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麗人は今日も微笑む

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 遣いを終えて山から下りても、幸いなことに未だ陽は傾いていなかった。
 といっても、あと数刻もすれば空が暗くなって、いくら灯りをつけたとしても文字を追うには厳しくなってしまうだろう頃合いである。空が薄紫に染まるようであれば見世に寄らず屋敷に帰っていいと出発する前に言いつけられていたので、判断に迷うところだ。
 少しの逡巡の後、鏡椛の足は上方見附に背を向けて通りへと向かうことに決めた。
 樹鶴の元に荷を置きっぱなしにしていることに気づいたのもあるが、なにより借り受けたい書物があることが大きかった。未だ理屈屋の気が抜けない鏡椛にとって、言語と図式で物事を示してくれる書物は樹鶴と並ぶ師となっている。
 
 わいわいがやがや、棒手振から童まで賑やか極まりない人波の隙間を見計らってすいすいと進んでいく。どこかの宿に料理の美味い客でも泊まっているのか、ひどく腹の空くにおいがした。
 ぐう、と鳴りそうな腹を鎮めていれば、突然目指す方向からそれまでの賑やかさとは質の違う騒がしさが、波のように押し寄せてきた。

「ん? 騒がしいな」

「てえへんだ! 馬が暴れて綱切っちまったってよ」
「はあ!? どこの阿呆だい!」
「そんなことは後だ後! とにかく先生呼んで来い!」
「ちょっとどいとくれ! 先生のところに行けねえだろ!」

 嵐のような騒がしさの中、口々に誰かを呼んでいる。拾い上げたその文言に、鏡椛は首を傾げた。

「先生?」

 この町にも医者や教師はいるにはいるが、暴れまわる馬を鎮められるような人は一人しか知らない。
 この手の予感が外れたことがない鏡椛は先ほど『先生』を呼べと叫んだ男に、「もし」と声をかけた。ぐるんと振り返った男は、自分の腰ほどしかない身長だが見るからに武家の子供と言った容姿の鏡椛を見つけ、ぎょっとして声を張り上げた。

「若様! そんなところに居たらいけねえ! 馬が暴れ出したんだから怪我しちまうよ!」
「気遣いかたじけない。しかし今先生と」

 重ねて問おうとした後ろから、また別の男が鏡椛を指さして叫んだ。

「ああ! 若様、あんた先生んところの子か!」
「そうそう、久方ぶりのアタシの教え子だよ」

 喧騒に似合わない、春の夜風のように心地いい声がした。
 蝶や花雨のように軽やかに羽織と黒髪をなびかせてふわりと現れた樹鶴に周囲は驚くこともなく、むしろわっと華やぐような歓声をあげた。

「待ってたぜ先生!」
「早く早く、馬が足を折ったら大変だ!」
「気づくのが早えな先生!」

 押し寄せていた不安の波が、祭めいたハレの空気に成り代わって返っていくようだった。

「はっはっはっ、いかにアタシが端に住んでいるとはいえ、この騒ぎは気づくってもんよ」

 ひらひらと手を振りながら騒ぎの中心に目を凝らす樹鶴に、先ほど鏡椛が声をかけた男が近寄った。どこか気安く、けれど申し訳なさそうな顔をしている。

「いっつもすまねえな、先生」
「なぁに。同じ町に住んでんだ。この位はするさ」

 下がってな。と群がった町人たちに声をかけ、ふわふわとした足取りで馬がいるらしい方向に進んでいく姿に、鏡椛がぎょっとして声をあげる。

「先生! そちらはあぶのうございます!」

 たしかにこの騒ぎを収められるのは樹鶴しかいないと思ったとはいえ、無手で立ち向かう気なのかと目を見開く。いつも術を使うときに使っている煙管も腰差しに入ったまま、取り出す様子はない。
 そんな雛の心配をよそに、からからと笑って手を振る羽織姿は歩を止めることはない。

「これで危ないなら、アタシはとうに仏になっているよ」

 落ちた草履を拾いに行くような調子で言いながら、樹鶴はとんっと鏡椛の額を小突いた。

「でもまあ、心配するその心は大事にしときな」

 傾ぎつつある強い陽光が、金無垢を一層強く煌めかせていた。

 先生が来たぞー! おい! そこどけ邪魔だ! 蹴飛ばされてえのか! とにかく先生に道開けろ! ――そんな風に町民たちが口々に言いあううちに、すっかり通りには人を両脇の壁にした道が出来上がっていた。
 邪魔ものが居なくなったからだろう、まっすぐに暴れ馬が駆けてくるのが見える。普段は荷馬車を引いているのだろう、強く土埃を上げ、鬣をなびかせる姿は地獄の馬頭めずのようだ。
 蹄が地面をけり上げる度、ぐんぐんとその影は大きく速く近づいてくる。けれどもそんなものが見えていないような落ち着きぶりで、樹鶴はその肩に掛かった華やかな牡丹模様の羽織に手をかけた。

 ――瞬間、百花の王がぶわり・・・と馬の視界を埋め尽くすように、咲き誇った。

 真紅、薄桃、月白、濃紫、淡黄、朱色、茜、秘色、純白、銀灰、黄金。
 とりどりに色鮮やかな牡丹の花が、振り抜かれた羽織の布地から湧き出でては中空にて狂い咲く。

 それに驚愕したのか、暴れ馬が大きく反り返った。樹鶴の長身も軽々と超えるほど高々と、前足の蹄が振り上げられる。
 あれを振り下ろされたら、まず助からない。誰もがそう確信し、悲鳴が口々に漏れ出でる。

