拶に困る。


「そして次に、僕は契約を必ず遵守します。凛土先輩と結んだ奴隷契約も、例外じゃありません」


 俺は右腕を捧げ、カワードを喰う。
 橙理はその見返りとして、凛音を助ける。


「結局、何が言いたいんだよ、お前は」


 橙理に対して怒りを感じた時もあったが、その感情はすでに消えていた。
 今はただ、妹のことだけが気がかりだ。


「言いたいことはこの二つだけです。ですから、ここから先は別に言わなくてもいいかなーと思ってますが、一応口にしますね」


 いつのまにか、橙理は俺の眼前まで近づいてきていた。その美しい顔を惜しげもなくひけらかしながら、彼は邪悪な笑みを浮かべる。


「僕は、あなたのことを結構気に入っているんですよ。それこそ、食べてしまいたいくらいに」


 ゾクッとした気配が全身を撫でる。考えないようにしていたが、死んでも死なない俺の最期は――きっと、この真っ白な神様の胃袋の中なのだろう。


「そして……僕は気に入った人間をとことん甘やかすのが好きなんです。愛情表現の仕方には、我ながら歪さはありますけどね」


 僕は性格が悪いんですよ、と言って――橙理は俺の頬を撫でる。その手は氷のように冷たく、全く体温を感じない。


「……」


「その目、ご主人様に向けていい目ではないですが……今日のところは許しましょう。何と言っても、今日はおめでたい日ですから」


 悪魔みたいに笑う橙理は、俺の顔から手を離す。そして、おもむろに後ろに振り返った。

 彼の視線の先には何もない……元々、この六十四研究室は白が支配する空間で、目をやる場所なんてないのだが。

 ……いや、一か所だけ。

 部屋の中央に、四人掛けのソファが鎮座している。

 そして珍しいことに、橙理はあのソファを離れて、部屋の入口までやって来ている。思い返せば、こいつがあの場所からここまで距離を取るのを――俺は見たことがなかった。


「そう、今日はおめでたい誕生日。生命の神秘に、生んでくれた親に、育った環境に、関わってきた全ての人に、そして何より自分自身に感謝する……そんな特別な日です」


 芝居じみた大仰な手振り。耳にすっと届く澄んだ声。そして浮かべる、悪魔みたいな笑顔。

 ただまあ。

 悪魔って奴は……きっとこんな風には、笑わないんだろうけど。


「オーディエンスは少ないですが、是非温かい拍手でお迎えください」


 天津橙理は――右手でソファを指し示す。

 四人掛けの、大きめのソファ……その裏には。

 人一人くらいなら、余裕で隠れられるだろう。



「本日の主役の登場です」



 橙理の声を合図に。

 ソファの裏から――人影が現れる。

 その姿を、俺は忘れるはずがない。
 忘れるわけはない。

 誕生日に着るにしては豪華すぎる真っ白なドレスも――彼女が身につければ、嫌という程様になる……なんて言うと、渚さん辺りにはシスコンと呼ばれちまいそうだが。



「えっと、その……」



 橙理に促されるまま演出に従ったであろう彼女は、その小さな口をまごつかせる。何を言うか、セリフの指定まではなかったらしい。

 気づけば。

 おろおろと戸惑っている彼女の元まで、駆け寄っていた。

 俺は震える彼女の体を――強く抱きしめる。

 触れる。
 見える。

 確かに――ここにいる。



「おかえり、凛音」



 不思議と涙は出なかった。誕生日の席で号泣するのも罰が悪いし、自分の涙腺に感謝しよう。

 それに。
 兄としては――妹に格好悪いところを、見せるわけにはいかない。



「ただいま……お兄ちゃん」



 それ以上の言葉はいらなかった。
 俺と凛音は強く、互いを抱きしめ合う。
 その存在を、決して手放さないために。
 もう二度と――失わないために。



「あんまり長いこといちゃつかれても、見ているこっちが赤面してしまいますよ。それも実の兄妹でだなんて……ハグは程々にしてくださいね」



 そんな水を差す橙理の声で我に返る。

 俺と凛音は顔を見合わせ、恥ずかしさから目を逸らしてしまう。本当に、実の兄妹で何をやっているんだという反応だが……このくらいは許してほしい。

 やっと。
 やっとこうして――会えたのだから。


「我ながら、最高のバースデープレゼントだと自負していますよ。いかがですか、凛土先輩」


 ニヤニヤと笑うご主人様に、今回ばかりは悪態をつくわけにはいかない。
 俺はまっすぐ、橙理の目を見つめる。


「ありがとう、橙理」


「そんな風に素直に言われると、こっちも照れますね……ま、こういうわけですよ、凛土先輩。この一週間、音信不通で心配したかもしれませんが、全ては今日のため。俗に言う、サプライズバースデーってやつですね」


 心配したなんてレベルじゃない程心配していたが……なるほど、サプライズね。
 それにしたって、心臓に悪すぎる。


「少しは怒られるんじゃないかと思ってましたが、意外と冷静ですね」


「いやまあ、怒りたい気持ちもあるけど……妹はいきなりいなくなるし、お前は連絡つかねえし。でもまあ、その結果がこのプレゼントなんだとしたら、怒るに怒れねーっつーの」


