やさしい月

残月

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 水曜日は彼との約束どおり、澪さんと一緒に自宅へ向かうことになった。すっかり電車で移動するものと思っていた洸太の前に、澪さんは車に乗って『正』の前に現れた。
「ちょっとドライブ気分でいいでしょ。道案内はお願いするね」
 朝から爽やかな笑顔で笑う澪さんは、休みだというのにネクタイを締めてスーツを着ていた。シワになるからと言って、上着は後部座席に置いてあったけれど。
「先におうちへ荷物取りに行くでしょ」
「先にって、今日はそれだけじゃないの?」
 助手席に乗ってきちんとシートベルトを締める。
「洸太くんさえよければ買い物に付き合ってくれる? 最近世間を見てなくて」
「そうなんだ。おれもいろいろ見たいから連れてってくれるとうれしい」
「よかった。ごめんね」
「ううん」
 澪さんは本当にやさしい人だ。美人で穏やかで、気品と知性に満ちあふれている王子様みたいに。
 静かにエンジンがかかって、滑るように車が走り出す。
「あ、マサさんに行ってきますって言うの忘れた」
「しょうさんこの時間は忙しいんだよねー。邪魔しても悪いから、代わりに帰ったらただいまをいっぱい言ってみたら?」
「それでいいの?」
「さあ、どうでしょう」
 クスクスと笑う澪さんに、からかわれているのだと気づいた。
「むぅっ、澪さんの意地悪っ」
「あはは、ゴメン」
 本当に怒っているわけじゃない。ただ、こうしてじゃれていることが楽しかった。
「そうそう、今日は洸太くんのお母さんはおうちにいるの?」
 あまり答えたくはない質問だけれど、一緒に自宅へ向かっているのだから少しは話したほうがいいのだろう。
「わかんない」
「わからない?」
「おれが家を出てきたときはいたけど」
「……それっていつのこと言ってる?」
「マサさんちでお世話になるって決めたとき。おれ、大学の近くで友だちと一緒に住むって……そう母には言ってあるから」
 赤信号が見えたのでゆっくりと減速し、振動もなく車が止まった。澪さんは運転も上手だ。
「じゃあもし親御さんがいたら、僕は大学の関係者ってことにしようか」
「うん、ありがと」
「お父さんは? お母さんもだけど、洸太くんみたいなかわいい子をよく家から出す気になったね。僕なら毎日構い倒しちゃいそうだけど」
 澪さんはうふふと笑って青信号を確認し、アクセルを踏み込んだ。
「義父だから。それに今は母と別居中だし」
「……そっか」
「だいじょうぶだよ。おれ、慣れてるし。澪さんにはお世話になってるから話したいと思う。……マサさんにはなんとなく話せないけど」
「僕でいいの?」
「うん」
 自宅までの道のりで、洸太は大まかな事情を澪さんに話した。
 本当のお父さんは洸太が小学校に上がって少ししてから、病気で死んでしまったこと。それ以来母親は洸太には関心がなくなってしまって、眼中にあるのはいつもよその男の人だったこと。
 今の別居中の父は、洸太が小学五年生のときの塾の先生だった。洸太が中学へ入ったときに母と結婚して、卒業する頃には家を出ていってしまったけれど。
「じゃあその……義理のお父さんには、それからは逢ってないの」
「ううん……それぞれにペースがあるんだ。母には母の、裕二さんには裕二さんの」
「それ、お義父さんの名前?」
「うん。おれ、裕二さんの戸籍には入ってないから。寿っていうのは、本当のお父さんの名字。裕二さんは高瀬って言うんだ」
「……さっき言ったご両親のペースって、なに」
「んーと、家に戻ってくるペース……かな。母は恋人ができると家を出て、ダメになったら帰ってくるんだ。裕二さんは……」
 一瞬どうしようか迷ったけれど、それだけでバレてしまうことはないだろうと言葉にしてしまった。
「母がいなくなると戻ってくる」
 澪さんは一瞬曇った顔をしたけれど、すぐにいつものやさしい表情に戻った。
「……洸太くんがいくつの時からそんな生活なの」
「母はお父さんが死んでからはずっとそんな感じ。好きな人ができるとお金だけ置いて出ていくんだ。裕二さんと結婚したときはようやく落ち着いたと思ったけど、うまくいかなかった」
「ふうん……。その裕二さんって人は、本当にお母さんのことが好きだったのかな」
「えっ!」
 澪さんの言葉にドキリとして、大きな声が出てしまった。
「ごめん、なんとなくね。思春期真っ只中の息子がいる女性と結婚して、大した責任も果たさずに三年後には別居だなんて……覚悟がなってない」
 そんなヤツがよく浮気とかするんだよと言いながら、澪さんは洸太のために怒ってくれている。
