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第三章 アッシュフォード男爵夫人
1:不穏な影(1)
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皇宮の中庭に植えられた一本の大きな木。極東の島国から送られたとされるその木は、毎年春になるとピンクの可愛らしい花をつける。
そして、たった10日程度しか咲かないその花で木が埋め尽くされたら、それは春が来たという合図だ。
帝国の第一皇子、ダニエル・ローレンスは執務室の窓からちらほらと蕾をつけ始めたその木を眺めて、安堵のため息を漏らした。
「間に合って良かったよ。春を迎える前に取り返すことが出来そうだ。……なあ、ジェラルド」
ダニエルはそう言って愉快そうに目を細め、目の前で拳を強く握りしめる銀髪碧眼の彼の方を窺い見た。
そのパッとしない顔立ちも後ろで一つにまとめた長い霞んだ銀髪も、全てが妹にそっくりな第三騎士団所属の騎士、ジェラルド・ブランチェット。
彼は決して顔には出していないものの、その纏う雰囲気からかなり焦っていることが窺えた。
「何の話でしょう」
ジェラルドはわざとらしく、わからないふりをした。誤魔化せるのなら誤魔化し通したいのだろう。
だがダニエルがそれを許すはずもなく、彼は少し苛立ったように、人差し指でトントンと机の上の手紙を叩く。
それはジェラルドの妹であるアイシャ・ブランチェットが送ってきた、魔族との和平交渉に関してダニエルの協力を要請する手紙だった。
ダニエルはそれを手に取り、大きなため息をこぼす。彼のため息にジェラルドは固唾を飲んだ。
「他の誰でもない、あのアイシャが私を頼ってきてくれた。これほど嬉しいことはない」
「……妹の頼みを聞き入れてくださり、ありがとうございました」
「君の妹は本当に優秀だ。魔族との和平を実現させるなんて、ただの令嬢ができることじゃない。さすがだな」
「全ては陛下と殿下の広いお心のおかげです」
「白々しい世辞は寄せ、ジェラルド。これはアイシャの功績だ。私はそれがとても嬉しい」
「恐縮です」
「だかな、ジェラルド。私は酷く驚いたんだ。まさかアイシャがアッシュフォード男爵夫人としてこの手紙を送ってくるなんて思いもしなかったから」
「……妹が婚約したことはお伝えしたかと思いますが」
「ああ、そうだな。確かに妹がアッシュフォードに嫁いだことは聞いていた。だが私はそれは末の妹の方だと聞いていた」
ブランチェットの娘が、褒美としてイアン・ダドリーに与えられたことは知っていた。皇帝も皇后も自身の懐の深さを示すかのように、自慢げにその話をしていたから。
だが褒美として送られるのが末の娘からアイシャに変わったことは知らなかった。
ダニエルは絶対零度の冷たい視線でジェラルドを睨みつけた。
「私のもとにその情報が入らないなど、あり得ない。お前の差金だろう?」
「何のことでしょうか」
「惚けるな。この間の、長期の聖地巡礼。急にマリアンヌがついて来いなどと言うものだから仕方なく同行したが、あれはお前が仕組んだことだろう?マリアンヌが言っていたぞ?私を聖地巡礼に同行させ、仲を深めた方が良いとお前に言われたってな。どうりで普段は積極的でないお前が、自ら手を上げて護衛に行きたがるはずだ。俺の耳にアイシャの情報が入らぬよう、監視したかったのだろう」
「そんなまさか。マリアンヌ様が殿下との距離感に悩んでおられたので、少し助言をしただけです」
「ふざけるな!」
ダニエルは強く机を叩き、抗議した。机の上に置かれていたティーカップが揺れ、紅茶が少しこぼれる。
ジェラルドはすかさず近くの書類を片付け、机を拭いた。
「なぜそうお怒りなのですか?殿下は教皇の御息女であるマリアンヌ様の婚約者です。来年にはご成婚の予定ですし、正式に婚姻が結ばれれば、聖地巡礼は必ずお二人で行くことになりますよね?今回の巡礼の件も、その予行演習だと思うと意味があると殿下ご自身も仰っていたではありませんか」
「ああ、そうさ。巡礼は有意義なものだった。だがそのせいでアイシャがアッシュフォードには奪われた。私が首都にいれば、こんなことは起きなかった。違うか?」
「まるでアイシャがご自分のものであるような言い方ですね」
「そうだ。彼女は私のものだ」
正式な婚約者がいるにも関わらず、アイシャを欲しがるダニエルのその姿勢に、さすがのジェラルドも眉を顰めた。
「……殿下がアイシャを想っていらしたとは、知りませんでした」
「はっ!白々しい。お前は私が昔から彼女に目をつけていたこと知っていたはずだろう?」
「いいえ?存じ上げておりませんでした」
「お前は嘘つきだな。私はお前にも話したことがあるはずだ。私はアカデミー時代から彼女を好ましいと思っていたと」
「なぜ、アイシャなのですか」
「わかるだろう?アイシャは口を開けばドレスの話や他人の噂話しかしない、そこら辺の頭の悪い女とは違う。アカデミーに通えるだけの頭とあの控えめな性格。それだけでも素晴らしいのに、いざやらねばならない時にはサラッと大胆な決断ができる器もある。皇帝の妻に相応しい女は彼女の他にはいないだろう」
「そう思うのなら、何故マリアンヌ様と婚約を?」
「愚問だな。私が帝位につくために血筋の正統性を補完するものが必要だったからだ。いずれ聖女の称号を与えられるであろう彼女との婚姻は、民と貴族議会を納得させるのに必要だった。それだけだ」
