ただ生きたいだけなのに

とき

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つかめないから夢なんだって

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 未梨亞から連絡がなかった。
 徹と出かけているはずだが、夜の11時を越えても帰ってきていない。
 子供じゃないんだから心配することもないとは思うが、同居人が連絡もなしで帰って来ないのは困る。泊まるなら泊まると一報欲しいものだ。

「うまくいってるならいいんだけど」

 未梨亞が徹とデートして……そのままホテル、というのは考えにくかった。しかし、未梨亞は最近感情が揺すぶられがちだったので、徹を頼ってしまったことも考えられる。
 明日も仕事があるから、いつまでも未梨亞を待っていられない。鍵があるから勝手に帰るだろうと思って、愛良は床に就く。
 しかし、朝起きても、未梨亞は戻ってきていなかった。未梨亞用に購入した布団は空のままだ。
 ラインの通知はないが、既読にはなっていた。
 仕方ないので、今日は朝ご飯もお弁当もなしで家を出た。
 駅に向かう途中にある公園。
 見慣れた風景に、さらに見慣れた人物を発見してしまう。

「未梨亞!」

 ブランコに座ってじっとしていた。
 未梨亞は愛良の声に反応して顔を上げると、静かに手を振った。

「どうしたの!?」

 真冬の夜を公園で過ごしたのだろうか。手を取ると氷のように冷たくなっていた。
 両手でぎゅっと握り、未梨亞の手を温める。

「既読無視すみません」
「そんなのどうでもいいから!」
「ゆっくり考え事してたら、こんな時間になっちゃって」

 未梨亞はてへへと笑うが、その目は赤く腫れている。

「だからって、こんな寒いところで……」

 未梨亞がごまかしているのは分かるが、今はそれどころではない。未梨亞はブランコから立たせる。

「すぐ温めなきゃ」

 未梨亞の手を引っ張って、家に連れ帰ろうとする。
 こんなこと、前にもあったと思い当たる。未梨亞と出会ったときのことだ。

「いつも……ごめんなさい」
「いいって」

 未梨亞は珍しく元気がなく、しおらしかった。
 一晩中外にいて、寝ていないのと寒さで、さすがに心も体も限界なのだろう。
 帰ってすぐ未梨亞をお風呂に入らせる。

「会社は……無理か……」

 今から会社に行ったところで間に合わない。それにこのまま未梨亞を放って会社にもいけないので、会社に電話を入れる。

「はい、経理部です」
「佐伯です。おはようございます」
「お、佐伯か。なんだ、病欠か?」

 直通電話には徹が出た。
 徹の声はいつも通り。先輩らしいラフな感じ。
 いったい昨日、未梨亞との間に何が起きたのだろう。聞いてみたくなるが、仕事の電話である以上、プライベートなことは聞けない。

「すみません、体調が悪くて」

 仮病を使って休みを申請した。
 徹からも、未梨亞のことは聞かれなかった。聞いてきたら、何て返したか分かったものじゃないので助かった。
 しばらくすると未梨亞がお風呂から出てくる。さっきまで冷たく青ざめた肌には、赤みが差していた。
 未梨亞が落ち着いてから、愛良は問うことにした。

「肥後さんが何かした?」

 原因は徹以外あり得ないだろう。

「いえ、肥後さんは何も悪くないです……」
「何があったの? 一晩中、あんなところにいるなんておかしいでしょ」
「はい……」

 未梨亞は口をつぐんでしまう。

「はぁー。……別に怒ってるわけじゃないから。何があったのか話して」
「……はい。昨日、お食事のとき……告白されたんです」
「やっぱり……」

 好きな人に好意を伝えるのはもちろん罪ではないが、まだ知り合ってばかりなのに、何をしでかすんだと、愛良は自分の先輩を批判する。

「それで、どうするか悩んでたってわけね」
「いえ、そうじゃなくて、断ったんですけど……」
「え? どういうこと?」
「話すと長くなりますけど……」
「うん、話して」

 未梨亞は徹に告白された。未梨亞は、徹の好意は嬉しいが、今は自分の夢に集中したいと答えたらしい。
 徹もそれを理解してくれて、食事が終わると、こともなく別れた。けれど、好意をむげにしてしまったのが申し訳なく、罪悪感にさいなまれたという。

「……つまり、肥後さんを振った自分に罰を与えるため、寒空の中、一晩かけて歩いて帰ってきたと?」

 これはさすがにあきれてしまう。
 ピュアなのかアホなのか。

「はい……」

 変なことをしでかしたのは自分でも分かっているようで、未梨亞は申し訳なさそうにうなだれている。

「気持ちは分からなくもないけどさ……」

 悪いことをしてしまったとき、相手は許してくれたけれど、自分自身が許せない場合は、自分で自分を責めるしかないのだ。
 優しい性格の未梨亞なら、あり得るのかもしれない。だが、徹が元気に出社していて、未梨亞が苦しんでいるのは納得がいかない。

「そんなに自分を責める必要あったの?」

 未梨亞は告白されたが、自分の夢を優先したいから付き合えないと振っただけ。何も未梨亞に非はない。

「……今となってはよく分かりません。ただ馬鹿なことしちゃったなって……」
「はあ……」

 確かに馬鹿だな、と愛良は心の中で思う。

「私も迷ったんです……。徹さんはいい人で、徹さんとお付き合いするのも、アリなのかなと思ってました」
「へー」

 女好きで女なら誰にでも声をかけてしまう徹も、ちゃんと未梨亞に向き合って告白したのだろう。未梨亞も男で失敗しているから、信用できない人に心を許したりしない。

「でも……私は負担にしかならないから。徹さんなら、もっといい人と付き合えるから。断ることにしました」
「負担?」
「夢ばかり追って、ろくに稼ぎもない馬鹿女ですよ。そんな奴に構うなんてお金と時間の無駄です。そう言ってやりました」
「すごいこと言うんだね……」

