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一章【呉 理嘉】
【ダークプリンセス】4歳 倉庫番と壁画と
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「オブー、探検の準備できたー?」
「お姉さまぁ、まだですわぁー。もうすこしおまちをー」
私は4歳、水の精霊である妹のオブは3歳になった。
魔属の成長には種族差こそあるが、どうやら私達精霊は成長速度に関しては前世の人間とほとんど変わらないようだった。
……私達精霊は、じゃなくて精霊種のオブは、と言うのが本当は正しいのだけど。
と言うのも、何を隠そう私は精霊ではないらしい。
らしい。
なら、私は種族は?
それは『謎』だった。
先に断っておくが、『謎』という名称の種族では決してない。
では何なのか。答えは簡単。
『種族不明』という意味だ。
はい? 何それ? って感じ。
答えになってないじゃないか。
パパは魔王の称号に相応しく、悪魔の最上位種であるイービルロード。
ママは光属性の聖霊種であるエレメンタル。
ちなみにエレメンタルと言うのは精霊種の総称だ。
光の聖霊であるママの身体からは柔らかな光が微かに放たれていて、光がママの身体全体を包んでいる様に見える。
て言うか、パパが悪魔種で、ママが精霊種なら、普通どちらかの種族になるんじゃないの?
いや、実際そうなるらしい。それは妹のオブを見れば解る。
属性こそ違うものの、オブはママと同じエレメンタルだ。
だけど私は精霊種でも、ましてや悪魔種でもない。
これが解らない。
「……すまないネイル。実は私達にもネイルの種族が解らないんだ。勿論ネイルが私達二人の血を分けた娘であることに間違いはない。それは心配要らない。それに魔属同士から人属が生まれることは有り得ない。だからネイルは確かに魔属だ。だけど、幾ら文献を調べてみてもネイルの種族を特定できるような情報は見付からなかったんだ」
「ネイちゃんごめんなさい。隠していた訳ではないの。私もザライト様も、それに魔種族に詳しい学者様や魔属史に長けた歴史家様の手をお借りして調べたのだけれど、それでも手掛かりが見付からなくて……」
身体の一部が液体そのものという、とても分かりやすい水の精霊のオブに対して、2歳を過ぎても精霊としての特徴らしい特徴が現れなかった私は、パパとママに尋ねてみたのだ。
しかし私の疑問に返ってきたのは、答えではなくパパとママの申し訳なさそうな表情と謝罪の言葉だった。
私は大いに混乱した。
だって、自分の事をもっと知りたいと思った矢先、私の根幹とも言える種族名が分からないという問題が浮上したのだから。
『人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり』とは二千年以上前の偉い人が言った言葉だが、私が明智の人になる為の道程はどうやら手探りとなるらしい。
自分で言うのもなんだけど、あまり私には特徴という特徴がない。
パパと同じ黒髪黒瞳。
ママと同じ二重の垂れ目。
鼻筋はすっきりしたパパ似で、ママが可愛い系なら私はきれい系だろう。
終わり。
他に付け足し情報無し。
これ以上の外見的特徴無し。
パパみたいな角は生えていない。
かと言ってママみたいに光が身体を包んでもいない。
どう見ても普通の人間の少女。
パパとママが美男美女であることから、私の外見は将来的に有望視できると思っているが、それだけだ。
私の種族特定に繋がる手掛かりはこれっぽっちも無い。
正直困った。
この世界にはネットは無いし。
逆に魔法なんて不確かなものが有るし。
今ある情報で私が何なのか特定できないのであれば、私は私を私とどう定義すれば良いのだろう。
おっと。不意に哲学者みたいな、と言うか禅問答みたいな先の見えない迷路に迷い込んじまったぜ。いけないいけない。
「お姉さまー。オブもおじゅんびできましたわぁー。いつでもたんけんできますわぁー」
と言う訳で、私達二人は今から城内探検に行ってきます。
自分探しの探検にね!
ネタじゃないわよ? 私は本気で自分探しの為に行動を開始したの。
私は、自分の定義、言わば定規が無いのなら、自分で作ってしまえば良いじゃない。という結論に至ったのだ。
幸い私が住まう魔王城には古書や秘伝の書物が多く保管されている。
秘伝の書物は情報漏洩防止の観点からその在りかは明かされていないけど、古書なら倉庫に保管されている。
勿論その倉庫だって誰でも入れる訳じゃないけど、魔王の娘たる私とオブの二人なら問題なく入れるだろう。
その為に『探検』と銘打っている訳だ。
私の精神は大人のそれと変わらないが、見た目はまだ4歳。つまりチビッ子だ。
そのチビッ子が幼い妹の手を取り引き連れて、胸をドキドキとわくわくでいっぱいにしながら謎に満ちた城内を探検していたら。
果たして城の者は私達の行く手を遮るだろうか。
その未知への挑戦を、誰かが制止するだろうか。
その小さな挑戦者達を、誰が阻めるというのか。
こんなに可愛い私の邪魔をする者が、この城に存在するのか。
いや、しない!
私を邪魔する者など、この城には居ないのだ!