ダニエルはジェラルドを嘲笑うように、そう言い放った。
そして、たった10日程度しか咲かないその花で木が埋め尽くされたら、それは春が来たという合図だ。
帝国の第一皇子、ダニエル・ローレンスは執務室の窓からちらほらと蕾をつけ始めたその木を眺めて、安堵のため息を漏らした。
「間に合って良かったよ。春を迎える前に取り返すことが出来そうだ。……なあ、ジェラルド」
ダニエルはそう言って愉快そうに目を細め、目の前で拳を強く握りしめる銀髪碧眼の彼の方を窺い見た。
そのパッとしない顔立ちも後ろで一つにまとめた長い霞んだ銀髪も、全てが妹にそっくりな第三騎士団所属の騎士、ジェラルド・ブランチェット。
彼は決して顔には出していないものの、その纏う雰囲気からかなり焦っていることが窺えた。
「何の話でしょう」
ジェラルドはわざとらしく、わからないふりをした。誤魔化せるのなら誤魔化し通したいのだろう。
だがダニエルがそれを許すはずもなく、彼は少し苛立ったように、人差し指でトントンと机の上の手紙を叩く。
それはジェラルドの妹であるアイシャ・ブランチェットが送ってきた、魔族との和平交渉に関してダニエルの協力を要請する手紙だった。
ダニエルはそれを手に取り、大きなため息をこぼす。彼のため息にジェラルドは固唾を飲んだ。
「他の誰でもない、あのアイシャが私を頼ってきてくれた。これほど嬉しいことはない」
「……妹の頼みを聞き入れてくださり、ありがとうございました」
「君の妹は本当に優秀だ。魔族との和平を実現させるなんて、ただの令嬢ができることじゃない。さすがだな」
「全ては陛下と殿下の広いお心のおかげです」
「白々しい世辞は寄せ、ジェラルド。これはアイシャの功績だ。私はそれがとても嬉しい」
「恐縮です」
「だかな、ジェラルド。私は酷く驚いたんだ。まさかアイシャがアッシュフォード男爵夫人としてこの手紙を送ってくるなんて思いもしなかったから」
「……妹が婚約したことはお伝えしたかと思いますが」
「ああ、そうだな。確かに妹がアッシュフォードに嫁いだことは聞いていた。だが私はそれは末の妹の方だと聞いていた」
ブランチェットの娘が、褒美としてイアン・ダドリーに与えられたことは知っていた。皇帝も皇后も自身の懐の深さを示すかのように、自慢げにその話をしていたから。
だが褒美として送られるのが末の娘からアイシャに変わったことは知らなかった。
ダニエルは絶対零度の冷たい視線でジェラルドを睨みつけた。
「私のもとにその情報が入らないなど、あり得ない。お前の差金だろう?」
「何のことでしょうか」
「惚けるな。この間の、長期の聖地巡礼。急にマリアンヌがついて来いなどと言うものだから仕方なく同行したが、あれはお前が仕組んだことだろう?マリアンヌが言っていたぞ?私を聖地巡礼に同行させ、仲を深めた方が良いとお前に言われたってな。どうりで普段は積極的でないお前が、自ら手を上げて護衛に行きたがるはずだ。俺の耳にアイシャの情報が入らぬよう、監視したかったのだろう」
「そんなまさか。マリアンヌ様が殿下との距離感に悩んでおられたので、少し助言をしただけです」
「ふざけるな!」
ダニエルは強く机を叩き、抗議した。机の上に置かれていたティーカップが揺れ、紅茶が少しこぼれる。
ジェラルドはすかさず近くの書類を片付け、机を拭いた。
「なぜそうお怒りなのですか?殿下は教皇の御息女であるマリアンヌ様の婚約者です。来年にはご成婚の予定ですし、正式に婚姻が結ばれれば、聖地巡礼は必ずお二人で行くことになりますよね?今回の巡礼の件も、その予行演習だと思うと意味があると殿下ご自身も仰っていたではありませんか」
「ああ、そうさ。巡礼は有意義なものだった。だがそのせいでアイシャがアッシュフォードには奪われた。私が首都にいれば、こんなことは起きなかった。違うか?」
「まるでアイシャがご自分のものであるような言い方ですね」
「そうだ。彼女は私のものだ」
正式な婚約者がいるにも関わらず、アイシャを欲しがるダニエルのその姿勢に、さすがのジェラルドも眉を顰めた。
「……殿下がアイシャを想っていらしたとは、知りませんでした」
「はっ!白々しい。お前は私が昔から彼女に目をつけていたこと知っていたはずだろう?」
「いいえ?存じ上げておりませんでした」
「お前は嘘つきだな。私はお前にも話したことがあるはずだ。私はアカデミー時代から彼女を好ましいと思っていたと」
「なぜ、アイシャなのですか」
「わかるだろう?アイシャは口を開けばドレスの話や他人の噂話しかしない、そこら辺の頭の悪い女とは違う。アカデミーに通えるだけの頭とあの控えめな性格。それだけでも素晴らしいのに、いざやらねばならない時にはサラッと大胆な決断ができる器もある。皇帝の妻に相応しい女は彼女の他にはいないだろう」
「そう思うのなら、何故マリアンヌ様と婚約を?」
「愚問だな。私が帝位につくために血筋の正統性を補完するものが必要だったからだ。いずれ聖女の称号を与えられるであろう彼女との婚姻は、民と貴族議会を納得させるのに必要だった。それだけだ」
ダニエルはジェラルドを嘲笑うように、そう言い放った。
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