ファム・ファタールの標本

冴西

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ファム・ファタールの標本

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「もしも、私が私じゃなくなったら、殺してくれる?」

 うつくしい声だった。
 夕暮れ時の切なくなるような空気に蜂蜜を一滴たらした、澄んでいるのにとろりと甘い、大好きな声。

 永遠に聞いていたいほど愛しいそれで織られた言葉に、あたしは一瞬息を止めた。

 夕陽を浴びて赤みを増した、一千万分の一の確率でしか生まれないヴァイオレット・アイに間抜けにもぽかんと口を開けて瞠目した顔が映っている。
 聞こえなかったフリはできない。こんなにも静かな二人きりの教室で、そんなごまかしが通用するはずもない。
 はく、と一回だけ口を開閉させて、努めて穏やかに笑みを作る。

「――勿論。約束するね。巴チャン」

 答えたあたしの声は、震えていなかっただろうか。
 震えていたりしたら、この優しい少女はきっと悲しんでしまうだろうから、きれいに取り繕えていればいいと思う。
 好きなコの前でくらい、ばっちり決めておきたい乙女心というやつだ。

 あたしの答えに巴ちゃんの長い睫毛が震えて、白い頬の上に影が落ちる。血の気のない冷たそうな頬は、それでも触れてしまいたくなるくらいに滑らかだった。蝉がぼたぼた落ちてくるような秋の初めで、まだ少し汗ばんでしまう気温の中でも、彼女はうつくしい。

 あたし――梶原真莉愛かじわらまりあは、この、世にもうつくしい少女に恋をしているのだと、毎秒ごとに自覚する。
 谷坂巴という、怪物めいた魅力を持ったただの女の子を愛しているのだと、呼吸するたびに酔いしれる。

 なんて、幸福なことなのだろう。
 なんて、得難い奇跡なのだろう。

 だから、あたしは約束するのだ。

 小指と小指をそっと絡ませて、すべすべとした白い肌を指の腹でなであげて――ヴェールの一つでもあれば完璧だったけれど、放課後の教室で贅沢は言えない。

「巴チャンが誰かの物になっちゃいそうになったら、きれいなまま標本にしてあげる」

 誓いの言葉を口にすれば、巴ちゃんが幼い少女のように笑う。
 心底安堵して、夢を見るような甘いヴァイオレット・アイがふわりと綻びながらあたしだけを見てくれる瞬間は、何度味わっても毒薬のようにあたしの脳髄をぐずぐずにして止まない。
 ――ただそれだけのために、最初で最後の恋を捧げた彼女を殺す約束をしたのだ。
 殺してしまえば、華奢な肋骨の内側にある心臓を止めてしまえば、もう二度と彼女が笑うことすらできなくなることくらいわかっている。わかっているけれど、止めようがない。

「やくそく、ね」

 必ずわたしを殺してね。それまで誰の物にもならないから。

 言外にそう言う彼女に逆らえると言える人間がいるならば、出てきてほしい。
 誰に愚か者と罵られようと巴ちゃんが最後まで笑ってくれるならそれだけでいい。そんな気持ちが彼女を目の前にすればきっと骨身に染みるはずだから。

***********

 谷坂巴やさかともえはとてもきれいな女の子だ。
 想像し得る中で一番うつくしい出来の白雪姫を思い浮かべてほしい。
 艶やかな天使の輪をティアラのように飾った黒檀の髪、雪花石膏を思わせる白い肌、血のように紅い唇、一流の芸術家が丁寧に作り上げたに違いない整い切った造形、可憐な声。――そうして組み上げた形の仕上げに、とびきり上等な紫色の宝石を眼窩に嵌めれば彼女の出来上がりだ。
 童話の御姫様と違うのは、生に煌めく瞳というよりも死に焦がれる瞳をしているということくらいだろうか。それすらも魅力に変えているのだから、まったく魔性というものは手の付けようがない。

 そう、魔性だ。
 ただ立ち上がるだけで、ただ佇むだけで、歩むだけで、息をするだけで。ただ、生きているだけで人を魅了する生き物を、魔性以外になんと呼べばいい。

 本来のあたしなら、絶対に近寄らないタイプの子だ。頭の足りないギャルとか言われることもあるけれど、少なくともこの少女の危険性ははっきりわかっている。
 本人に悪意がなくとも勝手に人が狂っていく。この子のほほえみを、小さな手振りを、あるいは一滴の涙を向けられたいがために、頼みもしないのに彼女の周囲にはいつだって死体が転がっている。血途を勝手に、作られる。
 まるでそれこそが彼女に相応しいレッドカーペットだとでもいうように。
 
 誰がやっているのだか――単独犯ではないことだけは確かだ――わからないが、確実に積み上げられていく供物の山の中にいつ自分が埋もれるかわかったものではない。
 正常な判断を下すならば、彼女の視界から消え失せて、どこかのだれかからも逃れるべきだ。

 わかっている。わかっている、けれど。

 それでも今もここに居るのは、彼女のお願いなら何でも叶えてやりたいと思ってしまうくらい首ったけになってしまっているのは――そんな、危険だなんてデメリットで打ち消すことができないくらいに、彼女のことが好きになってしまったからだろう。
 誓ってあたしは死体を積み上げたりはしていないけれど、彼だか彼女だか知らない狂信者どもと世間的に見れば同じ部類に仕分けられる愚か者であることは、否めない。

 ため息をつけば、思ったよりも熱い吐息となって唇が濡れた。

 理性でそれ【脅威】を理解し、本能でそれ【危険】を悟り――愛でそれら【警告】を放棄する。
 出会ってしまって、好いてしまったのだから仕方ない。

 彼女の黒髪が淡く光を弾いて緑色に光る。艶やかで柔らかそうな唇が赤い。長い睫毛の奥にある瞳が紫色に世界を灯す。決して原色のような派手さはないけれど、彼女の色はあたしを染め上げてしまった。
 あたしの、曖昧な灰色の世界を。

 瞬いて、記憶を手繰る。

 彼女に出会った時のことを一度だって忘れたことなんてないから、記憶の再生は至極スムーズだった。


 ――あの日は、雨が降っていた。

****

 世界に紗幕をかけたような霧雨が降る窓の外から目をはなし、流行りのティントリップで彩った唇をストローに寄せる。
 なんか町がモノクロに見えるよね、なんて妙に詩的な表現をする目の前の友人に適当に相槌を打ちながら、そういうものかと認識に書き足す。
 太いストローから吸い上げたクリームとコーヒーの混合物はべっとりと甘い――けれど、これが世間的に美味しいらしいから、美味しいねと頷いておく。
 流行りのメイク動画のすっぴんと完成後を見比べてもどちらも同じ骨格だなと思う――けれど、メイクの詐術やカラーリングがすごいらしいから、そうだねと肯定しておく。
 そんな行為を繰り返しながら、梶原真莉愛と名付けられたあたしはその日も生命活動を続けていた。

(――わからないなあ)

 あたしにとって、産声はそのまま断末魔のようなものだった。

 色覚に異常があるわけではない。おはじきは言われた通りの色を順に並べることができるし、ニュアンスカラーを取り入れたメイクやコーディネートもお手の物。けれど――それらが心の揺らぎをもたらすことはない。
 好意はなく、嫌悪はなく、神経が興奮したり落ち着いたりといった心理的な変化も生じない。
 畢竟、あたしにとっての色とはただそこに存在するだけの物であり、生命の維持に役立たないという意味では空気や水といったものよりもずっと下の無意味な存在でしかなかった。

(そんなあたしでもどうにかなっちゃうんだから、世界って適当なんだよなあ)

 生まれてこの方、梶原真莉愛は世界に実感を持ったことがない。
 強烈なトラウマがあるわけでもなければ、人格形成に難をもたらすような家庭の不和があったわけでもない。ただひたすらに、そういう生き物として生まれついている。
 胎内記憶を持つ子供であったから、確かなことだ。

 少なくとも、この瞬間、この時までは――あたしと世界は、分断されていた。

 そう。

 ――さあさあと、あめがふる。

 少なくとも、

 ――ぱしゃん、と小さな足が水たまりの上を駆けた音がする。

 この瞬間、

 ――窓の外だ。聞こえるはずがない。それでも、たしかに聞こえた。

 この時まで。

 ――幻聴かもしれない。それでもいい。

 すなわち。

 ――その音のおかげで、焦点すら定まってなかった目玉をそちらに向けることができたのだから。

 灰色の紗幕を背にして、世にも美しいものがこの世界に現れる、その瞬間までは。



 雨で濡れた黒髪がぺっとりと白く細い首に張り付いて、妙に色っぽい。
 血の気のない頬の白さが鮮やかな唇の赤色と引き立て合っていてとても綺麗。
 細くて折れそうな足首も、柳腰も、どれも完璧な比率でそこにおさまっている。
 どんな名工でも再現できないほど繊細な造りの横顔に、どうか顔をあげてこちらを見てくれないかと期待が募る。
 悍ましいほどの欲望が鎌首をもたげ、舌なめずりをする。

「……きれい」

 陶然と呟いたのは、あたしではなかった。
 いや、こう言うべきだろう――コーヒーショップの店内にいたあたし以外の全員が、一様にそう呟いたのだ。

 異常だった。

 誰も彼もがガラスの向こうに立つ線の細い少女を見つめている。彼女の一挙一動、瞬きの小さな震えさえ見逃してなるかと、じっと、息をひそめている。
 極上の獲物を見つけた獣、あるいは――祭り上げるべき神に出会ってしまった、人間のように。正気の窮まった、狂気を帯びている。

(なに、これ)

 自分も見蕩れはした。あらゆる色彩に動かされたことのない心臓が、彼女の赤い唇一つに盛大に高鳴ったことも認めよう。

 けれど、生来の熱の薄さが幸いしたのか、残された一かけの理性があたしをその奇妙な群衆の一人にしなかった。
 間違いなく魅入られているが、狂ってはいない。
 誰も彼もがその美しい生物の向こう側に自分の求める夢をみているような、とろりとした目を向けている中で――ただ一人、あたしだけが実像を見据えていた。

 だからと言って、冷静だったわけではない。

 周囲の異様さに常ならば財布を掴んで大急ぎでその場から立ち去ることを選ぶ無味乾燥の感性は今、生まれて初めて感情の嵐の中にいた。
 ――周囲を陶酔や偶像崇拝というならば、対して恋とでも名付けられるような、強烈な感情の中に。
 耳の奥から大きな心臓の音が爆音で鳴り響いている。体内で嵐でも起きているかのような轟音にあおられてクラクラとめまいがする。ひどい風邪でもひいたみたいだ。

(こんな、)

 ごくりと唾を飲み下した音に反応するように、うつくしいひとがこちらを向いた。

(――なんて、あざやかな)

 紫色が、プラスマイナスゼロ度を保ち続けた心臓を射抜いた瞬間だった。

 この世のどんな宝石だって勝てやしない、鮮烈な紫眼。
 魂をまるごと掴まれてしまいそうなほど強いのに、どこか眠たげな香りを帯びているのがこの上なく似合う極上のヴァイオレット・アイ。
 奇跡のような色素の比率でのみ成立するその瞳を前に、これまで不動を貫いていた梶原真莉愛の心はあっさりと陥落した。

「名前、教えて」

 硝子越しに届くはずもない言葉を零してみるもやはり声は届かなかったようで、ことん、とその小さな頭が横に傾いだ。
 うるさい心臓をどうにかなだめすかして、とっさにスマホのメモを起動する。
 女子高校生らしく鍛え抜かれた速度で文字を入力して硝子に向ければ、ほう、と赤い唇から白い息が漏れるのが見えた。