……と言う訳で何か私の知らない情報が古書に書かれていないか、調べに行ってきます。
「お姉さまぁ、今日はどちらにいかれるのですかぁー? オブにもおしえてくださいませー」
「オブ。今日は、兼ねてから話していました、倉庫に行きます。そして、保管されている古書を調べるのです」
私の左手を握り、少し後ろから付いてくるオブが尋ねてくる。
私はそれに振り返らず答えた。
「こしょ、でございますかぁー。なるほどぉー。……ところでお姉さま、『こしょ』とはなんでございますかー? オブは、こしょなるなまえをはじめてききました。おしえてくださいませー」
私と違い、普通の子供の成長を遂げているオブの知識は、当然私より劣る。
だからどうと言うことはないが、オブは私の言動、それはもう一語一句一挙一動に興味を示し質問してくる。
私はそれに一々答えるのだが、果たしてオブがそれを理解出来ているのかは謎である。
子供には『何で?』の時期があると言うが、オブはまさにその成長過程の最中にあるのだろう。
オブの質問に答えるのは億劫ではないし、質問に答えることによって私自身が言葉を反芻し、本当にその行動に意味があるのか、目的への手段として本当に有効なのかを確認する良い機会になっている。
次々と繰り出されるオブの質問が、思いがけない発想や、新たな疑問に着地することがあるのだから、子供の自由な発想とは侮れない。
私はいつものように、オブの口から湯水の様に湧いて出る質問に一つ一つ丁寧に答えながら、城の地下にある倉庫を目指した。
「あら、おはようございます。姫様、妹姫様も。お揃いでまた城内探検でございますか?」
廊下を歩いていたら、先の角から現れた侍女に遭遇した。第一城人発見である。
侍女は私達より早くぺこりと品のあるお辞儀をして、私とオブに質問してくる。
私とオブもお辞儀と挨拶をしてから言葉を返す。
「えぇ、今日は地下の倉庫に行ってみようと思っております。古い文献があると聞いているので、今から楽しみなの」
「オブも、お姉さまといっしょにおこしょよむよー」
オブも私に続いた。
オブは、とりあえず『お』を頭に付ければ丁寧な言葉遣いになると思っているので、古書にも漏れなくそうしている。
本来なら私がそれを訂正した上で正しい言葉遣いを教えてあげるべきなのだろうけど、私はあえて訂正していない。
なぜなら、オブはこの言葉遣いのほうが幼稚さが分かりやすく表現されて、受けが良いのだ。
実際、目の前に居る侍女も、「あらあら」と口元に手を添え微笑んでいる。
こうして私から注意を逸らすことで、私の目的の遂行が更に容易になるのだ。
まあ、ぶっちゃけ、こんな安全策を講じなくても私の行動を訝しむ輩は城内には、と言うかパパの配下の者にはいないと思っているけど。
念には念を。
「倉庫も定期的にお掃除しておりますが、なにぶん置いてある物が古いので、多少の黴臭さがあるかと思います。後で紅茶を淹れますので、探検から戻られましたらお声かけくださいませ。美味しいお菓子と一緒にお持ちいたしますので」
そう言って侍女は分かりやすくオブの可愛さにほだされ去っていった。
「お姉さまぁ、オブは、おかしとおこうちゃがたのしみでございますー」
「オブ、私も楽しみだわ。倉庫から戻ったら、お菓子と紅茶を頂いて、お昼寝しましょうね」
私の言葉を聞き、ぱあぁと笑顔になるオブ。
うん。可愛い。
私の妹可愛い。
初めてオブの姿を見た時は驚愕したものだけど、私の妹マジ天使。
マジ精霊。超水の精霊。
そんな超水の精霊のオブは、生まれた時と少し姿が変わっている。
スライムが張り付いていたような髪の毛はしっとりぷるんと濡れた淡いブルーのストレートに(ただし液状)
胸辺りまで透けて見えていた身体は、肌が透けるようなことが無くなり、身体の形状を自分の意思でコントロール出来るようになった為、下半身も固形化することが出来るようになった。
しかし普段は足だけ液状を維持して、魚の尾びれの様な形を模している。
精霊種なので、常時浮遊することができ、今もふよふよと低空浮遊である。
ママの話によると精霊種は幼少期から高度の飛行も出来るが、その場合は浮遊よりも魔力の消費が激しいらしく、長時間、または長距離を飛行で移動するのは難しい。これは大人になっても同様とのことだ。
ちなみに私は浮遊できない。
これが第一の私が精霊種でない証拠になっている。
まあ、実のところ魔力を操作すれば出来なくはないけど、意識しないと、という点が精霊種と異なる。
お昼寝の時にふよふよと浮かんで寝返りを打つオブはとても愛らしい。
見方によってはお化けみたいにも見える。
お化け見たことないけど。
「お姉さまぁ? おそうこいかないのでございますかぁー?」
ハッ、と我に返る。
私まで妹の可愛さに魅了されていた。
まあ、これも水の精霊の能力の一つなのだけど。
気をつけていれば別に問題ないのだが、気を抜いたり、オブに見入ると逆に魅入られると言うのが結構危ない。
油断大敵とはこのことだ。
「えぇ、そうね。行きましょう」
気を取り直して倉庫を目指す。
地下へと続く階段を下り、日の光が遮られている地下廊を進んで行くと、私の目に倉庫番の姿が映った。
倉庫の前に立っていたのは小柄な老人。
ぱっと見はただの老人にしか見えないが、遠目に見ても髭がやたら長いのが分かる。
私達に気付いた彼は頭こちらに向け私とオブに視線を運ぶ。
長い髭がぶるりと大きく揺れた。
入口まで辿り着くと、老人は膝を付き腰を落として私に目線を合わせた。
