うさぎ穴の姫

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 ニームは三階にある研究室の窓からから、沈んでいく夕日を眺めた。ニームは夕日をみるといつもダンケルクのことを思い出した。あのときのダンケルクは、いまの自分のように夕日を眺めていた。自分の運命は、あのときからずれ始めてしまった。ブラーヴで一生を過ごすと思っていた自分が、もう十年以上ブラーヴに足を踏み入れることがないなんて。十年どころか、もうすぐ二十年も経つことになってしまうなんて。
 ニームが研究に手がつかず、ぼおっと窓際に立っていると、研究室のドアがあいた。ノックもなしに入ってくるから、といっても、仮に同僚同士でもノックくらいはするものだが、少なくとも外部の人間ではないだろうと、ニームはまんじりとした様子で振り返った。もしかしたら彼女が忘れものをとりに戻ったのかもしれない。もしそうなら、ぼくもいまから帰るところだと、彼女にいってみようか。
 しかし、ニームのそんな淡い思惑に反して、ドアの開いたところからこちらをのぞいていたのは、ニームの腰の位置にも届かないくらいの、小さな男の子だった。
「おや」ニームはそういって、男の子のほうに近づいた。一見、おとなしそうな子ではあるが、研究室には危険な薬品も多いし、貴重な資料もある。「ここはあぶないよ。お母さんやお父さんはどこだい」
 ニームは優しくそう話しかけた。
「おじさん、だれ」男の子はそういった。
「ここで働いているんだ」ニームはそうこたえた。
 ニームは子どもには慣れていなかったが、これと似た状況には慣れていた。ニームが所属する大学は病院を同じ敷地内に併設していたから、親からはぐれた子どもが大学のほうに迷い込むことはたまにあった。大学のそのような解放性というか、警備を甘さに、ニームは始めは驚いたものだったが、いまでは慣れたものだった。
「ここはきみみたいな子どもがくるところではないよ」ニームは愛想のない平坦な声でそういった。「早く親のいるところへ戻りなさい」
 たいていの子どもはこういえば、おとなしく引き下がっていくものだった。でもこの男の子は、ニームの言葉に不思議そうに、小鳥のように、首をかしげた。「ぼくはここに用があるんだよ」
 ニームはその突拍子もない言葉に、思わず鼻で笑ってしまった。それはもはや侮蔑といってもよいものだった。ニームは子どもの不合理な言葉を不合理のまま受け取り、そこに隠された子ども心やシンボリックな価値などは一切解釈しようとしない男になっていた。有り体にいえば、ニームは子どもに冷たかった。





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