【お友達になりたいから、お名前を教えてほしい】

 飾り気も何もない文章をにしぱしぱと目を瞬かせた少女は、細長く白い指を顎に当て、ちょっとだけ虚空を悩まし気に見つめる。
 きっと一分どころか三十秒も経っていないだろう短い時間の中で、全力で徒競走したみたいに心臓の音だけが鳴っていた。うなじのあたりにチリチリと視線が刺さっているような気もするが、群衆の妬みだろうから、気にしない。
 ふいに、顎のあたりにかかっていた指先が動いて、上にずれた。人差し指一本が赤い唇の前で立てられる。

 ――ないしょ

 音もなく伝えられたそれにゾクゾクと背筋が震えた。
 それが羞恥でもなければ、憎悪でもなく――いうなれば、歓喜に近い感情であると気づいたのは、店内の異常な静寂がするりと消えて友人の声が鼓膜を揺さぶった時だった。
 はっとしていつの間にやらテーブルに落としていた視線を窓の外に戻せば、彼女はもうそこにはいなかった。

 真夏の夜の夢のように、世にも美しい少女との邂逅はそうして終わった。

****

 次に彼女と出会ったのは、雨の日から二日後の事だった。

 最初の雨天とは打って変わって、その日はからりと晴れた青空が印象的だった。

 突き刺すような風が、おしゃれに興じる女子高校生の太ももを存分に冷やしていく中、あたしは花屋に赴いていた。
 日常から花を飾るような習慣はないけれど、母の誕生日が近かったのでフラワーボックスの一つでも贈ろうかと思いついてもことだった。
 世界に何の色も感じられない生物ではあるものの、両親といたって仲が良かった。
 父は最優先事項が母であること以外は実に優秀な父親であったし、母は娘が世界をモノクロに見ていると知ってもそれでいいと受容する器の大きな母親であったから、どこか人間の真似をしているだけのような自分にとっても過ごしやすい環境と距離感を維持できていたのだろう。
 そんなわけで、親と仲のいい子供らしい行動をとるべく、その日の目的地は花屋になった。
 菓子や小物ではなく花にしたのは、あのうつくしい少女の影響だ。
 それまで色に価値を見出せなかったから実用性や機能性を優先してモノを選んできたけれど、あの美しい紫色を思い出すと、少しだけ美しさ以外に意味のないものであってもよいのではないかと思うことができた。その変化を喜ぶべきかはまだはかりかねていたけれど、それでも思い返すだけで胸がうずくあの紫色によく似た花があればいいなという小さな期待もあった。

 ――結果のみ言えば、そこで売られていたどの花もやはり真莉愛の胸を焦がすことはなかった。

 代わりに、この世で最も美しい人がそこにいた。

 雨中に佇んでいた白雪姫が、やはり眠たげな眼差しで花の中に佇みながら、あの日と同じくことんと首を傾げる。
 一拍置いて、形のいい唇が解けるように開いた。

「……あ。この間の」
「……えっ、おぼえ、て?」

 まさかあの一瞬の出来事を覚えていてくれるとは露とも思っていなかった、だとか、まさかここで出会うとは、だとか、声まで綺麗なのかこの子は、だとか。一気に増した情報量が頭の中を駆け巡る。ばったり街中で友人にあった際に不審に思われない程度に身綺麗にはしているけれど、この少女の目の前に出るにはあまりにも気を抜いた服装をしているのではないかと途端に全身が熱くなる。
 人に合わせるのは得意な方だったはずなのに、まるで回らない口を馬鹿みたいに開閉させている姿のなんてみっともないことだろう。
 焦りを覚えたあたしとは正反対に、少女はやはりおっとりとした様子で真莉愛の確認にこくりと首肯した。

「うん。喫茶店にいた子。だよね」

 また会えたね。と控えめな声で語り掛けてくる姿に、もはや狂喜に等しい感情がこの身を内側から焼き尽くしてしまいそうになる。
 いっそ発狂出来たら楽になれるんだろうな、なんて馬鹿なことを思う。

「そのっ、この間は、ごめんね? その、貴女があんまりキレイだったから、お友達になりたくって、あんな変な聞き方しちゃって」
「……おともだち?」
「えっ、うん」

 実際はこの感情が友情ではなく限りなく劣情に近いものであることくらいとうにわかっているが、さすがにほぼ初対面の相手からそんなことを言われたらトラウマものだろう。
 そう咄嗟に回転させた頭で取り繕えば、少女はぱちぱちと数回瞬きをして――ふにゃりと、笑った。

 赤子のように無垢で、花のように柔らかい、無防備な笑顔。
 美術館にあってもおかしくない造形の、ある種人間味のない美貌の持ち主が浮かべるにはあまりにも不釣り合いで――それだけに、魅力的かつ破壊力抜群の笑みだった。

「うふふ、そっかぁ。おともだちかあ」
「――そんなに嬉しい?」

 そこで、生来の達観がちりりと違和感を叫んだ。
 脳髄まで蕩けて馬鹿なからくり仕掛けみたいにならなかった自分をほめてやりたい。
 無垢に、邪気なく、「友達」という言葉に喜びを示す姿は愛らしいけれど――おかしいだろう。

 こんなに美しい少女で、愛想だって悪くないというのに、これまで友人がいなかったみたいな反応をするなんて。

 疑念は肯定される。

「うん」

 静かに、悲観するわけでもなく、ごく当たり前とでもいうような口調で。

「私に近づいてくる人、みんな【友達なんかじゃいやだ】って、言うんだもの。だから、ずうっとおともだち、ほしかったの」

 白魚のような指が、その喜びを抱きしめるようにきゅっとあたしの指を掴んだ。

「――私、巴。谷坂巴っていうの。あなたのお名前を教えて?」

 まるで、指と耳とに毒でも流し込まれているみたいだった。彼女の触れた場所が、声に撫でられた箇所が、異様に熱い。
 操られるみたいに、けれど確かに自分の意志を持って、その指を握り返す。

「梶原真莉愛、だよ。よろしくね。巴チャン」

 しっかりと触れ合った指先は、あたたかい。
 人形でもなければ、絵画でもなく――人間として、正常なぬくもりを血潮が運んでいる。
 当たり前のことだというのに、何故だかとても、涙が出てしまいそうだった。まるで、初めて人間と触れ合ったみたいな気持ちになった。

 それからというもの、あたしは足しげく彼女のいる花屋へ通った。
 とびきりの遊女に入れ込む馬鹿な客のように、ほとんど毎日店頭を覗き込んでは彼女がいないかを確かめるうちに、彼女は別にこの店で働いているわけではないことを知ることになった。

「お店? ああ、私のおうち。お母さんとお父さんがね、やってるの」

 普段はお店に私は出ないようにいわれているから、あの日会えたのは偶然だね。と付け加えながら巴チャンの赤い唇がストローを挟み込む。浮世離れした容姿に似合わず子供っぽいものが好きなようで、半透明の筒の中をオレンジジュースがするするとのぼっていく。
 ワンコインあればそこそこお腹を満たせる学生の味方と名高いファミリーレストランでテーブルごしに向かい合い、少しずつ彼女のことを知っていくのは至福の時間と言えた。
 あまりに毎日店に通ってきては誰かを探しては肩を落として去っていく女子高校生はそう時間もかからず娘の友人だと店主夫妻には知られたらしく、今では顔を出すだけで自然と彼女が姿を現すようになった。やはり美しい彼女を家の外に出すのは心配事も多いらしく、常に心配そうな表情で送り出すご両親の姿が目に付いた。

「過保護なんだ。昔から……ちょっと、変な人に絡まれやすいから」

 困ったように歪む眉とは裏腹に、ご両親からの愛を受け取り育ったとわかる笑みは温かく、あどけない。心なごみそうになったが、聞き逃せない言葉があった。

「変な人、って?」

 窓ガラスにスマートフォンを押し付けた自分も相当変人の類ではあるけれど、あの時の余裕そうな表情からするに彼女にとってあの程度は変な人には入らない。つまり、もっと過激で、わかりやすく――害のあるものが、この少女の傍に出没している、ということだろう。適当に頼んだドリンクのストローを握りつぶしたくなる衝動をこらえ、素知らぬ顔で首をかしげてみる。
 知り合って間もない相手に正直に話すのは躊躇われるのだろう。もぞりと美しい唇は歪むばかりで、音がこぼれてくることはない。

「ね、教えて。お友達が困っているなら力になりたいよ」

 じっ、と見つめながらすべすべとした両手をきゅっと握れば、観念したように薄い肩から力が抜けた。
 彼女は存外、【友達】という言葉に弱い。

「あまり、気持ちがいい話じゃないんだけど」

 そう前置きをして語り出した内容は、予想の何倍もひどいものだった。

 言葉を交わしたことも無いような人間から鉄臭いラブレターが届いた、撮られた覚えのない写真がみっちりとおさめられた上に一枚一枚に虫眼鏡で見ても事足りないほど小さな文字の感想が余白に敷き詰められた箔押しのアルバムがポストに入っていた、友人だと思っていた人が勝手に合い鍵を作って深夜に侵入してベッドの下に潜んでいた、道で双方よそ見をしていたせいでぶつかってしまった人が翌日路地裏で変死体になって発見された犯人は小学校の頃の担任だった、奇妙な服装をした集団が御神体と呼んで誘拐して来ようとした発起人は幼稚園で席が一回だけ隣になったことがある子だった、白い瓶詰が届いた、小指の入った小箱が窓際に置かれていた、エトセトラエトセトラ。

「まってまってもういいから!」

 指折り数えながら一般的なストーカー被害から明らかに異様な猟奇殺人まで混ざり合った被害を羅列していく巴の目がどんどん死んでいくのを見て、あたしは咄嗟に静止した。できれば被害一覧を作って関係者全員にお灸をすえてやりたいところだけれど、それが彼女のトラウマを刺激する行為なら実行するわけにはいかない。
 一番大事なのは彼女の心身の健康だ。
 止められた理由がわからないとでも言うように目を瞬かせた巴の、その瞳の精気のなさと表情のアンバランスさが悲しかった。どれだけ傷つけられてきたのだろう。傷つけられて傷つけられて、もう自分が傷だらけなのすらわかっていないに違いない。

「――あたしが、守ってあげるからね」

 ぎゅっと手を握りしめて誓えば、ヴァイオレットアイの奥底に敷かれていた緊張が緩まった気がした。小さく動いた唇が紡いだ言葉は聞こえなかったけれど、そのほっとしたような表情を見れば、なんとなくなにを言ったのかは想像がつく。

――どういたしまして。と心の中で返せば、ぽっと心臓が温かく波打った気がした。

 それからあたしは、彼女の周りを徹底的に警護することに決めた。幸いというべきか、父親がそういった観察網を敷くのが得意な人であったから、片手の指の本数よりもずっと少ない日数で彼女のための警戒網は張り終わった。
 最終チェックを終わらせ、あたしはスキップしながら夜の街に躍り出た。
 今すぐ彼女を安心させてあげたくて、気が逸っていたのだろう。
 明日の朝とか、それこそ電話でもよかったことに気づいたのは、彼女の部屋の窓をノックした瞬間になってからだった。
 目を白黒させながらあたしを迎え入れてくれた彼女の手をそっと取る。騎士気取りなんてガラではないけれど、青白い月の下で彼女と話すならばこの角度からその顔を見上げてみたかった。

「もう安心だからね。怖い人はみんな、あたしが片づけてあげるから」

 安心させるように笑ってみせる。少しばかり力の入った笑顔になってしまったのか、少し怯えたように彼女の肩が震えていた。ごめんねと謝れば、ふるふると首が横に振られる。
 ちいさく涙を浮かべた美貌が月光に映えて、今日も世界で一番谷坂巴は美しかった。

