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【王女アナスタシア】
37.王宮主催の大夜会(18年ぶり二度目)
しおりを挟む3ヶ月に及ぶ暑季が明ければ、2ヶ月間の稔季がやってくる。木々や草花は色付き、野山や畑は収穫の人手で賑わう。世に稔りの満ちる季節、それが稔季である。
この時季に収穫される穀物や山海の恵みはどれも旬を迎えて美味になる。食を楽しむならば稔季に限る、とまで言われるほどで、世の美食家たちは毎年この季節を楽しみにしているという。
その稔季の上月に入ってすぐの上週、まだ暑季の蒸し暑さも色濃く残るその時期に、王宮主催の大夜会が華やかに催される。暑季の間に領地に下がったり避暑の旅行を楽しんでいた貴族たちも、それに合わせて続々と王都サロニカへと戻ってくるのだ。
そうして社交界、つまり貴族たちの社会は今年もまた寒季を越し、翌年の暑季のはじめまである長いシーズンを迎えることになる。
かつてカストリア公女であったオフィーリアは、この稔季の大夜会で、婚約者であった第二王子ボアネルジェスによって冤罪をかけられ投獄され、そして獄中で自害して果てた。それから18年経った今ではもうそのことを話題に出す貴族など居はしないが、それでも当時を知る年配の者なら誰でも憶えていることだ。
そして当時を知らぬ若年層の中で唯一、当時のことを直接知るアナスタシアは、専用に与えられた控室で侍女たちによって、最後の準備に追われていた。
「姫様、本当によろしいのですか?」
アナスタシア専属の侍女ディーアが、気遣わしげに言う。
「いいのよ。まだ発表前なのだから」
アナスタシアは済ました顔で答える。
ディーアの手にあるのは色味の落ち着いた淡い桃色の宝石があしらわれた精緻な意匠の髪飾り。この日のためにと、わざわざ用意されたもの。それをアナスタシアは身に着けないと言ったのだ。
「せっかくお贈り下さったのに……」
「今身に着けなくとも今後いくらでも使う機会はあるわ。それに、きちんとお話ししてご理解も頂いているもの」
「それは、そうかも知れませんが……」
「発表前から着けていては、余計な勘繰りを受けることにもなりかねないわ。慎重を期すくらいでちょうどいいのよ」
アナスタシアの態度も声音も落ち着いていて、焦る様子は全く見られない。それでディーアも、渋々引き下がるほかは無かった。
「ですが、さすがにエスコートすらご辞退なされたのはいかがなものかと……」
「それも同じ理由よ。発表前から既成事実を作るなんて、そんな尻の軽い真似はわたくしにはできないわ」
発表前から浮気相手に自分の色を纏わせ、誇らしげにエスコートしながら大階段を降りてきた、かつての婚約者の痴態が鮮明に脳裏に浮かぶ。あれと同じ真似などアナスタシアは死んでもやりたくないし、彼にもさせたくはない。
だって会場にいるはずの年配の貴族たちなら、まず間違いなく同じものを連想するであろうから。
やがて侍従が控室の扉を控えめにノックし、入場を促してきた。美しく着飾ったアナスタシアはそれを受けて、淑女の微笑を湛えて立ち上がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
次々と入場コールが高らかに告げられて、招待された貴族たちが続々と入場してゆく。まずは下位の貴族当主夫妻やその子女たちに始まり、やがて伯爵位、侯爵位といった高位貴族たちの入場が始まる。
さらに公爵位の各家門、当主夫妻とその子女たちの入場が告げられ、そうしていよいよ王爵家。まずはカストリア侯爵アカーテスとアレーテイアの夫妻、そして侯子ヘーシュキオスが入場する。
だが、そこに侯女ソニアの姿がなかった。
ざわめきが小さなさざ波のように起きる中、アポロニア公爵家の入場が告げられる。アポロニア公爵、宰相クリューセースが夫人を伴って入場したあと、公女リパラーが新たに決まった婚約者にエスコートされて入場。そして公子フィラムモーンが、なんとカストリア侯女ソニアをエスコートして入場したことで、ざわめきがより大きくなった。
「イリシャ連邦王家、アカエイア王国アーギス王爵家、第三王女アナスタシア姫のご入場でございます!」
そしてざわめきが、一気にどよめきに変わる。
連邦王家第三王女ともあろう者が、エスコートもなしに単独で入場したのだから無理もない。
アナスタシアは色味の濃い琥珀色の、ローブ・デコルテを効かせたプリンセスラインのロングドレスに同じ色の長手袋と細く黒い帯を加え、明るい金色の頭髪には連邦第三王女の銀の宝冠をあしらっている。首元には落ち着いた色味の空色のチョーカーを巻いていて、それがワンポイントになっている。
「どういうことだ?」
