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悪夢 007
しおりを挟む『悪夢』の作り出した悪夢。
そこに引きずりこまれた人間は、耐えがたい苦痛によって精神を破壊され。
同時に――現実の肉体も消滅する。
どんな相手も気づかぬ間に眠りに落とし、肉体ではなく内面に攻撃を仕掛けるなんて……ほとんど最強に近い能力だ。さすが、『凶器の愛』や『巨獣』と並んで、『最悪の世代』と称されているだけのことはある。
そしてこの能力は、俺にとって天敵と言ってもいい。
叶凛土が死後生き返るには、右腕に宿る『飼い犬』が俺の死骸を食べる必要がある。精神の死と同じタイミングで肉体が消滅してしまう『悪夢』の能力は、俺が生き返る唯一の手段を消してしまうものなのだ。
だから――一つ。
俺が自分の肉体を残した状態で、この悪夢から抜け出す方法は、一つしかない。
それは考えてみれば単純なことで、思いつきさえしてしまえば拍子抜けする程あっさりとした回答だった。だが同時に、神様の奴隷である俺にしかできないウルトラCでもあるのだが。
『悪夢』の攻撃によって精神が死ぬことで、肉体が消滅してしまうのなら。
別の手段で死ぬことができれば、叶凛土の死体は消えることなく、『飼い犬』はその死骸を貪ることができる。
そしてその手段とは。
俺が俺自身を――殺すことだ。
【右腕の獣が鼻を鳴らす。どうやらこいつは、人間の頭部がお気に入りのようだ。なら、さっさと「食事」を始めよう。ありったけの苦しみを、果ての見えない絶望を、決して消えない不幸を――存分に、味わい尽くそう】
ゴリッ
「なっ、何をしている!」
石島煉瓦は事ここに至って初めて、そんな驚きの声を上げる。
頭の右側を無くしてしまったのではっきりとは聞こえなかったが――憎い相手に一杯食わせてやれたのなら上等だろう。
「――――」
俺は捨て台詞でも吐こうと思ったのだが、すでに意識は獣の口腔内へと吸い込まれ、言葉を発することはできなかった。まあそもそも、顔面の右半分を喰わせてしまった時点で、会話なんてできるはずもないのだが。
「……気でも触れたか、叶凛土くん。どうやら、神様の寵愛を受けたという君を買いかぶっていたようだ」
そんな感じのことを言いながら落胆している『悪夢』だった。それもそうだろう。あいつから見れば、俺は悪夢に耐え切れずに気が狂った精神異常者。自分の能力で自らの頭を食いちぎるなんて、最高に滑稽だ。
だが――これでいい。
叶凛土が『悪夢』を殺し、尚且つ生き返るためには……奴の能力でこの身が壊れてしまう前に、自ら命を絶つしかなかったのだから。
自殺。
それが俺に与えられた唯一の選択肢だったのである……我ながら、拍子抜けする程簡単な方法だ。
しかし、それ故に。
簡単すぎるが故に、通常の思考回路ならば思いつかなかったかもしれない。
『悪夢』に対する怒りが。
右腕の獣に自分の頭部を喰わせるなんていう、考えただけでもゾッとする蛮行を可能にしたのだ。
「っ―― ―― ―――」
さっきまでの悪夢とは比べ物にならない痛みが、無くなった右顔面から流れ込んでくる。いつもは肉体というクッション越しに喰われていたが、今は叶凛土の魂を直接喰わせたからな……やべー、もっと他の死に方がよかったと後悔しかない。
「……神様の寵愛を受けた者の末路は、所詮こんなものということか。有益ではあるがくだらないものを見せてもらったよ」
気が狂った末に自殺したと思ってやがる石島は、そんな風に憐れんでくる……まあいいさ。精々憐憫でも悲哀でも余裕でも油断でも、好きに感じているといい。もう少ししたら、お前も獣に喰われるんだからな。
「――――――――………………」
ブツブツと、意識が細切れになる間隔が早くなる。うん、どうやらそろそろ死ぬらしい。
このまま俺の魂が死んだら――現実世界の俺の右腕から、獣が解き放たれる。
そして石島は思うだろう――ああ、なんて卑怯なんだと。
だからやっぱり、叶凛土は卑怯者なのだ。右腕に獣を宿した俺は、自分が死んだにも関らず、復讐を成立させる。
卑怯者――カワード。
俺も随分と、立派な悪者に成長してしまったようだ。
「 」
頭が真っ白になる。最後に一欠けらだけ残っていた魂の残滓も消え去り、俺は見事、自殺に成功したらしい。
あとはあの性悪な獣に任せよう。頼りにしてるぜ、右腕ちゃん。
……そう言えば、『悪夢』に言い残してしまったことがあった。もう二度と出会うことはないので気にしても仕方ないとはいえ。
折角なので、生き返る前に訂正させてもらうことにしよう。
奴は俺のことを、「神様の寵愛を受けた者」なんて大仰に評していたが――事実は全く異なる。とんだ風評被害だ、虫唾が走る。
俺はあの白無垢な程真っ白で、悪魔より悪魔染みている――天津橙理の。
神様の、奴隷だ。
―――――――――――――――――
「叶凛土、か」
俺は目の前で力なく倒れている青年を一瞥する。その右腕は人間のそれから変貌を遂げ、白い獣の頭部になっていた。獣は気味悪く浅い呼吸を刻んでいるが、直にその命も潰えるのだろう。
「……白い。嫌になる」
あれは何年前だったか。『悪夢』の力に目覚めてから暫らく経ち、俺の名前――石島煉瓦の名が『最悪の世代』に加えられた頃だったように思う。
俺は一人の――神様に出会った。
人は俺を不気味だの不吉だのと称すが、あの真っ白い神様を知っている身からすれば、彼の方がよっぽど黒々しい。
叶凛土くんがあの白い神と関係があるのか、はたまた全く別の神様から力を得たのかは知らないが……とにかく、俺は勝った。
悪夢は神に勝ると、証明した。
それだけも、三度この町に赴いた甲斐があったというものである……八月に来た際には、結局神様の「か」の字も見ることができなかったからな。
「さて……」
だがしかし、まだやり残したことがある。俺の悪夢からどういうわけか抜け出し、頭部だけになりながらも生きながらえている娘……その魂に後始末を点けなければならない。兄は神から寵愛を受け、妹はしぶとくも死に切っていないとは……何とも不可思議な兄妹だ。
「……」
俺は地下病棟を後にするため、階段に向かう。外には四脳会の連中がうろついているだろうし、面倒なことになる前にさっさとお暇しよう。また何人か人死にが出るだろうが、ここまで派手に暴れてしまっては奴らとの戦争は避けては通れない確定事項だ。だったらいっそのこと開き直って、全員殺してしまうのも――
ゴリッ
俺は膝から崩れ落ちる。気が抜けたとか力が入らないとか――そんな心の持ちようの話ではなく、物理的に。
左脚の膝から下が――無くなっていた。
「――――――――」
俺の背後に。
白い獣が、大口を開け佇んでいた。
口元には、真っ赤な液体。
虚ろに落ち窪んだその両眼は、痛みに歪む俺の顔を映しているのだろうか。
「――――――――」
獣は声にならない叫びを上げる。それは動けなくなった獲物を前にした高揚感からか、それともただの生理的反応か。
とにかく、確かなことは。
神様に喧嘩を売った者は――往々にして天罰を受けるということだけだった。
「卑怯者が……」
俺の今際の際セリフは。
獣の口腔内へと、吸い込まれていく。
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