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第一章 輪廻の滝で

29:兄の手紙(2)

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 親愛なる妹、アイシャへ

 改めて、結婚おめでとう。
 本当は見送りに行きたかったのだが、どうしてもダニエル殿下の聖地巡礼について行かねばならなくなったんだ。会いに行けなくてごめん。
 その代わり、団長に掛け合って騎士団の中でも一番強くて信頼できる奴らを送った。きっと、何があっても必ず、安全に君をアッシュフォードまで送り届けてくれるはずだ。
 長旅になるだろう。くれぐれも体に気をつけて。
 

 さて、私はひとつだけ、君に言わなければならないことがある。本当は私の口から伝えるべきではないのかもしれないが、君が誤解したまま彼に会うのは本意ではないので、やはりここに記しておこうと思う。
 
 単刀直入に言うならば、君が昔よく話してくれたあの輪廻の滝で出会ったと『お兄さん』というのは、イアン・ダドリーのことだ。

 実は昔、イアンとは戦後処理のために一緒に仕事をしたことがあってね。その時、彼は君と同じように、輪廻の滝で出会ったとある少女の話をしてくれた。
 話を聞いていたら、君が言っていた話と重なる部分が多くてね。すぐにわかったよ。
 
 イアンは耳にタコができるくらいに、何度も何度も君の話をしてくれた。
 彼女はヴィルヘルムを救ってくれた女神様のような人だとか、生きる希望を与えてくれた天使のような人だとか。正直、凄くうんざりするくらいに何度も聞いたよ。
 でも、その時の彼の横顔は見ていて面白かったなぁ。だってあれ以降一度も会えていないのに、その輪廻の滝の少女に恋をしているみたいな顔をするんだ。
 ……いや、恋とは違うな。むしろ崇拝に近いかもしれない。『もう一度会えたら、彼女の前に跪き、忠誠を誓いたい』とまで言っていたからな。
 そんかわけだから、まさかないとは思うが、もしも着いて早々に跪かれて忠誠を誓われてもどうか笑顔で受け流してやってくれ。

 まあとにかく、そのくらいイアンは君がいなければ、ここまで生き残ることも、ここまで強くなることもできなかったと思っているらしい。
 果ては、『俺が戦争の英雄ならば、彼女は間接的に帝国を救ったことになるはずです』とか言って、本気で君を聖女として祀りあげるべきだと思っている。
 馬鹿な男だろう?でもそれくらい、彼にとっては大切な出会いだったんだよ。

 その話を聞いた時の彼はまだ平民だったし、変に希望を持たせたくなくてその少女がアイシャかもしれないことは言い出せなかったんだけど、今はもう彼も立派な貴族だ。


 だから、ベアトリーチェの縁談の話を聞いて、私は父上にアイシャを嫁がせてはどうかと進言した。

 勝手なことをしてごめん。父上はベアトリーチェを送り出したくないようだったし、ちょうど良いと思ったんだ。
 もしあのままブランチェット家にいても、父上が君にまともな縁談を持ってくるとはどうしても思えなかったから。

 でも、もっとこうして丁寧に説明すべきだったな。懸案事項があって、そっちに気を取られすぎていた。
 きちんとした説明を怠って君を傷つけた愚かな兄をどうか許して欲しい。


 ……いや、嘘だ。


 許さなくても良い。責めてくれていい。
 私は所詮、表立って君を守ろうとはしなかったのだから。
 長い間、後継者という立場だから親には逆らえないなどと言い訳をして、片方の妹が寂しい思いをしているのにそれを父上にも母上にも指摘しなかった。
 そのくせ君に嫌われたくなくて、陰で君に優しくした。卑怯な兄だ。本当にごめん。

 こちらのことは何も心配しなくていい。この結婚は必ず私が守るから。
 君はただ、イアンに愛されて幸せに、平穏に暮らしていてくれ。
 彼は誠実で真面目で、そして優しい男だ。戦場の悪魔だの何だと言われているが、そんなのは所詮ただの噂話。多少粗暴なところはあるかもしれないが、彼は確実に君を幸せにしてくれる。
 誰よりも君を愛してくれて、誰よりも求めてくれるはずだ。


 だからどうか、幸せになってくれ。
 私たちの手の届かないところで、どうか幸せに。


 それが何もできなかった愚かな兄のただ一つの願いだ。

               愛を込めて、兄より


 ***


 ずっと開けようともしなかった手紙を読み、居た堪れなくなったアイシャは気がつくと部屋を飛び出していた。そしてなぜか、裏庭の畑へと来ていた。
 畑の隅で、顔を隠すようにして膝を抱える彼女にニックはどうすれば良いのかわからない。

