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第2章 何が正しいこと?
もう、分からない。
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共用バルコニーのベンチに座り、キリハは深くうつむいていた。
フールの声が、ずっと脳内で木霊している。
分かっている。
分かっているのだ。
彼の言うことは正しい。
反論の余地がないほどに正しい意見だ。
だけど、そうだとしても……
―――本当に、正しかった?
この心の問いには、まだ答えられないまま。
変化を止めることは不可能だと、フールは言った。
それは、自分は以前のような、ただの竜使いには戻れないということだろうか。
生まれてしまった歪みは、もう元には戻らないということだろうか。
《焔乱舞》を掴んだことによって生まれた変化。
それによって開いてしまった心の距離。
どんなにつらくても、それらを受け入れなくてはいけないとでも言うのだろうか。
力を得る代わりに、大事なものが離れていくのを黙って見送るしかないのだろうか。
考えているうちに頭が混乱してきて、キリハは苛立ちも露わにくしゃりと前髪を掻き上げる。
もう、何がなんだか分からない。
何が正しかったのか。
何が間違いだったのか。
自分がなんのためにここにいるのか。
周囲が自分に何を求めているのか。
「………ハ」
分からない。何もかも。
「……リ、ハ?」
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
このままでは、自分はとんでもない過ちを―――
「キリハ!!」
「―――っ!?」
激しく耳朶を打つ声と、肩を揺さぶる手。
それに心底驚いて顔を上げると、相手は慌てて手を引っ込めた。
「サーシャ……」
名を呼ぶと、サーシャは飴色と赤の双眸に明らかな動揺を浮かべた。
「えっと、ごめんなさい。何度も呼んだんだけど、キリハ全然動かないから…。あの、その……ちょっと、心配で捜してたの。キリハ、今日は会議にも朝食にも出てこなかったから……」
「あ、ああ……ごめん。今日はちょっと、食欲がなくて……」
曖昧に微笑み、キリハはそう答える。
半分は本当、半分は嘘だ。
食欲がないのは本当だが、皆の前に姿を見せなかったのはフールに会いたくなかったから。
フールもそれを察しているのか、今日はいつものようにつきまとってこない。
「食欲がないって……体調が悪いの? それとも、昨日の戦いで疲れちゃった? キリハ、いつも私たちをかばってくれるから……」
「いやいや、そんなんじゃないよ。あれくらいじゃへばらないって。」
気遣わしげなサーシャに、キリハは苦笑してそう返す。
体は重く感じるが、体力的に支障がないのは本当だ。
背後にかばうことがあるサーシャたちのことも、別に重荷だと感じたことはない。
キリハの言葉を聞いたサーシャはほっとしてわずかに頬を緩め、しかしすぐに表情を曇らせた。
「そうなんだ。……じゃあやっぱり、テレビとかのせい?」
瞬間、口元が引きつるのを感じた。
「えっと……その……」
言い訳を繕おうとするが、当然そんなものが簡単に出てくるはずもない。
何度も口ごもった結果、キリハは諦めてつめていた息を吐いた。
「情けないことに……結構、参ってるかも。」
力なく、キリハは笑う。
「やっぱ、慣れない環境だからかな。……はは、都会ってめんどくさいね。」
冗談めかした口調で言い、さっさとこの話題は切り上げるつもりだった。
だがサーシャの顔を見た途端、その魂胆はあっけなく崩れてしまう。
サーシャは眉を下げ、目元を潤ませていたのだ。
明らかに泣き出す一歩手前である。
「へ? ちょっ……」
全く想像していなかったサーシャの反応に、キリハは狼狽して腰を浮かす。
「ごめんね。」
そっと細い両肩に手を置くと、サーシャは下を向いて小さく言った。