しかし、彼の目線は私よりやや低い位置にある。
膝を付いたことで頭の位置がずいぶんと低くなる。それくらい老人の身長は低い。
しかしそれよりも気になるのが、老人の髭だ。
異常に長く立ったままでも床に付きそうな程長い髭は、今では半分くらい床に付き、とぐろを巻いていた。
「ご機嫌麗しゅう存じます姫様、妹姫様。倉庫に何か御用ですかな?」
人ではない、異形の老兵が柔和な笑みと親しげな口調で質問してくる。
この世界に存在する人間ではない種族の中でも特に小柄なドワーフと呼ばれる種族だ。
より厳密に言うとドワーフは魔属ですらない。
亜人と呼ばれる人属の亜種である。
彼のように魔属の中で暮らす亜人は少なくない。
一部、エルフなどを代表とする同種族以外に排他的な思想を持つ種族も存在するが、魔属は元々多種族の集まりであることから魔属以外を受け入れることに抵抗がないのだ。
「ごきげんよう。私とオブは城内を探検しているの。今日は倉庫の中を探検しようと思いまして」
「ごきげんよー。オブも、お姉さまといっしょにおそうこでおこしょよむよ。おじいちゃん、おひげながいねー」
老人に目的を伝える。
柔和な笑みがいっそう綻び、目尻が下がるのが見て取れた。
「おお、倉庫の探検とは。なるほどなるほど。これは嬉しいお話ですな。して、そうなると儂が御二人の案内役をせねばなりますまい。このボド・グラン・グドラドフ、倉庫番として大任に腕が鳴りますわい」
これは意外な反応だった。
拒否されることこそ想定していなかったけど、案内役を買って出てくれるとは思ってもみなかった。
邪魔はしないけど、協力もしない。みたいなスタンスかと思っていた。
「あの、ボドさん。お仕事の邪魔にはならないかしら。もしお邪魔でしたら、私達二人で見て回りますけど……」
一応、それらしく気を遣ってみる。
もしかしたら単純にお目付け役としての側面が強いかもと思ったからだ。
「姫様に心遣いしてもらえるとは。これは役得じゃわい」
ボドは目を細めしみじみ言うと、太く伸びた髭をしごきながら言葉を続ける。
「しかしのう姫様。姫様は倉庫がどれくらい広いか知らないじゃろう? 入口こそこの通り小さいがの、中はずいぶんと広いんじゃよ。何せ、宝物庫ではなくただの物置じゃからの。そんな場所でもし姫様達を迷子にでもしてしまったら、儂の首が飛ぶわい。ホホッ。それはさすがに困るしのぉ。それに、今や城の者で倉庫に有る物の経緯やら歴史やら含めて全部知っておるのは儂だけじゃからのう。儂がいなくなっては使い方が分かなくなって、がらくた同様になる物もたんまりあるんじゃよ。っと、小難しい話になってしまったかの」
言い終えボドはホッホッと笑った。
別段私にとっては難しい話ではなかったが、隣で話を聞いているオブは、既に退屈そうに辺りをきょろきょろと見回していた。
「妹姫様が退屈しとるようですし、そろそろ倉庫に入りますかな。で、姫様は倉庫で何を見たいんですかの? さっき妹姫様が古書と仰っておられましたが、まさか本当に古書を?」
「えぇ。今日の目的は、倉庫に眠る古書ですわ。歴史書などとは違う事柄が書かれていないかと思いまして。私、魔属の歴史や種族史に興味があって。ボドさん、本以外でもそういう物があれば、一緒に探してくださらない?」
案内をしてくれると言うのなら、隠さずに話したほうが良いだろうと思い正直にお目当ての物を説明する。
4歳の女の子が興味を持つような類いの内容ではないけど、この子は変わった趣味を持っていると思われても私は別に構わないので、時間が無駄にならないようについでにお願いしてみる。
ボドは案の定、感心しているのか、変な子だと思っているのか、髭をしごきながらほぉほぉと口を尖らせ頷いている。
そして目を瞑ると、うんうんと何やら考えだした。
オブがいよいよ退屈を通り過ぎて眠たそうにし始めたらから、そろそろ案内してほしいのだけど。
「姫様、そういう事なら、お見せしたいものがありますじゃ。先ずはそちらをお見せして、姫様が見ておられる間に、歴史やら種族やらの本を儂が見繕ってきますじゃ。今日だけで倉庫を案内しきるのは到底無理じゃから、本を返すついでにまた遊びに来てくだされ。どうですかの?」
ぱっと目を開き、捲し立てるように提案するボド。
私は正直に話して正解だったとボドの提案に頷く。
最悪忍び込むことも考えていたが、私の選択は正しかったようだ。
「えぇ。助かりますわ。では、オブも限界のようですし、早速参りましょう」
***
「これは……」
「お姉さまぁ、これ、なんですのー?」
「ただいま戻りましたぞ。見せたかったのはこれですじゃ。驚かれましたかの?」
時間はほんの少し、倉庫に入ったところまで遡る。
倉庫に入って、私は先ずその広さに驚いた。
例えるなら、前世で訪れたことのある球場のドームくらいの広さがある。
いや、もしかしたらそれ以上かも。
ドームの広さにも色々あるのかもしれないけど、少なくとも子供の視野で見渡せない程ではない筈だ。
倉庫の壁には、ぽつぽつと魔法の光を灯す石が点在し、倉庫内をじんわりと照らしている。
薄明かりでしかないのは確かだが、それでも奥の壁が見えないということは、それだけの奥行きが存在するということだ。
そして広さに併せて高さもある。数十メートルはありそうだ。
しかし天井には光が灯されていないので正確な高さを把握することは出来そうにない。
今にも私達を呑み込みそうな際限の無い闇が頭上を支配している。
それはまるで星が全て隠れた闇夜の様だった。
