70 / 81
【王女アナスタシア】
34.罪
しおりを挟む思えば最初にこの北の離宮を目にした時から、アナスタシアにもなんとなく予想ができていたことだった。だって、どう見ても人の気配が感じられなかったから。それでも最初は、居住者が少ないせいだろうと思っていたのだ。
そう。アーテーとその世話係しかいないから人の気配が薄いのだと、そう思いたかったのだ。
だが実際には北の離宮はすでに廃墟で、その中は死者の世界だった。離宮に来てから見た生きている人間といえば、一緒にやって来たカリトンと彼が呼んだヘスペレイアだけだった。メーストラーはまだ生きているが、この劣悪な環境に長年置かれたせいか生気は全く感じられなかった。これでは早晩にも生命の灯が消えてしまうことだろう。
アーテーの死と、その死後の隠蔽。それに加えて連邦法典に定められた奴隷の扱いを大きく逸脱したメーストラーへの仕打ち。カリトンの罪はいくつに及ぶだろうか。
「……これで分かっただろう」
カリトンの静かな声に、知らず俯いていたアナスタシアの顔が上がる。視線の先に、かつてよく目にしていた、穏やかな悲嘆を湛えた彼の空色の瞳が見えた。
「僕は貴女を妻に迎える資格などない。裁かれるべきなんだ。そしてどうか貴女には、この国の未来を引き継いで欲しいんだ」
「……陛下」
彼の瞳に拒絶の色が浮かぶ。
そう呼ばれることさえ、もはや彼にとっては苦痛なのだと見て取れた。
「アーテーさまの経緯については承知致しました。ですがまだ、分からないことがございます」
いまだ落ち着かぬ動揺を何とか鎮めつつ、それでも努めて冷静に、アナスタシアは言葉を続ける。この上分からないことは、あとひとつだけ。
「陛下は、どうしてメーストラーにここまでの仕打ちをなさいましたの?」
アーテーはともかく、メーストラーに対しての罪を重ねる必要などなかったはずだ。それさえなければ、特殊な事情も鑑みて、まだしも情状酌量の余地が得られたはずだろうに。
もちろんオフィーリアとてメーストラーへの恨みはある。母の仇で、かつての自分の殺人的な苦しみしかなかった日々の直接の原因となったとも言える女だ。それにあの時、あの茜色の魔女と過ごした無窮の真闇の中で、オフィーリアが復讐したいと名指しした三名のうちの最後の生き残りでもある。
だが転生したせいだろうか、それとも奴隷に落とされた上での今の彼女の凄惨な境遇を知ってしまったからだろうか、不思議なほどに激情が沸かない。むしろ憐愍の情さえ覚えていた。
元々、弱者に対する慈愛の心を持っていたのがオフィーリアという少女だった。社会的な地位も個人としての能力も尊厳も何もかも奪われ、ただ生かされていただけのこの哀れな老婆に対して、その持ち前の優しさが無意識に出てきたとしても無理はなかった。
加えて、あの慟哭をともなった謝罪が、まるでメーストラーの遺言のように聞こえたことも影響したのだろう。
「この女は、貴女を害したから」
足元に蹲ったまま微動だにしない老婆を見下ろすカリトンの声に、一転して憎悪の激情が乗った。
「この女は、貴女の唯一の味方であったはずの、貴女の母上を害した。それによりその後の貴女の苦難の人生を決定づけた、大罪人だ」
だから許せなかった、というのか。
「貴女を虐げ害して死に追いやった全てのものを、僕は許せなかった。だから」
「まさか……わたくしのために……?」
言葉に出すと、それが意外なほど腑に落ちた。
そう。誰からも酷薄な扱いを受けて誰も頼れるもののなかった状況で死を選んでしまった自分のことを、唯一悼んでくれたのがカリトンだった。悲しみ涙を流してくれただけでなく、復讐まで誓ってくれたのをあの真闇の中から見たではないか。
だから彼は、助ける機会と権力がありながらもオフィーリアを救わなかったバシレイオス王を追い落とし、直接危害に及んだマリッサを死罪にし、オフィーリアを救うどころか虐げ抑圧した挙げ句に使い捨てようとした第二王子を見殺しにして、虐めていると噂が立っただけの前宰相ヴェロイア侯爵すら罷免したのだ。
わたくしのために復讐してくれて、その結果として王位に登らなければならなくなった。そしてそのために母アーテーを手にかけなければならなくなった。
だとすれば、それは……わたくしのせい、では?
