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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精

28:シスター・マリン(1)

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 あの日、あんなにも怖い思いをしたのに、それでも頻繁に足を運んでくれるアイシャにシスター・マリンはとても感謝していた。
 子どもたちはアイシャと遊ぶのがとても楽しそうだし、いつもは顔すら見せない引きこもりのジェスターが窓から顔を出すようになった。
 そう簡単に他人に心を開く子たちではないのに。きっと彼女が子どもたちに哀れみの目を向けない人だからだろう。
 アイシャ・ブランチェットという女性は所作や話し方にこそ高貴な令嬢の雰囲気があるものの、態度はとても柔和で、領主夫人である事を鼻にかけることはなく、何より施しをしてやっているという傲慢さがない。 
 一般市民でさえ、哀れな子どもらに接するのには大なり小なり、『自分たちより下の人間に慈悲を与えてやっている』という心が透けて見えるのに、彼女には一切それがない。
 きっとそういうところが、子どもたちは安心できるのだ。

 マリンは、寒空の中を靴を脱いで走り回る子どもたちとそれを必死で追いかけるアイシャを見つめ、苦しそうに笑った。
 外套を纏い、顔を隠すようにフードを目深に被っているため、彼女たちからは口元しか見えないだろうが、多分今の自分は心から笑えていない。心の奥底から湧き上がる嫉妬の感情が制御できていないのだ。
 ああ、どうして自分は彼女のようになれないのだろう。
 マリンがそんなことを考えているとリズベットが下から覗き込んできた。

「腹でも痛いの?でっかいのしてくる?」

 なんの躊躇いもなく、悪戯っ子ような顔でそんな事を聞いてくるものだからマリンは思わず半眼になってしまった。

「……リズさんってデリカシーないって言われません?」
「じ、冗談だよ。なんか辛そうな顔してたから、ほら、笑かそうと思って」
「もう少し品のある笑いをお願いしたいものですね。仮にも奥様の護衛なのに」
「確かに護衛だけどあたしは貴族ではないから問題ない」
「貴族でなくとも、臣下の評価はそのまま奥様の評価ですよ。本当に、あなたの言動が奥様の品位を下げないか心配です」

 マリンは呆れたようにため息をこぼしながら冷たい芝の上に腰掛けた。
 すると意外にもリズベットはしょんぼりと肩を落とし、彼女の隣に座った。
 どうせまた『あたしはあたしだ』とか『そんなの知らない』とか言うのだろうと思っていたのに、意外だ。

「……そっか。じゃあ気をつける」
「なんだかやけに素直ですね、珍しい。奥様が来るって聞いた時はあんなにも『認めない』って喚いていたのに。認めたんですか?」
「認めたとまでは言えない。でも実際に会ってみたら思っていたよりもずっと根性あったから、あのお嬢様になら少しは預けても良いかと思っただけよ」
「それは領主様のことですか?それとも自分のこと?」
「……秘密よ!」
「そっかあ、秘密か……。あなたにそんなふうに言わせるなんて奥様はやっぱり素敵な方なのですね」

 褒めているのにどこか卑屈に聞こえる口調。リズベットは不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの?元気ないけど」
「……別に、ただ自分のことが嫌いになっただけです」
「何それ。なんか悩みでもあるの?」
「……悩みがない人なんていませんよ」

 マリンは誤魔化すように笑った。その自嘲するような笑みにリズベットはますます不思議がる。 
 しかし彼女にはわかららないだろう。アイシャを見ていると内側からじわじわと湧き出てくるこのあさましい劣等感など。


「リズー!交代!」

 二人が肩を寄せ合い日向ぼっこをしていると、ゼーゼーと息を切らせたアイシャがおぼつかない足取りで近づいてきた。
 よく見ると彼女の背中にはシュゼットが乗っていた。イリーナとレオもボールを抱えて後ろからアイシャを追いかけている。
 リズベットはやれやれと肩をすくめ、アイシャにしがみつくようにして乗っかっていたシュゼットを引き剥がした。

「体力なさすぎでは?お嬢様?」
「う、うるさい。あなたと同じにしないで」
「まあいいわ、しばらく休んでな」

 リズベットはシュゼットを俵担ぎにすると、こちらに向かって走ってきていたレオとイリーナを視界に入れた。
 二人は彼女にロックオンされたことに気がついたのか、ピタリと足を止め、綺麗に回れ右をして駆け出した。
 きゃーという子どもの甲高い声が寒空に響く。子どもを担いだまま全速力で走れるなんて、アイシャはやはり騎士の体力には及ばないなと自嘲するように微笑んだ。