その、広大とも呼べるスペースの壁や広間に巨大な棚が配置され通路を形成している。
そしてその棚は大小様々な物で埋め尽くされていた。
確かにこれでは一日で見て回るのは不可能だろう。
と言うよりも、数日、数週間かけてやっと一周出来ると言ったほうが正しいに違いない。
魔王城の地下にこんな広大な空間を有する倉庫があったなんて。
ボドが言っていた『私達が倉庫で迷子になったら首が飛ぶ』という言葉も、あながち冗談ではなかったということだ。
私はボドに手を引かれ、私はオブの手を引き奥へと案内される。
そこで私が目にしたのが、今、眼前に荘厳として佇む巨大な壁画だった。
「少し、待っていてくだされ」
そう言い残すと、ボドが壁画の両脇に設置してある梯子を登り、壁画の上部まで取り付けてある蝋燭に火を灯して回る。
ぼんやり、ゆっくりと照らし出されていく壁画はとても神秘的で、僅かに恐ろしさを感じたが、それ以上に私達の目を奪うものがあった。
おおよそ10分の時間をかけ蝋燭に火を灯し終えたボドが、私達の元へと戻って来る。
ふぅふぅと息を切らし一仕事終えたボドは、目を見開き壁画に釘付けになっている私達を見て、満足そうに笑った。
「これは、『神の創造』と呼ばれているものですじゃ。原初の神が多くの神を。そして神々が魔属と人属と、あらゆる生命を生み出した時の姿を画いていると言われておりますじゃ。この壁画が画かれたのが何時の頃かは分かりませんが、数百年、数千年前とも言われとります。ただ、画かれているものは全て真実だと、壁画について書いてある本には書かれてありますじゃ。まあ、神々が生命を生み出したというのはお伽噺としては有名で、色んな本に書かれてあることじゃから、この壁画について書いてある当の本には、あまり価値はないんですがのう」
『神の創造』
そう呼ばれた壁画に画かれていたのは、大地に根を張る植物。植物を食む動物。動物を食らう人と魔属。生物の亡骸を吸収する海と大地。
前世で学んだ生命の循環、その縮図だった。
そしてその全ての生命の頭上に、翼を持つ人型や異形の者が画かれている。
つまりあれらが神々ということだろう。
「ボドさん、神々のさらにその上に居るのが原初の神なのですか?」
私は翼を持つ神々の上に居る人物を指差した。
その人物には翼はなく、地上にいる人とあまり変わらない見た目をしている。
変わったところと言えば、どうやら女性であるらしい、ということくらいか。
女性が着ている白い衣服の上からでも分かる双房の膨らみが見て取れる。
「そう、あれはナンムと呼ばれる神ですじゃ。『神々の母』と、本には書かれておりますな」
「お姉さまぁ、かみさまのまま、きれーですわー。ままみたいですわー」
オブがナンム神を指差し言った。
「えぇ、本当ね。女神様、ママみたいに笑ってる」
「ナンム神はユーナ様と違って黒髪で描かれておりますがの」
壁画の絵はお世辞にも上手な絵とは言い難いが、何だかナンム神の表情は私達のママに似ている気がした。
ボドさんが言うように髪の色は違う。
ナンム神は黒髪で描かれている。
似ているのは表情とか雰囲気とか、そっちの方だ。
「どれ、儂は本を見繕って参りますじゃ。姫様、どうか迷子になってしまいませんよう、この場で待っててくだされ。頼みましたぞ」
「分かりました。私とオブはもう少し壁画を見ています。オブが迷子にならないよう、ちゃんと見ていますから。お願いします。この壁画について書かれているという本も、一緒にお願いしますね」
「お姉さまぁー、オブはまいごにならないですわー。お姉さまのいうことちゃんとききますものー」
そう言いながらオブは壁画の足元を右に左に行ったり来たりふよふよと漂っている。
どうやら既に壁画には飽きて、他の物に手を伸ばしたいのを我慢しているようだった。
「ボドさん、こんな様子なので、早めにお願いします。倉庫にはまた遊びに来ますから、今日のところはなるだけ早めに」
私は苦笑いを浮かべながらボドへと振り返った。
「急いで行ってきますじゃぁー!」
焦った顔で駆け出すボドを見て、私とオブはクスクスと笑う。
ボドの後ろ姿が見えなくなり、私はオブを手招きで呼んで、両手で抱き抱える。
元々浮遊しているオブはとても軽い。まるで霧を抱いているようだ。
ひんやりとしたオブの肌と、倉庫の冷たい空気に触れ、私の肌がプツプツと毛立つ。
いや、毛立ったのはそれらが理由ではなかったかもしれない。
私はもう一度壁画を、女神を見上げた。
何だか見られているような気がしたのだ。
「……すごく、不思議な絵だわ」
私は呟く。
私の呟きを聞き、オブも壁画を見上げる。
「かみさまのまま、ままににてますわー。ふしぎですわぁー」
「……うん。すごく、不思議」
黒髪の女神は、やはり私のママに似ていた。
ママに似た笑みで、神々を。大地に生き生命を食むもの達を。眼下に在るもの全てを見下ろしている。
その眼下に、今、私も含まれている気がした。
……部屋に戻ったら借りた本を読みながら熱い紅茶で体を温めよう。
私はオブを抱き締め、総毛立つ肌を一生懸命誤魔化した。
「お姉さまぁ、まだですわぁー。もうすこしおまちをー」
私は4歳、水の精霊である妹のオブは3歳になった。
魔属の成長には種族差こそあるが、どうやら私達精霊は成長速度に関しては前世の人間とほとんど変わらないようだった。
……私達精霊は、じゃなくて精霊種のオブは、と言うのが本当は正しいのだけど。
と言うのも、何を隠そう私は精霊ではないらしい。
らしい。
なら、私は種族は?
