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【王女アナスタシア】

34.罪

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 思えば最初にこの北の離宮を目にした時から、アナスタシアにもなんとなく予想ができていたことだった。だって、どう見ても人の気配が感じられなかったから。それでも最初は、居住者が少ないせいだろうと思っていたのだ。
 そう。アーテーとその世話係しかいないから人の気配がのだと、そうのだ。

 だが実際には北の離宮はすでに廃墟で、その中は死者の世界だった。離宮に来てから見た生きている人間といえば、一緒にやって来たカリトンと彼が呼んだヘスペレイアだけだった。メーストラーはが、この劣悪な環境に長年置かれたせいか生気は全く感じられなかった。これでは早晩にも生命の灯が消えてしまうことだろう。
 アーテーの死と、その死後の隠蔽。それに加えて連邦法典に定められた奴隷の扱いを大きく逸脱したメーストラーへの仕打ち。カリトンの罪はいくつに及ぶだろうか。

「……これで分かっただろう」

 カリトンの静かな声に、知らず俯いていたアナスタシアの顔が上がる。視線の先に、かつてよく目にしていた、穏やかな悲嘆を湛えた彼の空色の瞳が見えた。

「僕は貴女を妻に迎える資格などない。裁かれるべきなんだ。そしてどうか貴女には、この国の未来を引き継いで欲しいんだ」

「……陛下」

 彼の瞳に拒絶の色が浮かぶ。
 そう呼ばれることさえ、もはや彼にとっては苦痛なのだと見て取れた。

「アーテーさまの経緯については承知致しました。ですがまだ、分からないことがございます」

 いまだ落ち着かぬ動揺を何とか鎮めつつ、それでも努めて冷静に、アナスタシアは言葉を続ける。この上分からないことは、あとひとつだけ。

「陛下は、どうしてメーストラーにここまでの仕打ちをなさいましたの?」

 アーテーはともかく、メーストラーに対しての罪を重ねる必要などなかったはずだ。それさえなければ、特殊な事情も鑑みて、まだしも情状酌量の余地が得られたはずだろうに。
 もちろんオフィーリアアナスタシアとてメーストラーへの恨みはある。母の仇で、かつての自分の殺人的な苦しみしかなかった日々の直接の原因となったとも言える女だ。それにあの時、あの茜色の魔女と過ごした無窮の真闇まやみの中で、オフィーリアが復讐したいと名指しした三名のうちの最後の生き残りでもある。
 だが転生したせいだろうか、それとも奴隷に落とされた上での今の彼女の凄惨な境遇を知ってしまったからだろうか、不思議なほどに激情が沸かない。むしろ憐愍の情さえ覚えていた。

 元々、弱者に対する慈愛の心を持っていたのがオフィーリアという少女だった。社会的な地位も個人としての能力も尊厳も何もかも奪われ、ただ生かされていただけのこの哀れな老婆に対して、その持ち前の優しさが無意識に出てきたとしても無理はなかった。
 加えて、あの慟哭をともなった謝罪が、まるでメーストラーの遺言のように聞こえたことも影響したのだろう。

「この女は、から」

 足元に蹲ったまま微動だにしない老婆を見下ろすカリトンの声に、一転して憎悪の激情が乗った。

「この女は、貴女の唯一の味方であったはずの、貴女の母上を害した。それによりその後の貴女の苦難の人生を決定づけた、大罪人だ」

 だから許せなかった、というのか。

「貴女を虐げ害して死に追いやった全てのものを、僕は許せなかった。だから」

「まさか……わたくしのために……?」

 言葉に出すと、それが意外なほど腑に落ちた。
 そう。誰からも酷薄な扱いを受けて誰も頼れるもののなかった状況で死を選んでしまった自分オフィーリアのことを、唯一悼んでくれたのがカリトンだった。悲しみ涙を流してくれただけでなく、復讐まで誓ってくれたのをあの真闇の中から見たではないか。
 だから彼は、助ける機会と権力がありながらもオフィーリアを救わなかったバシレイオス王を追い落とし、直接危害に及んだマリッサを死罪にし、オフィーリアを救うどころか虐げ抑圧した挙げ句に使い捨てようとした第二王子を見殺しにして、虐めていると噂が立っただけの前宰相ヴェロイア侯爵すら罷免したのだ。

 わたくしのために復讐してくれて、その結果として王位に登らなければならなくなった。そしてそのために母アーテーを手にかけなければならなくなった。
 だとすれば、それは……わたくしのせい、では?

