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二章 chocolate brothers
2月20日『Petit à petit l'oiseau fait son nid(鳥は少しずつ巣をつくる)』
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血の繋がった兄妹とはいえ、今目の前にあるのは人の死体だというのに、嬉々として『お兄ちゃんと私』には未来があると言っている。
ゆかちゃんは一体何を言ってるの?
誰がどう見てもこんなのオカシイ。
病んでる、なんてものじゃない。
明確に精神に異常をきたしてる。
私は、どうするべきなのだろう。
「ゆかちゃん……私、ゆかちゃんと、友達になれるかな……?」
お兄さんの窪んだ瞼を人指し指でなぞりながら、にこにこと私を見るゆかちゃんに問い掛けた。
「どうでしょう。ハッキリ言って分かりません」
痩けた頬に手のひらを当てて、慈しむようにさするその仕草は、見方によっては母性を感じさせるものがあった。
「でも、一つだけ言えるのは、もし、ここでミホさんが協力してくれないと答えたなら、このまま帰すワケにはいかなくなるなぁ、ってことです」
それはつまり、そういうことなのだろうか。
「生きて帰さない……ってこと?」
ずず、と私は左足をすって後退る。
「まさか。そんなワケないじゃないですか。人殺しの罪に問われるのはゴメンですよ。お兄ちゃんは社会と既に関係を断ち切ってたから、死後数日経っても問題になってませんけど、ミホさんが数日音信不通になったらどこかの誰かがきっと騒ぎ立てるんじゃないですかね?」
確かに、一人暮らしではあるものの、お店で仲の良いお客様からお茶や旅行のお誘いを受けたり、お客様から紹介された異性と食事に行かなくてはならなかったりと、私の休日はあまり自由な時間があるとは言えない。
私が突然行方不明になったりしたら、直ぐに警察が動いたりするのかもしれない。
「じゃあ、もし私が協力を拒んだら、ゆかちゃんは私の口をどうやって封じるの?」
退路は問題ない。
ゆかちゃんはベッドの横で膝を付いて座っているし、部屋の扉は開いている。
今走り出せば、難なく私はこの部屋から出ることができるだろう。
ゆかちゃんが手元に危ない物を持っている様子はないし、辺りにそれらしきものも見当たらない。
それに、ゆかちゃんが言うようにせっかく安全と言えるような環境にあるゆかちゃんが、わざわざ危ない状況に足を突っ込むとは思えない。
思考や趣向は普通じゃないゆかちゃんだけれど、とても頭の回転は速くて鋭い。
私を裏切らせない何か特別な方法があるということなのだろうか。
「いえ。特に何か思い付いてるワケじゃないです。電話の時にも言った通り、私とミホさんの関係は、私が会社を辞めた時に既に決着がついていたと思ってたので。家に様子を見に来たことも予想外でしたし、こうして家に上げる予定もありませんでした。全部想定外です」
ゆかちゃんはあっけらかんと言い切った。
「……それじゃあ、バレる覚悟ができてるってことなの?」
これだけのことをしているのだから、そういう覚悟がとうにできていて、それでもこの状況を選んだということなのかもしれない。
「うん……と……まあ、確かに、いつか何かの切っ掛けでお兄ちゃんのことがバレて、私が犯人だと言われ、罪に問われて罰を受けることになるのかもしれない、とは考えなくはないです。でも、そんなの言ってても仕方がないんです。不幸な未来の可能性はいつだってゼロじゃないんですよ」
ゼロになることなんてないんです。
そう言って、ゆかちゃんはお兄さんの方に顔を向けた。
私から目を逸らした。
私が逃げてしまうかもしれないのに。
逃げ出して、警察に駆け込んでしまう可能性だってゼロじゃないのに。
「でも、私は感謝してるんです」
「え?」
唐突に放たれたその違和感のある言葉は、とても聞き慣れた言葉の筈なのに、今この場にはとても不似合いで、一瞬初めて聞いた言葉のように感じた。
「ほら、ミホさんにも教えたことあるじゃないですか。『今に感謝する』って考え方ですよ。私が両親から教わったもので、大好きな考え方ってやつです」
「そう言えば、うん、聞いたことあったね。良いことも悪いことにも感謝するってやつだよね?」
「ちょっとニュアンスが違いますね。『良いことにも、良くないことにも、感謝する』が正解です」
ん?