それは『謎』だった。
先に断っておくが、『謎』という名称の種族では決してない。
では何なのか。答えは簡単。
『種族不明』という意味だ。
はい? 何それ? って感じ。
答えになってないじゃないか。
パパは魔王の称号に相応しく、悪魔の最上位種であるイービルロード。
ママは光属性の聖霊種であるエレメンタル。
ちなみにエレメンタルと言うのは精霊種の総称だ。
光の聖霊であるママの身体からは柔らかな光が微かに放たれていて、光がママの身体全体を包んでいる様に見える。
て言うか、パパが悪魔種で、ママが精霊種なら、普通どちらかの種族になるんじゃないの?
いや、実際そうなるらしい。それは妹のオブを見れば解る。
属性こそ違うものの、オブはママと同じエレメンタルだ。
だけど私は精霊種でも、ましてや悪魔種でもない。
これが解らない。
「……すまないネイル。実は私達にもネイルの種族が解らないんだ。勿論ネイルが私達二人の血を分けた娘であることに間違いはない。それは心配要らない。それに魔属同士から人属が生まれることは有り得ない。だからネイルは確かに魔属だ。だけど、幾ら文献を調べてみてもネイルの種族を特定できるような情報は見付からなかったんだ」
「ネイちゃんごめんなさい。隠していた訳ではないの。私もザライト様も、それに魔種族に詳しい学者様や魔属史に長けた歴史家様の手をお借りして調べたのだけれど、それでも手掛かりが見付からなくて……」
身体の一部が液体そのものという、とても分かりやすい水の精霊のオブに対して、2歳を過ぎても精霊としての特徴らしい特徴が現れなかった私は、パパとママに尋ねてみたのだ。
しかし私の疑問に返ってきたのは、答えではなくパパとママの申し訳なさそうな表情と謝罪の言葉だった。
私は大いに混乱した。
だって、自分の事をもっと知りたいと思った矢先、私の根幹とも言える種族名が分からないという問題が浮上したのだから。
『人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり』とは二千年以上前の偉い人が言った言葉だが、私が明智の人になる為の道程はどうやら手探りとなるらしい。
自分で言うのもなんだけど、あまり私には特徴という特徴がない。
パパと同じ黒髪黒瞳。
ママと同じ二重の垂れ目。
鼻筋はすっきりしたパパ似で、ママが可愛い系なら私はきれい系だろう。
終わり。
他に付け足し情報無し。
これ以上の外見的特徴無し。
パパみたいな角は生えていない。
かと言ってママみたいに光が身体を包んでもいない。
どう見ても普通の人間の少女。
パパとママが美男美女であることから、私の外見は将来的に有望視できると思っているが、それだけだ。
私の種族特定に繋がる手掛かりはこれっぽっちも無い。
正直困った。
この世界にはネットは無いし。
逆に魔法なんて不確かなものが有るし。
今ある情報で私が何なのか特定できないのであれば、私は私を私とどう定義すれば良いのだろう。
おっと。不意に哲学者みたいな、と言うか禅問答みたいな先の見えない迷路に迷い込んじまったぜ。いけないいけない。
「お姉さまー。オブもおじゅんびできましたわぁー。いつでもたんけんできますわぁー」
と言う訳で、私達二人は今から城内探検に行ってきます。
自分探しの探検にね!
ネタじゃないわよ? 私は本気で自分探しの為に行動を開始したの。
私は、自分の定義、言わば定規が無いのなら、自分で作ってしまえば良いじゃない。という結論に至ったのだ。
幸い私が住まう魔王城には古書や秘伝の書物が多く保管されている。
秘伝の書物は情報漏洩防止の観点からその在りかは明かされていないけど、古書なら倉庫に保管されている。
勿論その倉庫だって誰でも入れる訳じゃないけど、魔王の娘たる私とオブの二人なら問題なく入れるだろう。
その為に『探検』と銘打っている訳だ。
私の精神は大人のそれと変わらないが、見た目はまだ4歳。つまりチビッ子だ。
そのチビッ子が幼い妹の手を取り引き連れて、胸をドキドキとわくわくでいっぱいにしながら謎に満ちた城内を探検していたら。
果たして城の者は私達の行く手を遮るだろうか。
その未知への挑戦を、誰かが制止するだろうか。
その小さな挑戦者達を、誰が阻めるというのか。
こんなに可愛い私の邪魔をする者が、この城に存在するのか。
いや、しない!
私を邪魔する者など、この城には居ないのだ!