 落ち込んだときは、愛良も自分自身をそう思うこともあるが、恋愛は持ちつ持たれつだから、相手をフォローできるポイントがあれば、そこまで自分を下げる必要はないだろう。

「肥後さんが嫌いってわけじゃないなら、とりあえず付き合ってみればよかったんじゃない?」

 人間は一人で何かを成し遂げられるほど強くない。特に落ち込んでいるときならば、一人でいるのはつらく、人に頼ってもいいはずだ。
 未梨亞が自分の夢を叶えるのに、徹はきっと力になってくれるだろう。

「私も……そう思いました。けど、甘えですよね……。肥後さんのことは好きですけど、どうしてもこの人じゃないといけない、というほどじゃないです……。そんな状態で付き合ったら、利用してるみたいですよ。なんかそういうのが嫌で……」
「ン……」

 人が好きになって、付き合うようになるきっかけ、としては十分なのではないかと思う。誰もそれで相手を利用しているなんて思わないはずだ。負担になるようなら別れればいいし、それでも一緒にいようと思うならばそのまま結婚すればいい。

「未梨亞がそれでいいならいいんだけど、つらいときは頼ってよね?」
「はい……」

 なんで未梨亞がそんなに意固地になっているのか、愛良には分からなかった。でも、決めるのは未梨亞だ。これ以上、自分があれこれ言うべきではない。



 それから未梨亞は、温かい布団にくるまって、昨日の分を寝始めた。
 愛良はせっかく会社を休みにしたので、小説を書いてみようと思った。
 実際に書く前に参考になるものを選んで、勉強をしておきたい。

「やっぱこれかな」

 一番に思いついたのは、夏目漱石の『こころ』だった。
 誰もが知っている文豪・夏目漱石をお手本にするのは、あまりにも恐縮だが、高校のときに読んでいるから読みやすいし、得られるものも多いだろう。
 なんといっても、向上心のない自分自身を失望させた作品で、これを乗り越えなければ小説なんて書けるはずがないと思った。
 愛良は青空文庫をスマホにダウンロードし、『こころ』を読み始める。
 『こころ』で重要なのは後半。学生である主人公が下宿先の主人(通称、先生)から受け取った長い手紙である。
 先生の学生時代が語られ、友人Kと、まだ独身だった先生の奥さんが登場する。先生とKは、奥さんの家で下宿していた。
 Kは今で言う意識高い系で、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」と言い、型にはまらない人生を送っていた。
 常識や慣習よりも、自分の思っていることを優先する破天荒な個人主義で、それで人に嫌われてもなんとも思わなかった。
 しかし、Kはいずれ先生の奥さんになる人を好きになってしまう。先生は嫉妬して対抗心を燃やすようになる。
 そこで「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」という言葉をKにぶつける。好きな人と結婚して安定した人生を送るのは、向上心のない人間のすることではないか、と言うのだ。
 Kは自分の言葉に苦しめられることになる。一般的な人間の幸せを求めることが自分の道なのか。自分自身が定めた道を曲げていいのか。
 一方、先生は「娘さんをください」と母親に頼み込み、了承してもらうことで、先手を取ることができた。
 Kは先生が奥さんを好きなのは知らないが、先生はKが奥さんを好きなのを知っていたので、これは戦略的とも言えるし、だまし討ちとも言えた。
 二人の結婚が明らかになると、Kは二人を祝福してくれた。しかし数日後に、遺書を残して死んでしまう。
 遺書には恨み言は一切なく、先生は無事結婚することができたが、これが先生の心をずっと蝕むことになる。
 そして、先生は主人公にこの手紙を残して、自らも命を絶ったところで物語は終了する。

「そうだったんだ……」

 愛良は勘違いをしていたことに気づく。
 「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」という言葉の使われ方が思っていたものと違っていた。
 意識の高い学生がイキって、何もしないでぼうっとしている一般人をあおっているセリフだと思っていた。実際は自身を象徴するポリシーであり、それを崩され、自殺に追い込まれるほどのセリフだった。

「自分の言葉に殺されたってことか……」

 ポリシーに従って生きるのは格好いいし、迷ったときに道を示してくれる。だが、自分はこうあるべきだ、と自分を決めた弊害として、理想と現実の間にギャップが生じると弱くなってしまう。

「向上心があるから、恋愛を選べない……。自分の心に素直に従っていれば、告白もできたんだろうけど。恋愛は道を妨げるもの……ポリシーを優先して欲を禁じた……。恋愛は甘えってことなのかな」

 厳格な宗教や思想では、心が流されることを悪とされ、恋愛を怠惰とすることが多い。Kも真言宗の寺に生まれて、自分を厳しく律していた。
 恋愛が自由になった今の時代に、そんなことを気にしている人はいない。

「でも、相手に依存したいって気持ちはダメなのかな」

 未梨亞の言葉が思い出される。未梨亞は自分の夢を追うために、徹に頼ることをやめたのだ。
 自身も浩一に依存していた。依存しすぎていたとは思わないが、浩一に任せっきりになっていたのは破綻の原因だった。

「向上心ってなんだよ……」

 『こころ』はバッドエンドのストーリーで、ハッピーエンドにはほど遠い。夏目漱石は何を持って、この作品を書いたのか、愛良には理解できなかった。
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