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第四章・熱を孕む
壱
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文字屋が日本晴れを形作り、宵闇町の新年が始まった。商店街で行われた大筆でのパフォーマンスは、大狐が「悪くない」と言い切るぐらいの力強さと凛々しさに溢れ、観客をわっと湧かせた。
凧揚げ会場では、千代も文字屋と一緒に凧揚げ屋の手伝いをし、飾り紐が空を揺れるのをしみじみ見た。きゃっきゃと楽しげに遊ぶあやかしや獣人の子供達が可愛らしく、千代は頬を緩ませた。
イズナが店主を務めていた光る金魚屋は盛況だった。千代もポイと椀を受け取って挑戦したのだが、全部が光るわけではないらしい。『自分だけに光って見える魚を狙うと良いでござるよ』のアドバイスに従い、黄色く光っていた金魚と桜色に光っていた金魚をすくう。文字を見てみると【食】と【恋】だった。感情に反応すると言っていたのは嘘でないらしい。端っこで同じく挑戦していた文字屋も一匹捕まえていたが、千代には見せてくれなかった。
「どうせ家では一緒の水槽に入れるんだから、見せてくれてもいいじゃないの! けーちけーち!」
「絶対に嫌だ」
隙あらば左右から覗きこもうとする千代を牽制しつつ、文字屋が商店街の金魚屋で金魚鉢と必要なものを買う。二人の後をついてきためぐみが楽しげに周りを見渡していた最中、あやかしと獣人混みの中から「めぐみちゃん?!」と驚きの声が上がった。
「お鶴ちゃん! 七十年ぶり? 結婚おめでとう!」
紙屋のお鶴が口に羽を当て、まじまじとめぐみを見ている。宵闇町に人間が来たのは千代で二人目、前の人間は七十年前──とお鶴が語っていた言葉が、千代の脳裏を過ぎる。
「めぐみちゃん、あなた若すぎない? 天狐界って、そんなに時間がゆっくり過ぎるの?」
「逆よ逆~。時間が過ぎるのが早いから、毎日若返りの湯に浸かっているの。この姿を保つのに必死よぉ」
きゃっきゃうふふと盛り上がる二人を横目に、文字屋がすたすた人混みを歩きだす。千代は慌てて後を追い、隣に並んでから口を開いた。
「お母さんもわたしと同じ、宵闇町に迷いこんだ人間だったんだね」
「ああ。本人曰く、農作業の途中で奇妙な穴を見つけたら、気づけばこの町にいたらしい。その後は俺と千代の流れとほぼ一緒だ」
「へぇー。コハクくんは人間界と天狐界、どちらで育ったの?」
「母親の悪阻が酷かったからという理由で、生まれも育ちも天狐界だ。十歳まで天狐界で父親に散々しごかれ、その後文字屋の店に一人で戻された。家を守っていたイズナがいなかったら、文字の力がなかったら。今頃俺は野垂れ死にしていただろうな」
稲荷神社に盗み食いをしにきていた理由が分かり、千代は晩御飯を食べられた恨みをほんの少し減らす。
十歳で、しかも一人で何も分からない場所に置き去りにされた気持ちはどんなだったろう。イズナも同じだ。主のいない家を一匹で守っていたとき、初めてコハクと出会ったとき、どんな気持ちで過ごしたんだろうか。
「千代」
「う、うん」
「今だけは尻尾に触ってもいいぞ」
「うん」
ぴょこぴょこ左右に揺れる狐尾。千代は頷きながらそっと手を伸ばし、柔らかい感触に手を委ねた。
***
翌日、天狐界へ出発する朝。
大きな丸い瞳に涙をため、ぼたぼたと涙をたらしているイズナが、ぎゅうぎゅうと文字屋に抱きついて離れなかった。
「イズナ。この家を頼む。大丈夫だ、すぐに帰ってくる。テレビは深夜以外は好きに観ていい。恐怖劇場は見るなよ、お前はこわがりだから」
『胡白じゃま、胡白じゃま……! お帰りお待ちしておりまじゅ……しっかりこの家をお守りじまじゅ……! だから胡白じゃまもお元気で……儂はいつまでも胡白じゃまが大好きですぞ……!』
「ああ。俺もイズナが大好きだ」
千代は思わず涙ぐみ、一人と一匹のやりとりを見守る。最後にもう一度だけ抱き合うと、文字屋とイズナは離れた。イズナが大事そうに抱えてきた書道道具が入った鞄を、文字屋が受け取る。
「コハクちゃん、千代ちゃーん。そろそろ行くわよー」
外から聞こえるめぐみの声に、文字屋が小豆色の襟巻を首から外し、イズナの首に巻きつける。
「またな、イズナ」
「イズナちゃん、またね」
千代は着替えが入っている鞄を手に、文字屋と共に玄関を出る。天狐界と荒々しい字で書かれた掛け軸の上に、大狐とめぐみがいた。
「ゆくぞ、天狐界!」
大狐が右手を勢いよく掛け軸に押しつけると、光の矢が空へ走った。イズナが目を開けた次の瞬間、無地の掛け軸だけがからんからんと地に転がった。