……と言う訳で何か私の知らない情報が古書に書かれていないか、調べに行ってきます。
「お姉さまぁ、今日はどちらにいかれるのですかぁー? オブにもおしえてくださいませー」
「オブ。今日は、兼ねてから話していました、倉庫に行きます。そして、保管されている古書を調べるのです」
私の左手を握り、少し後ろから付いてくるオブが尋ねてくる。
私はそれに振り返らず答えた。
「こしょ、でございますかぁー。なるほどぉー。……ところでお姉さま、『こしょ』とはなんでございますかー? オブは、こしょなるなまえをはじめてききました。おしえてくださいませー」
私と違い、普通の子供の成長を遂げているオブの知識は、当然私より劣る。
だからどうと言うことはないが、オブは私の言動、それはもう一語一句一挙一動に興味を示し質問してくる。
私はそれに一々答えるのだが、果たしてオブがそれを理解出来ているのかは謎である。
子供には『何で?』の時期があると言うが、オブはまさにその成長過程の最中にあるのだろう。
オブの質問に答えるのは億劫ではないし、質問に答えることによって私自身が言葉を反芻し、本当にその行動に意味があるのか、目的への手段として本当に有効なのかを確認する良い機会になっている。
次々と繰り出されるオブの質問が、思いがけない発想や、新たな疑問に着地することがあるのだから、子供の自由な発想とは侮れない。
私はいつものように、オブの口から湯水の様に湧いて出る質問に一つ一つ丁寧に答えながら、城の地下にある倉庫を目指した。
「あら、おはようございます。姫様、妹姫様も。お揃いでまた城内探検でございますか?」
廊下を歩いていたら、先の角から現れた侍女に遭遇した。第一城人発見である。
侍女は私達より早くぺこりと品のあるお辞儀をして、私とオブに質問してくる。
私とオブもお辞儀と挨拶をしてから言葉を返す。
「えぇ、今日は地下の倉庫に行ってみようと思っております。古い文献があると聞いているので、今から楽しみなの」
「オブも、お姉さまといっしょにおこしょよむよー」
オブも私に続いた。
オブは、とりあえず『お』を頭に付ければ丁寧な言葉遣いになると思っているので、古書にも漏れなくそうしている。
本来なら私がそれを訂正した上で正しい言葉遣いを教えてあげるべきなのだろうけど、私はあえて訂正していない。
なぜなら、オブはこの言葉遣いのほうが幼稚さが分かりやすく表現されて、受けが良いのだ。
実際、目の前に居る侍女も、「あらあら」と口元に手を添え微笑んでいる。
こうして私から注意を逸らすことで、私の目的の遂行が更に容易になるのだ。
まあ、ぶっちゃけ、こんな安全策を講じなくても私の行動を訝しむ輩は城内には、と言うかパパの配下の者にはいないと思っているけど。
念には念を。
「倉庫も定期的にお掃除しておりますが、なにぶん置いてある物が古いので、多少の黴臭さがあるかと思います。後で紅茶を淹れますので、探検から戻られましたらお声かけくださいませ。美味しいお菓子と一緒にお持ちいたしますので」
そう言って侍女は分かりやすくオブの可愛さにほだされ去っていった。
「お姉さまぁ、オブは、おかしとおこうちゃがたのしみでございますー」
「オブ、私も楽しみだわ。倉庫から戻ったら、お菓子と紅茶を頂いて、お昼寝しましょうね」
私の言葉を聞き、ぱあぁと笑顔になるオブ。
うん。可愛い。
私の妹可愛い。
初めてオブの姿を見た時は驚愕したものだけど、私の妹マジ天使。
マジ精霊。超水の精霊。
そんな超水の精霊のオブは、生まれた時と少し姿が変わっている。
スライムが張り付いていたような髪の毛はしっとりぷるんと濡れた淡いブルーのストレートに(ただし液状)
胸辺りまで透けて見えていた身体は、肌が透けるようなことが無くなり、身体の形状を自分の意思でコントロール出来るようになった為、下半身も固形化することが出来るようになった。
しかし普段は足だけ液状を維持して、魚の尾びれの様な形を模している。
精霊種なので、常時浮遊することができ、今もふよふよと低空浮遊である。
ママの話によると精霊種は幼少期から高度の飛行も出来るが、その場合は浮遊よりも魔力の消費が激しいらしく、長時間、または長距離を飛行で移動するのは難しい。これは大人になっても同様とのことだ。
ちなみに私は浮遊できない。
これが第一の私が精霊種でない証拠になっている。
まあ、実のところ魔力を操作すれば出来なくはないけど、意識しないと、という点が精霊種と異なる。
お昼寝の時にふよふよと浮かんで寝返りを打つオブはとても愛らしい。
見方によってはお化けみたいにも見える。
お化け見たことないけど。
「お姉さまぁ? おそうこいかないのでございますかぁー?」
ハッ、と我に返る。
私まで妹の可愛さに魅了されていた。
まあ、これも水の精霊の能力の一つなのだけど。
気をつけていれば別に問題ないのだが、気を抜いたり、オブに見入ると逆に魅入られると言うのが結構危ない。
油断大敵とはこのことだ。
「えぇ、そうね。行きましょう」
気を取り直して倉庫を目指す。
地下へと続く階段を下り、日の光が遮られている地下廊を進んで行くと、私の目に倉庫番の姿が映った。
倉庫の前に立っていたのは小柄な老人。
ぱっと見はただの老人にしか見えないが、遠目に見ても髭がやたら長いのが分かる。
私達に気付いた彼は頭こちらに向け私とオブに視線を運ぶ。
長い髭がぶるりと大きく揺れた。
