発情の条件 ~夜と初恋2~

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夜と初恋・番外編

甘い日々 3

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 八人掛けのダイニングテーブルの上には、雪国で育ったしゃぶしゃぶ用の鴨肉がきれいに盛りつけられた皿、ガスコンロに置かれたいい匂いのする出汁がたっぷりと入った大きな土鍋、白菜やネギ、豆腐といった食材の詰まった盛りかごが置かれている。
「律、食器棚から呑水とんすい出しといてくれ。耳の付いた小鉢だ。お前ら、蕎麦は締めでいいのか」
「いいよー。シュウちゃん、先に野菜入れてもいい?」
「うん、豆腐も入れておいて。一彬、ブリは刺し身の分どれくらい取っておこうか」
「背中側を多めに取っとけ。腹側は飽きたら鍋でくぐらせればいいだろ」
 いつもは沖と二人の広すぎるダイニングだが、いまは賑やかな声が飛び交っている。
 香原と新年会の約束をした二週間後。一月末の土曜の夕方に、こうして一緒に鍋を囲むことが実現した。
 鍋の真正面には香原が陣取り、豆腐や野菜を出汁の中へ放り込んでいる。その横に座った片桐が少々心配そうにその様子を見ていた。
 鍋の下準備は沖と雪下しゅうがテキパキとこなしてくれている。鴨肉を用意したのが雪下とその恋人の松川惟久馬いくまで、松川は少し遅れてくるそうだ。
「香原、お前ブリ買うなら刺し身にしたやつか、せめて柵で買ってこいよ。それでなくても今日は鍋がメインなんだから余るだろう。丸々一本買うな」
「え~、そんなこと言いつつ買ってきたらさばいてくれるのが沖でしょう。あ、切り身持って帰るから少しちょうだいね」
「そうじゃなくてだな……」
「ねえ一彬、あとでカマは塩焼きにして、アラはブリ大根にしようよ。惟久馬に大根買ってきてもらうように連絡しとくから、ね? 切り身はオレも欲しいし、冷凍しておけば普段のストックになるよ?」
 脱力する沖を、気を使った雪下が宥める。
「ちなみに四キロサイズのそれで刺身が約十八人前。切り身だと三十切れ程度が取れるらしいね」
「らしいね、じゃねえよ片桐。なんでいっつも法廷以外は傍観者なんだよ。止めろ、恋人の行動を」
 メガネのブリッジを指で押し上げ得意そうに語る片桐へ沖が抗議する。
「これでも妥協したんだよ。唯は最初、その倍のサイズのブリを買おうとしていたからね。それだと刺身だけなら四、五十人前は取れるとか言ってたよ、魚市の親父さん」
 スマイル全開の片桐にとどめを刺され、沖は手で顔を覆って香原の向かいの椅子に倒れ込む。そして片桐の前に座っていた律に体重を預けてきた。
「律……お前、こんな大人になるなよ……」
「え……?」
 それになんと答えればいいのかわからず、とりあえず沖の背中を手でさすってみる。
「ほ、ほら……もう野菜が煮えてきたから鴨しゃぶ始めよう? お腹空いたでしょ、律くん」
「そーだよ、沖は放っとけばいいよ律くん。シュウちゃんはココ、僕の横に座って。食べよう食べよう、いっただきまーす」
 うきうきとお箸を持って鴨肉を出汁の中にくぐらせる香原の表情はご満悦だ。
「沖さん……大丈夫ですか」
 耳元で小さく尋ねると、沖が律の腰に手を回して胸元に顔を埋めてきた。いつものように沖の頭を抱き返してしまってから、他の三人に注目されていることに気がついた。
「いいなぁ、初々しくて。うちもシュウちゃんとこも同い年だから、年下の恋人ってさぞ可愛いんだろうなぁ、沖ぃ~」
「年下じゃなくても唯は可愛いぞ」
 片桐は香原の顔を見つめながら冷酒を口にする。