「アポロニア公子はカストリア侯女を伴われていらしたわ」
「だから、てっきり陛下とご入場なさるものとばかり……」
「まさか……姫はどちらもお選びにならなかった、のか?」
驚きのあまりか、居並ぶ諸侯も声をひそめるのを忘れたかのよう。
そして困惑の広がる中、最後の入場コールが告げられた。
「ご静粛に!イリシャ連邦王国マケダニア国王、カリトン陛下のご入場でございます!」
大夜会の会場である“栄光の間”、その中央最奥にある大階段から、カリトン王が姿を現した。
例年のごとく王宮侍従長と近衛騎士隊長のイスキュスだけを伴って、王はゆっくりと降りてくる。無論その隣には、女性の姿などない。
(王は、一体何をやっておられるのか……)
居並ぶ全貴族が最敬礼で王を出迎える。そのほとんどの者の心中のつぶやきが、図らずもピタリとハモった。
だって誰もが皆、アナスタシア姫がこの稔季の大夜会に参加すると発表された時から、彼女が誰にエスコートされるのか噂しあっていたのだ。年齢が釣り合い、王家の直系としても立てるフィラムモーン公子か、現王であるカリトン王か。アナスタシア姫をエスコートするのは一体どちらなのかと。
だというのにフィラムモーン公子が伴ったのはソニア侯女、そしてカリトン王は誰も伴わずに独りで入場し、その結果としてアナスタシア姫に単独入場させるなどという恥辱を味わわせたのだ。
(これは、アーギス王家が黙ってはおるまい……)
下手すればアカエイア王国とマケダニア王国とで内戦になる。そんな未来を想像して、貴族たちの大半の心胆が凍てついた。
「皆の者、姿勢を楽にしてくれ」
カリトン王の命により礼を解いた貴族たちの顔色が、心なしか曇っているのも無理はない。
だが、今夜の驚きはそれでは終わらなかった。
「開会の宣言に先立ち、皆に発表したいことがあるのだが、構わないだろうか」
会場を見渡してカリトン王がそう告げるも、応えなど返るはずもない。
「……陛下、お尋ねになられても困りますぞ。陛下に許可を出せる者などこの場にはおりませぬ」
「あっ、そうか。そうだったな」
呆れた声で宰相クリューセースに言われ、カリトン王は今さら気付いたような顔をする。何年経ってもこういうところは変わらぬ、と貴族たちは呆れるやら苦笑するやら。ただひとりアナスタシア姫だけは何故かニッコニコであったが。
コホン、とわざとらしい咳払いをひとつして、気を取り直したカリトン王が声を上げた。
「アナスタシア姫、こちらへ」
「はい、カリトン陛下」
呼ばれたアナスタシアは優雅な足取りで王の立つ階の真下へ進み出た。それを受けて、カリトンも自ら階を降りてくるではないか。
そうして親子ほども歳の離れた男女は、地位の壁のない同じ高さで向かい合う。
なるほど、陛下はこの場で公開プロポーズに及ぶつもりなのだと、居並ぶ皆がようやく得心した。いやそういうのは事前にやっといてこの場はお披露目にしろよ、とも思っていたが、この場に集った全員が空気を読んだことで誰も発言には及ばなかった。
だというのにカリトンは、不安げにあちこち視線を彷徨わせるだけで、一向にアナスタシアの顔を見ようとしない。アナスタシアの方はニッコニコのままであったが、ソニアやクロエーなど一部の仲の良い友人たちには、その額に青筋が立ちかけているのが見える、気がした。
「あー、そのー、えっと、なんだ」
なかなか煮え切らない態度のカリトンに、アナスタシアの笑みがどんどん深くなる。
くどいようだが、アナスタシアは恋をしたい歳頃の乙女である。13歳という年齢が結婚適齢期かと問われればさすがにまだ少し早いと言わざるを得ないが、恋をするには充分だ。
そもそもこの夜会でのプロポーズは、アナスタシアからの希望であった。前世から大好きな王子様(もう王様だけど)から妻にと求められ、満座の祝福を受けつつ諾と応えたかったのだ。
だというのに、どこまでヘタレなのかこの人は!
まあ、そういうところも愛おしいのですけど!
とか思っちゃうアナスタシアも実は相当にアレなのだが、まあ本人に自覚はないのでわざわざツッコむ者はいない。犬熊の喧嘩と他人の恋は、こちらの迷惑にさえならなければ勝手にやってて欲しいものである。
と、ようやくここで棒立ちのままだと気付いたカリトンが、片膝をついて姿勢を下げた。
そうすると彼は、立ったままのアナスタシアを見上げる態勢になる。
「アナスタシア姫」
「はい」
応える彼女の顔も声音も、すっかり元のニッコニコに戻っている。
「その、こんな私で良ければ⸺」
「ちょーっと待ったぁー!」
いよいよ大詰め、というところで、会場に大きな声が響きわたった。
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