「ちがう」

 素っ気ない否定の声が、カリトンの口から漏れ出た。

「僕が勝手にやったことだ。貴女には関係ない」

 そんな事があるものか。

「自死を選んでしまったあとの世界でたった独り、貴方だけがわたくしの死を悼んで涙を流して下さいました。わたくしがいなくなった事で起こる混乱に誰も彼もが右往左往する中、泣いて下さったのは貴方だけでした」

「……えっ」

「貴方だけがわたくしの復讐を、わたくしの無念を晴らそうと、して下さいましたね」

 カリトンが目を見開いて、アナスタシアを見ている。
 ああ、説明が必要でしたわね。

「実は全部、見ていたのです」

 オフィーリアアナスタシアは語った。罪人牢に入れられたことで、第二王子に汚名を着せられたまま処刑されるくらいなら死を選ぶしかないと思い込んだこと、そうしてカストリア家の“継承の証”を使って自死したこと。
 その後で不思議な存在に出会ったこと、それに導かれてをしばらく見ていたこと。翌朝のバシレイオス王による断罪から王妃の混乱や第二王子の凋落、マリッサや父や義母や異母妹の破滅、それにカリトンが嘆き悲しんで復讐を誓ってくれたことまで、全部見ていたのだと告げた。

「そんな……事が……。いや、だが、“継承の証”の効力、なのか……?」
「それはわたくしにもよく分かりませんけども。ただ、“茜色の魔女”の仰るには、時々そうして迷える魂を導いているのだそうですわ」

 カリトンはすでに前王バシレイオスからヘーラクレイオス家の証を継承していて、それにまつわる不思議な伝承や直系に伝わる秘事も全て聞かされている。そしてオフィーリアも母アレサから最低限のことは伝えられていた。
 だがこの場で結論を導くのは両者とも憚った。結局は推測に過ぎないというのもあったし、何よりこの場にはヘレーネス十二王家の継承に関われないヘスペレイアやメーストラーがいた事で、同じ推論に至ったことを視線を絡ませて確認し合うに留めるしかなかった。

「それはともかく。わたくしには、貴方が⸺カリトンさまがわたくしのためにして下さったことに対して報恩し、を取らなくてはなりません」

 責任、と言われてカリトンが怪訝な顔をした。

「だってそうでしょう?わたくしが早まって死を選びさえしなければ、貴方がわたくしのために復讐する必要もなかったのです。わたくしを蔑ろにした者たちを排除することも、その結果として王位に登ることも、そのためにお母君をその手にかけることもなかったのですから」
「いや、それは⸺」
「わたくしはオフィーリアとして、幼い頃からずっとカリトンさまを密かにお慕い申し上げておりました。ただ、当初から庶子扱いだった貴方との未来は無いものと理解していましたし、第二王子と婚約してからはその想いを知られてはならぬと、固く封じて誰にも悟られぬように隠しておりました」

「……えっ。いつ、から」
「書庫でお会いしていた頃からですわ」

 オフィーリアとカリトンが王宮の書庫で偶然出会い、偶然を装いつつ密かに何度か会話を交わしていたのはオフィーリアがまだ9歳、カリトンが11歳だった頃のことである。その頃にはカリトンはまだ、漠然とした想いを自覚すらしていなかった。

「そんな……前、から」
「ええ。でもカリトンさまだって、わたくしへの想いを隠していらっしゃったでしょう?」

 それは間違いない。彼女のことは最初から触れてはならぬ高嶺の花と理解していたから、そもそも彼は想いを育てることすらしないよう努めていた。
 その自覚はオフィーリアが獄死する直前までカリトンには無かったから、隠す以前の問題ではあったけれど、余人に知られなかったといえばその通りだ。そしてそれは、彼女にさえ気付かれていなかった。

「もしも、互いに同じ想いを抱いていたのだと気付けてさえいれば、わたくしは絶対に、軽はずみにも自死を選んだり致しませんでした。わたくしが死を選んだことで、その後のカリトンさまに茨の道を歩ませ、ここまでの苦悩を背負わせることとなってしまいました」

 カリトンは否定したかった。決してオフィーリアのせいではないと、自分が勝手にやったことだと言いたかった。
 だが、同時にオフィーリアが死ななかった場合のことも想像してしまう。そう、確かに彼女が生きてさえいれば、彼には周囲の全てを変える決意も衝動も持てなかったに違いなかった。
 だが、それでも否定しなければ。さもないと。

「ですからこれは、でもあるのです」

 彼女がから。

「ち、違……」
「違いませんわ」

 アナスタシアはカリトンに数歩、歩み寄る。元々近くにはいたものの、それでも未婚の男女として適切な距離を保っていたけれど、彼女はそれを自ら詰めた。
 そうして顔を上げ、まだ成長途上の背を伸ばし、すっかり大人の体格になったカリトンの首に手を伸ばす。

「貴方の罪はわたくしの罪」

 そうしてグッと腕に力を入れ、反応も拒絶もできない彼の顔を手繰り寄せた。
 まるで、優しく抱きよせるかのように。

「ですからどうか、もうこれ以上お独りで抱え込まないで下さいまし。⸺わたくしにも共に、背負わせて」

 屈まされた格好のカリトンは、自分でも意識しないうちに両膝をついていた。そうなるとさすがにアナスタシアのほうが上背が高くなり、彼女はカリトンの頭を優しく引き寄せて、その小さな胸に抱きしめた。

「今度は、わたくしがカリトンさまのために頑張りますから。恩を返させて下さいませね」

 カリトンは答えなかった。
 代わりに、彼の肩が小刻みに震えだす。

 彼の腕が華奢なアナスタシアの背に回され、アナスタシアの腕もまたカリトンの背を包む。

 そうして、しばらくふたりは無言のまま抱き合っていた。少し離れてすべてを見守っていたヘスペレイアが静かに、そして深々と頭を下げた。





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