 そんな澪さんを見たらなんだか彼と共通する温かさがあって、思わず口元が緩んだ。
「もう洸太くん、ここは笑うとこじゃないよ。君もちゃんと怒らなきゃ」
 そう言った澪さんも洸太につられたように笑い出して、それからなにがおかしいのか二人で涙が出るくらい笑い続けた。


「うわぁ、大きなおうちだねー。三世帯くらい住めそう」
 洸太の自宅は新興住宅地としてにぎわうこの地でも、豪邸と呼ぶに相応しい立派な一戸建てだった。
 車を使えば三十分ほどで戻ってこられた自宅の駐車スペースには、鮮やかな青色を帯びた外国産の高級車がとまっていた。
 澪さんはその高級車の横に自分の車をとめ、ドアを開けて洸太と一緒に外へと出ると、後部座席を開けてジャケットを取り手早く着込んでネクタイを整えた。
「これ、お義父さんの?」
 隣の車を指さし、洸太にたずねる。
「うん……帰ってるみたい」
「僕も一緒に行ってもいい?」
「……お願いします」
 急に暗い顔つきになった洸太を心配して、澪さんはそっと手をつないでくれた。
 それをぎゅっと握り返し、深呼吸をひとつしてから玄関のドアを開ける。
「ただいま」
 靴を脱いで吹き抜けの玄関ホールの脇にある、手すりのついたちいさな階段を上がり移動する。
「こっち」
 洸太は澪さんの手をひっぱって床以外全面がガラス張りの、まるで細いトンネルのような渡り廊下を歩いていく。この短い廊下を渡りきったその先が洸太の部屋だった。
「すごい……廊下なのに庭や空が見渡せる……」
「中庭だって手入れさえすればもっと綺麗なんだよ。今はする人がいないけど」
 どうぞと言って澪さんを部屋へ入れると、また驚いて今度はしばらく息を飲んでいた。
「普通の部屋じゃなくてごめん」
「いや、何というか……ホントにスゴい……」
 洸太の部屋の壁は、銀河や惑星といった数々の天体の写真で埋め尽くされていた。その写真には撮影された日付と場所が入っていて、所々に数式のようなものを書き込んだメモが貼りつけてある。
「洸太くん、君……確かT大生だったよね。学部は?」
「理学部物理学科。今は宇宙物理学専攻のための天文学概論や観測天文学、基礎数学と基礎物理学を勉強中」
「宇宙……」
「うん。おれ、院の宇宙物理学教室に入って銀河物理学の研究がしたいんだ。えっと……くだけて言うと、銀河系および銀河での星間ガスの存在状態と星形成過程とか、活動銀河中心部の構造についての……」
「や、結構です。僕にはさっぱりだし」
 苦笑いをした澪さんを見るのは初めてだ。
「うん、みんなに言われるからいつもは話さない」
 そう言ってにっこり微笑むと、そこでようやくつないでいた手をはなした。
「でも洸太くんが宇宙少年だったなんて……これは驚いたよ、うん」
「おれが宇宙から来たみたいに言わないでよ」
 ごめんと笑いながらも、澪さんは感心したようにしばらく部屋を見回していた。
「もしかしてさっきの廊下も星を観るためのものなの?」
「お父さんがね、洸太は星が大好きだからって……あの廊下とこの離れの部屋を作ってくれたんだ」
「作ってくれた?」
「うん。お父さん、ちょっとした建築家だったんだよ。おれが幼稚園のときにここを建ててくれたの」
 天体の写真で埋め尽くされた壁とは反対側にある、ボウウインドウと呼ばれる大きな出窓に置いてあるちいさな天体望遠鏡。はじめてそれで夜空を見上げたときの感動は、今でも忘れられないものだった。
「嫌なことがあったときも、夜空を見上げれば星があったから……だから頑張れたのかも」
「洸太くんはどの星がいちばん好きなの」
「……月」
「お月様?」
「うん」
「へえ……。木星とか土星とか、もっと大きいのが好きなのかと思ったよ」
 月かぁ、と言いながら澪さんはしきりに頷いていた。
「よし、じゃあ始めようか。紙袋とかある? 持ってくればよかったね」
「だいじょうぶ。クローゼットの中に大きいのがいくつかあるはずだから」
「オッケー。僕が詰めていくから、洸太くんはいるもの出して」
「うん」
 クローゼットや衣装ケースを開け、たいして吟味もせずに手早くベッドの上へ放り出す。大きな紙袋三つ分ほどになったところで作業を終え、部屋を出ようとしたときだった。
「洸太、帰ってるんだろう。随分と久しぶりじゃないか。ここを開けなさい」
 ドアの向こうから突然聞こえてきたのは、義理の父親の声だった。
「い、今ちょっと散らかってるから……」
「お客さんなんだろう? 少しだけでいい、挨拶するだけだから」
 洸太が澪さんに目をやると、力強く頷いてくれた。
「じゃあ……少しだけ」
 部屋のドアノブに手をかける洸太の表情は、やはり青ざめている。きっと予想通りの展開なんだろうと、そう澪さんが思っていることにも気づけないでいた。