入口まで辿り着くと、老人は膝を付き腰を落として私に目線を合わせた。
しかし、彼の目線は私よりやや低い位置にある。
膝を付いたことで頭の位置がずいぶんと低くなる。それくらい老人の身長は低い。
しかしそれよりも気になるのが、老人の髭だ。
異常に長く立ったままでも床に付きそうな程長い髭は、今では半分くらい床に付き、とぐろを巻いていた。
「ご機嫌麗しゅう存じます姫様、妹姫様。倉庫に何か御用ですかな?」
人ではない、異形の老兵が柔和な笑みと親しげな口調で質問してくる。
この世界に存在する人間ではない種族の中でも特に小柄なドワーフと呼ばれる種族だ。
より厳密に言うとドワーフは魔属ですらない。
亜人と呼ばれる人属の亜種である。
彼のように魔属の中で暮らす亜人は少なくない。
一部、エルフなどを代表とする同種族以外に排他的な思想を持つ種族も存在するが、魔属は元々多種族の集まりであることから魔属以外を受け入れることに抵抗がないのだ。
「ごきげんよう。私とオブは城内を探検しているの。今日は倉庫の中を探検しようと思いまして」
「ごきげんよー。オブも、お姉さまといっしょにおそうこでおこしょよむよ。おじいちゃん、おひげながいねー」
老人に目的を伝える。
柔和な笑みがいっそう綻び、目尻が下がるのが見て取れた。
「おお、倉庫の探検とは。なるほどなるほど。これは嬉しいお話ですな。して、そうなると儂が御二人の案内役をせねばなりますまい。このボド・グラン・グドラドフ、倉庫番として大任に腕が鳴りますわい」
これは意外な反応だった。
拒否されることこそ想定していなかったけど、案内役を買って出てくれるとは思ってもみなかった。
邪魔はしないけど、協力もしない。みたいなスタンスかと思っていた。
「あの、ボドさん。お仕事の邪魔にはならないかしら。もしお邪魔でしたら、私達二人で見て回りますけど……」
一応、それらしく気を遣ってみる。
もしかしたら単純にお目付け役としての側面が強いかもと思ったからだ。
「姫様に心遣いしてもらえるとは。これは役得じゃわい」
ボドは目を細めしみじみ言うと、太く伸びた髭をしごきながら言葉を続ける。
「しかしのう姫様。姫様は倉庫がどれくらい広いか知らないじゃろう? 入口こそこの通り小さいがの、中はずいぶんと広いんじゃよ。何せ、宝物庫ではなくただの物置じゃからの。そんな場所でもし姫様達を迷子にでもしてしまったら、儂の首が飛ぶわい。ホホッ。それはさすがに困るしのぉ。それに、今や城の者で倉庫に有る物の経緯やら歴史やら含めて全部知っておるのは儂だけじゃからのう。儂がいなくなっては使い方が分かなくなって、がらくた同様になる物もたんまりあるんじゃよ。っと、小難しい話になってしまったかの」
言い終えボドはホッホッと笑った。
別段私にとっては難しい話ではなかったが、隣で話を聞いているオブは、既に退屈そうに辺りをきょろきょろと見回していた。
「妹姫様が退屈しとるようですし、そろそろ倉庫に入りますかな。で、姫様は倉庫で何を見たいんですかの? さっき妹姫様が古書と仰っておられましたが、まさか本当に古書を?」
「えぇ。今日の目的は、倉庫に眠る古書ですわ。歴史書などとは違う事柄が書かれていないかと思いまして。私、魔属の歴史や種族史に興味があって。ボドさん、本以外でもそういう物があれば、一緒に探してくださらない?」
案内をしてくれると言うのなら、隠さずに話したほうが良いだろうと思い正直にお目当ての物を説明する。
4歳の女の子が興味を持つような類いの内容ではないけど、この子は変わった趣味を持っていると思われても私は別に構わないので、時間が無駄にならないようについでにお願いしてみる。
ボドは案の定、感心しているのか、変な子だと思っているのか、髭をしごきながらほぉほぉと口を尖らせ頷いている。
そして目を瞑ると、うんうんと何やら考えだした。
オブがいよいよ退屈を通り過ぎて眠たそうにし始めたらから、そろそろ案内してほしいのだけど。
「姫様、そういう事なら、お見せしたいものがありますじゃ。先ずはそちらをお見せして、姫様が見ておられる間に、歴史やら種族やらの本を儂が見繕ってきますじゃ。今日だけで倉庫を案内しきるのは到底無理じゃから、本を返すついでにまた遊びに来てくだされ。どうですかの?」
ぱっと目を開き、捲し立てるように提案するボド。
私は正直に話して正解だったとボドの提案に頷く。
最悪忍び込むことも考えていたが、私の選択は正しかったようだ。
「えぇ。助かりますわ。では、オブも限界のようですし、早速参りましょう」
***
「これは……」
「お姉さまぁ、これ、なんですのー?」
「ただいま戻りましたぞ。見せたかったのはこれですじゃ。驚かれましたかの?」
時間はほんの少し、倉庫に入ったところまで遡る。
倉庫に入って、私は先ずその広さに驚いた。
例えるなら、前世で訪れたことのある球場のドームくらいの広さがある。
いや、もしかしたらそれ以上かも。
ドームの広さにも色々あるのかもしれないけど、少なくとも子供の視野で見渡せない程ではない筈だ。
倉庫の壁には、ぽつぽつと魔法の光を灯す石が点在し、倉庫内をじんわりと照らしている。
薄明かりでしかないのは確かだが、それでも奥の壁が見えないということは、それだけの奥行きが存在するということだ。
そして広さに併せて高さもある。数十メートルはありそうだ。
