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虫圭

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二章 chocolate brothers

2月21日『新しい日常』

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 がらんとした無駄に広い空間で、私は『ウウウウ……』と静かに唸る巨大なプレハブ型の箱を前に、椅子に座ってそれを眺めていた。
 20畳もある私一人には広大とも言えるリビングルームの一角にある箱は中に入る為の扉が一ヶ所あって、扉の脇には箱の中の温度が一目で分かるデジタルタイプの温度計が付いている。
 常に聞こえる箱の唸り声はなんだか無気味で、この箱が意思をもって自分の役目を果たしていると私に訴えかけているようにも感じた。
 椅子から立ち上がり温度計の数字を覗く。
『-18℃』
 この箱は中に在るもの全てを氷点下の冷気で凍り付かせ、そのものの時間を停止させる力を持っている。
 そういう目的で作られた機械なのだ。
 箱の中で、透明なガラスケースに収められ眠っているお兄ちゃんの時を停めて、いつまでも変わらない姿のままでいさせてくれる、今のお兄ちゃんにとって一番必要な状態維持装置だ。
 そしてお兄ちゃんを必要としている私にとっても欠かすことのできない機械だと言える。
 二坪。
 およそ6.6平方メートル。
 つまり4畳ほどもある空間で、確実にお兄ちゃんの身体の劣化を阻止してくれる業務用の冷凍庫である。
 私は扉の取っ手を掴み、逡巡し、手を離して椅子に座った。
 さっきから何度もこれを繰り返している。 
 扉の開閉のたびに庫内の温度は上がってしまうので、頻繁に開けるワケにはいかないのだ。
 温度計を覗いては-20℃を越えたのを確認して扉を開け中に居るお兄ちゃんの姿を眺めて、扉を閉めてまた庫内の温度が下がるのを待つ。
 今日1日だけで何度これを繰り返しただろう。
 私は椅子に背を預け、早く冷えないかと冷凍庫をじろじろ眺めてから、今頃元私がいたお店で働いているだろうミホさんのこと思い出す。

 この冷凍庫と、冷凍庫を設置して管理するための家を手配してくれたのはミホさんだ。
 ミホさんと交友の深い不動産会社の女社長と、食品流通会社の社長婦人にミホさんが口添えしてくれた。
 お陰で私は暮らしていたアパートより遥かにお兄ちゃんを安置するのに適した環境を手に入れ、お兄ちゃん自身を守る為の機材と知識を手に入れることができたのだ。
 実は私が自分で手配していた大型の冷凍庫はちょうど大人一人が横になって収まるくらいのサイズだったのだが、それはつまりお兄ちゃんを直接冷凍庫に入れることになってしまう。
 そうすると肌やお兄ちゃんを包むものが直接凍ってしまい、お兄ちゃんの身体を傷付けてしまう可能性が高いとミホさんから指摘された。
 さらに、大型の冷凍庫は当然家庭用の冷蔵庫などよりも多くの電気を使用する。
 私が住んでいたアパートにそのキャパシティがあるとは到底思えないと突っ込まれた。
 これには私の浅慮を大人しく反省するしかなくて、ミホさんの助言と助力を以て環境の改善を図るしかなかった。
 謎の幅広い交遊関係を持っていると思っていたミホさんだが、どうやら仲良くなったハイソな人から広がった有力者のネットワークだったらしい。
 まあ、それは考えてみれば当然そういうことになるのだろうけど、私はミホさんを一介のショップスタッフでしかないと思っていたからこそ頭を捻らせていたのだ。
 しかし、お屋敷とでも言えば良いのかという広さの紹介してもらった家に引っ越してきた時に、ミホさん自身が何かの会社の社長令嬢だと聞いて納得した。
 納得した反面、なぜそんな人が地方のショップで働いているんだろうと新しい疑問も持ったが、その時はミホさんは「自分の力で頑張ってみたかったの」としか言わなかった。
 事実であり、理由の半分なんだろうと思った。
 ともかく、私はほとんどミホさんのお陰でお兄ちゃんの為の新しい環境を手に入れることができたというワケだ。
 むしろミホさんがいなかったらーーと言うかあの時ミホさんが私の家を訪れなかったらーー劣悪な環境でお兄ちゃんを傷付け、そのうちお兄ちゃんを完全に喪って悲嘆に陥っていたことだろう。
 人生、何が起こるか分からないし、何が切っ掛けで事が上手く運ぶか分からないものだ。

 私とお兄ちゃんの二人で過ごすには広過ぎるリビングで、何をするでもなく椅子に腰掛け、たまにお兄ちゃんの様子を、いや、お兄ちゃんの顔を眺めて過ごす。
 私が手に入れたのは、そんなささやかな幸せ時間だった。
 私が欲しかったのは、この程度の幸せだったんだ。
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