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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精
44:春まで待って(2)
しおりを挟む「確かに傷つくかもしれない。でも節目節目で連絡を取らないと君はきっと『もし連絡をしていたら』という想像に囚われてしまうと思う」
「そうかもしれません……」
「本音を言うと捨てて欲しい。もう見切りをつけて前を向いて欲しい。でもまだそうできないんだろう?なら俺は待つよ」
本音を言うなら、そんな家族は今すぐ捨ててほしい。大事にしてくれない人を思うほど馬鹿馬鹿しいことはない。
だがこの国では家族のつながりは何よりも太く頑丈で、なかなか切れない縁だから。イアンはアイシャが自らそれを断ち切れるようになるのを待つと話した。
「それにさ、たとえ傷ついたとしても、もう今までみたいに一人で立ち上がるなんてことはしなくていい。ここには君の味方しかいないから。みんな君が好きでとても大切に思っている。それは君ももう知っているはずだ」
「そう、ですね。……ええ、そうです。私には味方がたくさんいます。私はこの屋敷のみんなに大事にされていると思います」
「あと、俺だっている」
「ふふ、そうですね」
「俺は生涯君を愛するって言った。たとえ伯爵夫妻が君に愛を伝えなくとも、俺がその分まで伝えるよって。俺の全てを持って君を愛する。だから大丈夫」
言わずに後悔するくらいなら言って後悔した方がいい。イアンはそう言うとニッと歯を見せて笑った。
何が大丈夫なのだろう。何も大丈夫ではない。
多分彼は自分が何を言っているのか、あまり理解していない。アイシャは無意識に放たれた言葉に頬を染めた。こんなのは反則だ。不意打ちすぎる。
「アイシャ?どうした?」
急に顔を真っ赤にするものだから、また熱が出たのかと心配になり、イアンは彼女の額に自分の額を押し当てた。
「……ふぇ!?」
「ふむ。熱はないようだな」
「あ、あの……」
「ん?どうした?」
「ち、ちか……。近い、です」
アイシャは上目遣いで懇願するように少し離れて欲しいと言った。
鼻先と鼻先が腫れてしまうほどの距離。彼女の群青の瞳を除けば、自分の姿が見える。
イアンはしばらく思考を停止したのち、その距離の近さを自覚した。
「ご、ごごごごめん!」
別にこの距離が初めてというわけではないのに、イアンは慌ててアイシャから離れようとした。そして手を滑らせ、二人の間に置いてあったティーセットを落とす。
床に落ちたティーセットは当然の如く割れてしまい、溢れた紅茶は絨毯にシミを作った。
「うお!?やってしまった!」
「もう、何やってんですか!旦那様は!」
「す、すまん。テオ」
「本当に!まったくもう!普段ヘタレなやつが不意にそういうことしても、所詮結果はこんなもんなんだからキザなことするのやめなさいよ!」
「はあ!?なんの話だよ!」
「なんの話かわからないところがもうダメです!とりあえずすぐ箒を持ってきますから、触らないでくださいよ!」
テオドールは大きなため息をこぼし、箒とちりとりを取りに行くため部屋を出た。
何を咎められたのかよく分かっていないイアンは頬を膨らませながら、ティーセットを片付けようと床に手を伸ばした。
「……何なんだよ、テオのやつ。意味わからん」
「あ、待って!素手で触らない方が!」
「痛って!」
「ああ、ほらぁ!大丈夫ですか!?」
お約束、と言うべきか。案の定、イアンは割れたカップで指を切った。彼の右手の人差し指からは赤い雫が一筋だけ流れる。
切り傷は地味に痛い。イアンはやってしまったと小さくため息を漏らした。
しかし平然としている彼に対し、アイシャはこれは大変だと慌てて出窓から飛び降りた。
「もう!血が出ているではないですか!傷を見せてください!」
「だ、大丈夫だ。少し切っただけだから。これくらい舐めておけば治るし。ははっ」
「え、そうなのですか?」
それならばと、アイシャはイアンの手を取る。そして彼の右手の人差し指をパクリと口に含むと、血を吸うように患部を舐めた。
傷を誤魔化す常套句のつもりだったか、まさか本気にされるとは思っていなかったイアンは一瞬何が起きたのか分からず、体を硬直させた。
「……え、え?」
これはどう反応するのが正解なのだろう。愛しい女が自分の指を咥えているというなんとも扇状的な光景にイアンの理解は追いつかない。だがチクリと痛む吸われた指先から徐々に体が熱くなるのはわかる。
イアンはとりあえず何か言わねばと口をパクパクと動かす。だが言葉は出てこない。