 洸太の手で開かれたドアの前には、ひどい具合にスーツを着崩した三十代後半と思しき男が立っていた。
「やあ、これは洸太の友人かと思いきや……どちら様です?」
 洸太の義理の父親、高瀬裕二はしたたかに酔っていた。塾の講師といえば大抵は午後からの出勤だろうが、それにしても目に余るものがある。
 どちらにせよ、これが客に挨拶する態度であるはずがなかった。
「はじめまして。洸太くんの大学に出入りしている者です」
「ほう……T大に、ですか」
「ええ」
「大学なんて、出入りだけだったら誰でも出来るじゃあないですか。事務とか食堂とか生協とか、もしかしてその辺りの関係者かな」
「医学部です」
「ふ……ん、口だけでは信用できないね。洸太に近づくための嘘かもしれない」
 こちらを訝しむ高瀬の言葉に澪さんはため息をひとつつくと、ジャケットの胸ポケットから名刺入れを取り出し、その中から名刺を一枚洸太に手渡してくれた。
『T大 医学博士 澪川 玲』
 名刺にはそう書いてあった。
「澪川……」
 こんなところで初めて澪さんのフルネームを知った。澪はずっと名前のほうだと思っていたのに。そういえば彼なんて名前どころか『マサさん』という呼び名しか知らない。
 でも今は澪さんが洸太と同じ大学の出身だったということがうれしくて、つい名刺を抱きしめて微笑んでしまった。
「早くよこせ!」
 そんな洸太の様子を見て高瀬が苛立つ。
「もう一種類あるから、帰ったら洸太くんにも一枚あげるよ」
 悪戯気に微笑む澪さんに後を押されて、高瀬の元まで歩み寄り名刺を渡す。
 それを見るなり高瀬はいきなり洸太の腕をわし掴むと、澪さんに向かって洸太が着ている服を捲り上げ、傷痕だらけの背中を晒した。
「なあ先生。コイツ、可愛いだろう」
「な……っ、やめて裕二さ……」
「可愛いからさ、こうでもしないと他の男に持っていかれるんだよ。こんな風に見えて淫乱だからな、洸太は」
「いや……っ」
「誰にでも尻を振らないように、調教が必要なんだよ。でも途中でいつもそれが快感になるんで、仕置きにもならない。……先生はもうコイツを抱いたのか?」
 おそらくこの男は洸太に対して、自分が『親』だという感情は持っていないだろう。現に高瀬は下卑た笑いの中に狂気を宿していた。
「裕二さんやめて……っ!」
「うるさいぞ洸太! おい、お前……医者なんだろ。洸太のことが好きなんだったら、俺がつけたこの傷、完全に治してみろよ。まぁ治るわけがないがな。この背中のこの傷は、洸太が俺のもんだって証なんだよ! そしてこれからもずっと増え続けるんだからなッ! アーッハッハッハッ!」
「あっ……!」
 急に床に突き飛ばされ、狂ったように笑う高瀬が恐ろしくて、洸太は真っ青になって横たわったまま身体をふるわせる。
「洸太くん!」
 澪さんはそんな洸太にかけ寄ってやさしい腕で抱き起こすと、下から高瀬を睨みつけた。
「あいにく臨床医じゃないから洸太くんに処方箋は出せないけど……」
「なんだ、テレビにもわんさかいる名前だけの医学博士か。中には医師免許すら持ってないやからもいるそうじゃないか」
「黙れッ! こちとら法医学が専門の監察医でね。監察医ってわかる? 監察医務院で毎日死体相手に格闘してるほうの医者だよ。僕にはこの傷ひとつ見るだけで、アンタがこの子に何をしてきたのか全部わかるんだからな!」
 今の澪さんの言葉で、ひゅっ……と洸太の喉の奥が鳴った。
「これは立派な虐待、いや……犯罪だ! この傷だけじゃない。性的虐待……何年もかけて精神的に追い詰めて、摂食障害にも陥らせて……っ」
「澪、さん……」
「子供を力で押さえつけて……こんなことっ、絶対に許さないからッ!」
 力強い澪さんの言葉に、高瀬の浮かべていた下卑た笑いが引いていく。
「洸太くんを……もう二度とここへは帰さない」
「お……お前だな! 洸太が家を出たってアイツに聞いて、もしかして男ができたんじゃないかと思ってたが、お前が……っ!」
「……もうやめて、裕二さん」
「こ、洸太……」
「母さんも裕二さんも、もう好きにすればいいから。おれのお父さんが造ったこの家は大好きだけど……おれもここから自由になる」
 洸太は澪さんの手を借りてまだふるえる足で立ち上がり、高瀬にそう宣言をした。
「もし母さんに会うことがあったら伝えていおいて。ごめんなさいと……それからさよならを」
 二人が荷物を持って部屋から出て行っても、高瀬はまだその場に呆然と立ち尽くしていた。
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