しかし天井には光が灯されていないので正確な高さを把握することは出来そうにない。
今にも私達を呑み込みそうな際限の無い闇が頭上を支配している。
それはまるで星が全て隠れた闇夜の様だった。
その、広大とも呼べるスペースの壁や広間に巨大な棚が配置され通路を形成している。
そしてその棚は大小様々な物で埋め尽くされていた。
確かにこれでは一日で見て回るのは不可能だろう。
と言うよりも、数日、数週間かけてやっと一周出来ると言ったほうが正しいに違いない。
魔王城の地下にこんな広大な空間を有する倉庫があったなんて。
ボドが言っていた『私達が倉庫で迷子になったら首が飛ぶ』という言葉も、あながち冗談ではなかったということだ。
私はボドに手を引かれ、私はオブの手を引き奥へと案内される。
そこで私が目にしたのが、今、眼前に荘厳として佇む巨大な壁画だった。
「少し、待っていてくだされ」
そう言い残すと、ボドが壁画の両脇に設置してある梯子を登り、壁画の上部まで取り付けてある蝋燭に火を灯して回る。
ぼんやり、ゆっくりと照らし出されていく壁画はとても神秘的で、僅かに恐ろしさを感じたが、それ以上に私達の目を奪うものがあった。
おおよそ10分の時間をかけ蝋燭に火を灯し終えたボドが、私達の元へと戻って来る。
ふぅふぅと息を切らし一仕事終えたボドは、目を見開き壁画に釘付けになっている私達を見て、満足そうに笑った。
「これは、『神の創造』と呼ばれているものですじゃ。原初の神が多くの神を。そして神々が魔属と人属と、あらゆる生命を生み出した時の姿を画いていると言われておりますじゃ。この壁画が画かれたのが何時の頃かは分かりませんが、数百年、数千年前とも言われとります。ただ、画かれているものは全て真実だと、壁画について書いてある本には書かれてありますじゃ。まあ、神々が生命を生み出したというのはお伽噺としては有名で、色んな本に書かれてあることじゃから、この壁画について書いてある当の本には、あまり価値はないんですがのう」
『神の創造』
そう呼ばれた壁画に画かれていたのは、大地に根を張る植物。植物を食む動物。動物を食らう人と魔属。生物の亡骸を吸収する海と大地。
前世で学んだ生命の循環、その縮図だった。
そしてその全ての生命の頭上に、翼を持つ人型や異形の者が画かれている。
つまりあれらが神々ということだろう。
「ボドさん、神々のさらにその上に居るのが原初の神なのですか?」
私は翼を持つ神々の上に居る人物を指差した。
その人物には翼はなく、地上にいる人とあまり変わらない見た目をしている。
変わったところと言えば、どうやら女性であるらしい、ということくらいか。
女性が着ている白い衣服の上からでも分かる双房の膨らみが見て取れる。
「そう、あれはナンムと呼ばれる神ですじゃ。『神々の母』と、本には書かれておりますな」
「お姉さまぁ、かみさまのまま、きれーですわー。ままみたいですわー」
オブがナンム神を指差し言った。
「えぇ、本当ね。女神様、ママみたいに笑ってる」
「ナンム神はユーナ様と違って黒髪で描かれておりますがの」
壁画の絵はお世辞にも上手な絵とは言い難いが、何だかナンム神の表情は私達のママに似ている気がした。
ボドさんが言うように髪の色は違う。
ナンム神は黒髪で描かれている。
似ているのは表情とか雰囲気とか、そっちの方だ。
「どれ、儂は本を見繕って参りますじゃ。姫様、どうか迷子になってしまいませんよう、この場で待っててくだされ。頼みましたぞ」
「分かりました。私とオブはもう少し壁画を見ています。オブが迷子にならないよう、ちゃんと見ていますから。お願いします。この壁画について書かれているという本も、一緒にお願いしますね」
「お姉さまぁー、オブはまいごにならないですわー。お姉さまのいうことちゃんとききますものー」
そう言いながらオブは壁画の足元を右に左に行ったり来たりふよふよと漂っている。
どうやら既に壁画には飽きて、他の物に手を伸ばしたいのを我慢しているようだった。
「ボドさん、こんな様子なので、早めにお願いします。倉庫にはまた遊びに来ますから、今日のところはなるだけ早めに」
私は苦笑いを浮かべながらボドへと振り返った。
「急いで行ってきますじゃぁー!」
焦った顔で駆け出すボドを見て、私とオブはクスクスと笑う。
ボドの後ろ姿が見えなくなり、私はオブを手招きで呼んで、両手で抱き抱える。
元々浮遊しているオブはとても軽い。まるで霧を抱いているようだ。
ひんやりとしたオブの肌と、倉庫の冷たい空気に触れ、私の肌がプツプツと毛立つ。
いや、毛立ったのはそれらが理由ではなかったかもしれない。
私はもう一度壁画を、女神を見上げた。
何だか見られているような気がしたのだ。
「……すごく、不思議な絵だわ」
私は呟く。
私の呟きを聞き、オブも壁画を見上げる。
「かみさまのまま、ままににてますわー。ふしぎですわぁー」
「……うん。すごく、不思議」
黒髪の女神は、やはり私のママに似ていた。
ママに似た笑みで、神々を。大地に生き生命を食むもの達を。眼下に在るもの全てを見下ろしている。
その眼下に、今、私も含まれている気がした。
……部屋に戻ったら借りた本を読みながら熱い紅茶で体を温めよう。
私はオブを抱き締め、総毛立つ肌を一生懸命誤魔化した。
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