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第1章 異変
衝動と思案
しおりを挟む「………」
階段へ消えていく実を、拓也は廊下に歩く生徒たちの中から見つめていた。
その表情に、先ほどまで浮かべていた笑顔は欠片もない。
拓也は階段から顔を背けると、人の多い場所を避けるように歩みを進める。
その視線は、手の中の花に注がれていた。
「やっぱりか……」
ぽつりと呟く。
花を睨む目を一際険しくした拓也は、そのまま思考の海に沈む。
そのせいで、自分に近付いてくる人の気配に気付かなかった。
「村田!」
「―――っ!?」
ぐいっと肩を引かれて、全神経が逆立った。
本能のまま、無意識に体が動く。
結果的に、肩を掴んできた誰かの手を振り払ってしまった。
「ど、どうしたんだよ…? びっくりしたなぁ。」
「え? あ……三村、か……」
急に身構えた拓也に、手を宙に浮かべたままで晴人が固まる。
相手を確認し、拓也は慌てて体の緊張を解いた。
「驚かせんなよ。掴みかかられるかと思っただろー?」
晴人が、からかうように笑う。
それに合わせて、拓也も表情を和らげることにした。
「悪い悪い。昔の癖で、つい。」
「何? なんか、武道でもやってたの?」
「まあ、色々とな。」
「へえ…。そういえばさ!」
晴人は拓也の顔を覗き込んで、拓也の右手を指差した。
「何持ってんの? 手ぇ見ながら、ものすごく怖い顔してたけど。」
「え? いや、なんでも………?」
なんでもないと言いかけると、露骨に疑いの目を向けられてしまった。
そんな晴人の様子を見て、拓也は苦笑を漏らす。
「そんなにすごい顔してたか?」
「そりゃもちろん!」
晴人は即答する。
「すごいのなんのって! 誰もが引くような顔してたぜ!」
明らかに大げさな表情を作る晴人。
「………」
拓也は少し迷った末、ゆっくりと両手を開いて見せた。
「何か持ってるように見えるか?」
言われて、晴人は拓也の手をまじまじと見つめた。
期待に満ちたその顔が、次の瞬間には不可解そうに歪む。
自分の予想が外れたことに納得できない。
そんな感じの表情だった。
晴人は小首を傾げる。
「……手品?」
「そんな急にできるかよ。」
笑いながら拓也はそう返す。
晴人はもう一度拓也の両手を隈なく観察すると、残念そうに首を横に振った。
「いや、何も。」
「だろ?」
拓也は笑みを深める。
「ちょっと考え事してたんだ。止めてくれてありがとな。先生に呼ばれてて、職員室に行かなきゃいけなくてさ。もう少しで通り過ぎるところだったわ。」
すぐ側に職員室があったのを横目に見て、無難な言い訳を口にする。
すると案の定、晴人は疑う素振りも見せずに納得の表情を浮かべた。
「そっか。じゃ、オレは先に教室に戻ってるわ。」
「ああ。あとでな。」
手を振りながら教室に戻っていく晴人に、同じように手を振り返してその後ろ姿を見送る。
「………」
晴人の姿が完全に見えなくなったのを確認して、拓也は表情を無に染める。
そして、視線をするりと右手へ。
そこには、群青色の花が中三本の指に挟まれていた。
別に、晴人に見せた時だけ隠していたわけではない。
この花は、最初からここにあったのだ。
「……やっぱり、ここの人間には見えないよな。」
拓也は花を睨む。
脳裏に浮かぶのは、実のどこか抜けたような顔。
「くそ! ってことは、やっぱり確定かよ…っ」
苛立ちと共に込み上げた衝動に、思わず花をぐしゃりと握り潰す。
瞬間、手のひら全体を強烈な痛みが貫いた。
「いっ…て…」
反射的に、握った手を開く。
葉ごと花を握り潰してしまったせいで、葉の棘が手に突き刺さってしまったようだ。
傷口から、瞬く間に血があふれていく。
……こんな光景を見られてしまっては、無駄に騒ぎになるか。
拓也は廊下をさらに進み、人気のない階段裏に身をひそめた。
そこで右手を隠していた左手をどけると、手の内で受け止めきれなくなった血がぽたぽたと床に落ちていった。
「………」
拓也は黙して、右手の惨状を見つめる。
鼓動に合わせて、痛みが強弱のリズムを刻んでいる。
肉に葉が刺さる痛みは結構なものだったが、逆にその痛みが意識を冷静にさせた。
「やばいやばい。危うく、見られるとこだったな。」
溜め息混じりにそう零す。
拓也は階段裏から顔を出して、周りに人がいないことを確認した。
次にまた身を隠して一呼吸。
分かっている。
ここで感情的になっても、損しかしない。
分かってはいるけど……
「くそ…っ」
わだかまる感情に、拓也はもう一度花を握り潰した。
そして、どんどんその手に力を込めていく。
手の痛みが火を噴く。
しばらくすると、手がピリピリと痺れてきた。
葉の棘が皮膚に食い込み、新たな傷を増やしていく。
血が雫を作ってどんどん落ちていくが、拓也は気にも留めない。
ただ、感情を殺した無表情で手に込める力を強めていく。
すると―――
―――ボッ
小さな爆発音のような音と共に、拓也の手に火がついた。
青白い火は拓也の手を包んで少しの間燃え続け、やがて徐々に消えていった。
「さて……どうするかね……」
どこか機械的な冷たい声で呟きながら、拓也は手を開いて軽く振る。
すると、その手の内から花の燃えカスらしき黒い炭が落ちていった。
拓也の手には火傷はおろか、あるべきはずの刺し傷や血もなかった。
床に落ちた血痕も、例外なく消えている。
そんな奇跡の出来事など歯牙にもかけず、拓也はじっと思案する。
証拠は出揃った。
もはや、自分の推測を疑う余地はない。
―――いや。
本当は、実と触れ合う中ですでに分かっていたが、その現実をなかなか認めたくない自分がいただけ。
とはいえ、ここまでの証拠が出揃ってから過去を振り返ると、とんでもなく滑稽な現実逃避をしていたと思う。
だって……―――あの香りは、決定的じゃないか。
実にこの花が見えようと見えなかろうと、あんな香りを放っている時点で、他人の空似なんて逃げ道は断たれている。
ちょっとしたリフレッシュだ、と。
そう言う腐れ縁の彼に放り込まれた、学校という世界。
因縁から遠ざけられたこの場所で、その因縁に直結する実と出会ってしまうとは。
なんと皮肉なことだろう。
結局のところ、自分はこの因縁からは目を逸らすことすらできないということか。
「ちょっと想定とは違うけど……ある意味、好都合かもな。」
そうだ。
元々、我慢も限界だったのだ。
最初は面倒なことに巻き込まれたかもしれないと思ったが、よくよく考えれば、この展開は自分にとってのチャンスにならないだろうか。
「―――ふふ……」
拓也は笑う。
暗いその笑みは、鬱々とした感情に彩られていた。
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