 あたしの日課に、ごみ掃除が加わった。

 傍にいられない真夜中に侵入者がないように仕掛けたトラップに引っかかった大量の虫を始末する。
 命を奪ったりはしない。命を奪う程度で許してあげたりなんか、しない。

 くつくつと笑うあたしの頬に、青白い光がかかる。
 ふと違和感を感じて振り向けば、そこには身支度の時に使う全身鏡があった。――そこに、あたしは映っていなかった。
 あたしだけじゃない、隣にいるはずの巴チャンも映っていない。映る余地がない。
 なにせ、全身が映るほど大きなその鏡すべてに、こどもの落書きのようにぐちゃぐちゃとした線でできた手のひらの集合体がみつちりとおさまっている。べたべたと、鏡の内側から手のひらをこちらに向けておしつけて、目玉もないのにじいとこちらをみている。
 みられているのが、わかる。

「――ッな。に」

 巴チャンは気づいていないのだろうか。咄嗟に強めた腕の中を見下ろして、愕然とする。

「あ、れ?」

 確かに抱きしめたはずの巴チャンは、影も形もなく消えていた。どっと汗が噴き出して、背骨に沿って流れていく。周囲を見回せば、そこは彼女の部屋なんかじゃなく、見慣れたあたしの部屋だ。こだわりもなくただそれらしく、年頃の少女ならこのようなものを置くだろうと真似だけをして組み立てた、味気ない部屋。巴チャンと出会うまでの、あたしそのものみたいな空っぽの部屋。

「ゆ、め」

 かくん、と首を傾ける。勉強机の上に置いたミラーに首を傾げる影が映る。電気をつけていないから、表情は見えない。
 どこからが夢で、どこからが現実なのかがわからない。目を開いているのか閉じているのかわからない。ぐるりぐるりと思考が回り、目が回る。びっしょりと、汗で濡れたせいか妙に肌寒い。いつの間にかがちがちと奥歯が鳴っていた。
 それを宥め、もう寝てしまおうとブランケットを引き寄せれば、ふわりと甘い香りがする。
 谷坂巴の香りだった。
 ――あたしは、蕩けるように、夢に飛び込んだ。


 翌朝、あたしは鉄砲玉みたいな勢いで家の玄関を飛び出した。父だか母だかの靴をいくらか蹴飛ばした気がするが、そんなことには構っていられない。
 確かめなくては気が済まない。
 昨夜のあれは、彼女を好きすぎるあまり脳が見せたただの幻覚なのか。それとも本当はきちんと彼女の部屋に行って、あの細い体を抱きしめていたのに何か途方もないものに邪魔されて返されてしまったのか。どちらなのか。
 冷静に考えれば幻覚。いや、夢だろう。彼女を想うあたしの夢。あたしを想う彼女のカタチ。そうに違いない。
 切れる息の間に、地面を蹴り上げるローファーの音の隙間に、そんな思考を流し込みながら――それでも、背筋を虫が這いまわるような嫌な予感が止まらなかった。
 あたしの家から彼女の家まではそこそこの距離がある。目と鼻の先に住めたらよかったし、それで幼馴染なんかになれていたら最高ではあったのだけれど、そうはなっていない。ろくに運動していない太ももが悲鳴をあげるくらいに走って、走って、いくつかの横断歩道と陸橋、曲がり角を超え、花の瑞々しいにおいがするところに、彼女はいる。
 今日も麗しい立ち姿。すっきりと伸びた背筋にサラサラの黒髪が流れて、ぞっとするほどきれい。
 よかった。やっぱり夢だったんだ。こみ上げる安心感のままに、呼びかける。
 いつも通りに振り向いて、あのうつくしいヴァイオレット・アイに魅入られて、やっと日常が戻ってくる。
「――ともえちゃ」
 あたしの声を遮るように、彼女の前に立った影があった。

 柳のようにひょろりとした、真っ黒な影が起き上がったような男だった。
 青白い頬、光の差さない目、巴チャンとはまったく別種の――異様な気配がする凄艶な美貌。
 ぞっと、血の気が引いていく。
 アレはきっと、ヒトではない。あんなものがヒトであってたまるものか。きっと、あれが昨日あたしとあの子の間を引き裂いた悪魔なのだ。谷坂巴という少女のあまりの美しさに魅入られて、独占しようとしている悪鬼だ。
 純粋な巴チャンはそれに気づくこともなく、どこか慕わしいものを見るように高い位置にある男の顔を見上げてころころと笑っている。
 あたしに、気づくことなく。
 目の前が真っ赤になって、心臓の奥底がぐつぐつと煮えたぎるような熱で満ちる。
 ああ、巴チャン。どうか気づいて。貴方の隣にいるのは、ヒトではないことに。貴女を真に愛しているのはあたしなのだと、そいつはあたしたちの仲を引き裂こうとしているの。あたしに成り代わって、信頼を得ようとしているに違いない。だから巴チャンはあたしに気づかないんだ。
 そんな、あたしの心の叫びが聞こえたみたいに、男の真っ黒な目がちらりとこちらを見た。
 気づかれた。反射的に身をすくめたあたしを見ながら、男は口の端だけで笑った。挑発されているのだとすぐにわかった。
 ざり、とローファーの踵が小石を擦る。腰が引けているのだと、一息遅れて自覚する。男に睨まれたからではない。その程度で撤退するほどあたしの想いは軽くない。愛しい少女を救い出すためなら、今すぐにでもあいつの背中に包丁でも突き立ててやれる。けれど――巴チャン自身を人質にとられているのだと気づいてしまったあたしは、撤退せざるを得ないのだ。
 白い指がどこか蠱惑的な動きで細い首に絡んだ黒髪を解いていた。無防備に急所をさらけ出した巴チャンの皮膚をわざとらしくなぞって、なにかを吹き込むように男が顔を寄せて、巴チャンに気づかれない角度で――彼女の盆の窪を見せつけるように指さした。
 まごうことなき、【下手に騒いだらこの娘を殺す】という脅しだった。
 だから、あたしは情けなくも負け犬のように来た道へと踵を返して駆け出すしかなかった。

 あいつがわるい

 あの、黒くて恐ろしい/うつくしいものがわるい

 あたしは、わるくない

 ガンガンと痛む頭を抱えながら足を動かす。視界の端がありえないほどびゅんびゅん早く過ぎていくような錯覚に襲われながら帰り着いた自室で、あたしは膝を抱え込んだ。あたしの恋があんなものに負けたことが悔しくて、妬ましくて、狂おしくてしかたがない。巴チャンはあたしのものなのに。

「ごみそうじ、しなきゃ」

 あれを片付けなければ。美しい花に降り注いだ汚泥を拭わなくては。あたしのものを守らなくては。策を、練らなくては。

 フローリングに立てた爪が、獣のようにガリリと音を立てる。
 頭が痛い。吐き気がする。視神経が正常に作動していない。ぐるぐるぐるぐるぐるぐる視界が回る。ごん、とボーリング玉でも落としたみたいな音がする、遅れてぬるりとした感触が唇に触れる。
 ぷん、と鉄とヘドロが混ざったようなにおいがして――あたしの意識は暗転した。

 視界の端に、なにか、どろりとしたものが入った気がした。

***

 目が覚めて、首を傾げる。

 ――はて、あたしは何に憤っていたんだっけ?

***

 昨日はいい日だった。
 ちょっとだけ夢見が悪かったけれど、そのあと会いに行った巴チャンと存分にお話ができたし、映画館にも行けた。
 お互い気になっていた作品が同じでちょっと運命を感じたことに始まって、チラリと様子が気になって上映中に目を向けたら目が合ってしまって思わずお互い笑ってしまったり、ポップコーンに手を伸ばしたら手が触れあってなんだか照れ臭くなってしまったり。そんな、ちょっと青春っぽいことがたくさん起こった素晴らしい一日だった。

「今日も会えるかな」

 約束はしていない。どうせ同じ学校なのだし、教室へ行けば会えるだろう。あたしはそう思いながら通気性が高い夏服に袖を通す。コーディネートにさほど興味のない、というか違いが知識以上にはわからないあたしにとって制服はありがたい存在だけれど、巴チャンにすこしでもよく見られたい乙女心としてはちょっと地味だなとも思う。難しいところだ。
 落ちている蝉に気を付けて、自転車のペダルを回す。まだ少し蒸し暑いけれど、速度を出すほどに髪をさらっていく風は心地いい。
 今日もいい日になりそうだ。


 なりそうだった、のに。


「……は?」

 巴チャンの隣に、知らない男がいた。

 悔しいことに同じクラスではない上に移動授業も重なって放課後まで彼女に会えなかったフラストレーションを爆発させるように、あたしは放課後のチャイムをヨーイドンのピストルみたいにして教室を飛び出した。向かうは当然、巴チャンの教室だ。驚いてくれるかな、なんて鼻歌でも歌いだしたい気分で彼女の教室をのぞけば、巴チャンは確かにそこにいた。

 あたしの知らない奴と、一緒にいた。

 いやいや当然だ。巴チャンにだって生活がある。いくら友達が少ないとはいえ、あんないいこがつまはじきにされ続ける道理はないのだ。クラスに親しい友達の一人や二人はできて当然の頃だろう。
 でも、距離が近い。友達程度の男女の距離感ではない。まるで何年も連れ添ったような、そんな、あたしでさえたどり着けていない距離感に、ひとがいるなんて。

――「もしも、私が私じゃなくなったら、殺してくれる?」

 夕暮れの、中、美しい声がする。
 斜陽の中で、世界で一番美しい人が、強請っている。

「もち、ろん。もちろんだよ、やくそ、やくそくするねともえちゃん」

 ノイズだらけの頭の中でひとつだけ鮮明に再生されるそれは、いつ聞いたものだっただろうか。
 ああ、いや。そんなこと、どうでもいい。
 大切なのは、あたしは彼女と約束したという、その事だけでいい。

「巴チャンが誰かの物になっちゃいそうになったら、きれいなまま標本にしてあげる」

 誓いの言葉を、再生する。絡めた指の温度を、滑らかさを、彼女のほほえみを、脳裏に描く。
 涙で視界が滲む目玉を使って、改めて教室の中をのぞく。もう巴チャンの姿はなかった。あたしがいる側じゃない扉から出たのだろうか。
 がちりと奥歯が噛み合わさって、その耳障りさに眉を顰める。

 ああ、はやく、はやく。追いかけなくちゃ。

――「やくそく、ね?」

 ついさっき聞いたばかりのように鮮明に再生できるこの声が、背中を押してくれるうちに。世界でいちばん大好きなあの子を――殺さなくては。
 ヘドロでも纏わりついてるみたいに重い足を動かす。ぐちゃ、と粘り気のある水音が足音に重なって聞こえる気がする。
 なんてことのない平日の放課後の静かな廊下は不気味だ。血を零したように真っ赤で、沼の底のように暗くて、奈落の
よう悲しいから、早くここから出なくては。

 窓の外で美しい黒髪が風になびくのが見えて、あたしは縋るように飛び出した。

 走る、走る、走る。
 相変わらず足は重い。心臓だってずきずき言いながら跳ねている。待ってと叫ぶ声も掠れてろくに響きやしない。
 まるで人魚姫みたいだ。なんてよぎった例えを破り捨てる。
 あたしはあんな、魂を求めて人を好きになって、両想いになれなかったからナイフを突き立てようとするような、あんなものではない。あたしがあの子を殺すのは、あの子に望まれたからだ。
 あの子のために、あの子を殺す。頼まれたから。そこに迷いはない。これは愛なのだから。