「私、キリハがつらそうにしてるのに、何もしてあげられない。慰めることもできないの。元気出してって言っても……今のキリハには、余計につらいだけだもんね。」
サーシャの声は、申し訳なさからか少し震えている。
そんなサーシャにキリハは微かに目を見開き、次に穏やかな表情を浮かべた。
「サーシャ、ありがとう。」
そう言うと、サーシャは意外そうな顔でこちらを見上げてきた。
きょとんとする彼女の髪を、つい昔の癖でなでてしまう。
サーシャの方が年上だとは分かっているのだが、彼女を見ていると孤児院にいた時の癖がつい出てしまうのだ。
孤児院の子供たちと同じく、サーシャのことを守るべき存在として認識しているからかもしれない。
「気持ちだけでも嬉しいよ。むしろごめんね、心配かけちゃって。でも、サーシャが謝ることはないんだよ? 俺が勝手に落ち込んでるだけで、俺が考え方を変えればいいだけの話なんだから。」
サーシャに言って聞かせると同時に、他でもない自分自身にも言い聞かせる。
「そんなこと……」
何か言いたげなサーシャを、キリハはただ微笑むだけで制す。
優しい彼女の気持ち。
それだけで十分だ。
「ありがとう。俺は大丈夫。」
こんな嘘、きっとばれている。
そうだとしても、自分にはこれ以外に言える言葉がない。
予想どおり、サーシャは納得できていない雰囲気だ。
そんな彼女をどうしたものかと考えていると、ちょうどそのタイミングでポケットに入れていた携帯電話がメロディーを奏でた。
「あ、ごめん。」
一言断りを入れ、キリハは携帯電話の画面を確認する。
新着メールが一件。
その中身を見て、キリハはふと表情を和らげた。
「どうしたの?」
訊ねてくるサーシャに、キリハはメール画面を見せた。
「いつもの呼び出し。」
「あ、ほんとだ……」
画面を覗き込んだサーシャは、差出人とメールの内容に少しだけ笑う。
「あんまり時間がないから、さくっと行ってくるね。」
このタイミングでこのメールは、願っても救いないだった。
キリハは努めて明るく笑い、サーシャから離れて自室に向かう。
この自分の行動が、サーシャから逃げているように感じたのは、言うまでもない。
フールの声が、ずっと脳内で木霊している。
分かっている。
分かっているのだ。
彼の言うことは正しい。
反論の余地がないほどに正しい意見だ。
だけど、そうだとしても……
―――本当に、正しかった?
この心の問いには、まだ答えられないまま。
変化を止めることは不可能だと、フールは言った。
それは、自分は以前のような、ただの竜使いには戻れないということだろうか。
生まれてしまった歪みは、もう元には戻らないということだろうか。
《焔乱舞》を掴んだことによって生まれた変化。
それによって開いてしまった心の距離。
どんなにつらくても、それらを受け入れなくてはいけないとでも言うのだろうか。
力を得る代わりに、大事なものが離れていくのを黙って見送るしかないのだろうか。
考えているうちに頭が混乱してきて、キリハは苛立ちも露わにくしゃりと前髪を掻き上げる。
もう、何がなんだか分からない。
何が正しかったのか。
何が間違いだったのか。
自分がなんのためにここにいるのか。
周囲が自分に何を求めているのか。
「………ハ」
分からない。何もかも。
「……リ、ハ?」
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
このままでは、自分はとんでもない過ちを―――
「キリハ!!」
「―――っ!?」
激しく耳朶を打つ声と、肩を揺さぶる手。
それに心底驚いて顔を上げると、相手は慌てて手を引っ込めた。
「サーシャ……」
名を呼ぶと、サーシャは飴色と赤の双眸に明らかな動揺を浮かべた。
「えっと、ごめんなさい。何度も呼んだんだけど、キリハ全然動かないから…。あの、その……ちょっと、心配で捜してたの。キリハ、今日は会議にも朝食にも出てこなかったから……」
「あ、ああ……ごめん。今日はちょっと、食欲がなくて……」
曖昧に微笑み、キリハはそう答える。