 けれど、その危機に直面しているはずの麗人だけは違った。

「気の毒にねえ」

 のんびりとした声だった。ともすれば、その蹄が自身の頭蓋をかち割ろうとしていることに気づいていないようにさえ思える穏やかさだ。
 するりと持ち上げた右手が、軽い調子のまま指先で蹄を受け止める。
 さほど力も入れないまま、そうあるのが正しいような形で静止した馬と麗人は、眼差しで語り合っている様にも見えた。

「蜂はもうどっかいっちまったよ」

 怯えるこどもに諭すような、柔らかな声音だった。馬もそれを理解しているように、それまでの鼻息も剛力もおさめ、前足をゆっくりと畳んで下ろす。
 白い指先が馬の滑らかな栗毛を撫であげれば、上機嫌そうに尾が揺れた。

「驚いたよなあ。よしよし」

 ころころと笑う姿は一仕事終えたようには到底見えない。
 暴れ馬を治めたぞ! 流石だなあ! そんな驟雨のような歓声が口々に溢れ、次第に祭の様相を呈していく人々の中心にあって、樹鶴はあくまで感情を波立たせることなく、玉樹のような姿を保っていた。

 その横顔を感嘆した様子で眺めていた鏡椛の鼓膜を、ちくりと刺す声があった。

「片手だよ片手。やっぱり化け物さ」
「獣と話しているぞ。おっかない」
「人じゃないんだよ。あの目の色にあの背丈、まるで見越し入道じゃないか」
「花なんかどこから出したんだ、あれ」

 たくさんの声ではない。あくまで小さく、密やかだ。そんな誰にも聞こえないようにと潜められた声が、楽し気な祭りの空気に混ざっている。聞かれたら困るけれど、みんな本当はそう思っているんだろう? とでも言いたげな気配が混ざった、ざらついた言葉。

「な――ッ」
「さっすが先生だなあ!」

 カッと義憤に駆られて歩を進めようとした鏡椛の往く手を遮るようにして、一人の男が目の前を突っ切りながら声を上げた。
 見れば、先ほど二番目に鏡椛に声をかけた男が、太い腕で樹鶴の背をばんばんと遠慮もなしに叩きながら笑っている。

「いやいや。この子が利口だったのさ」

 恐らく大工だろう男の、丸太のような腕で背を叩かれているのにびくともしないまま、樹鶴が軽い調子で応える。

「先生。手間かけたなあ」

 申し訳なさそうに声をかけたのは、先ほど申し訳なさそうにしていた男だ。

「ああ、やっぱりお前さんの処の子かい? 蜂が耳周りに飛んできて驚いたみたいだよ。今度から気を付けてやんな。必要なら毒虫除けの薬を拵えるからさ」
「そりゃあありがてえ!」

 ぱっと顔色がよくなって、これから一杯やらねえかと声の調子も明るく大工と共に樹鶴を挟んで盛り上がりはじめる。
 しかし樹鶴は一言「また夜にでも行くよ」と断って、するりと人波をすり抜けるようにして所在なさげにしていた雛を拾い上げた。

「先生。その」
「御遣い、ご苦労だったね鏡椛」
「は、はい」
「あと、アタシは気にしねえから、お前さんが突っかかるんじゃないよ」
「気づいて……おられましたか」
「そりゃあね」

 長い、蜘蛛の糸のようにしなやかで細い黒髪が傾き始めた太陽の色に染まって、ゆるくなびいた。天上の美貌は、あくまで穏やかだ。その表情に嘘はない。
 それでも、鏡椛にはなぜ樹鶴があのように侮辱されて平気でいられるのかがわからなかったのだろう。至極不満げに眉を寄せている。

「どうして、放っておかれるので御座いますか」
「んー……。アタシを化け物といったあの人の漬物さ、旨いんだよ。本当に」
「……は?」

 ぽかん、とした幼子の頬についた土汚れを拭ってやりながら、樹鶴は努めて静かな声で語り掛けた。

「なあ、鏡椛。お前さんが見たのはほんの一粒だ。人の世という数多ある話の、一握」

 金無垢の目が、柔らかく笑っている。
 地面に落ちていた名も知らぬ木の葉が、吹いた風に乗って通りの脇の水路で筏を作った。きらきらと光を弾く水面に小さな波紋が広がって、また新しい美しさが仄見える。

「人の悪意は恐ろしい。お前は違うと叫ぶ声は悍ましい。でもさ、それがすべてなんてことはあるまいよ」

 日に雲がかかったのか、暗く深く陰って、互いの顔が見えなくなる。只人も、鬼道も、等しく暗く沈んでいく夜闇がすぐそこまで来ている。

「見えねえもんに聞こえねえもん。あと触れられねえもん。そういうもんは誰だって恐ろしいさ。……それに、長い時間がかかってここまできたんだ。わざわざ蒸し返すような真似も無粋だろう」

 雲が流れて、金の瞳のきらめきが戻ってくる。語る声は涙が出そうなほどに優しく、夕景に広がっていく。

「いい世になったんだよ。本当にさ」

 遠い時代の暗闇を、もう二度と雛らが味わうことのないように。
 そう願って駆け回った日々を想いながら、鬼道ものは平穏を言祝ぐように微笑んだ。
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