 走る、駆ける、跳躍する。
 悲劇ぶった思考を捨てたおかげだろうか。体がどんどん軽くなる。夕景の紫と青と赤を混ぜた空の下、黄金色の街が線となって視界の端を切っていく。風がごうごう耳元を掠って、唸って、あたしを叩く。小さくなった彼女の影をうんと見開いた目で探す。眼球が空気にぴりりと痛んでも、気にしてなんていられない。

「――ともえちゃん!!」

 彼女の名前を呼んだはずなのに、うまく聞き取れない。風のせいだろうか。

 薄い彼女の肩が跳ねて、風に黒髪が踊る。白い顔がくるりと振り返る。夕焼けの中でもやっぱり、あの紫色の目はきれいだ。
 赤い唇が小さく動いて、何かを呟いた。聞こえない。まだ、遠いから聞こえない。彼女の声は大きくないんだ。もっと、近くに行かなくちゃ。
 羽でも生えたみたいに、もうあたしの体は重さを感じない。
 少し足に力を入れる。手を伸ばす。しかと掴んだ腕は細くて、震えている。
「あたしだよ。安心して巴チャン」
 彼女の頬を手で包み、にっこり笑ってみせる。大丈夫。大丈夫。怖いものは全部あたしが片づけてあげる。あなたの望みは全部あたしが叶えてあげる。だから、そんなにびっくりしなくたっていいんだよ。
 そんな気持ちを籠めて笑いかけたというのに、巴チャンは言葉も、笑顔も返してくれない。ただ、目を丸くして、唇を戦慄かせている。まるで、普通の女の子みたいだ。

「かわいそうな巴チャン。まっくろおとこに壊されちゃったんだね」

 ――そう、そうだ。さっき彼女の教室で、彼女と仲睦まじそうにしていたのは、いつだったか見た、巴チャンに憑りついていた、真っ黒なあの男だった。なんで気が付かなかったのだろう。巴チャンはもう、取り返しがつかないところまできてしまっていたのだ。あたしの気づかないうちに、美しい宝石の彼女は砕かれてしまった。なんてことだろう。
 赤く、赤く、視界が染まる。ごおごおと音がして、それが早さを増した血流が耳の奥で唸りをあげている音だと気づいたときには、あたしはもう、巴チャンを固い地面に押し倒していた。
 真っ白な顔が髪を枕に敷いて、あたしを見上げている。あたしの垂れた髪が囲いになって、きれいなその目にはあたししか見えていない。あたしだけが、この子の世界になれた。
 ぞくぞくとこみ上げた感情がぐちゃぐちゃの姿で立ち上がって、あたしの耳元でささやく。

 殺すなら、今だ。

 あたしはいつでもこの日が来ていいように用意していた包丁をスクールバックから取り出して、しっかりと両手で握りこんだ。大きく頭上へ構えれば、怪物みたいに歪な影があたしと巴チャンの延長線上に長く長く伸びていく。
 ――仕方ない、仕方ないんだ。だって、頼まれたんだから。くるってしまうまえにあなたを壊せとあなたが言ったのだから。
 だから、あたしはわるくない。
 ボロボロとこぼれる涙を無視して、うつくしい少女を見下ろす。これで見納めだ。
 死への慕情を湛えていたはずの瞳は、もう見る影もなくただの人間のように恐怖に揺れている。
 ごめんね、と胸の中で謝罪を口にしては見たものの、それが遅くなったことへの謝罪なのか、それとも手にかけてしまうことへの罪悪感なのかすら、もうあたしにはわからない。早鐘を打つ心臓が、常識も理性も打ち砕いて、血潮のなかに溶かしてしまった。
「だい、じょうぶ。綺麗な標本にできたら、あたしもすぐにあなたを追うから。安心して」
 せめて苦しくないように、一撃で殺してあげなくちゃ。意気込んで、わたしは今までで一番きれいな笑顔を彼女に向ける。――ああ、駄目か。あの男に毒されきった彼女は、目を見開いたまま、あたしに笑顔の一つもくれない。
 ご褒美をくれない。
 ぱっと花が咲くように地面いっぱいに血が咲き誇る様を想像しながら、あたしは冷たい愛の形をヴァイオレット・アイに向けて勢いよく振り下ろした。

「愛してるよ、巴チャン」

 紫色の中のあたしの顔は、こんなに近いのに、よく見えなかった。

***********
 反転。解明。真相開示
***********

 ろくに運動もしない少女の力で振り下ろされた鈍色の切っ先が、ガツンと硬質な音を立ててアスファルトで固められた地面にぶつかった。ヂッと勢いのまま火花が散る。ぬばたまの髪が断ち切られてしゅるりと一房地面に落ちる。

「な、なんで避けるの? 巴チャンが言ったんじゃない! あたしに殺されたいって! 自分が自分じゃなくなる前に殺してほしいって! あの夕暮れの教室で!!」
「――なに、いってるの?」

 狂乱するように唾を飛ばしながら叫ぶその姿をうけて、茫然と見開かれていたヴァイオレット・アイに疑問の色が差し込んだ。薄い肩の震えを抑えるようにその身を片手で抱き、深く息をして、谷坂巴はじっと相手を見据える。
 そのどこにでもいるような顔を、しかと見つめた。

 そしてそのうえで、柳眉をぐっと眉間に寄せる。

「私、君と話したことなんて、ないけど」

「は?」

 目の前にいる――見ず知らずの、このあたりでは見かけたことすらない制服を着た少女の淀んだ瞳が、ひび割れるように見開く。不本意にもよく見慣れた、自分を【どうにかしてしまいたい】と叫び散らかすような欲にまみれた瞳に、巴はあくまで静かな言葉を手向け続ける。攻撃の意図は秘めやかに。けれど鋭く研ぎ澄まして、不審者Aたる少女に現実を突き付ける。

「君、だれ」

 目の前の少女の輪郭が、ぐちゃりと歪んだ。

**

 ――数か月前から、奇妙な視線を感じるようになった。

 最初は、雨が突然降りだした日だった。
 勢いこそ強くないけれど全身を濡らすような霧雨だった。それから逃げるために咄嗟にコーヒーショップの軒先を借りてしまった日から、その視線は巴を追いかけ始めた。

 心の底から遺憾ではあるが、巴は幼少の折より変質者を寄せる体質だった。そのためじっとりとしたその視線に対しても、「いつものか」と肩を落とし、受け流すことからはじめることにした。
「おとうさん、おかあさん。また視線が増えたから、気を付けてね」
 軽くかけた言葉に、店先で花を世話していた父母からはぁいと軽い言葉が返ってくる。
 慣れたものだ。自分も、両親も。
 直接的に周囲や自分に危害を向けない視線に構っていては疲れてしまうし、キリがない。なにせ通報した先の警察官がストーカー化したこともある。余計な変質者を増やすくらいなら、多少の視線程度は自分が我慢をした方がいいと判断するようになってしまったのも、致し方ないことと言えた。

 それが、間違いだったのだろう。

 その視線は、異様の一言に尽きた。
 一定間隔を保ち続けるわりに、どんどん内臓まで暴いて侵入してきているような、妙な感覚を覚える。うなじのあたりがチリチリと粟立つような感覚が次第に気管や食道に侵食して、胃や肺までべっとりとしたそれに覗かれているような感覚が常にまとわりついている。ぐちゃぐちゃと無遠慮にプライベートを踏みつけられている自覚はあるのに、一向に実害が起こらない。――実害があってほしいわけではないけれど、これまでの体験というサンプルとの照らし合わせがうまくいかないその日々は、巴にとってたしかなストレスになっていた。

 そんな日々が続いた晩夏の夕方、教室にて。
 つらつらとこれまでの出来事を立て板に水を流すように目の前の少年へと話し終え、巴は深くため息をついた。しどけなく、自身に割り当てられた机につっ伏す少女の天使の輪が浮かぶ黒髪を、うりうりと少年の大きな手が撫でる。その手つきに色気はない。幼獣をあやすような、あるいはむずがる幼子を適当にいじって宥めるような、そんなものだった。
「で、そんなにやつれたってわけか」
「うん。そうなんだ……どうすればいいと思う? 有真ありま
 有真、とは当然頭を撫でている少年の名である。
 フルネームは向日有真むかひありま。関係性は簡潔に言えば父方のイトコにあたる。
 家も斜め向かいにある同い年の二人は、おぎゃあと産声をあげてからずっと、それこそ双子のように共に育てられてきた。ここ数か月は有真の方が骨折で入院していたり、大事をとってリモートで授業を受けていたりで、こうして教室で向かい合うのは久々だ。もっとも、その程度で気まずくなるような距離感ではないので、全く問題ない。
 有真の端正な顔がゲェ、とでもいうように歪んだ。退院早々面倒ごとに巻き込まれた、という忌避の感情ではない。その程度で忌避していては、谷坂巴のイトコなんてポジションは務まらないのだ。
 ――なお、巴の顔が超一流の職人によって丹精込めて作られた人形の如き造形美だとするなら、有真の顔は男ながらに塔に幽閉でもされて深窓の令嬢でもやっていそうな、濡れたような独特の艶を持ったそれである。そのせいか彼もまた厄介な人間を引き寄せやすく、そういう意味でも二人は双子のようだった。
「どうってなあ……」
 ぎい、と胸の前で抱え込んだ椅子の背もたれを唸らせながら、有真は一瞬、宙を見上げた。言葉を整理するときの癖だ。お互い、そこまで口が達者な方ではないことはわかっている。急かす必要もないので、巴は机に伏せたまま次の言葉を待つことにした。
 机のひんやりとした感触が癖になりそうだ。髪が散らばる様が芸術的とか言って拘束されたうえで強制撮影会をされたことがあるので、有真以外がいる場所では絶対にやらないことにしているけれど。
 そうこうしているうちに言葉がまとまったらしい。とん、と軽く頭を叩かれたのを合図に上体を起こし、有真の目を見据えた。