「ちがう」
素っ気ない否定の声が、カリトンの口から漏れ出た。
「僕が勝手にやったことだ。貴女には関係ない」
そんな事があるものか。
「自死を選んでしまったあとの世界でたった独り、貴方だけがわたくしの死を悼んで涙を流して下さいました。わたくしがいなくなった事で起こる混乱に誰も彼もが右往左往する中、泣いて下さったのは貴方だけでした」
「……えっ」
「貴方だけがわたくしの復讐を、わたくしの無念を晴らそうと、して下さいましたね」
カリトンが目を見開いて、アナスタシアを見ている。
ああ、説明が必要でしたわね。
「実は全部、見ていたのです」
オフィーリアは語った。罪人牢に入れられたことで、第二王子に汚名を着せられたまま処刑されるくらいなら死を選ぶしかないと思い込んだこと、そうしてカストリア家の“継承の証”を使って自死したこと。
その後で不思議な存在に出会ったこと、それに導かれて死後の世界をしばらく見ていたこと。翌朝のバシレイオス王による断罪から王妃の混乱や第二王子の凋落、マリッサや父や義母や異母妹の破滅、それにカリトンが嘆き悲しんで復讐を誓ってくれたことまで、全部見ていたのだと告げた。
「そんな……事が……。いや、だが、“継承の証”の効力、なのか……?」
「それはわたくしにもよく分かりませんけども。ただ、“茜色の魔女”の仰るには、時々そうして迷える魂を導いているのだそうですわ」
カリトンはすでに前王バシレイオスからヘーラクレイオス家の証を継承していて、それにまつわる不思議な伝承や直系に伝わる秘事も全て聞かされている。そしてオフィーリアも母アレサから最低限のことは伝えられていた。
だがこの場で結論を導くのは両者とも憚った。結局は推測に過ぎないというのもあったし、何よりこの場にはヘレーネス十二王家の継承に関われないヘスペレイアやメーストラーがいた事で、同じ推論に至ったことを視線を絡ませて確認し合うに留めるしかなかった。
「それはともかく。わたくしには、貴方が⸺カリトンさまがわたくしのためにして下さったことに対して報恩し、責任を取らなくてはなりません」
責任、と言われてカリトンが怪訝な顔をした。
「だってそうでしょう?わたくしが早まって死を選びさえしなければ、貴方がわたくしのために復讐する必要もなかったのです。わたくしを蔑ろにした者たちを排除することも、その結果として王位に登ることも、そのためにお母君をその手にかけることもなかったのですから」
「いや、それは⸺」
「わたくしはオフィーリアとして、幼い頃からずっとカリトンさまを密かにお慕い申し上げておりました。ただ、当初から庶子扱いだった貴方との未来は無いものと理解していましたし、第二王子と婚約してからはその想いを知られてはならぬと、固く封じて誰にも悟られぬように隠しておりました」
「……えっ。いつ、から」
「書庫でお会いしていた頃からですわ」
オフィーリアとカリトンが王宮の書庫で偶然出会い、偶然を装いつつ密かに何度か会話を交わしていたのはオフィーリアがまだ9歳、カリトンが11歳だった頃のことである。その頃にはカリトンはまだ、漠然とした想いを自覚すらしていなかった。
「そんな……前、から」
「ええ。でもカリトンさまだって、わたくしへの想いを隠していらっしゃったでしょう?」
それは間違いない。彼女のことは最初から触れてはならぬ高嶺の花と理解していたから、そもそも彼は想いを育てることすらしないよう努めていた。
その自覚はオフィーリアが獄死する直前までカリトンには無かったから、隠す以前の問題ではあったけれど、余人に知られなかったといえばその通りだ。そしてそれは、彼女にさえ気付かれていなかった。
「もしも、互いに同じ想いを抱いていたのだと気付けてさえいれば、わたくしは絶対に、軽はずみにも自死を選んだり致しませんでした。わたくしが死を選んだことで、その後のカリトンさまに茨の道を歩ませ、ここまでの苦悩を背負わせることとなってしまいました」
カリトンは否定したかった。決してオフィーリアのせいではないと、自分が勝手にやったことだと言いたかった。
だが、同時にオフィーリアが死ななかった場合のことも想像してしまう。そう、確かに彼女が生きてさえいれば、彼には周囲の全てを変える決意も衝動も持てなかったに違いなかった。
だが、それでも否定しなければ。さもないと。
「ですからこれは、わたくしの罪でもあるのです」
彼女が罪を背負ってしまうから。
「ち、違……」
「違いませんわ」
アナスタシアはカリトンに数歩、歩み寄る。元々近くにはいたものの、それでも未婚の男女として適切な距離を保っていたけれど、彼女はそれを自ら詰めた。
そうして顔を上げ、まだ成長途上の背を伸ばし、すっかり大人の体格になったカリトンの首に手を伸ばす。
「貴方の罪はわたくしの罪」
そうしてグッと腕に力を入れ、反応も拒絶もできない彼の顔を手繰り寄せた。
まるで、優しく抱きよせるかのように。
「ですからどうか、もうこれ以上お独りで抱え込まないで下さいまし。⸺わたくしにも共に、背負わせて」
屈まされた格好のカリトンは、自分でも意識しないうちに両膝をついていた。そうなるとさすがにアナスタシアのほうが上背が高くなり、彼女はカリトンの頭を優しく引き寄せて、その小さな胸に抱きしめた。
「今度は、わたくしがカリトンさまのために頑張りますから。恩を返させて下さいませね」
カリトンは答えなかった。
代わりに、彼の肩が小刻みに震えだす。
彼の腕が華奢なアナスタシアの背に回され、アナスタシアの腕もまたカリトンの背を包む。
そうして、しばらくふたりは無言のまま抱き合っていた。少し離れてすべてを見守っていたヘスペレイアが静かに、そして深々と頭を下げた。
789
お気に入りに追加
3,785
あなたにおすすめの小説
婚約破棄される令嬢の心は、断罪された王子様の手の中。
待鳥園子
恋愛
公爵令嬢ミレイユは婚約者の王太子ジェレミアに、夜会会場で婚約破棄を宣言された!