「もぉ享二は黙ってて。今日は律くんを愛でにきたんだから。あと、沖に律くんとのジェネレーションギャップを聞きたい」
 鴨肉をパクパクと口にする香原は、二週間前に逢ったときとは違って視線がやわらかだ。鍋を前にしているからなのか、アンバーの瞳がきらきらと輝いていた。
「そんなの聞いてどうするんだよ」
 ようやく姿勢を正して座り直した沖が、鴨肉を数枚取って鍋に放り込んだ。
がさぁ……あ、ちーっていうのは保育士やってる三つ下の僕の従弟なんだけどね、最近園児のお母さんとのジェネレーションギャップにショック受けててさ。沖もそんな感じなのかなーと思って」
 香原は律に視線をあわせながら沖が放り込んだ肉を取り出し、それを片桐の小鉢に入れてやっている。それを見て沖と雪下がそれぞれ鍋に肉を追加した。
「千尋くん、まだ三十二だろ。母親って言ったって、そう歳は変わらないんじゃないのか」
 沖がそう言いながらさっと色の変わった鴨肉を律の小鉢に入れてくれる。
「それが乳児クラスのお母さんでさ、まだ十代なんだって。各年齢合同でやる絵本の読み聞かせが耳なし芳一だったらしくて、お迎えのときそのお母さんに伝えたら『耳なし芳一ってなんですか』って言われたらしいよ」
 香原の言葉に、ざっと四人の視線が律に向けられる。
「え……っと、平家物語の弾き語りをする……」
「そうそう、実は外国人な小泉八雲の作品だよね」
 律に相槌を打った雪下は苦笑いをしている。
「本好きの人だったらわかったのかなぁ。ちーがそのお母さんに『これです』って絵本を見せたら、『なんで身体に字が書いてあるんですか。気持ち悪い』って言われたらしくて、結構ヘコんでたなー」
「肝心の園児たちの反応はどうだったの?」
 笑う香原に雪下が聞く。
「大きいクラスの子どもにはネット動画で観たとか言われたらしくて、僕だったらその場で絵本投げつけてるよ。それでも保育士つづけてるちーは神様だなっていつも思う」
「保育士さんって大変そうですね」
 思わず口を衝いて出た律の言葉に、香原がうんうんと頷いた。
「いまのおママゴトなんて『ペーペーで払いますかー』とか言ってるらしいよ。もうホント時代が変わったっていうか、話聞いてるのがおかしくて」
 生まれたときから電子マネーがあるってすごい世界だなと思いつつ、律にも不思議に思っていることがあったりもする。
「これがジェネレーションギャップなのかわからないけど、おれは……パソコンで文書の作成してて、保存するときのあの四角いおにぎりみたいなマークって一体なんなんだろうって思ってます」
 律が言った四角いおにぎりという言葉に皆が一斉に考え込み、しばらくしてから揃って噴き出した。
「あはははははは! おにっ……おにぎり! はははははは!」
 香原が「腹がよじれる」と言いながら馬鹿笑いし、あとの三人も律に悪いとは思いながらも笑いを堪えられないようだった。
「確かに使用するソフトによっては見えなくもないね。あれはフロッピーディスクと言うんだよ。磁気ディスクの一種で、昔はワープロやパソコンに差し込んでデータの記録に使っていたんだ。ん……? ワープロも死語なのか?」
「そうだよな、律の世代なんてもうわからないよな。実際俺たちだってCD-Rの世代だし、フロッピーを見たのだって数えるほどだ」
「そういえば大学でかたくなにフロッピー使ってる教授がいたなぁ。なんであれがまだ現役のマークなんだろうね」
 片桐、沖、雪下が同意をくれ、香原はまだ涙を流して笑っていた。
「はー、笑ったー。律くんってちーといい勝負かも。ちーなんてあのマーク見て自動販売機って言ったんだよ。はー、おかしい……ちょっと待って……」
 笑いすぎたのかお腹をさすりながらも、香原の双眸が律を捉える。あの日のように香原の瞳がキラリと光り、いまは金に近い色で輝いていた。