 何代か前のご先祖様の遺伝子が出たらしい巴と違い、有真の目は真っ黒である。斜陽が射していてもブラウンが欠片も見えない、いっそ珍しい純粋な黒真珠。こちらの意図をすべて見透かされているような気持ちになるほど、その目は凪いでいる。
「まあ、お前の場合はな。警察に行くのも慎重にならないとだから仕方ないんだろうけど。このことおばさんたちには?」
 当たり前の指摘だ。普通ならばまずは同い年のイトコよりは事情を知っている両親に話すべきなのだろう。けれど、巴はゆるゆるとかぶりを振った。
「まだ。教えたら、たぶん、また苦労をかけちゃうし」
「かけとけばいいだろ。お前んとこ仲いいんだし」
 ため息交じりに言われた言葉に、思わずそうしようかなと心の天秤が傾きかける。だが、すんでの所で思いとどまった。
 それでは有真に相談した意味がない。
「ううん……仲がいいからって迷惑をかけていいとは限らないでしょ?」
 まきこんじゃうの、やだし。とそれらしい言葉を口先ばかりで言えば、それもそうだな――と納得したように有真が頷きかけて、はたとその目が瞬いた。どうやら気づいたようだ。
 心配や呆れがないまぜになっていた視線が一転して、愉悦を孕んだ色に切り替わる。
「まて、オレのことは巻き込んでいいって思ってるのか」
「うん。だって、有真は私と同じだもの。今さら一つや二つ増えたところで変わらないでしょ」
「甘え方が乱暴なんだよなあ」
 くつくつと喉の奥で笑いながら、有真の角ばった長い指が巴の鼻をつまみあげる。痛みはない。このちょっかいを対価に受け入れてくれたということだろう。
 同族ゆえの甘えであることがすんなりと伝わったことに安堵と充足を覚え、巴はふふんと得意げに笑う。
「お互い様でしょ。何回彼女のフリしてあげたか覚えてないの」
「彼女のフリした結果お前の方に吸引されたのと同じ回数だろ。覚えてるよ」
 なお、軽々しいやり取りではあるがお互い優に三桁は超えていたような気がするな、くらいの認識であり互いに詳しい回数など覚えていない。
「……まったく、お互いよくここまで五体満足で生きてこれたよね」
 ため息交じりの言葉に、有真もまた肩をすくめる。
「それは同感。ひいばあ様みたいに小指が欠けても可笑しくなかったのにな」
 去年の暮れに大往生した、最期まで年齢など装飾の一つに過ぎないと言わんばかりに麗しい着物姿でいた曾祖母もまた、二人と同じ性質の持ち主だった。
 若いころに執拗なストーキングを受け、その果てに切断されてしまったのだという小指だけが、完成された美貌の中で異彩を放っていたのを、よく覚えている。
 まるでミロのヴィーナスのように「ないからこその美しさ」として成立させてしまっていた、その才能とも呼びたくない資質が自分たちに宿っているのだと怯え、その日はふたりでひっついて本家の片隅で眠った記憶が、褪せることなどない。色褪せた日が、その災厄を我が身に受ける日なのだから。
「あれ、何の話してたっけ」
 ぱちんっ、とわざとらしくヴァイオレット・アイが瞬く。深々とため息をついて、黒真珠の上で形のいい眉がハの字に崩れた。
「おまえの方の相談だろ。今日は」
「ごめん。目を逸らしたかった」
「気持ちはわかる。――それで、具体的にはどんな感じなワケ。今回のは」
 おどけたように笑うイトコの頬の微妙な引きつりを見て取った有真の口調に、重さが増した。
 二人は、お互いに寄ってくる変質者のその異様を、お互いこそが一番理解していると知っている。だからこそ目を逸らしたくなる気持ちを丁寧に摘んでやるのも自分の役割として、容赦することはない。
 出来る限り長く五体満足でいるために、正常性バイアスなんてものに付き合っている暇はない。
 人によっては見つめられただけで身をすくめてしまいそうな黒真珠の冷え冷えとしたまなざしに、巴はもぞりと口を動かして言葉を口内で縁り合わせた。
「うーん……言葉にするのはちょっと難しいんだけど、しいて言うなら……なんか、代入されてる感じ」
「代入?」
「そ。例えば今有真と私が話してるでしょ」
 そう言いながら、巴は左手の人差し指と中指をぴっと立てて、丁度Vサインのような形にして顔の前に差し出した。どうやら人差し指が有真で中指が巴を示しているらしい。
「今回の人の中ではこの光景から有真がトリミングされて、自分がそこにいた……みたいな捏造がされるみたいなんだよね」
 べしりと左の人差し指が右の小指に突き飛ばされて、折りたたまれる。そして後に残った右の小指が幾分無理な姿勢で人差し指に寄り添った。影だけ見ればVサインに見えなくもないが、随分とちぐはぐであることには変わりない。
「……またなんか変な拗らせ方した奴が来たな。というかなんで巴はそんな詳しく思考が読めてるんだよ。話したのか?」
 構図の理解はできたが、納得はしにくかったらしい有真が首をひねった。
「まさか。まあ、それこそ有真に相談しようと思ったきっかけ、なんだけどね」
 これ見て。と鞄の中から一冊の本が取り出された。雑貨屋で売っているような、分厚く豪華な装丁が施されたノートだ。
「なにこれ」
「昨日の夜、窓の外に置いてあってね、ちょっと怖かったけど読んでみたら……うん、すごかった」
 有真が口では「いや、読むなよ」と言いながら、手を伸ばしてページをめくり始める。ぱらぱらと流し読みしていくうちに、意識せずともひどく苦いものでも口に含んだような表情が顔面に張り付いた。
「うわ、昨日映画に行った時のもあるじゃん。……いや、上映中の挙動まであるし……えっ、あの時近くにいたのかよこわ」
「念のためそのあと個室のご飯屋さんに入ったのにそこでの会話もバッチリなんだよね……」

 そこに書かれていたのは、日記だった。

 何も知らずに読めば、女子高校生が片想い中らしい友達と遊んだことを嬉々として綴っているだけの、微笑ましく、健気な印象さえ与える日々の記録にしか見えなかっただろう。
 しかし、書き手が「やったこと」として書いているその内容が一から十まで自分たちの日常と合致しているとなれば――話は別だ。
 この日記に収められた書き手の【片想い相手でもある紫色の目をした友達】はどう見ても巴のことで間違いないだろう。紫色の目をした人間というのは遺伝子的に稀だ。先祖に同色の目を持つ人間がいるはずの親戚を見渡しても、存命中なのは巴しかいない。そしてなにより――共に過ごしたという語り手の少女に巴自身はまるきり覚えなどなく、少女が収まっている位置に実際は有真がいた。という当事者二人の間で共有された揺るがない事実があるというのが、この日記の最も奇妙にして異常な箇所であった。
 折々に綴られる強烈な巴への恋慕の情は少女自身のものであろうが、それ以外はあれもそれも、覚えがある。有真の立ち位置を見知らぬ少女に置き換えて綴られた文の不気味さに、少年は息をのんだ。

 ちなみに、昨日の巴のスケジュールは以下の通りである。
 まず有真と共に朝から映画を見に行き、気になっていたタイトルを梯子する。次に高校生の体力でもなければ息切れしそうなくらいにゲームセンターで遊び倒したり、服を見たり、買い食いをしたりする。そして日が暮れ始めたころになり、最後に互いの両親が仕事やら町内会の懇親会やらで帰れないからこれで美味しいもの食べてきて! と書置きと共にそこそこの金額を置いて行ったことに甘えて高校生の身分では普段は入れないようなお店で夕ご飯を食べた。
 デートみたいなラインナップではあるが、これらをこなしたうえで勘違いもストーカー化もしない知り合いがお互いしかいない悲しき不審者寄せ体質二人の休日というだけだ。同性でもいつの間にか好意というには悍ましい感情を突き刺してくるので油断ができない。
 閑話休題。

 有真は最後まで読み終わると、ぱたんとその観察日記のような奇書を閉じた。ただでさえ白い顔が血の気をなくして土気色をしている。
「これもう盗聴されてね?」
 ぽつんと零した言葉は、水の中に落としたインクを思わせた。重たく、ゆるやかに夕暮れの教室に広がっていくその言葉に、紫色の目がわざとらしく柔らかな色を纏って、笑みを描く。

「荷物と服総入れ替えしてスマホも一回バラした話する?」
「もうホラーじゃん」
「だから困ってるんだよ……」
 すんっと笑みを消した巴の目から生気が消える。むしろここまでよくこんなもんを鞄に入れてたのに目の活力保てたなこいつ、といっそ感心しながら、有真はすこしだけ日記を巴から遠ざけた。別の生徒の机に投げ捨てようかとも思ったが、その生徒がなんだか変な呪いにでも感染したらさすがに気の毒だ。さすがにその程度の人情はまだ持ち合わせている。
「いやこれ高校生にどうにかできる問題越えてるんだわ……オレも一緒にいって確率散らしてやるから警察いこーぜ?」
 あー、とかうー、とか唸る、自分より数か月だけ遅く生まれたイトコの頭をぺそぺそと撫でてやる。人懐っこいほうの猫みたいな気性をしているからか、撫でられると落ち着くらしい。もちろん、自分に変な入れ込み方をしない家族限定で。
 その成果かわからないが、どうやら一息付けたらしい巴が観念したように脱力した。
「やっぱそれしかないかあ」
「と、いうかさ。この会話も多分聞かれてるよな」
「たぶんね」
 多分、といいながらもどこか確信に満ちている。有真もまた、驚きも怯えもせず机の上の日記帳に視線を落とした。
「どんな変換されるんだろうな。自分の犯行についての相談事」
 口端がつり上がる。悪癖ではあるが、まあ目の前のイトコも似たようなものだ。
 ただ真面目なだけの人間なら、カワイソウな被害者であるだけの人間なら、自分たちに向けられ続ける好意という名前の獣たちに、とうに食いつぶされてしまっていたはずだ。真っ向から事実を受け止め、正当に評価し、正常に対処し、その上で、その異常を楽しむ悪性を保持しているからこそ、こうして二人そろって生きている。
「……知りたいような知りたくないような?」
 白々しくそんなことを言う巴の目にも、隠しきれない好奇心の色が灯っている。
「また届いたら教えてくれよ。一緒に読みたい」
「完全にエンタメとして楽しんでるよね」
「オレのほうにやばいの来たら教えるからさ」
「まあいいけどね。それくらいなら」
 変質者や狂信者を娯楽として消費するその様は、誰かが見れば狂気でしかないのだろう。
 それでも――食いつぶされるだけの人生を、ふたりは選ぶつもりはなかった。
「でもま。気ぃ付けろよ」
「――これまで大丈夫だったからって、今回もそうとは限らねえんだからさ」
「わかってるよ。……ねえ有真」
 赤々とした光に満ちていた教室が、ゆるゆると暗くなる。空はまだ明るい。太陽が、雲に隠れたのだろう。けれど、それだけで電気を消したままの室内は薄暗く、目と鼻の先にいる見慣れた顔さえ定かではなくなっていく。輪郭を確かめるように、有真は思わず巴の頬を包んだ。すべすべとして柔らかい、人間らしい体温に満ちた肌の感触が指先に伝わる。
 くすぐったいよ、と小さく笑う声がした。
「わたしが変質者にかどわかされたとしよう」
 続けるのかよ、と毒づく声に返事はない。ただ、節ばった手の甲を、一回り小さな手がなだめるように撫でる。
「で、いろいろ頭がおかしくなるような真似をされて、わたしがわたしじゃなくなったらさ」
 あくまで、穏やかな声だ。同じタオルケットにくるまりながらうとうとして、明日は何して遊ぼうか、なんて他愛ない話をしながら眠りに落ちていたころから変わらない、凍えるような雪がやんだ夜に見える、小さな星灯りを思わせる声で――谷坂巴はささやかな願いをかける。
 手の中で、少女の頬が小さく持ち上がる感触がした。

「そのときは、わたしを殺してね」

 きっと唇をなぞっていれば、その穏やかな笑みの形は明確にわかっただろう。けれど、有真はそうしない。雲の影は自分の背中側から――巴の真正面から流れて教室に帳を下ろした。今このタイミングでこれを告げて、笑ってみせたのは顔が見えないからこそだと、有真には痛いほどわかっていた。
 だからこそ、即答は、できなかった。
 薄暗い教室の端がまた赤い光に染まっていく。巴の産毛が光に透けるころには、もうその笑みはほどけてどこかに消えていた。
 チラリと天井を見て、有真はまた視線を戻した。瞼の裏にかつて自分自身に降りかかった醜悪がよぎる。答えをお互いわかっていると言っても、この確認はすべきだろう。
「……尊厳死か?」
「そ。尊厳死」
「おっけー。わかった」
 そっと、有真の手が巴の頬から離れた。軽く耳にかかっていた指から聞こえていた血潮の音が遠のいてゆく。