「お疲れ様です、奥様」
「ありがとう、シスター」

 アイシャはマリンが差し出したグラスの水を一気に飲み干した。喉を鳴らして水を飲むなんてはしたない真似、実家ではしたことがなかったが、ここに遊びに来るようになってからは遊び終わった後のこの一杯が最高に美味しく、ついつい喉を鳴らして飲んでしまう。
 マリンはアイシャの口の端から漏れた水滴が彼女の白磁の肌を伝い、首元へと流れる様をじっと見つめた。少し濡れたピンクの唇も紅潮した頬も、その肌の艶も、綺麗に整えられた爪も、全てが自分とは違う。
 アイシャがここに通うようになってから彼女とはかなり打ち解けたつもりだが、それでもやはり格が違う。彼女の体に流れる血の高貴さが、どうしてもマリンを見下す。いくら彼女がこちら側へと降りてこようと、自分の頭は彼女の足元にも並べない。
 それがどうしようもなく苦しい。

「ありがとう、ご馳走様」
「あ、はい……」
「ん?どうかしたの?」
「……子どもたちのこと、すみません。奥様に無礼を働いてはいけないと毎度言い聞かせてはいるのですが……」
「別に気にしていないわ。むしろこんなふうに気安く接してくれた方が私は嬉しいし」
「ですが……」

 アイシャからグラスを受け取ったマリンはグラスの端についた紅を見つめ、ポツリとつぶやいた。

「ですが、やはりそろそろ高貴なお方に対する礼儀についても教えていかねばなりませんね」

 ぎゅっとグラスを握る彼女に、アイシャは小さく息を吐いた。

「礼儀って?彼らは挨拶はしっかりできるし、ごめんなさいもありがとうも言える。今はまだそれだけで十分じゃない?」
「しかし、身分の違いについてはきちんと教えていかなくてはなりません。奥様と自分達は違うのだと知らずに恥をかくのは彼らです」
「心配しなくても大丈夫よ。あなたがよく言い聞かせてくれたから、たまにだけど彼らは私を奥様と呼ぶようになったし、きっと理解しているわ」
「行動が理解しているとは思えません」
「それは徐々にでいいわよ。そもそも私は遊ぶために来ているのだし、堅苦しいのは嫌だわ」
「でも……!」
「それに、どうせ教えるなら先に、読み書きや計算を教えてあげたほうが彼らの将来のためにもなるんじゃないかしら」

 マリンの言う貴族に対する礼儀礼節は平民にはほとんど必要ない。そもそも貴族と接する機会のある仕事は数が少ないし、仕立て屋やお屋敷のメイドなど、所作に気をつけねばならない仕事は初めのうちに必要な事を教えてもらえる。
 ならばそれよりも読み書きや計算ができた方が将来的に就ける職業の幅が広がるというものだ。

「所作に気を遣わねばならない仕事に就くためには、それ相応のことができないといけないわ。違う?」
「……」

 違わない。けれど、マリンは素直にそう言えなかった。
 アイシャはそんなマリンにお尻ひとつ分近づき、彼女の肩に自分の頭を置いた。マリンは驚いたように目を見開き、そして動揺した。

「お、奥様……?」
「最近のシスターは線を引きたがるわね。どうして?」
「線引きは大事です」
「それだけ?」
「……それだけです」
「そっかぁ。でも、やっぱり少し寂しいからあまり線は引かないで欲しいなぁ……」

 少し甘えるようにアイシャが呟く。マリンはその声に眉を顰めた。

「シスター。私ね、話が聞ける人になりたいの」
「そうですか……」
「私の生まれ育ったブランチェット領はね、たしかに豊かだけどやっぱり広いから……。だから一人一人の顔を見て、話をしてってことができなかった。お屋敷の使用人の数も多くて一人一人の顔と名前を覚えるのも難しかったし……、まして領民のことなんて顔さえ見たことない人たちがほとんどだったの。でもここは狭い土地だから、一人一人顔を見て話ができるわ」
「そう、ですね……」
「私はそれがとても嬉しいの。だってみんなの個人的な事情まで気にかけることができるでしょう?その人が何を思いら何を考えているのか。何に困っているのか、どんなことをしたいのか、とか。そういうことを知ることができればこの地をもっとよくすることができるわ」

 優しい口調で、耳障りの良い言葉を吐くアイシャ。彼女は再びこの孤児院を訪れた日からよくこの手の話をしてくる。 
 マリンはその優しい言葉を聞きながらグッと唇の端を噛んだ。
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