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【王女アナスタシア】
06.そして彼女は動き出す
しおりを挟むバシレイオス王らを退位に追い込んでオフィーリアの無念を晴らし、マケダニアの王位を継いだカリトンだったが、彼の治世は苦難と波乱の連続であった。
何しろ彼は、王位を継ぐまでヘーラクレイオス家の後継教育どころか一般的な王族教育も、王侯貴族子弟が当然身につけるべき基礎教養も礼儀作法も、ほとんど何も身についていなかった。父であったバシレイオス王に事実上の庶子として扱われ、まともな教育を受けさせてもらえなかった彼が、王として有能であるはずがなかったのだ。
その存在だけは知っていたマケダニアの貴族たちも、国家の中枢たる政務閣僚や政権運営の実務を担当する官僚や文官たちも、政治に関わらぬ国民たちも、ほとんど誰もカリトンの人となりや能力を知らなかった。そんな彼が唐突に王位を継いだところで、まともな国家運営ができるはずがなかったのである。
実務に長けた宰相ヴェロイア侯爵を留任させて補佐としていれば良かったのだろうが、その宰相をカリトンは真っ先に罷免してしまった。それだけでなく彼はオフィーリアの汚名を雪ごうとするあまりに、些細なことでも彼女を虐げていたと判断できる者たちを誰ひとり許さなかった。
アノエートス夫妻は判決通りに処刑され、エリメイア伯爵家やリンヒニ子爵家をはじめとした関係親族はもちろん、王宮の侍女も使用人も閣僚も文官も調べ上げられ処罰され、マケダニアの王宮には粛清の嵐が吹き荒れた。
そうして国政は乱れ、結果としてカリトンは即位して早々に暴虐の暗君として悪名を轟かせることになってしまったのである。
そんな彼がいまだに王位に在るのは、ひと通り復讐を終えたカリトンが彼本来の穏やかな気質を取り戻したことで、その人となりが本来は穏やかで、暴虐に見えたのはただただカストリア公女オフィーリアの名誉を挽回することだけを目指していたからだと臣民に理解されたからである。しかしそれでも王として無能であることには変わりなく、10年経ってもまだマケダニアの国内は政情不安から抜けきれていないという。
そしてそんなカリトン王に縁談を持ちかけるような意欲的な貴族たちは、揃いも揃って支配基盤の揺らいだヘーラクレイオス王家に取り入り国政を壟断しようとする野心家ばかりであった。カリトン王が「亡き公女オフィーリア以外に誰も娶るつもりはない」と公言したことでそれらの企みは全て排除できたものの、その影響で彼はいまだに独身のままである。もう28歳になるというのに、カリトン王には妃も世継ぎもいないのだ。
そうなると次に出てくるのは、王位とヘーラクレイオス家当主の座を相応しい人物に明け渡して退位せよという圧力である。誰も娶るつもりがない、つまり世継ぎを儲けることを拒否したも同然なのだから、これは当然のことでもあった。
王として立って以降、カリトンは彼なりに真摯に学び、謙虚に教えを乞い、寝る間も惜しんで誠実に公務に取り組んでいるという。それゆえにカリトン王への評価を改めて支持する一派もあり、現在は支持派と反対派で国政が二分されている。それでも反対派のほうが常に優勢な状況だ。ことに政権から遠ざけられていたバシレイオスの弟、ハラストラ公爵ゲンナディオスが公然と継承権を主張し、カリトン王批判の急先鋒に立っているという。
「カリトン様……おいたわしや……」
カリトンが王族としてあり得ないほど無能だったことは、オフィーリアもよく承知していることだ。何しろ少ないながらも顔を合わせ言葉を交わしていたのだから、幼い頃から次期公爵として最高峰の教育を受けてきていた彼女に分からないはずがない。
彼女が評価するカリトンの良さといえば、ひとえに穏やかで他者を思いやれるその心根だけである。だから彼女はボアネルジェスではなくカリトンが王位に就けばいいなどとは微塵も考えなかったし、仮にボアネルジェスとの婚約が無くなればカストリア家の公配として貰い受けてもいいかと考えていた程度だった。
だってカストリアの政務は全てオフィーリアがやれるのだから、カリトンが無能だろうと問題ないのだ。彼には自分の隣でただ笑っていてもらえればそれで良かったのだから。
彼女は決してカリトンを低く見て軽んじていたわけではない。置かれた環境のせいではあっても、彼にはそれしか出来ないと冷静に判断していただけだ。
というか、それは彼にしか出来ないことである。だってオフィーリアが自分の隣で彼に笑っていて欲しかったのだから。
「……だったら、今度こそわたくしが!カリトン様を幸せにして差し上げなくては!」