どこが違うの?
「ゆかちゃん、違いが分からないんだけれど……」
「えぇー? 全然違いますよ。いいですか? 『悪いこと』、じゃなくて、『良くないこと』、です。大事なのは、『悪いことなんか無い』ってことです。悪いと感じているのは、主観であって、感情論なんですよ。『悪いこと』なんてホントは無くて、『良いことではないこと』があるんです。だから『良くないこと』なんですよ」
……んん?
「ごめん、ちょっとまだよく理解できてないかも」
「ええー!?」
え? そんなに驚くこと?
ゆかちゃんの目は、信じられないものを見るような目で、私が完全に誤っているということを訴えかける目だ。
それでも、私はその違いがよく分かっていないのだから仕方がない。
「ミホさんって、やっぱり頭が固いですよねぇー」
「ひどい……」
「けっこう大きな差があると思いませんか? 『良くないこと』と『悪いこと』って」
「んんん……まぁ、言われてみれば」
「『悪い』って、見る側感じる側が決め付けてるじゃないですか。『良くない』は、悪いかもしれないしそうじゃないかもしれない、って、可能性を残してるんですよ」
「ううん?」
「例えるなら戦争ですよ」
「え?」
「戦争って、大体は『正義』と『正義』のぶつかり合いじゃないですか。こっちの正義から見た向こうは『悪』で、向こうの『正義』から見たこっちの正義はやっぱり『悪』なんですよ。つまり、どちらが主観になっているか、ということで、この場合、『どちらも当事者』なワケです。でも、私が言ってるのは、『第三者』の視点なんですよ。私がお兄ちゃんにしたことも、誰かから見たら『悪』で、違う誰かから見たら『愛』に見えるかもしれないんです。だから、『良いことにも、良くないことにも、感謝する』っていう、自分や物事を客観的に見ることが大事なんだー、ってことなんです」
「…………」
「理解できそうですか?」
うぅ……ん、どうだろう。
理解できたと言って良いのだろうか。
『良くないこと』と『悪いこと』の差は確かにさっきまでよりも、ずっと遠い位置に置かれたけれど、それがさっきの「私は感謝してるんです」の発言とどう関連付けられるのかが分からない。
お兄さんの死に関係しているとでも言うのだろうか。
「お兄さんは亡くなってしまった訳じゃない。身体はまだここに在る訳だけれど、お兄さんの心はここには無いと言えるでしょう? つまり、『魂』みたいなものがここには無いっていう」
「心もここにあると私は思ってます」
「……え?」
「だって、私は今でもお兄ちゃんのことを愛してますから。お兄ちゃんを想う心が、お兄ちゃんの魂の一つの在り方だと思うんです」
何だかすごくスピリチュアルな話になってきて、どう落としどころを付けたら良いのか全然分からない。
「お兄ちゃんが死んだことは、自殺しようとしてしまうほど悲しいことです。でも、私が愛したお兄ちゃんはここにこうして居ます。姿は変わってしまったけど、私のお兄ちゃんであることには、何一つ変化は起きてません。お兄ちゃんは死んでも私のお兄ちゃんなんです」
あ、あぁ、そうか。
そういうことなんだ。
「ゆかちゃんは、お兄ちゃんと離れたくない、って、そういうことなんだね」
「はい。死んでしまっても。姿が変わっても、お兄ちゃんはお兄ちゃんです。もしかしたら、結局色々あってお兄ちゃんは火葬されて骨になってしまうかもしれませんけど、今はこうしてこの姿でここに居ます。何も、何一つも急ぐことなんかないじゃないですか。私が生きている間、お兄ちゃんがお兄ちゃんの形を止めたままで居ても良いじゃないですか。それで私の生きる気力が湧くのなら、それはきっとお兄ちゃんの望むもののハズなんです」
そして私は、この日初めてゆかちゃんの人間らしい横顔を見た。
ゆかちゃんは、悲しそうな笑顔でお兄さんを見詰めてこう言ったのだ。
「それがお兄ちゃんとの新しい約束なんです」
「『俺が死んでも、ゆかは最期まで生きろ。約束だ』って、メモに書いてありました」
「だから、私は私の為に私が生きたくなる道を選んだんです」
そして私はこう思ったのだ。
あぁ、それは、とても利己主義で、ゆかちゃんらしいなぁ。と。
ゆかちゃんは一体何を言ってるの?