「この時を、ずっと待っておりました。ジェレミア様。これから、断罪のお時間です。よろしいですわね?」
そう言って、艶やかに微笑む断罪されるはずだったミレイユ……ジェレミアは予想もしなかった展開に、愕然としていたのだが……。
※あらすじ詐欺をしています。(両片思いすれ違いものです)
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
【R18】翡翠の鎖
環名
ファンタジー
ここは異階。六皇家の一角――翠一族、その本流であるウィリデコルヌ家のリーファは、【翠の疫病神】という異名を持つようになった。嫁した相手が不幸に見舞われ続け、ついには命を落としたからだ。だが、その葬儀の夜、喧嘩別れしたと思っていた翠一族当主・ヴェルドライトがリーファを迎えに来た。「貴女は【幸運の運び手】だよ」と言って――…。
※R18描写あり→*
今さら、私に構わないでください
ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。
彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。
愛し合う二人の前では私は悪役。
幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。
しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……?
タイトル変更しました。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
ほらやっぱり、結局貴方は彼女を好きになるんでしょう?
望月 或
恋愛
ベラトリクス侯爵家のセイフィーラと、ライオロック王国の第一王子であるユークリットは婚約者同士だ。二人は周りが羨むほどの相思相愛な仲で、通っている学園で日々仲睦まじく過ごしていた。
ある日、セイフィーラは落馬をし、その衝撃で《前世》の記憶を取り戻す。ここはゲームの中の世界で、自分は“悪役令嬢”だということを。
転入生のヒロインにユークリットが一目惚れをしてしまい、セイフィーラは二人の仲に嫉妬してヒロインを虐め、最後は『婚約破棄』をされ修道院に送られる運命であることを――
そのことをユークリットに告げると、「絶対にその彼女に目移りなんてしない。俺がこの世で愛しているのは君だけなんだ」と真剣に言ってくれたのだが……。
その日の朝礼後、ゲームの展開通り、ヒロインのリルカが転入してくる。
――そして、セイフィーラは見てしまった。
目を見開き、頬を紅潮させながらリルカを見つめているユークリットの顔を――
※作者独自の世界設定です。ゆるめなので、突っ込みは心の中でお手柔らかに願います……。
※たまに第三者視点が入ります。(タイトルに記載)
モブだった私、今日からヒロインです!
まぁ
恋愛
かもなく不可もない人生を歩んで二十八年。周りが次々と結婚していく中、彼氏いない歴が長い陽菜は焦って……はいなかった。
このまま人生静かに流れるならそれでもいいかな。
そう思っていた時、突然目の前に金髪碧眼のイケメン外国人アレンが…… アレンは陽菜を気に入り迫る。
だがイケメンなだけのアレンには金持ち、有名会社CEOなど、とんでもないセレブ様。まるで少女漫画のような付属品がいっぱいのアレン……
モブ人生街道まっしぐらな自分がどうして?
※モブ止まりの私がヒロインになる?の完全R指定付きの姉妹ものですが、単品で全然お召し上がりになれます。
※印はR部分になります。
稀代の大賢者は0歳児から暗躍する〜公爵家のご令息は運命に抵抗する〜
撫羽
ファンタジー
ある邸で秘密の会議が開かれていた。
そこに出席している3歳児、王弟殿下の一人息子。実は前世を覚えていた。しかもやり直しの生だった!?
どうしてちびっ子が秘密の会議に出席するような事になっているのか? 何があったのか?
それは生後半年の頃に遡る。
『ばぶぁッ!』と元気な声で目覚めた赤ん坊。
おかしいぞ。確かに俺は刺されて死んだ筈だ。
なのに、目が覚めたら見覚えのある部屋だった。両親が心配そうに見ている。
しかも若い。え? どうなってんだ?
体を起こすと、嫌でも目に入る自分のポヨンとした赤ちゃん体型。マジかよ!?
神がいるなら、0歳児スタートはやめてほしかった。
何故だか分からないけど、人生をやり直す事になった。実は将来、大賢者に選ばれ魔族討伐に出る筈だ。だが、それは避けないといけない。
何故ならそこで、俺は殺されたからだ。
ならば、大賢者に選ばれなければいいじゃん!と、小さな使い魔と一緒に奮闘する。
でも、それなら魔族の問題はどうするんだ?
それも解決してやろうではないか!
小さな胸を張って、根拠もないのに自信満々だ。
今回は初めての0歳児スタートです。
小さな賢者が自分の家族と、大好きな婚約者を守る為に奮闘します。
今度こそ、殺されずに生き残れるのか!?
とは言うものの、全然ハードな内容ではありません。
今回も癒しをお届けできればと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる