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むかしむかし、あるところに

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 星と月が鮮やかな夜の中、紅葉がひとひら流れていく。
 大気すっと撫でて彷徨い、風に浮きあがり、また沈む。
 ゆらりゆらりと気ままに落ちて、土と草履とに挟まれ朽ちていくだけだったはずのそれは、ふいに宙で動きを止めた。夕景を切りとったような葉をたどれば、白い指がその細い茎を捕まえているのが見えた。

「ああ、もうそんな時節だったか」

 聞き心地はいいが老若男女のどれともつかない、不思議な声だった。
 そのヒトは若い娘が着付けるような紅い振袖を青年が纏うような書生服の肩から掛ける、なんていう奇妙な恰好をしていた。しかし、それが不思議とよく似合っている。
 男にしてもひどく高い位置にある顔は麗人と呼ぶほかない。血色の一つも刷かれておらず、夜闇にぼうっと浮かぶように白い肌はよくできた雪像にも似ている。その整い切った面立ちがまた、そのヒトの性や歳をいっそう曖昧なものにしていた。
 ほんの少しひかれた顎までもがすっきりといい形をしていて、時折伏し目がちな長い睫毛が瞬きに揺れなければ名工の作った神仏を模した生人形と見紛えただろう。
 そんな麗人の、これまた滑らかな質感の白い喉が不意にくっと反った。紅葉をじっと見ていた金無垢の目を空へと向けたのだ。
 水面のように凪ぎ、鏡のように細かな星の煌めきを映り込ませた瞳に、ゆるりと感情が波立つ。
 ――哀切と呼ばれる感情に近く、嘆きと呼ばれる想いに遠い。
 ――愛慕と呼ばれる感情と似て、憎悪と呼ばれる想いと違う。
 まるで、稚い子供のちいさな悪戯を叱りたくても叱れないとでもいうように、柳眉がゆるりと八の字に歪んだ。
 紅葉を眼前に持ち上げながらくるりと回して、薄い唇から息を零す。

「忘れてよいと、しかと教えただろうに」

 麗人はそうつぶやくと、想いを馳せるように瞼をおろした。



 これは、いずれ魔法使いと呼ばれることとなる人々がまだ「鬼道もの」などと呼ばれていたころにあった、出会いと別れの物語。


***


 天下分け目の決戦から数年後の、とある宿場。

 山と山の合間にあるような、いっそ山中と言った方が相応しいような場所でそこそこの繁盛を見せているこの宿場の名は冨塚と言う。
 お江戸に殿様が座すようになってからしばらくの間は正式な宿場として認められないでいたが、ついに両隣の宿場から許しをもぎ取って、大手を振って人の行きかう正式な街道沿いの宿場町へと名を連ねることと相成った。

 ――などという人の世のすったもんだには我関せず、遠い昔からその道沿いに住む鬼道ものがいる。

 現世に住む鬼道ものというのは大抵長く根を下ろさず、あっちこっちでふらりと現れてはその辺りで起こっている奇怪な困りごとをちょいと直して去っていくようなのがほとんどだ。
 しかしここにいるのはどういうわけか、どんな年寄りに尋ねても「子供のころからあそこにあるよ」と返ってくるほど長くこの土地に生きて、只人のように見世を開いていた。

 「どうしても困ったことがあったら、【先生】が聞いてくれるよ」

 幼子もそう笑うほどに、その鬼道ものは人里によく馴染んでいた。 


 鬼道もの、鬼道もん、鬼っこ、マレビト、仙人、夢殿人、きじんさん。

 呼び名は様々だが、どれも人々にとっては同じものを指す。
 只人よりずっと長く生き、只人にはない異色を体のどこかに抱いて人の胎から生まれるもの。
 この世ならざるものを見聞きし、時として空を飛んでみたり、次の満月の天気を何食わぬ顔で当ててみせたりするもの。
 妖怪変化というには人に近しく人に利をもたらし、神仏というにはあまりに愛嬌があり、人と呼ぶには随分畏れ多いもの。
 そんな奇妙の住人のことを、この時代のこの国においてはそう呼んでいた。


「もっとも、此方は呼び名なんてどうだって構いやしないんだけどね」

 そう言って麗人がほう、っと作り物めいた唇から煙を吐き出した。紫煙特有のにおいはなく、花の蜜を目いっぱい集めたような水気のある香気がすうっと店内に広がっていく。
 夜闇から紡ぎ出したような黒髪に陽光と月光を束ねた金色の瞳を合わせ持つこの年齢性別不詳の麗人こそが、この冨塚の地において古くから【先生】と呼ばれる鬼道もの。

 ――その名を、樹鶴じゅかくといった。

 奇妙な名だが、鬼道ものは皆こういった名を名乗るので特に気にする者はいない。それどころかこの麗人に慣れた老人などには「古木みたいな先生にはよぅく似合っとる!」と言って呵々と笑うものまでいた。

 さて、樹鶴の見世は、宿屋や飯屋が騒がしく並び立つ通りの中で最も端に一歩離れるようにして建っている。
 これは誰かが図ったことではなく、昔からのことだった。どれだけ町が寂れても、あるいは栄えても、この見世は不思議と人々の流れの一番端にその戸を置くようにできているのだ。
 そして、その外観もまた、只人の目には奇妙な風体に見えるものだった。

 まず、すべての柱と壁が黒い。
 よく見れば黒漆喰の中に星のようにきらりと光るものが散っているため禍々しさはないが、影も照りもなくのっぺりとした様子はいかにも異様だ。
 つぎに、ぬっと突き出した細い楼閣がある。
 まだ厨子二階つしにかいすらまばらなこの宿場町にあって、ひとつだけ突き抜けたそれはひどく目立つ。旅路に寄ったものはまずぎょっとしてあれは何かと住民に尋ねるのが常だ。一体全体なにに使っているのかはわからないが、時折樹鶴がてっぺんのあたりで空を見上げているのを見かけたというものがいるから、物見やぐらならぬ星見やぐらなのかもしれない。
 そしてなにより――葺かれた茅が、雲だか雪だかのように真っ白なのだ。
 他のは探せばどこかにあるかもしれないが、こればかりはこの世の常とは違うものを使っていると誰もが口を揃えて言う。商家や町屋の大半は板葺きやこけら葺きであるから、造りは商家であるのに屋根だけが茅葺きであるというだけで随分と目立つというのに、その色が余計に人目を引いた。
 なにせ葺き替えたばかりの黄金っぽい色とも、時間を経たり光を弾いたりして銀色に見えるのとも違う、混じり気なしの白なのだ。釜倉の方からやってきた旅人なんかは長い山道の果てに最初に見える屋根がこれなもんだから、気づかぬ間に雪でも降ったかと地面をじっと見ては首をかしげてしまうことさえあった。

 住民は鳥居がああいう形をしているのとおんなじように、【先生】の家はああいうもんだと言うが、やはり少しばかり近寄りがたいのだろう。この見世を訪れるのはごく少数の例外を除いて、相談事がある者がほとんどだ。
 もっとも、樹鶴はなにか困りごとがあってさあ相談しに行くぞと町人が腰を上げるときになると丁度、酒が切れたとか山菜が多く採れたとかでぬっとその軒先に現れるのだから、もうその軒先を潜るのは茶飲み友達の五郎じいさんくらいのものになってしまった。

 しかし、夢見月のある日の事、この白と黒の奇妙な見世を訪れる小さな影があった。
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