半分は本当、半分は嘘だ。
食欲がないのは本当だが、皆の前に姿を見せなかったのはフールに会いたくなかったから。
フールもそれを察しているのか、今日はいつものようにつきまとってこない。
「食欲がないって……体調が悪いの? それとも、昨日の戦いで疲れちゃった? キリハ、いつも私たちをかばってくれるから……」
「いやいや、そんなんじゃないよ。あれくらいじゃへばらないって。」
気遣わしげなサーシャに、キリハは苦笑してそう返す。
体は重く感じるが、体力的に支障がないのは本当だ。
背後にかばうことがあるサーシャたちのことも、別に重荷だと感じたことはない。
キリハの言葉を聞いたサーシャはほっとしてわずかに頬を緩め、しかしすぐに表情を曇らせた。
「そうなんだ。……じゃあやっぱり、テレビとかのせい?」
瞬間、口元が引きつるのを感じた。
「えっと……その……」
言い訳を繕おうとするが、当然そんなものが簡単に出てくるはずもない。
何度も口ごもった結果、キリハは諦めてつめていた息を吐いた。
「情けないことに……結構、参ってるかも。」
力なく、キリハは笑う。
「やっぱ、慣れない環境だからかな。……はは、都会ってめんどくさいね。」
冗談めかした口調で言い、さっさとこの話題は切り上げるつもりだった。
だがサーシャの顔を見た途端、その魂胆はあっけなく崩れてしまう。
サーシャは眉を下げ、目元を潤ませていたのだ。
明らかに泣き出す一歩手前である。
「へ? ちょっ……」
全く想像していなかったサーシャの反応に、キリハは狼狽して腰を浮かす。
「ごめんね。」
そっと細い両肩に手を置くと、サーシャは下を向いて小さく言った。
「私、キリハがつらそうにしてるのに、何もしてあげられない。慰めることもできないの。元気出してって言っても……今のキリハには、余計につらいだけだもんね。」
サーシャの声は、申し訳なさからか少し震えている。
そんなサーシャにキリハは微かに目を見開き、次に穏やかな表情を浮かべた。
「サーシャ、ありがとう。」
そう言うと、サーシャは意外そうな顔でこちらを見上げてきた。
きょとんとする彼女の髪を、つい昔の癖でなでてしまう。
サーシャの方が年上だとは分かっているのだが、彼女を見ていると孤児院にいた時の癖がつい出てしまうのだ。
孤児院の子供たちと同じく、サーシャのことを守るべき存在として認識しているからかもしれない。
「気持ちだけでも嬉しいよ。むしろごめんね、心配かけちゃって。でも、サーシャが謝ることはないんだよ? 俺が勝手に落ち込んでるだけで、俺が考え方を変えればいいだけの話なんだから。」
サーシャに言って聞かせると同時に、他でもない自分自身にも言い聞かせる。
「そんなこと……」
何か言いたげなサーシャを、キリハはただ微笑むだけで制す。
優しい彼女の気持ち。
それだけで十分だ。
「ありがとう。俺は大丈夫。」
こんな嘘、きっとばれている。
そうだとしても、自分にはこれ以外に言える言葉がない。
予想どおり、サーシャは納得できていない雰囲気だ。
そんな彼女をどうしたものかと考えていると、ちょうどそのタイミングでポケットに入れていた携帯電話がメロディーを奏でた。
「あ、ごめん。」
一言断りを入れ、キリハは携帯電話の画面を確認する。
新着メールが一件。
その中身を見て、キリハはふと表情を和らげた。
「どうしたの?」
訊ねてくるサーシャに、キリハはメール画面を見せた。
「いつもの呼び出し。」
「あ、ほんとだ……」
画面を覗き込んだサーシャは、差出人とメールの内容に少しだけ笑う。
「あんまり時間がないから、さくっと行ってくるね。」
このタイミングでこのメールは、願っても救いないだった。
キリハは努めて明るく笑い、サーシャから離れて自室に向かう。
この自分の行動が、サーシャから逃げているように感じたのは、言うまでもない。
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