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three.
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湯上がりの火照った肌に、窓から入る風が涼しく感じる。熱帯夜続きだったが、今日は比較的気温が低いようだった。
もう遅い時間だ。昼間は人の気配と活気に満ちている旅館も、今は寝静まっている。
窓の外の静けさが心地いい。窓枠に置いた腕に顎を乗せて少しだけうとうとしていたところに、襖越しに声をかけられた。
慌てて返事をすると襖が開く。顔を出した先輩が俺を見て、もう眠い? と問いかけた。
「あ、いえ。大丈夫です」
「そうか。じゃあさ、ちょっと行きたいところがあるんだけど、いいか? ハルを連れていきたい」
俺は戸惑ってキヨ先輩を見つめた。部屋の中はほの暗い。間接照明の、和紙を透かした橙色の明かりが彼の頬を濡らしている。
表情から読めることはあまりなかった。
「今から、ですか?」
「そう」
「え、っと―それはもちろんいいですけど……どこに行くんですか?」
こんな時間に出向くような場所に心当たりがなくて、首を捻る。
「それは着いてからのお楽しみってことで」
悪戯っぽい笑顔を浮かべた先輩は、畳を踏んでこちらまで来ると、行こう、と手を差し出した。
その顔を見たら、何であってもいいという気持ちになる。だから俺は素直にその手を取って立ち上がった。
▽▽▽
麓から山頂、そして反対の麓まで続く車も通れるような舗装道路を外れたのは、感覚的に十分ほど前だった。
足元、危ないから。
獣道と呼ぶに相応しい脇道に踏み入ると、先輩は囁きに近い声でそう言って、俺の手を取った。そして、もう片方の手に握った懐中電灯で前を照らしながら、今も迷うそぶりもなく歩いていっている。
木々の隙間を縫って、繰り返し踏まれて倒れた草の上をさらに踏みしめる。僅かに傾斜を上っていっていることは分かるが、どこを目指しているのかは見当もつかない。
ただただ誘導してくれるキヨ先輩の手と、広範囲には及ばない懐中電灯の光を頼りに着いていっているだけだ。
低い位置にある枝を避けたところで木の根か何かを踏んだ。傾ぎかけた体を、繋いだ手に力強く支えられる。
「―大丈夫か、ハル」
「、すみません、大丈夫です」
礼を言って、先輩の顔を見る。こんなに近いのに、懐中電灯が前方を照らしたままだと表情が見えない。頭上が大きく張った木々の枝葉に遮られているから、余計に暗いのだ。
すぐそこにいて手まで繋いでいるのにキヨ先輩が遠いような、奇妙な感覚を抱く。思わず握る手にぎゅっと力を込めると、応えるように握り返されて、それでなんだか安心した。
「もう少しだから」
柔らかな声に答えて、注意深く足元に意識を向け直した。
またしばらく黙々と歩く。そうして、並ぶ木々が途切れたと思ったところで、唐突に視界が明るくなったように思った。
驚いて頭上に向けた目に、幾多もの光が映る。
そこには降り注ぐような、とか満天の、とか。そういう言葉を文字通りに表したような星空が広がっていた。深い濃藍に瞬く光に圧倒されて息を呑む。
振り仰いだまま、思わず一歩後ろに後退った背中に手が添えられた。
隣を見る。星の明かりは、さっきとは違って彼の表情をはっきり見せてくれた。
「どう?」
悪戯が成功した子供みたいな無邪気で嬉しそうな顔で、先輩が笑っている。
何一つ言葉が浮かばなかった。ただそんな彼を見つめて、それから周囲を見渡す。
背後には鬱蒼と木々が生い茂っていて、五メートルほど前に進めば斜面だ。ロープを張り巡らせただけの簡易な境界線の向こうには、星明りでは照らせない真っ暗闇が下向きに広がっている。山頂に程近い中腹の、脇道に逸れた奥まった場所。人工の光がほとんど届かないから、ここではこれほどまで星がはっきりと見えるのだろう。