とか意気込んでみたところでアナスタシアはまだ6歳である。地位の危ういカリトンに嫁ぎたいと言い出したところで反対されるに決まっているし、6歳の幼女が28歳の青年王と婚約など組めるはずがない。そもそもアナスタシアを見てもオフィーリアだと彼が認識できるはずもなければ、そうだと主張して理解してもらえるとも思えない。
というか下手をすれば、新手の奸計だと勘ぐられかねない。カリトン自身は信じてくれたとしても、周囲の者たちは疑ってかかるに違いない。
だってアナスタシアはカリトンを支持して即位させた本国王家の姫なのだ。そんな彼女を妃として迎えろと迫るなど、アーギス家がヘーラクレイオス家を乗っ取る企みにしか見えないことだろう。
「…………どうしましょう、わたくし、カリトン様に嫁げないわ」
まさしく詰んだと言わざるを得ない。今のままカリトンに嫁ぎたければアーギス王家と縁を切るほかないだろうが、アナスタシアとしては大好きな家族と縁を切るなどあり得ない。それにアーギス家と縁を切ってしまえば身分上は平民になるのでますます嫁げなくなる。どこかの貴族家に養子として受けてもらってもいいが、そうしてまでカリトン王と縁を繋ぎたい家が果たしてあるだろうか。
だが、それでも。
多少分別がついたとはいえワガママなのは微塵も改善されていないアナスタシアは、自分の欲しいものを諦めるつもりは毛頭なかった。
「だったら!嫁げるように整えるのみよね!」
こうして、アナスタシアの長い長い婚活の野望が幕を開ける。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お父さま、お願いがあります」
きちんと先触れを出して約束を取り付けてから案内されてやってきた父の執務室で、決意を胸にアナスタシアは父の顔を真っ直ぐに見上げた。
「何かな?いつも言っているけれど、アナのお願いならこの父は何でも聞くよ」
相変わらずデレデレして、大好きだけれどちょっとポンコツなお父さま。一歩間違えれば子供たちの教育を誤ってあのバシレイオス王のようになりかねないと、アナスタシアは割と真剣に危惧している。
だがまあそれはそれとして、そんな父を利用しない手はない。
「わたくし、婚約者を決めたくありません」
「よし分かった。アナは誰とも婚約しなくていいからね」
ちょっとお父さま!?即断即決し過ぎじゃないかしら!?
「あの、嫁ぎたくないわけではないのです」
「大丈夫だよアナ。アナはいつまでもこの王宮で、アーギスの姫として生きていけばいいからね」
そんなの嫌です!何が悲しくてひとり寂しい老後を送らなければならないの!?
「そうではなくて。一生を共にするはんりょは自分で選びたいのです」
そう。まずはこの父とそれから母に釘を刺しておかなければ、早々に婚約者を決められてしまう。そうなる前から手を打たないと、婚活の野望は第一歩を踏み出すことなく頓挫してしまうのだ。
「…………アナにはそういう話はまだ早いから、気にしなくてもいいんだよ。時期が来れば、ちゃんと父様と母様で」
「それが嫌なのです、お父さま」
嫌だと言われて、途端に悲しげになるニケフォロス。
「だってお父さまとお母さまにおまかせしていたら、わたくしの知らない人がわたくしの婚約者になってしまうでしょう?」
「それはそうかも知れないけど、婚約してからでも少しずつ仲良く⸺」
「わたくしはっ、お互いに好きになってから婚約したいのっ!」
頬を紅潮させ、思わず拳を握って力説するアナスタシア。6歳の幼女のそのあまりの可愛らしさに、父王どころか執務室に詰めている秘書官や侍従や侍女や文官たちまでもが悶えて苦しんでいたが、ひとり彼女だけが気付いていない。
だってボアネルジェスとも親同士が決めた婚約だったのだ。それが仲を縮めるどころか浮気された挙げ句に冤罪をかけられ、罪人牢に入れられて自害するしかなくなったのだから、もはやちょっとしたトラウマである。
と、いきなり執務室の扉がバーン!と派手な音を立てて開かれ、大股で乗り込んできたのはまたしても王妃オイノエーである。
オイノエーはアナスタシアの座るソファに駆け寄る勢いで近付くと、彼女の隣に腰を下ろして愛娘をギュウッと抱きしめた。
「話は聞かせてもらったわ!アナ!全部この母に任せて頂戴!」
この流れ、なんだかものすごく既視感あるんですけどお母さま!?
「お母さま」
「なあに?アナ」
「ぬすみ聞きしたら、めっです」
そこら中の大人たちが、顔を真っ赤にして悶え崩れ落ちた。
「ああっわたくしのアナが可愛すぎるわ!一生そばにいて頂戴!」
「僕のアナが可憐すぎる!無理だよ嫁になんて出せるわけがない!」
ああ……なるほど、この夫婦似た者同士だったのね……。
ていうか「ダメ」って発音したつもりだったのに、舌っ足らずになってしまったわ。
などと壊滅状態の執務室にあって、ひとりスンとしているアナスタシアであった。
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