アイシャはそんな彼を見て不思議そうに小首を傾げた。
「ふぁふふぁふふぁ?」
指を咥えたまま喋るものだからちゃんと言葉になっていない。だがそれがまた可愛らしく、かつ、いやらしくもあり、イアンはなんとも言えない感情に襲われた。
まるで理性が試されているような気さえしてくる。
「あ、血が止まりましたね」
しばらく患部を吸っていたアイシャは咥えていた指を口元から離すと、すぐに持っていたハンカチで指についた自分の唾液を優しく拭いた。
そして、ふと気がつく。
「……イアン様」
「な、なんだ?」
「もしやこれ、あまり良い方法ではないのでは?非衛生的と言いますすか……」
傷口に唾液をつけるという治療法方など、アイシャは聞いたことがない。アイシャは恐る恐るイアンの方を見上げた。
すると、なぜだろう。彼は何故か空いた左手で真っ赤になった顔を覆っている。
ああ、そういうことか。彼のその様子で、ようやく自分のしでかしたことに気がついたアイシャは瞬く間に顔を赤くした。
「じょ、冗談でしたの?」
「冗談っていうか、昔から庶民は怪我をした時にこういうことを言うんだよ。薬なんてそう簡単に手に入らないから」
「な、なるほど……。それは失礼しました。私はとんだ勘違いを。ごめんなさい」
「いや、謝らなくてもいい。割と役得だったし。何ならもうちょっとあのままでも良かったし」
「……え?」
「なんでもない。うそ。ごめん、なんでもない」
「は、はい……」
恥ずかしさでどうにかなりそうな二人は互いに2歩ほど後ろへ下がり、二人して反省するように膝を抱えて床に座った。
30秒ほど気まずい空気が流れる。
その空気を先に破ったのはアイシャだった。抱えた膝に顔を埋めた彼女はそのまま小さく呟いた。
「あの、き、聞いても良いですか?」
「あ、ああ。なんでもどうぞ、聞いてくれ」
「イアン様はその、私を愛すると仰いますけど、それってどういう意味のもの……ですか?」
「え!?ど、どういうって……」
「愛情にも色々あると思います。家族愛とか友愛とか、その……恋人に向ける愛とか」
「そっ……それは……」
「どれ、ですか?」
ゆっくりと顔を上げたアイシャはジッとイアンを見つめた。
懇願するような彼女の潤んだ群青の瞳はやはり少しばかり扇状的だ。
加えて、震えた声からは緊張が伝わってくるし、吐息混じりの甘さのある声は無駄に刺激的で。
イアンはたまらず目を伏せた。部屋に二人きりのこの状況でこれ以上彼女を見つめていては色々と危ない。
「……イアン様、答えてください」
「あ……うん。あー、えっと……うん」
「イアン様……わたし……」
「ちょ、待って。本当にやめて。あんまり、そういう声出さないで」
「なっ……。そういう声って、どういう声ですか?」
「その甘えてるみたいな、ねだってるみたいな声。それは良くない」
「そ、そそそんな声、出していません!」
「出てるよ。もう色々と漏れ出してる。危ない。大変良くない。もはや毒だ」
「毒ってなんですか!?というか、話を逸らそうとしていませんか!?」
「してない。してないよ。全然してない」
「してますよ!もう!」
訳のわからないことを言って、話を逸らせて答えようとしないイアンにアイシャは頬を膨らませた。
欲しい答えは一つしかないし、返ってくる答えも多分、アイシャが望んでいる答えだ。だから本当は確かめる必要などないのかもしれない。
けれど愛された記憶があまりない彼女には、それが正解なのかどうか確信が持てない。
長年傷つけられた心はひどく臆病になり、決して間違えたくないと思ってしまう。
だから確信が欲しい。ちゃんと言葉にして欲しい。愛してくれると言うのなら、もっとわかりやすく愛してほしい。
アイシャは立ち上がり、イアンの前まで行って彼を見下ろした。
目の前にできた影に、イアンは思わず固まってしまう。
「キス、したくせに」
拗ねた子どものような口調だ。イアンはどんな顔をしてそれを言っているのか気になってしまい、顔を上げた。
「はは……。なんて顔してるんだよ」
「普通の顔ですが?」
「むくれてる。可愛い」
「馬鹿にしてます?」
「してない。でも可愛い」
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「……うん」
「け、けれど!私はそういう風にあなたを愛したいとは思いません!」
「……ははっ。随分と回りくどい言い方をするんだな」
それはもう、恋人のように愛したいと言ったも同然だ。イアンは困ったように笑った。
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