「約束する。絶対どこにいても見つけ出して、殺してやるよ」

 まっすぐに自分を穿つ黒真珠の目に、巴はほっと胸を撫で下ろした。
 物騒な言葉だが、今の巴には最期を保証するこの言葉こそが必要だった。慣れて楽しめることと、人並みに恐怖を覚え魂に瑕疵を負うことは、同時に成立し得る故に。
 巴も、有真も、肉体こそ五体満足ではあるが、魂はとうに傷だらけだ。幸いというべきかどれも傷跡といって差し支えない程度にはなっているが――爪を立てられれば、容易に血が噴き出てしまう。
「ゆびきりでもする?」
「いらねーよ。だいたい、縁起でもない」
 くふくふと、幼げに笑うイトコの提案を一蹴する。曾祖母のことを思い浮かべたのか、それもそう。と小さく頷いた巴は、差し出していた小指を折りたたんで、念を押すように有真の耳元に口を寄せた。これも、幼いころからの癖だった。
「やくそく、ね」
 変な風に舌足らずなその声に適当に頷いて、有真は嘆息する。
 まったくもって、自分にしろこのイトコにしろ、魔性とはやっかいなものである。と。

 一挙一動が魔性にして神性、世が世ならば城を傾け国を傾ける。そんな存在が二人の共通の先祖にいたのだという。
 だから、谷坂の家にも向日の家にも時折そうした体質の人間が生まれてくるのだ。ともっともらしく語った祖父に、イトコと顔を見合わせて胡散臭いものを見る顔をしたのはいつの事だったろうか。
 呪いのように、何代重ねても時折ひょっこり現れるらしいそれは、一代につき何人とは決まっておらず、まったく生まれないこともあれば血縁全員がその性質を持っていたこともある。
 曾祖母以来生まれていなかったその性質を、当代になって受け継いだのが有真と巴であった。
 イトコという比較的近い血縁であり同い年、それでいて同じ学区内。
 隙を見せても見せなくても均等に変質者を寄せる、この困った体質を共有できる人間同士、仲良くなるのは自然な流れであった。一応男女という性別の違いこそあれ、老若男女問わず寄ってくる不審人物たちのことを思えば、思春期の青くさい異性への照れなど空の彼方に吹っ飛ぶというものだ。
 幸いというべきか血縁者に対しては発揮されないらしいこの魔性だが、姻族の中には効いてしまう人間もいるので、家の中でも気を抜けない。そういう意味において、巴の両親は遠縁同士で結婚したので安全と言って差し支えなかった。
 だが、変質者をひっかけ続けるこどもを見て、過保護にならない親の方が珍しいのだろう。――巴と有真の身を案じてのことだとはわかっているが、それでも息苦しくなるほどに、両親をはじめとした親戚たちはふたりを丁寧に慎重に扱った。過積載にならないように気を配ってくれていたけれど、それでも精神はぎりぎりとすり減っていく。
 外部からの好意という名の偏執と、内部からの愛という名の保護。どんな毒でも薬でも、致死量というのはあるものだ。ふたりは徐々に、歪んでいった。
 不良の道をたどるほどに蛮勇ではなく、けれども完全に箱の中に収められるほど、ふたりはイイコでもない。
 結果として、持て余された子供らしい無茶無謀の欲求は、際限なく自分たちに群がってくる、天網を抜けた不審者たちに向けられることとなった。
 経過観察のように、一大事になる直前までそれらを放置するのもある意味ではその一環と言えた。熟成させるように、標本をつくるように、適度な距離を保って彼らの行動を観察し、あらゆる欲望を吐き出させるのだ。そして、むき出しになったその生態をサンプルとして【標本】にする。
 大義名分は自衛のための研究。真意のなかには数滴のいたずら心。そんなもので、それは成り立つ【遊び】だった。
 当然、こどもたちの隠す気も無いそんな行いはとうに親戚の大人たちに知れ渡っている。けれど――負い目もあったのだろう。二人の【遊び】は「犯罪にならない程度に収めること」という但し書きをつけることで、親戚の大人たちに黙認されることになった。

「……無茶だけはするなよ」
 否定も肯定もせず、巴はただにっこりと笑ってみせる。――さて、今回の【遊び】はどうなることやら。

 【遊び】のルールは以下の通り。
一:始める時は二人一緒。どうしても予定が合わないなら、せめて始めることをお互いに知らせ合うこと。「やくそく」が始まりの合図
二:終わる時は二人一緒。これは絶対に守る事。
三:ヒトを殺してはならない

 *

 ぱたりと、視線が途絶えた。
 【遊び】を始めた矢先。あの夕暮れの教室から帰った日から、とんとあの奇妙な視線は巴を追いかけることを辞めた。
 賑やかな流行りのアニメソングを若干外れたテンポで奏でている軽音部や、大会に向けて色んな教室に散らばっているらしい吹奏楽部の音色が満ちた廊下に出るまではたしかに視線があった。けれど、「やくそく」をし終わって二人で教室の扉を開けた途端、べったりとくっついていたはずの視線がきれいさっぱりなくなってしまったのだ。
 拍子抜けと言えば拍子抜けだが、嵐が来る前に凪いだ海や、狩りの一瞬前に息をひそめた獣のようでもある。

「警戒するにこしたことはないよな」

 視線の消失を伝えられた有真の言葉は至極もっともだ。ここまで一瞬で気配が掻き消えるというのはこれまでの【サンプル】にはいないが、「視線に気づかれたことに気づいた」変質者がこちらに見つからないように行動パターンを変えた例は多々あった。とはいえ、消失した視線が復活するのをいつまでも待つわけにもいかない。
 全く嬉しくないことに、巴も有真も一人の変質者に気を配りすぎれば別の方から忍び寄っていた新たな変態に襲われかねないのだから。
 そうして様子見期間は一か月、と定められた。その間はべったりと、傍から見たら付き合っているのかと疑われかねないほどに二人はくっついて過ごした。別に無意味にいちゃついていたわけではなく、これもまた作戦の一つだ。

 日記から見るに、件の視線の主は巴に強い恋情を向けていて、妙に美化して無垢な女の子だと思いたがっている節がある。さらに巴に一等近しい存在である有真のポジションを丸々奪う形で妄想しているあたり、独占欲も強い。
 そしてなにより――日記に書かれていた出来事は、【出会って数か月で急速に深まった親友同士】という設定を崩さないよう、実際の出来事の順序を捻じ曲げて描かれていた。
「ほんっと、変だよねえ。今回のひと……こんなに好き勝手改変するくせに、自分の設定が覆るのはそんなに嫌なんだ」
 紫色の目がどこか剣呑な光を帯びる一方、文庫本に目を落としたままの有真は「そんなもんだろ」と気にする様子もない。
 なにはともあれ、二人はそれらの情報を総合し、今回の変質者は【改変しきれない人物像に対しての耐性がない】と判断した。
 故に、【最近知り合った】では説明がつかない年季の入った息の合い方、親族であるが故の突発的なお互いの家への泊まり、果てはインモラルな恋愛関係を匂わせるようないちゃつきなどを、どこにいるとも知れない相手に見せつけるように日常に織り込んだ。カップルのフリ経験三桁台にとって、この程度の連携など、もはや息をするように披露できるエチュードでしかない。

 そんな風変わりな餌で釣りを続けたものの、日記の犯人が尻尾を出すことはないまま、定めた一か月は早々に過ぎていった。

「見え見え過ぎて警戒させたとか?」
「いや、あの日記にそんな理性無かったろ。オレまた入院する羽目になると思ってた」
「女子だろう相手に骨折る覚悟決めてたの……」
「相手が女だろうが相応の場所に突き落とされたら骨は折れるわ」
「いやな経験値」
「ま、そんなことにならなくてよかったってことだよ。警戒レベルいつも程度に落としていいんじゃねーの」

 どこかピリリとした空気を残したままのイトコの頭をいつも通りに撫でて、有真がやんわりとした笑みを浮かべる。そうだね、と巴が頷いて、その日は久々に二人は別々に帰ることにした。巴からの希望だった。

 *

 黄昏時とはよく言ったもので、日暮れはすれ違う人の顔がどれも見えにくい。
 女・男・小学生・親子連れ・老人・老人・ペットの散歩・女・男・男・女。大雑把な属性だけしかわからない中を、谷坂巴は歩いていく。不審者の出やすい物騒な時間でもあるが、自分のこの顔に注目されなくなるという点では、巴にとって比較的気楽な時間帯でもあった。
 あとニ、三通りを抜ければ家に着くという頃になって、巴ははたと足を止めた。
 ――人がいない。ぼとぼと蝉が落ちている。それでも飽きるほど降り注いでいた声の時雨が、聞こえない。妙に夕暮れが赤黒い。雲の色は反して明るく、けれどもどこか血のようだ。ジジッと点いたばかりの街灯が明滅して、今にも消えてしまいそう。
 そんなこともあると言われれば、そうかもしれない。けれど、どうしようもない違和感があった。
 視線はない。気配はない。――けれど、腐臭がする。
(逃げよ)
 何から、と考えることもなく、巴は来た道を戻るために振り返った。

 そこに、少女がいた。

 どこにでもいるような少女だ。
 顔立ちに目立った特徴はない。髪型も少しオシャレに興味があるような子なら誰だってしているような、ありふれたもの。服装は見たことのない制服。少なくともこの近所にある学校ではないが、おそらくほどほどの校則違反をしているだろうウエストで折り返されて短くなったスカートもまた、どこにでもいそうという少女の印象を補強している。
 特別地味でもなければ特別派手でもない、クラスの平均値のような、見知らぬ少女。
 ただそれだけならば、巴は多少警戒するだけでそれ以上には気にも留めなかっただろう。たまたま用事があって同じ道を通った、同じ年くらいの女の子として処理して、終わっていた。

 少女がその手にぎらぎらと光る包丁を握りしめていなければ、の話であったが。

 まだ、距離はある。だらりとどこか脱力しているような、力ない立ち姿を見るに、そこまで足も速くなさそうだ。道幅も十分ある。
 不気味な違和感のあるひとけのない道と、異様な風体だが逃げ切れる算段がある少女が陣取っているひとけのある場所に続く道。それを頭の中の天秤にかけ――巴は、後者を選択した。
 人形じみた容姿から大人しく見られるが、巴はその実、運動はできる方だ。というか、足が速くなければとうに捕まっていたという事案がいくつもあったので、足が速くならざるを得なかった。というべきだろう。
 だからこその選択だ。
 じりじりと、少女と一番距離をとれる横幅まで移動して、足に力を籠める。念のため、ポケットの中でスマートフォンの一つしか登録していない短縮をタップする。

 ――まだ、少女は動かない。

 刺激しない程度の早歩きで進む。きっちりワンコール分の秒数を心の中で数えて、もう一度タップする。

 ――まだ、少女は動かない。

 あと2メートルもない。一気に横を通り抜けようと、速度をあげる。

 ――まだ、少女は動かない。

 すれ違う。加速する。走り出す。

 ――ぐりん、と少女の首が真横を向いた。

「ッ!?」

 その瞬間、途絶えたはずの奇妙な視線が、再び巴の体を貫いた。

(こいつか!)

 走る。走る。走る。目に空気のかたまりがぶち当たる。髪がぐんと風に引かれる。それらをものともせず、巴は自分にできる最高速度で駆けていく。ちかりちかりと頭上の街灯が激しく明滅する。心音が際限なく耳の奥で早くなっていく。そう長くないはずの大通りへの道は、なぜか一向に終わらない。
(どうなってる!?)
 振り返る余裕はない。けれど、思考を止めればそこで自由はなくなると知っている――考えろ。
 ――先ほどまでのぼんやりとした様子で立っていた少女だって、こちらを見ていた。視線は自分に向いていたのだ。けれど、あのねばつくような、内臓すべてを暴きだすような、特殊な視線は一切感じなかった。そんなことがあり得るのか? いや、有り得ている。逃避している暇はない。足を動かせ。呼吸を忘れるな。耳を、目を、鼻を稼働させろ。そしてその上で考えろ。なんであの少女は視線を隠せた。ちがう。今はそんなのはどうだっていい。そうした例があることを覚えろ。生き延びろ。そして次に活かせ。彼女がなにか化外の生き物である可能性は? 突拍子もない。けれど、思考の外に置くのは危険だと本能が叫んでいる。私はとうに知っている。今は走れ。走れ。走れ!

