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樹鶴の友人

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 鏡椛が手習いに来ない、とある日の事。
 白と黒の奇妙な見世の暖簾を潜る、一人の老人の姿があった。

「おーい先生いるかぁ?」
「ん? なんだ五郎じゃないか。茶屋はどうしたんだい」

 五郎は、見事な総白髪をこなれた様子で髷にして、腰こそ曲がらぬもののあちこちの肌に刻まれた皺は寄る年波を隠すことのない只人の老爺である。けれども先の乱世の折には渡り中間ちゅうげんとして銭を稼いで回っていた、とかいう噂が立つほどには風格のある面差しをしており、好々爺というにはあまりに荒っぽい。
 そんな荒事を好む任侠者の大親分でもしていそうな顔ではあるが、この男の家はこの宿場町でもそこそこ繁盛している茶屋である。街道を行きかう人々も多い今日は絶好の商売日和のはずだ。そう思って樹鶴が首をかしげる。
 その問いかけに、今度は五郎の方が呆れたような顔をする番だった。

「何寝ぼけてんじゃ。もうとっくの昔に倅に任せて隠居したじゃろうが――この間のは先生が出張って解決したしのう」
「ああ、そうだったね。で、今日はどうしたんだい」
「どうもしねえよ。茶ァ出せ茶」
「まったくあんなに愛らしかった子がこうも太々しくなっちまってさァ……。マ、いいけどね。まずくても文句言うんじゃないよ」

 客とも隠居とも思えない機敏な動きで板敷にどんと尻を乗せた五郎に、樹鶴は仕方なしに煙管を振った。くるりくるりと湯呑が二客戸棚から踊り出し、急須は囲炉裏の傍で湯を注がれて茶葉を腹に入れられ飛んでくる。
 奇妙で愉快なその光景に、五郎は子供のころと同じように目を輝かせながらにっと歯を見せて笑った。

「何回アンタと茶ァしばいたと思っとる」
「そりゃそうだ」

 五郎と樹鶴は、この宿場町でも有名な茶飲み友達にして将棋仲間である。


 ずず、と茶をすすり、五郎が持参した羊羹をぽいっと口に放り込み、他愛ない話をいくつも重ねる。それに気が済んだら五郎がさっさと帰っていく。
 それがふたりの日常だ。ここ最近は樹鶴も鏡椛の指南に時間を取られ、五郎の方も茶屋でなにやら騒動があったとかですっかりご無沙汰になっていたのだ。

 陣屋の若いのに子が生まれそうだ、あそこの猫がこの間夜な夜な二本足で踊っているのを見た、今年の酒はまあまあ旨い。
 そんな取り止めもない話題が、いくつも連なり、不意にまた次のものへと飛んだ。

「そういや、弟子をとったそうじゃねえか」
「あくまで仮だよ。放り出すわけにもいかねえってだけさ」
「それでも弟子は弟子じゃろが。はじめてか? アンタが弟子とるなんてよ」
「ん? いや。あったよ。随分前だけれどね」
「……どんだけ前の話をしとるんじゃアンタ」

 五郎が生まれた時から樹鶴はこの地に住んでいた。今と変わることのない幽玄の美貌のままで、幼いころはそのあんまり変わらない姿に隣の神社の神様が酔狂で町人に化けているのかとすら思ったこともある。それをぽろっと漏らしたら盛大に笑われたし、樹鶴も樹鶴でわりに人らしいところがあると長年の付き合いで知ったので、もうそう思うことはない。
 けれどこの手の『前』という尺度が全く異なることもまた、長年の付き合いで五郎は重々承知している。
 にっこりと美貌が笑みを浮かべる。

「釜倉でもののふがあれやそれやともめる前かな」
「カーーッ! そりゃ儂が知らんわけじゃわ!」

 気軽に武家の始まりの時代をされた。五郎は特別学があるわけではないが、それでも今言われたのが百年二百年、下手を打てば五百年は昔の事なのはわかる。五郎の先祖がこの地に住んでいたかすら危うい。
 自分の尺度のズレに気づいていないわけもないだろうに、そうしたことをさらっというのがまた五郎にとっては面白くて仕方がない。

「酒でも飲んでうちに来たのかいお前さん」
「いや? で、その弟子はどんな具合じゃ」
「どんなって?」
「たとえばじゃな……鬼道の腕前は?」
「お前さんに言うことじゃないねえ」
「何故」
「言ったところで分からねえだろう」
「わからねえな。しかし面白いかもしれん」

 至極真面目な顔だ。五郎という男は強面で、気性も決して穏やかとは言いにくい。だが情が深く義理堅く、こうしてなにごとも愉快がる豪胆さがある。そういったところは樹鶴も好ましいとは思っている。思っているが――雛を笑うなら別である。
 金の瞳がじっとりと五郎を睨む。

「人の所の雛を何だと思ってるんだこの餓鬼……」
「おっ、ひさびさに聞いたのう。先生の『餓鬼』呼び! 最近じゃあちっとも言わなくなっちまって……にしてもこの歳で餓鬼呼ばわりはなんとも可笑しいのう」