『みなさま、お気をつけてでござる……』
設置したばかりの金魚鉢では、黄色の金魚が一匹と桜色の金魚が二匹揺らめいていた。
凧揚げ会場では、千代も文字屋と一緒に凧揚げ屋の手伝いをし、飾り紐が空を揺れるのをしみじみ見た。きゃっきゃと楽しげに遊ぶあやかしや獣人の子供達が可愛らしく、千代は頬を緩ませた。
イズナが店主を務めていた光る金魚屋は盛況だった。千代もポイと椀を受け取って挑戦したのだが、全部が光るわけではないらしい。『自分だけに光って見える魚を狙うと良いでござるよ』のアドバイスに従い、黄色く光っていた金魚と桜色に光っていた金魚をすくう。文字を見てみると【食】と【恋】だった。感情に反応すると言っていたのは嘘でないらしい。端っこで同じく挑戦していた文字屋も一匹捕まえていたが、千代には見せてくれなかった。
「どうせ家では一緒の水槽に入れるんだから、見せてくれてもいいじゃないの! けーちけーち!」
「絶対に嫌だ」
隙あらば左右から覗きこもうとする千代を牽制しつつ、文字屋が商店街の金魚屋で金魚鉢と必要なものを買う。二人の後をついてきためぐみが楽しげに周りを見渡していた最中、あやかしと獣人混みの中から「めぐみちゃん?!」と驚きの声が上がった。
「お鶴ちゃん! 七十年ぶり? 結婚おめでとう!」
紙屋のお鶴が口に羽を当て、まじまじとめぐみを見ている。宵闇町に人間が来たのは千代で二人目、前の人間は七十年前──とお鶴が語っていた言葉が、千代の脳裏を過ぎる。
「めぐみちゃん、あなた若すぎない? 天狐界って、そんなに時間がゆっくり過ぎるの?」
「逆よ逆~。時間が過ぎるのが早いから、毎日若返りの湯に浸かっているの。この姿を保つのに必死よぉ」
きゃっきゃうふふと盛り上がる二人を横目に、文字屋がすたすた人混みを歩きだす。千代は慌てて後を追い、隣に並んでから口を開いた。
「お母さんもわたしと同じ、宵闇町に迷いこんだ人間だったんだね」
「ああ。本人曰く、農作業の途中で奇妙な穴を見つけたら、気づけばこの町にいたらしい。その後は俺と千代の流れとほぼ一緒だ」
「へぇー。コハクくんは人間界と天狐界、どちらで育ったの?」
「母親の悪阻が酷かったからという理由で、生まれも育ちも天狐界だ。十歳まで天狐界で父親に散々しごかれ、その後文字屋の店に一人で戻された。家を守っていたイズナがいなかったら、文字の力がなかったら。今頃俺は野垂れ死にしていただろうな」
稲荷神社に盗み食いをしにきていた理由が分かり、千代は晩御飯を食べられた恨みをほんの少し減らす。
十歳で、しかも一人で何も分からない場所に置き去りにされた気持ちはどんなだったろう。イズナも同じだ。主のいない家を一匹で守っていたとき、初めてコハクと出会ったとき、どんな気持ちで過ごしたんだろうか。
「千代」
「う、うん」
「今だけは尻尾に触ってもいいぞ」
「うん」
ぴょこぴょこ左右に揺れる狐尾。千代は頷きながらそっと手を伸ばし、柔らかい感触に手を委ねた。
***
翌日、天狐界へ出発する朝。
大きな丸い瞳に涙をため、ぼたぼたと涙をたらしているイズナが、ぎゅうぎゅうと文字屋に抱きついて離れなかった。
「イズナ。この家を頼む。大丈夫だ、すぐに帰ってくる。テレビは深夜以外は好きに観ていい。恐怖劇場は見るなよ、お前はこわがりだから」
『胡白じゃま、胡白じゃま……! お帰りお待ちしておりまじゅ……しっかりこの家をお守りじまじゅ……! だから胡白じゃまもお元気で……儂はいつまでも胡白じゃまが大好きですぞ……!』
「ああ。俺もイズナが大好きだ」
千代は思わず涙ぐみ、一人と一匹のやりとりを見守る。最後にもう一度だけ抱き合うと、文字屋とイズナは離れた。イズナが大事そうに抱えてきた書道道具が入った鞄を、文字屋が受け取る。
「コハクちゃん、千代ちゃーん。そろそろ行くわよー」
外から聞こえるめぐみの声に、文字屋が小豆色の襟巻を首から外し、イズナの首に巻きつける。
「またな、イズナ」
「イズナちゃん、またね」
千代は着替えが入っている鞄を手に、文字屋と共に玄関を出る。天狐界と荒々しい字で書かれた掛け軸の上に、大狐とめぐみがいた。
「ゆくぞ、天狐界!」
大狐が右手を勢いよく掛け軸に押しつけると、光の矢が空へ走った。イズナが目を開けた次の瞬間、無地の掛け軸だけがからんからんと地に転がった。
『みなさま、お気をつけてでござる……』
設置したばかりの金魚鉢では、黄色の金魚が一匹と桜色の金魚が二匹揺らめいていた。
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