 ゴールデンイエローの瞳で見つめられると緊張で身動きが取れなくなる。恐怖ではないが畏怖に近い感覚だった。
 しばらく香原と見つめあっていると片手を沖の手に握り込まれた。それにホッとして身体の力が抜けると、香原は首肯してから沖へと視線を移した。
「うん、合格だね」
「あたり前だろう」
 満面の笑みの香原に沖が答えた。
「ごめんね、律くん。もうないから」
「視ない……?」
 香原が言った言葉の意味がわからずにいると、雪下が説明をしてくれた。
「唯にはその人の本質が色になって視えるらしいんだ。視線をあわせることで見えてくるんだって」
「視覚として見えるっていうより、頭の中に色が浮かぶ感じかな? 自分でもよくわからないけど、お近づきになりたくない人物は大抵いやな色してるんだ」
 不思議な力を持った人なのだな、と律は素直に思った。さっきのきれいな金色の瞳のときに視えるのだろうか。
「お、もう始めてんのか」
 片手にビニール袋と紙袋、反対の手に箱を抱えてダイニングへ入ってきたのはダークスーツを着た松川だった。
「ありがとう惟久馬。重かったでしょ」
「いや、これでよかったのか」
 雪下は席を立って松川をねぎらい、荷物を受け取った。箱をシンクの横へ置いてから、ビニール袋に入っていた大根を取り出す。
 そういえば松川はいつも音もなくこの家に入ってくるなと思っていたら、香原が律に小声で教えてくれた。
「気をつけなよ、律くん。松川はここの暗証番号知ってるし、鍵も持ってるから侵入し放題なんだ。エッチの最中だったら最悪だよねえ」
「ばあか。そんなことするかよ」
「痛っ」
 後ろから松川のゲンコツを食らって香原が頭を押さえた。
「それを言うなら享二だってそうだろ」
 松川はそう言いながら沖の隣に腰掛けた。相変わらず艶のある黒髪と、深い森を想わせるグリーンアイが魅力的な男だった。
「変な意味あいじゃないよ、律くん。俺と松川と沖のあいだで、なにかあったときのためにそれぞれ家と車の合鍵を渡してあるんだ。まあ松川の場合はインターホン鳴らすのが面倒で、うちの家にも勝手に入ってくるんだけどね」
 片桐が擁護なのかそうでないのかわからない、少し棘のある言葉を放つ。弁護士というのは結構辛辣なのか、それとも友人ゆえの気安さなのだろうか。
「手元に鍵があったら使うだろう」
「これからはダメだよ惟久馬。やーっと一彬にも可愛い恋人ができたんだから」
 きちんと面取りした大根を下茹でしながら、雪下が松川に釘を刺した。
「果報は寝て待てだな、一彬。唯も律のこと気に入ったみたいだし万々歳だ」
「まあ飲め。今日の名目は新年会だしな。片桐がいい酒持ってきてくれたぞ」
 沖が小さなかめに入った酒を、セットの柄杓ですくって瑠璃色のぐい呑みに注ぐ。
「お、辛口の特別本醸造か。あ、シュウ。ワイン持ってきたから唯と飲めよ」
「ありがと。これやってから飲むね」
 律はまだお酒を飲めないので雪下と料理番を代わろうとしたら、今日は沖と律の同棲祝いもあるのだから座っておけと、沖以外の大人四人に諭された。
「専門学校の選考試験は来月の下旬だったかな」
 向かいの片桐に聞かれ、律はそうだと返事をした。
「うちの事務所にいる男が弁護士と公認会計士のダブルライセンスを持っているんだ。参考になることもあると思うから、よかったら彼と話してみてはどうかな」
「でも、弁護士さんって忙しいのでは……」
「それくらいの時間なら取れるよ。こちらから連絡するから、一度沖と一緒に事務所へおいで」
 律が遠慮がちに答えると、片桐はうっかり惚れてしまいそうな笑顔でそう言ってくれた。

 それからは宴会になった。よく食べ、よく飲み、よく笑った。