誰がどう見てもこんなのオカシイ。
病んでる、なんてものじゃない。
明確に精神に異常をきたしてる。
私は、どうするべきなのだろう。
「ゆかちゃん……私、ゆかちゃんと、友達になれるかな……?」
お兄さんの窪んだ瞼を人指し指でなぞりながら、にこにこと私を見るゆかちゃんに問い掛けた。
「どうでしょう。ハッキリ言って分かりません」
痩けた頬に手のひらを当てて、慈しむようにさするその仕草は、見方によっては母性を感じさせるものがあった。
「でも、一つだけ言えるのは、もし、ここでミホさんが協力してくれないと答えたなら、このまま帰すワケにはいかなくなるなぁ、ってことです」
それはつまり、そういうことなのだろうか。
「生きて帰さない……ってこと?」
ずず、と私は左足をすって後退る。
「まさか。そんなワケないじゃないですか。人殺しの罪に問われるのはゴメンですよ。お兄ちゃんは社会と既に関係を断ち切ってたから、死後数日経っても問題になってませんけど、ミホさんが数日音信不通になったらどこかの誰かがきっと騒ぎ立てるんじゃないですかね?」
確かに、一人暮らしではあるものの、お店で仲の良いお客様からお茶や旅行のお誘いを受けたり、お客様から紹介された異性と食事に行かなくてはならなかったりと、私の休日はあまり自由な時間があるとは言えない。
私が突然行方不明になったりしたら、直ぐに警察が動いたりするのかもしれない。
「じゃあ、もし私が協力を拒んだら、ゆかちゃんは私の口をどうやって封じるの?」
退路は問題ない。
ゆかちゃんはベッドの横で膝を付いて座っているし、部屋の扉は開いている。
今走り出せば、難なく私はこの部屋から出ることができるだろう。
ゆかちゃんが手元に危ない物を持っている様子はないし、辺りにそれらしきものも見当たらない。
それに、ゆかちゃんが言うようにせっかく安全と言えるような環境にあるゆかちゃんが、わざわざ危ない状況に足を突っ込むとは思えない。
思考や趣向は普通じゃないゆかちゃんだけれど、とても頭の回転は速くて鋭い。
私を裏切らせない何か特別な方法があるということなのだろうか。
「いえ。特に何か思い付いてるワケじゃないです。電話の時にも言った通り、私とミホさんの関係は、私が会社を辞めた時に既に決着がついていたと思ってたので。家に様子を見に来たことも予想外でしたし、こうして家に上げる予定もありませんでした。全部想定外です」
ゆかちゃんはあっけらかんと言い切った。
「……それじゃあ、バレる覚悟ができてるってことなの?」
これだけのことをしているのだから、そういう覚悟がとうにできていて、それでもこの状況を選んだということなのかもしれない。
「うん……と……まあ、確かに、いつか何かの切っ掛けでお兄ちゃんのことがバレて、私が犯人だと言われ、罪に問われて罰を受けることになるのかもしれない、とは考えなくはないです。でも、そんなの言ってても仕方がないんです。不幸な未来の可能性はいつだってゼロじゃないんですよ」
ゼロになることなんてないんです。
そう言って、ゆかちゃんはお兄さんの方に顔を向けた。
私から目を逸らした。
私が逃げてしまうかもしれないのに。
逃げ出して、警察に駆け込んでしまう可能性だってゼロじゃないのに。
「でも、私は感謝してるんです」
「え?」
唐突に放たれたその違和感のある言葉は、とても聞き慣れた言葉の筈なのに、今この場にはとても不似合いで、一瞬初めて聞いた言葉のように感じた。
「ほら、ミホさんにも教えたことあるじゃないですか。『今に感謝する』って考え方ですよ。私が両親から教わったもので、大好きな考え方ってやつです」
「そう言えば、うん、聞いたことあったね。良いことも悪いことにも感謝するってやつだよね?」
「ちょっとニュアンスが違いますね。『良いことにも、良くないことにも、感謝する』が正解です」
ん?