「――蟾エ繝√Ε繝ウともえちゃん

 ひゅっ、と喉の奥が締まった。足は、なんとか止めずに済んだ。
 きっと、それは声なのだろう。理解できる音列ではないのに、たしかに「呼ばれた」という感覚がある。否。今はそんなこと、どうでもいい。おかしいのは、声の距離だ。ちらと仰いだカーブミラーには、まだ十分な距離を取れている姿が映っている。視線も遠い。けれど声だけが、異様に近い。
 まるで、耳元でささやかれたような近さだ。
(いよいよ本当に、化け物かな!)
 口端がつり上がる。もう笑うしかない。
 がん、だん、だんっ、と背後から、頭上から、有り得ない位置からこちらを追いかける激しい足音がする。
 まだ、道の終わりは見えない。
 
 ――どうして

 そんな、声がした。何かの唸り声のような、無意味にも思える音列は相も変わらず巴の鼓膜を震わせている。だが、息が上がるほどに、目の前が白く霞んでいくほどに、その意味が脳内に響くようになってきていた。鼓膜の内側から、直接脳髄に吹きかけるように、頭の中に響いては、はじけていく。
 体の内側から侵されているようで、気分が悪い。

 ――どうして、あたしたちあんなにすきどうしだったのに、あなたがああああなたが、あたし、たし、と、やくそく、した、のに

 知らない。そんな約束した覚えはない。こんな声の持ち主に心当たりなんてない。
 毒づきたくなる気持ちを走力に変えて、巴は只管に走る。
 だが、どう考えてもとうに終わっていいはずの道が、終わらない。

 グラフィックに手を抜いたゲームのように一定間隔で延々と視界がループし続ける。そんな有り得ざる光景に、巴の精神はそれと知らずガリガリと削られていく。そして、どれだけ運動が得意だと言っても、人間の体力には限界がある。
 だから、その瞬間は訪れるべくして、訪れた。
 バチンと弾ける音がした。頭上で明滅していた街灯が消える。時を同じくして、巴の足から力が抜け落ちる。

 ――かわい、そうナ、ともえ、チやん

 そんな声と共に、巴の体は人間ではあり得ないほどの膂力をもって、ざらついたアスファルトに押し倒された。
「――っ! ぐ、ぁ?」
 永遠に続くと思われた逃走劇に最適化しようと無駄を省いていた思考が、突然の場面転換について行けずに混乱する。背中が熱い。押し倒された勢いで負ったのだろう無数の傷と残暑の熱を吸った地面のかみ合わせが、毒のように巴の精神を爛れさせる。最悪なのは、街灯の喪失だ。人間の目は明暗の切り替わりに対応する機能を持っているが、その構造上どうあがいても暗闇への対応が始まるまでに数分間の空白が生まれる。
 まだ完全に太陽の光は空から残滓を拭い去ったわけではない夕暮れ時であり、光源が明滅して時折暗がりに触れる形になっていたこともあって、煌々とした光の下から完全な暗闇に放りだされた時よりは早く順応するだろうが――このタイミングでの視野の喪失は、致命的だ。
 それでも、谷坂巴は肩を強く押し付けるその敵を睨みつける眼光を、緩めることはない。見えていないとを悟ることすら許さないほど鋭い光が、ヴァイオレット・アイに宿る。
 不幸中の幸いであったのは、眼前の【ソレ】が肩を押さえつける腕の延長線上に素直に存在したことと、それを知らしめる強い腐臭が視覚を失っている巴にも伝わったことだろう。
 鼻が曲がりそうな臭いであり、間違っても感謝などしたくはないが――なにより、こんな臭いを発しているものがヒトであろうはずもないが――それがなければ、多少でも視線に揺らぎが出ていた。

 ――と、も、え、ちゃ

 生温かい、風のようなものが鼻先に触れた。
 顔を寄せられているのだ。睦言を囁く恋人でも気取っているのだろうか。
 不快感が、虫みたいに背骨に沿って這いあがる。

 ――あ、たしだよ。あんし、んし、て

 脳に直接響く声は調律が狂った楽器の音に似ていた。違和感が神経を掻き毟って、気持ち悪い。一体何に安心しろというんだ、この状況で。
 舌打ちをこらえていれば、徐々に目の前のモノの輪郭がぼやけながらも浮かび上がり始める。暗がりに溶けていた視界が回復し始めたのだろう。解像度は低いが、無いよりはマシだ。
 ぼたりと、ヘドロのようなにおいがする薄汚れた液体が頬に落ちる感覚がした。肌が粟立つ。

(絶対人じゃないよね……これ)

 うすぼんやりとした輪郭は、先ほど街灯の下で見た少女の形をしている。だが、あの少女の身長は巴よりも頭一つ以上小さく、手足も棒きれのように細かった。いくら抵抗しても起き上がることができないほどの膂力があったようには思えないし、なによりこんな腐臭のする液体が生きた人間から落ちてくるはずもない。
 
――だい、じょ、ブ。 キれいな標本にデ たら、ア、タしもす、グに……ヲオう、ラ。アアアあん、シシシシし、て

 次第に、頭の中に響く声も耳に届く雑音じみたそれと同調を見せ始めている。何が起こっているのかはわからない。しかし、本能が鳴らす警鐘は激しさを増している。
(どうにか抜け出さないとまずい)
 再度身じろぎした瞬間、視界の真ん中で小さく、しかし凶悪に斜陽を反射するものがあった。一瞬遅れて、その正体を思い出す。

(っ、そうだ、こいつ、包丁持ってた!)

 フルマラソン並みの逃走劇の果てに思考の隅に追いやられていた凶器が、自分の頭部に向けて振り下ろされようとしている。
 死を目前にして、振り下ろされる暴力を目の当たりにして――、なにかが、巴の中で切れた。


 ろくに運動もしない女の握力で振り下ろされたはずの鈍色の切っ先が、ガツンと硬質な音を立ててアスファルトで固められた地面にぶつかった。ヂッと勢いのまま火花が散る。ぬばたまの髪が断ち切られてしゅるりと一房地面に落ちる。
 全身のバネを使って、その体の下から転がり出た勢いのまま跳ね起きる。
 押さえつけられていた肩から先が、だらんと力なくぶら下がる。筋線維でも断絶したのか、それとも関節がイカレたのかはわからない。けれど、おかしなことに、この瞬間、巴は痛みを感じていなかった。
 あるいは、体は正常にその痛みを捉えていたのかもしれない。体中の汗腺は広がって、あとからあとからとめどなく脂汗が流れ出ている。明るければ、ただでさえ白いその肌が、真っ青に血の気をなくしていることだって見えただろう。
 それでも、目の前のソレを見据える彼女は、それを知覚していなかった。
 
 ――ナん、ナンでででえ っととととと、とも、ちゃ、いっタイイイイイたじ、ア? ああたし、アタシアタシ、ニニニニ、ころ、コロコココココろ、され、タイ、ッテテテ ジジジジジ、じぶ、じぶんジャ、なくなくなあああマエにぃいいこコロロロロシテテテテテああああ?????きょ、ききょきいき教し、ししし教室ゥゥウ

「――なに、いってるの?」

 狂乱するようにヘドロを飛ばしながら叫ぶその姿をうけて、紫水晶が怪訝そうに歪む。投げかけた言葉は、音列の意味がわからないという意味でもあり、途切れ途切れに聞こえる声から読み取れた文意への、受け取り拒否でもあった。
 精神的な麻酔がかかっているとはいえ、体はとうにあらゆる意味で限界を迎えている。肩が意思とは関係なしに痙攣するのを抑えるように、まだ動く方の手で押さえこんで、深く息をする。

 谷坂巴はボロボロの体で、ヒトの形をぎりぎり保っているようなその少女をまっすぐに見据えた。

「私、君と話したことなんて、ないけど」

 凍り付いたように、乱雑に流れ続けていた音列が止んだ。

 こちらを見る少女の淀んだ瞳が、ひび割れるように見開いていく。不本意にもよく見慣れた、自分を【どうにかしてしまいたい】と叫び散らかすような欲にまみれた瞳に、巴はあくまで静かな言葉を手向ける。
 攻撃の意図は秘めやかに。けれど鋭く研ぎ澄まして――不審者Aたる少女に現実を突き付ける。

「君、だれ」

 目の前の少女の輪郭が、ぐちゃりと歪んだ。



 少女だったモノが、輪郭を失っていく。
 ぷちりと弾けた皮から覗くのは肉でもなければ血でもなく、ひどい腐臭を放つドブ色の液体。強い粘性を持っているようで、内部からのガスでできた気泡がゆっくりと膨らんでは弾けている。一体どこにそんな体積があったのか、人皮の袋からあふれ出したその液体はドクドクと際限なく流れ出していく。ヘドロめいたそれが、小山のごとく一か所に積み重なっていく。悍ましい巨躯を形成していくそれに、もはや人であったという名残はない。かろうじて落ちくぼんだ三か所の穴とずろりと伸びた両腕に、もしかしたら、と思う察しのいい輩がいるかもしれない、程度のありさまだ。
(ああ、あの腕に押しつぶされたら死ぬかも)
 そんなことを反射的に考えてしまうほど、死というものが形になって目の前にある。だというのに、巴が抱いたのは怯えではなく、また蛮勇ですらなかった。
 あったのは、ただ、純然なる苛立ちだ。
 口を開く。

「やくそくなんて、してない」

 清姫伝説のあの美僧はこんな気分だったのだろうか、あるいは首を落とされた聖者の気分だろうか、と口を開く。
 なんで――だなんて。いい加減、巴の方が叫びたいのだ。

「勝手なことばかり言って――気色悪い」

 もしかしたら、どこかのガラス越しにでも目が合ったのかもしれない。すれ違ったのかもしれない。けれど――どいつもこいつも、私に何を見ているんだ。
 そんな、これまでに少女の腹の底に降り積もったすべてを籠めた、血反吐を吐くような嫌悪に塗られた言葉だった。



 ――最初の被害は、誘拐だった。
 小学校にも上がっていないころだった。
 攫われて、なんだかよくわからない豪奢な服を着せられて、クッションで埋め尽くされた一段上の席に置かれた。
 そこからは指一本触れられず――そして、飲み食い排泄の一切を【存在しないもの】として扱われた。
 幸いというべきか、一日も経たないうちにこうした被害に慣れてしまっている親族が総出で見つけ出し、保護されたが、その異様さは今でも覚えている。