 それ程までに、凛音の登場は衝撃的だった……と言うか、正直まだ、実感がない。
 俺と橙理の会話を一歩引いて眺めている彼女は――魂なんていう曖昧なものではなく、実体としてそこにいる。


「一つ注釈をしておくと、妹さんはまだ魂のままです。完全な人間には戻れていません。ご本人には伝えてありますが……僕の支配する第四研究棟の中なら、こうして実体を持てるようにはなりました」


「……」


 さすがに、凛音が人間に戻れたなんていう、都合のいい話はなかった。

 だが、第四研究棟の中にいれば――彼女の顔を、見ることができる。
 笑顔も、怒り顔も、泣き顔も。


「妹さんをこの状態に持っていくのに五日間、事情を飲み込んでもらうのに二日かかってしまいましたが……何とか誕生日に間に合いました」


 誇らしげに胸を張る橙理だった。いつもなら調子に乗るなと言っているところだが、今日だけは許そう。


「事情を飲み込んでもらうってのは、どこまで話したんだ?」


 俺は凛音に聞こえないよう、小声で橙理に話しかける。


「大枠だけです。僕が神様であることと、凛土先輩は僕の手伝いをしているということ。その報酬として、妹さんの魂を救ってあげているということを、虚実ない交ぜにして伝えています。先輩が何を手伝っているのかまでは、今のところ伏せてありますよ」


 だとしたら、俺がカワードを殺し回っていることを――凛音は知らないのだろうか。
 その業について話すには、まだ時間がかかりそうだ。


「あのぉ……」


 しばらく会話の外に置かれていた凛音が、申し訳なさそうに声をかけてくる。


「どうした、凛音」


「ちょっとまだ、わからないところとか、聞きたいことがあるんですけど……神様に」


 彼女の中で現状にどう折り合いがついているのかはわからないし、未だ折り合いなんてついていないのかもしれない。

 でも、それはこれから――いくらでも知ることができる。
 俺たちはまた、互いの目を見て、話すことができるんだから。


「まあまあ、そういう堅苦しいことは、後でいくらでもお話しましょう。今はほら、誕生日会ですから……せっかくいろいろ準備したので、是非楽しんでください」


 橙理はそう言って、軽快に指を鳴らす。その音が耳に届くと同時に、真っ白だった世界が一瞬、ブラックアウトした。突然のことに驚いた次の瞬間――目の前が明るくなり、景色ががらりと変わる。

 その場所は、なぜか見覚えがあって。
 妙に懐かしくて。

 せき止めていた涙が――零れ落ちてしまいそうな。



「……うちの、リビングだ」



 凛音が言った。そう、俺たちはいつの間にか、叶家のリビングにやってきていたらしい。
 しかしそこは、あの事件が起きる前の――心の底から落ち着ける、暖かな雰囲気に包まれていた。


「今日はここで、兄妹水入らずで楽しんでください。料理も一通り用意しましたが、もし作りたければ冷蔵庫のものを適当に使ってくださいね」


 眼前の光景に圧倒されている俺と凛音に、橙理が声をかける。


「……おい、橙理。これ、一体どういう……」


「こら、先輩。ダメじゃないですか、理屈っぽく考えちゃ。神様からの小粋な贈り物なんですから、細かいことは気にしないで、存分に楽しめばいいんですよ」


 そう言って笑う彼の顔は――初めて。
 優しさだけでできているような、そんな笑顔に見えた。


「天津さんもそう言ってることだし、楽しもうよ、お兄ちゃん。難しい話は、また今度、時間のある時でいいからさ」


 凛音にまでそう促されてしまった。彼女は年相応のはしゃぎっぷりを見せながら小走りし、懐かしの椅子に座る。

 そこは、凛音の席。
 そしてその隣が――俺の席だ。


「……ああ、そうだな」


 俺は後ろを振り返り、橙理と相対する。本当は訊きたいことは山程あるし、言いたいことも星の数程あるが……今は、とりあえず。


「ありがとう、本当に。お前、最高のご主人様だぜ」


「いえいえ。凛土先輩こそ、素晴らしい奴隷ですよ。味も格別ですしね」


 では僕は失礼しますよと、橙理は家の玄関に向かって歩く。言葉の通り、兄妹二人だけにしてくれるらしい。
 なんだか、この数十分であいつの株が急上昇していくが……まあそれも、当然と言えば当然なのかもしれない。

 だってあいつは――神様なのだから。
 どんなに嫌味ったらしくても、死ぬ程意地が悪くても――彼の本質は、人間を救うことにあるのだろう。

 そんなことを言ったら、笑いながら否定すると思うが。

 それでも。

 叶凛土と叶凛音の兄妹は――あの真っ白な神様に、救われたのだ。



「あ、そうそう。数日したら江角さんからカワード討伐の依頼がくると思いますから……その時は活躍を期待していますよ、奴隷さん」



 こちらに振り返ることなく、橙理は言う。それは彼なりの照れ隠しなんじゃないかと邪推しつつ、俺は頷いた。



「おう。任せてくれ――ご主人様」



 こうして。

 天津橙理と叶凛土の奴隷契約は、反故にされることなく続いていく。

 凛音が、完全な人間に戻るその日まで。
 そして多分、もっと先まで。


 神様の奴隷になった俺は、今日も異能を喰い尽くす。


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