 そう言って笑う五郎の頬に皺の深い影が落ちたのを見て、樹鶴はふっと微笑んだ。

 五郎のことは、子供のころから知っている。
 物怖じのしない子で、わんぱくで、体が出来上がるのが早かった。そして噂通り渡り中間なんぞになって、合戦場で奉公しては大きな武勲こそ立てないものの五体満足で帰ってくるのを繰り返した。
 あんまりそれを繰り返して母親どころか父親まで泣かせた若いころの五郎をとっ捕まえて家に戻したのも、樹鶴だった。正直血と鉄にまみれた戦場に近づきたくもなかったが、「それしかでくのぼうの自分にはできないのだ」と言ってがむしゃらにボロボロになって戦場に戻っていく大きな子供をそれ以上見ていられなかったのだ。
 褌を振り回して尻を出して走り回っては母親にとっ捕まっていた姿も、飢饉で自分の腕ほどしかないちいさな妹を亡くした姿も、死にたがるように合戦場に赴く姿も、連れ戻されておっかなびっくり団子の作り方から学び始めた姿も、嫁を貰って照れたように笑った姿も、初孫を抱いて泣いた姿も、樹鶴はずっと見てきた。
 成長し、老いてゆく姿を――大樹のような目線で見守っていた。 

 だからだろう、この只人を見るたびに、樹鶴は何だか微笑ましい気持ちでいっぱいになるのだ。

アタシにとってはお前さんは餓鬼さ。見てくれはちょいとしょぼくれちまってるけどね、魂はまだまだ落ち着きがねえよ。お前さんは」
「ワッハッハッ! そりゃあ長生き出来そうじゃ! で、弟子は確か武家じゃったかのう」
「ああ、そうだけど」
「先生、挨拶に行ったか?」
「……まあ、一応ねえ。別にいかなくてもいいとは思ったのだけれど、気になることも多かったし」
「どうじゃった」

 五郎は、只人だ。それも合戦に行っていた――武家を他の町人よりは近くで見たことがある人間。武家のうちにある誇りも凝りも、知っているからこその興味だろう。
 ふう、と花蜜の靄を吐き出して、樹鶴はすっと窓の格子に捕まっている蜻蛉へと視線をずらした。透ける羽根が、陽を通して虹色にちらちらと光っている。

「――マ、思っていたよりは清い家だったね。あんだけ大きな屋敷ならもっと業が溜まっていてもおかしかねぇってのに」
「ほぉん。先生預かりになる子供が出るようならよほどの悪党かと思えばそうじゃあねえんだな」

 なるほど、【塾】に行けない子供を出した家はそう見られるのか。まったくもって只人というのは面白い。

「別にアタシは、浄玻璃鏡なんぞもっちゃいねえし、それで子供を間引くわけがないだろう。それも家の業なんぞで」
「なんぞか! ハハハ! やはり鬼道もんは豪儀じゃのう」
「なにがだい。まったく……あんまりうちに来ると孫が心配するよ」
「ハンッ! アイツ、先生におしめ変えてもらったことも忘れてよぉ」
「それは忘れて構わないし、あの子が心配してるのはお前さんの歳だよ。もう九十超えてるんだから」

 まだ乱世も終わったばかりのこの時代においてはかなりの高齢だ。そこそこ栄えている店の隠居とはいえ、ただの町人としては驚異的と言える。
 だが、五郎は呆れたと言わんばかりの目で樹鶴を見つめ返した。

「千超えとる先生に言われとうないんじゃが」
「それはそれ。これはこれ。ほれ、痛み止め出してやるから今日はもう帰りな」
「……いつ気づいた?」

 五郎の皺だらけの節くれ立った手が、脇腹に置かれる。
 いつも以上に感情の起伏を激しくしていたのは痛みをごまかすためだろうが、樹鶴が視ているのはあいにく魂の揺れや肉体の軋みそのものなのでごまかしは通用しない。
 ため息をついて樹鶴は立ち上がり、百味箪笥をコンコンと叩いた。鬼道相手ならば自分からモノを用意してくるが、只人相手の時は樹鶴の合図が必要なのだ。

「入ってきたときからだよ。あちこちガタきてんだから、そんなに鬼道の話が聞きたきゃアタシのほうからお前さんのところに行ってやるってのに」
「やだね。この足が萎えてねえうちは通い続けてやる」

 新鮮な薬草と乾燥させた薬草がそれぞれふたつ抽斗に現れたのを確認して、樹鶴は薬研を取り出す。そしてそれらをゴリゴリとすり潰す。金の目が万華鏡のようにくるくる色味と輝きを変えるたびに、物が宙を行き交いながら必要な分を樹鶴の手元に投げ入れていった。
 それを楽しむように眺めている五郎に、もう一つ息をついて問いかける。

「なんでまた」
「あ? 儂を何もできねえ病人にでもしてえのか?」

 本音であり、嘘も交じっているようだ。
 ――大方、五郎の家を訪れたところで、樹鶴はこうも軽々しく鬼道の力を使おうとしないからだろう。この子供は、昔から鬼道の力であれやそれやと作業をする樹鶴を見るのが好きだったのだから。

「そうは言ってないさ。まあいいよ。気が済むまでおいで。わざわざ鏡椛がいない時を見計らって来たみてぇだが、遠慮なんかしなくていいから」
「いや、それは」
「身分が気になんなら、うちではそれはまっさらなもんになる。手習いの邪魔をしたくねえって話なら、あの子はむしろ只人のなかにもお前さんみたいのがいるのを知った方がいい。まだなにかあるかい」
「……いいや。なら遠慮なく邪魔させてもらうとするかの」

 どこかほっとしたようにくしゃりとした笑みを浮かべ、五郎が腰を上げる。その手に薬包紙をいくつかまとめた包みを握らせてやれば、じゃあな、と手を振って嵐のような友人は去っていった。

 その背は、かつての子供よりも随分小さくなってしまったように見えてならなかった。

「……。お前さんは、いつまで生きていてくれるんだろうねえ」

 一切れ残った羊羹をかじりながら、樹鶴は苦く呟いた。
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