 丁重に扱っているくせに人権がない。
 丁寧に整えるくせに声が届かない。
 崇め奉るくせにこちらを見ない。

 ただ、こんな下界にいてかわいそうに。だとか、こんな質素な服じゃもったいない。だとか、そんな言葉ばかりが降ってくる。重い布、チクチク刺さるレース編みの端っこ、きつくきつく見栄えばかりを気にして締め上げられたリボンの苦しみ。それらすべてが、谷坂巴という個人を否定する。
 ――あの日、あの時、あの瞬間、あの場所で、私は調度品に過ぎなかった。
 谷坂巴は回想する。
 ああ、もしかしたら神様というのはこんなふうに最悪な気分でいるのかもしれないと、みたこともないソレに共感を覚える。
 自分の意志なんて丸無視で、さも「大切にしています」というふうに接されるのは、気色が悪いし、気味も悪い。
 だからこそ、巴はその作り物めいた顔に似合わぬ苛烈さで、そうした感情を向けてくる相手を嫌悪する。
 信仰の自由とやらがあるにしても、それは向けられる側が何も感じぬ受動機械であるから成立するのだ。
 拒否して拒絶して遠ざけて、それでもなお降り注ぎ続ける害意なき棘のような愛とやらに、巴は常に怒っている。
 ただ、成長するにつれて処世術を覚えていくうちに、それを跳ね除ける労力がもったいないと、大体のことにおいて視線もくれてやらないことを意趣返しとするようになっただけだ。
 雨宿りをする鳥のように、往く手を阻むそれに突撃することは労力の無駄であると悟った末のその態度を、諦め、という人間もいるかもしれない。
 けれど、人間というのは常に全力で走り続けてはいられないようにできているのだ。適切な休みをはさまなくては、心だろうと体だろうと摩耗して、疲弊して、いつか限界を迎えてパキンと折れて砕け散るしかなくなってしまう。
 いい様にされるわけではなく、ただ。嵐がすぎさるのを待つ。
 それを繰り返すうちに、もうどうにも怒りという感情に鈍くなっていたのだと、巴は姿を現した自分の感情の輪郭をなぞって、自覚する。よほどのことでなければスルーしていればどうにかなるなど、随分と甘いことを言っていたものだ。
 これなら、諦めを知らずに何度も傷から血を流して、かさぶたになることすら知らなかった幼年期の方が、よほど生きていた。
 スカートのポケットの中でスマートフォンが二回震える。
 どうやら、片割れに声が届いたらしい。ならば――やるべきは、生きることだけだ。

「しにたいって、ころしてって、あなたがいったのに!!!!」

 眼前でノイズとヘドロ交じりの慟哭が吐き出される。何がきっかけかは知らないが、今度のそれは確かな音列であり、鼓膜を震わせる声だった。
 ようやく明瞭に聞こえた、妄執にまみれ、実像から歪んだ捏造されたその記憶の【もと】になったものはなにか、巴はすぐに思い至った。柳眉が、さらに強く歪みを帯びる。

「――私と有真の約束を、勝手に自分のものにしないでくれないかな」

 ふたりだけの遊びの合図。あれは、誘拐されて調度品にされてカミサマに加工されて、殺されてしまった自分や、魂を手酷く壊され殺された片割れを悼むものだ。同族同士でしかわからない、幼い日の約束だ。
 それを、口実にされたんじゃたまらない。
 ぎらりぎらりと、獣の牙が煌めく。

「ずるずるべちゃべちゃ気持ちが悪いお嬢さん。お嬢さんなのかな、もう腕も足も首もどろどろに溶けてしまっていてよくわからないけれど、口調からするにきっとお嬢さんなんだろうね。まあどうでもいいさ。君なんかに興味はないし、その時間ももったいない」

 欲望で膨れ上がったかつて少女だった怪異を、紫色の目をした怪物が捉える。
 ――怪物にならざるを得なかった魔性が視る。

「――矮小で、愛しているのは自分のくせに誰かを愛せていると思っている、哀れながらんどうの君は、まったく”ぼくら”の標本に相応しい」

 その目に映るのは、怪異の本性。怪異なんぞに堕ちる羽目になった業のカタチ。

「君のことはちっとも愛しちゃいないけど、標本になってくれたら愛でてあげても構わないよ。年1くらいで」

 その手に凶器は無く、小山のような怪異に相対するにはあまりにも華奢な体で、それでも紫眼の少女は見下すように笑みを描いた。



 一般的に見て、谷坂巴は哀れな少女である。
 ただ美しく生まれついたがゆえに無数の手に求められ、祭り上げられたり奈落に突き落とされたりする、哀れな運命を背負った薄幸の少女――だが、そんな用意された椅子に座って搾取されるのを待つほど、巴は大人しい存在ではなかった。
 自分が誘蛾灯のような体質をしており、イトコもまた同じような体質をしているのだと知り――ふたりはあろうことか、引き寄せられてきた不審者たちを使って遊び始めた。
 悪童。と彼らの行いを知った親戚たちは口をそろえた。けれど止めることはなかった。かれらがその牙を向けるのは自分たちを食い物にしようとする悪い大人ばかりであったし、有真などはその遊びを覚える前には魂を殺されるような真似をそうした化け物どもにされたのだから、遊べるくらいに元気な方がいい。身内びいきも甚だしい”見て見ぬふり”をまかり通らせる。

「「いつか地獄に落ちるでしょう」」

 ふたりは言う。

「「ならば、せめて逝くのは孤地獄に。"ぼくら"を食い物にするような輩がうじゃうじゃいる場所に逝かぬよう、悪辣に、怪奇に、複雑に、罪に塗れれば救われる」」

 ふたりぼっちの、魔性が言う。

「「徳になんて期待できない。来世なんて待っていられない。現世もどうせ地獄なんだから」」

 生まれついて蠱惑を身に纏わされた二人が、互いを片割れとして扱うようになったのは道理であった。依存というには乾燥していて、協力というには絡み合いすぎているその関係性を、ふたりは共生だと云う。
 一人で生きるにはあまりに不便なその体質で生きていくための、吐息を分け合う鏡写し。それこそが、谷坂巴と向日有真の在り方だった。

 もっとも。業は背負えど、現世の法で彼らを裁くことはできない。
 ――例えば、階段から落ちて死んだ男がいたとしよう。
 その男は誰に突き落とされたわけでもなく、そそのかされたわけでもない。ただ、遠くを歩いているうつくしい人間に見惚れて足を滑らせただけの哀れな事故死体だ。
 ただ歩いていただけのうつくしい人間にも当然、咎はない。あるはずがない。目さえ合わず、手も降らず、笑いかけもしない。誘うような真似など万に一つもしていないのだから――裁けるはずもない。
 彼らがする遊びというのは畢竟、そうしたものだった。
 立っているだけ、歩いているだけ、ただそれだけで、どこまで人が誘引されるのかを観察する。無論、無辜の民に行うことはない。これは自衛の一環としての側面を持った遊びなのだ。自分たちに向かって度の過ぎた劣情や信仰なんてものを向けてきたうえに最後の一線を越えようとした相手に決行する、不審者たちを標本にする作業。どんな仕草に引き寄せられるのか、何に強く反応するのか。それを解き明かすことで、事前に危険を察知する体を張ったサンプリング作業に他ならない。
 なにを言っても、不審者とはいえ、時として犯罪に手を染めている相手とはいえ、生きた人間に躊躇なく死への片道切符をちらつかせて手渡してしまうその在り方が怪物と呼ぶにふさわしい威容であることに変わりはないのだが。

 まあ、つまり、なにを言いたいかと言えば。
 ――谷坂巴は、自身の持つ性質を理解し、利用し、他者を加害出来る人間である。

 チン、と小さく金属を弾く音がした。
 続いて、ヂッと硬いものが擦れる。微かなオイルのにおい、指先に摩擦を起こした熱が残る。――未成年が持つには違和感のある銀色に光るオイルライターが、ポッと黄昏の薄暗がりの中に火を吐き出す。
 ちっぽけな、炎とは到底呼べない灯が白い手の上でゆらゆら揺れる。その四角い体に収めたオイルを燃やしながら、じりじりじりじり、火が揺れる。ちらりちらりと光が白い頬を、黒い髪を、赤い唇を――紫色の瞳を、照らし寄せては引いていく。
 日光の中で見るよりも怪しく。月光の下で見るよりも侵しがたく。見る者の心を、たんと舐め上げるように。
 心奪って喰らうように。稀代のファム・ファタールの魔性が露わになる。
 ゆっくりと、ヴァイオレット・アイが瞬いて――その瞳に克明に映り込んだ自分の姿に、かつて梶原真莉愛と呼ばれた怪異は、絶叫した。

「ア、■■■■■阿■あ■■■■■■■■■唖■■■ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!■■■■■■■、■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!■■■■■!!!!!!!!!!」

「あれ?」

 幼さを伴った声が、逢魔が時に転がった。。

「堪え性がないんだね。……私の髪を目の前で炙ったらどうなるか、見たかったのにな」
 ザンネン。そんな声と共に、カチンと音が鳴って、火が金属の蓋に飲み干される。
 消えていた街灯はいつのまにやら復活したらしい。道の終わりも、目を凝らすこともなく見える位置にある。ハテ、あれはなんだったのだろうと首を傾げても、答えは出そうにないし、出るものとも思っていない。
 何度か見た中では初めての型ではあったが、マア、いつもの事だろうと、そう紫色の目の少女は判を捺す。

 ――魔性が魅了するのは、なにもヒトばかりではない。
 ソレが何なのか、もとは人なのか、そもそも化外なのかすら、巴は知らないし、知る気も無い。もしかしたら有真は知っているのかもと思うことはあるけれど、必要なことでないから教えないのだろうと思うくらいには信頼している。

 そう遠くないところからイトコの声が近づいてくる。思ったよりも簡単に終わってしまった釣りをどう説明したものかなと暢気に考える巴の足元にはもう、ヘドロの塊のような怪異も、平凡で型を取ったような少女もいない。
 あるのはただ、不気味に歪んだハート模様の翅をもった死にかけの蝶一匹。
 それこそが、彼らがこの【遊び】に置いて採取するサンプルを【標本】と呼ぶ由縁。彼らに親戚たちがつけたあだ名の最たる由来。

「あ、いけないいけない。忘れるところだった。ひとりでするのははじめてだから、勝手がわからないや」

 少女の指が、柔らかく蝶を掬い上げる。翅が折れてしまわないように畳み、触覚も足も欠けないように、やさしくやさしく整えて――きゅっと、その小指の先にも満たない蟲の胸を圧迫した。ゆるりと触覚が動き、ストロー状の口が上下して、まどろむように蝶の生気が失せる。

「君の夢がどうぞ、いつまでも覚めませんように――えっと、なまえ、知らないや」

 何の気なしに化外の命を摘み取って、どういう仕組みかはどうでもいいと無邪気に切り捨てる。無数の瑕疵の果てに産み落とされた怪物のその笑みは、美しく、残酷で、稚い。そんな【悪童】と呼ぶのが相応しいものであった。

 ラベルどうしようかな、なんて、少しも困っていない顔で首を傾げていれば、背後でざりっとスニーカーが地面を擦る音がした。

「巴。おまえ……、先に片づけたのか」

 息を切らしたイトコのそんな呆れ声にくすくす笑って、「許して?」と意識して甘えた声をだせば、ばーかという軽口と共にそこそこ痛めのデコピンが額にとんでくる。お仕置きらしい。

「許すも何も、あぶねーから一人ではやめろって言ってるんだよ」
「ええ。上手にできたと思うんだけどなあ」
「――巴」
 心配したんだ、というその目に邪心はない。揺り籠の頃から傍にいた、凪いだ黒真珠の目に熱を吸われる。怒りのままに張り詰めていた気持ちが、ゆるやかにたわんでいく。
 ほ、と息をつく。肩の痛みが遅れてやってきて、瞳に涙がにじんだ。
「……うん。わかってるよ。もうしない。ただね、今回はとっても腹が立ったから、つい」
「腹ァ? そんな特別な奴でもなかっただろ」
 たしかに特殊ではあるが、特別ではなかった。いつも通りならば、眉一つ動かさずに標本にしていただろう。
 けれど――たった一点、どうしても許せないことがあった。
「だって、有真を私から取り上げようとしたでしょう。この子」
「……ああ、そういうこと。じゃあしかたねーよな」
「しかたないでしょ」

 この世でたった一人の片割れを奪おうとした相手への癇癪ならば、仕方ない。

 頷き合って、魔性ふたりは帰路につく。明日のテスト憂鬱だね。なんて、まるで普通の学生みたいな顔をしながら、日常へと。
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