 松川が抱えてきた箱はホールケーキだったようで、律の分は雪下が大きめに切って出してくれた。
 しまいには酔った香原が、随分前に亡くなった米国人歌手のラブ・バラードをモノマネ付きで歌い出し、片桐がべた褒めして松川は野次を飛ばした。それを見て雪下が腹を抱えて笑い、沖と律はなぜか香原の歌にあわせてチークダンスを踊ることになった。
 チークダンスなんて踊ったことがないからと断りを入れると、踊り方なんて決まってないのがチークだと沖に言われた。とにかく頬を寄せて踊ればいいのだそうだ。
 沖とのこれは踊っているというより、抱きしめられて揺れているだけのような気もするけれど。
「あ~! 沖が律くんを襲ってる~!」
 往年の名曲を歌い終わっても離れない二人を見て、香原が茶々を入れてくる。
「よ~し。それならチュ~ってしてみてよ、チュ~って」
 酒で少しふらついた身体を片桐に支えられながら、椅子でふんぞり返った香原が沖にリクエストを出した。
「おう、できるぞ」
 そう答えた沖の顔が、律に近づいてくる。
「ちょっ……沖さん、みんないるのに……、んっ……」
 沖に話しかけるべきではなかった。話しかけたために口が開き、沖の舌の侵入を容易に許してしまった。こうなればもう沖のペースだ。
「んふ……っ、んんーっ……」
 音を立てて絡めた舌を吸われ、頬の内側や上顎を舐め上げられる。沖の厚い舌で意志を持って口内を攻め立てられると、恥ずかしさより快感がまさって最後には沖の腕の中でカクンと膝が抜けてしまった。
「えええぇぇぇ! そんなのチューじゃなくてベロチューじゃないかぁ! 僕はもっとカワイ~のが見たいの!」
 なぜか香原に怒られてしまったけれど、力が抜けてしまった律は沖にしがみつくので精一杯だ。
「一彬、もう日付が変わるし律くん休ませてあげて。そのあいだにオレたちはここ片付けて撤収するから。惟久馬もそれでいい?」
「ああ。享二はそいつ連れて先に帰れ。唯ももう寝かせたほうがいい」
「そうさせてもらおう」
 松川の言葉に片桐が頷いた。
 片桐は香原の服を整えてから上着を着せ、香原が持ってきたバッグを持たせるとマフラーで首をグルグル巻にした。最後に乱れた香原の猫っ毛の髪を撫でつけてやって完成となったが、そのあいだ香原も大人しくされるがままだった。
 いまの二人を見ていて、例の拉致事件で片桐が律に甲斐甲斐しかった理由がなんとなくわかった気がした。
「沖、調停の件もあるしまた連絡するよ。じゃあお先に、またな」
「今日はありがとう、お疲れさん。香原のこと気をつけてやれよ。またな」
 片桐に連れられ玄関へ向かう香原が、後ろを振り向いて手だけでバイバイをした。それに律と雪下が同じように手を振り返した。
「唯のヤツ、めずらしく酔ってんな……。じゃあここは俺とシュウに任せて、一彬は律と風呂にでも入ってやれ」
「わかった。よし、風呂へ入るぞ律」
 律が松川と雪下に挨拶をする前だったのに、沖に抱えられてダイニングを出てしまった。
「沖さん、おれ、まだ二人にさよならって言ってない……」
「いいんだ。いつもこんな感じだからな」
「そうなんですか」
「ああ、あいつらとはサヨナラは言わない。またって言うことが多いな」
 そういえば香原の店や水原の事務所でもサヨナラは言わなかった。
「またって……いいですね。次が楽しみになるかも」
 沖は律の言葉に微笑むと、くちびるにひとつキスをくれた。
 ──これからも、この人とずっと歩いてゆけますように。
 この日律は初めて、失ってしまった家族に自分と沖のことを見守っていて欲しいと願った。


   END
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