もう遅い時間だ。昼間は人の気配と活気に満ちている旅館も、今は寝静まっている。
窓の外の静けさが心地いい。窓枠に置いた腕に顎を乗せて少しだけうとうとしていたところに、襖越しに声をかけられた。
慌てて返事をすると襖が開く。顔を出した先輩が俺を見て、もう眠い? と問いかけた。
「あ、いえ。大丈夫です」
「そうか。じゃあさ、ちょっと行きたいところがあるんだけど、いいか? ハルを連れていきたい」
俺は戸惑ってキヨ先輩を見つめた。部屋の中はほの暗い。間接照明の、和紙を透かした橙色の明かりが彼の頬を濡らしている。
表情から読めることはあまりなかった。
「今から、ですか?」
「そう」
「え、っと―それはもちろんいいですけど……どこに行くんですか?」
こんな時間に出向くような場所に心当たりがなくて、首を捻る。
「それは着いてからのお楽しみってことで」
悪戯っぽい笑顔を浮かべた先輩は、畳を踏んでこちらまで来ると、行こう、と手を差し出した。
その顔を見たら、何であってもいいという気持ちになる。だから俺は素直にその手を取って立ち上がった。
▽▽▽
麓から山頂、そして反対の麓まで続く車も通れるような舗装道路を外れたのは、感覚的に十分ほど前だった。
足元、危ないから。
獣道と呼ぶに相応しい脇道に踏み入ると、先輩は囁きに近い声でそう言って、俺の手を取った。そして、もう片方の手に握った懐中電灯で前を照らしながら、今も迷うそぶりもなく歩いていっている。
木々の隙間を縫って、繰り返し踏まれて倒れた草の上をさらに踏みしめる。僅かに傾斜を上っていっていることは分かるが、どこを目指しているのかは見当もつかない。
ただただ誘導してくれるキヨ先輩の手と、広範囲には及ばない懐中電灯の光を頼りに着いていっているだけだ。
低い位置にある枝を避けたところで木の根か何かを踏んだ。傾ぎかけた体を、繋いだ手に力強く支えられる。
「―大丈夫か、ハル」
「、すみません、大丈夫です」
礼を言って、先輩の顔を見る。こんなに近いのに、懐中電灯が前方を照らしたままだと表情が見えない。頭上が大きく張った木々の枝葉に遮られているから、余計に暗いのだ。
すぐそこにいて手まで繋いでいるのにキヨ先輩が遠いような、奇妙な感覚を抱く。思わず握る手にぎゅっと力を込めると、応えるように握り返されて、それでなんだか安心した。
「もう少しだから」
柔らかな声に答えて、注意深く足元に意識を向け直した。
またしばらく黙々と歩く。そうして、並ぶ木々が途切れたと思ったところで、唐突に視界が明るくなったように思った。
驚いて頭上に向けた目に、幾多もの光が映る。
そこには降り注ぐような、とか満天の、とか。そういう言葉を文字通りに表したような星空が広がっていた。深い濃藍に瞬く光に圧倒されて息を呑む。
振り仰いだまま、思わず一歩後ろに後退った背中に手が添えられた。
隣を見る。星の明かりは、さっきとは違って彼の表情をはっきり見せてくれた。
「どう?」
悪戯が成功した子供みたいな無邪気で嬉しそうな顔で、先輩が笑っている。
何一つ言葉が浮かばなかった。ただそんな彼を見つめて、それから周囲を見渡す。
背後には鬱蒼と木々が生い茂っていて、五メートルほど前に進めば斜面だ。ロープを張り巡らせただけの簡易な境界線の向こうには、星明りでは照らせない真っ暗闇が下向きに広がっている。山頂に程近い中腹の、脇道に逸れた奥まった場所。人工の光がほとんど届かないから、ここではこれほどまで星がはっきりと見えるのだろう。
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