どこが違うの?
「ゆかちゃん、違いが分からないんだけれど……」
「えぇー? 全然違いますよ。いいですか? 『悪いこと』、じゃなくて、『良くないこと』、です。大事なのは、『悪いことなんか無い』ってことです。悪いと感じているのは、主観であって、感情論なんですよ。『悪いこと』なんてホントは無くて、『良いことではないこと』があるんです。だから『良くないこと』なんですよ」
……んん?
「ごめん、ちょっとまだよく理解できてないかも」
「ええー!?」
え? そんなに驚くこと?
ゆかちゃんの目は、信じられないものを見るような目で、私が完全に誤っているということを訴えかける目だ。
それでも、私はその違いがよく分かっていないのだから仕方がない。
「ミホさんって、やっぱり頭が固いですよねぇー」
「ひどい……」
「けっこう大きな差があると思いませんか? 『良くないこと』と『悪いこと』って」
「んんん……まぁ、言われてみれば」
「『悪い』って、見る側感じる側が決め付けてるじゃないですか。『良くない』は、悪いかもしれないしそうじゃないかもしれない、って、可能性を残してるんですよ」
「ううん?」
「例えるなら戦争ですよ」
「え?」
「戦争って、大体は『正義』と『正義』のぶつかり合いじゃないですか。こっちの正義から見た向こうは『悪』で、向こうの『正義』から見たこっちの正義はやっぱり『悪』なんですよ。つまり、どちらが主観になっているか、ということで、この場合、『どちらも当事者』なワケです。でも、私が言ってるのは、『第三者』の視点なんですよ。私がお兄ちゃんにしたことも、誰かから見たら『悪』で、違う誰かから見たら『愛』に見えるかもしれないんです。だから、『良いことにも、良くないことにも、感謝する』っていう、自分や物事を客観的に見ることが大事なんだー、ってことなんです」
「…………」
「理解できそうですか?」
うぅ……ん、どうだろう。
理解できたと言って良いのだろうか。
『良くないこと』と『悪いこと』の差は確かにさっきまでよりも、ずっと遠い位置に置かれたけれど、それがさっきの「私は感謝してるんです」の発言とどう関連付けられるのかが分からない。
お兄さんの死に関係しているとでも言うのだろうか。
「お兄さんは亡くなってしまった訳じゃない。身体はまだここに在る訳だけれど、お兄さんの心はここには無いと言えるでしょう? つまり、『魂』みたいなものがここには無いっていう」
「心もここにあると私は思ってます」
「……え?」
「だって、私は今でもお兄ちゃんのことを愛してますから。お兄ちゃんを想う心が、お兄ちゃんの魂の一つの在り方だと思うんです」
何だかすごくスピリチュアルな話になってきて、どう落としどころを付けたら良いのか全然分からない。
「お兄ちゃんが死んだことは、自殺しようとしてしまうほど悲しいことです。でも、私が愛したお兄ちゃんはここにこうして居ます。姿は変わってしまったけど、私のお兄ちゃんであることには、何一つ変化は起きてません。お兄ちゃんは死んでも私のお兄ちゃんなんです」
あ、あぁ、そうか。
そういうことなんだ。
「ゆかちゃんは、お兄ちゃんと離れたくない、って、そういうことなんだね」
「はい。死んでしまっても。姿が変わっても、お兄ちゃんはお兄ちゃんです。もしかしたら、結局色々あってお兄ちゃんは火葬されて骨になってしまうかもしれませんけど、今はこうしてこの姿でここに居ます。何も、何一つも急ぐことなんかないじゃないですか。私が生きている間、お兄ちゃんがお兄ちゃんの形を止めたままで居ても良いじゃないですか。それで私の生きる気力が湧くのなら、それはきっとお兄ちゃんの望むもののハズなんです」
そして私は、この日初めてゆかちゃんの人間らしい横顔を見た。
ゆかちゃんは、悲しそうな笑顔でお兄さんを見詰めてこう言ったのだ。
「それがお兄ちゃんとの新しい約束なんです」
「『俺が死んでも、ゆかは最期まで生きろ。約束だ』って、メモに書いてありました」
「だから、私は私の為に私が生きたくなる道を選んだんです」
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