「あのー、奥様?どうなさいました?」
「驚きと嬉しさと切なさと恥ずかしさが複雑に絡み合って私の心を締め付けているのよ。胸が苦しいわ」
「それは大変だ。肺ですか?心臓ですか?薬を煎じて差し上げましょう」

 この裏庭には野菜だけでなく、あらゆる種類の薬草も植えられていると、ニックは心配そうな顔をして教えてくれた。
 だが苦しいのは肺でも心臓でもなく、心なので薬草は効かない。アイシャは大丈夫だと返した。

(お兄様のばか……。懸案事項って何よ)

 始めからちゃんと説明してくれていたら、無駄に悩まなくて済んだのに。イアンに輪廻の滝のことを話さずに済んだのに。

「はぁ……。どうしよう。男爵様に合わせる顔がないわ」
「顔がない?はて?見た限りではちゃんとありますけど、目と鼻と口が」
「そういう意味ではないわ。慣用句よ。貴方、わかってて言っているでしょう」
「励まそうと思っただけです。ふざけ過ぎましたかね?」
「いいえ、少し元気が出たわ。ありがとう」

 アイシャが顔を上げてフッと笑みをこぼすと、ニックは満足げに笑った。

「旦那様と喧嘩でもしましたか?」
「違うわよ。ただ、意図せず色々と知ってしまって混乱しているの」
「ああ!もしや、輪廻の滝の彼女のことですか?」
「……え?貴方も知っているの?」
「旦那様の昔からの知り合いならば、ほぼ全員知っているかと」
 
 ニック曰く、イアンはことある事に輪廻の滝の少女の話をしていたらしい。戦時中、大事な決戦前や大怪我をした時など、普通なら神に祈りを捧げる場面で彼はその少女に祈りを捧げていたのだとニックは呆れたように笑った。
 あの時のお兄さんがイアンであるというだけでも驚きなのに、彼の中で神格化していることを知り、アイシャはもうどうして良いのかわからない。

「どうしよう。私はそんな大層な人間ではないのに……」

 むしろ、背中を押してもらったのに、結局両親から愛情を向けてもらうことができなかった情けない女だ。それなのに愛されているという彼の言葉に縋って、みっともなく、長い間両親からの愛を求め続けた惨めな女。

「何て哀れなのかしら」

 アイシャは自嘲するようにつぶやいた。
 イアンはあの約束を希望にして立派に生きてきたみたいだが、彼女はそうではない。

「もう恥ずかしくて男爵様と顔を合わせられないわ」
「知らぬ間に神格化されているせいですか?」
「……それはある。確かに少し恥ずかしい。いや、嘘。かなり恥ずかしい。でもそれだけじゃないわ」
「はて?では何故でしょう」
「だって、私はあれから何も変わってない。相変わらず、ずっと両親からの愛情を求めて彷徨って、伯爵家を出る前は身代わりにされたと妹に八つ当たりまでした。妹は何も悪くなかったのに。あの時と同じよ。まるで成長していないわ。それなのに男爵様は、戦争の英雄とまで言われるくらいに大活躍して、爵位と領地まで賜ってるのよ?」

 過ぎた時間は同じなのに、過ごした時間の濃さはまるで違う。
 
「がっかりさせてしまうわ」

 アイシャはまた、顔を両膝の間に埋めた。
 きっと先ほどの執務室での会話で、イアンはアイシャがあの時の少女であることに気づいたはずだ。だとするならば、あの涙の意味は何だろうか。自分に対する憐れみだと思っていたが、それが失望から来るものだったならどうしよう。
 アイシャは良くない方へと思考を巡らせた。

「ああ、消えてなくなりたい」

 消え入りそうな声でそんな事を呟く彼女に、ニックはどうしたものかと顔を顰めた。
 だって、彼の主人は少しもがっかりなんてしていない。むしろ舞い上がり過ぎて気持ち悪いくらいだ。ニックは小さくため息をこぼした。

「そんなに思いつめなくても大丈夫ですよ。だって旦那様は……って、あ……」
「……ニック?」
「やばい。奥様、逃げて」
「……え?」

 話を途中で止めたニックは青ざめた顔でアイシャの後ろを見ていた。顔を上げたアイシャは彼が見つめる視線の先に顔を向ける。
 するとそこには、顔を真っ赤にして全速力でこちらに向かってくる熊…….のような大男がいた。

「き、きゃあああ!?」

 あまりに衝撃的な光景に、アイシャはすぐさま立ち上がり、駆け出した。彼女の生存本能が逃げろと告げているのだ。

「え!?待って!?嘘だろ!何で逃げるの!?」

 ニックがいたところまで来たイアンはそう叫んだ。

「顔が怖いからじゃないっすか?」

 ニックは吹き出しそうになるのを必死に堪え、一度息を整えろと助言した。


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