34 / 81
【王女アナスタシア】
01.彼女は目覚めた
しおりを挟む王女アナスタシア・ル・ギュナイコス・アーギスは、かつて西方世界の大半を支配していた古代ロマヌム帝国の直接の末裔を称する“八裔国”の一角たるイリシャ連邦王国の、本国王家であるアカエイア王国アーギス家に生まれた姫である。
父の名はアカエイア国王ニケフォロス、祖父はイリシャ連邦王たるアリストデーモスという。ニケフォロスには一男三女がおり、アナスタシアはその末の姫だ。
末っ子という事もあり、両親と兄姉から溺愛されて、アナスタシアは元気いっぱいワガママ放題に育った。いや正確には両親も兄姉も溺愛はすれど甘やかしすぎることはなかったのだが、なぜか兄妹の中でアナスタシアだけがワガママに育ってしまったのだ。
両親や側仕えたちが過度の贅沢を許したわけではなく、情操教育を怠ったわけでもない。とはいえアナスタシアはまだ5歳だから、教育よりも甘やかす方がまだ比重が大きい可能性もある。それでも兄姉たちの5歳時に比べればアナスタシアは明らかにワガママだ。
どれほどかと言えば、それまで手放さなかったお気に入りの玩具をある日突然見向きもしなくなったり、それまで特に問題なく仕えていた侍女に対して、ある時急に怒り出して解雇すると喚いたり、ある朝なんの前触れもなく「今日は起きない」と言い出して、昼過ぎまでベッドから出ようとしなかったり。
子供の可愛らしい気まぐれと言えばそれで済んでしまうのかも知れなかったが、それでもワガママには違いない。両親も兄姉も周りの大人たちもどうしたものかと頭を悩ませていた。
だって今のうちならまだ可愛いものだが、このまま育ってしまえば色々とアウトである。アカエイアの王家としても、イリシャの連邦王家としても、今のうちに矯正して立派な淑女に育ってもらわねばならない。
そう。今何とかしなければ、幼い彼女の将来が悲惨なことにもなりかねないのだ。
だがそんな周囲の心配をよそに、アナスタシアは今日も元気いっぱいワガママ放題である。今朝もそれまでよく食べていた人参を「わたくしそれキライよ。二度と料理に入れないでちょうだい」などと言い出して給仕のメイドや料理人を困らせている。
そしてそんな彼女を、たしなめるべき父ニケフォロスが目尻を下げて嬉しそうに見ているから始末に負えない。
「あなた。デレデレしてばかりいないで、アナのこときちんと叱ってやって下さいませ」
王妃のオイノエーにそう言われても、
「分かっているとも。でもまだあと1年くらい良いだろう?」
とか言ってヘラヘラデレデレしている始末。これでもすでに王位を継いだ32歳、いい年こいた立派な大人のはずなのだが、王の威厳などどこへやら。
まあここは王家の家族専用朝食室なので、信頼できる使用人たち以外に見られる心配はないのだが。
そんなある日、事件は起こった。
侍女たちを引き連れて昼下がりの庭園を散歩していたアナスタシアが、いきなり走り出したのだ。
「姫様!?」
「突然どうなさったのですか!?」
「そんなに走っては危のうございます!」
慌てて侍女たちが追いかけるも、5歳児とは思えぬスピードでアナスタシアは駆けてゆく。駆けるというか、ほとんど逃げたと言った方が正しそうな勢いである。
そして5歳児なものだからアナスタシアは渾身の全力疾走であり、普段から走り慣れない貴族子女出身の侍女たちがなかなか追いつかない。しかも全力疾走する彼女は、まだ5歳児らしく周囲の状況も確認できていなかった。
「あっ!」
足元の草に靴を滑らせて、アナスタシアが体勢を崩した。それだけなら良かったのだが。
バッシャーーーン!
ちょうど庭園に作られた池のそばまで来ていたアナスタシアは、その中に真っ逆さまに落ちてしまったのだ。
「きゃあああ!」
「姫様っ!」
「誰か、誰か来て!」
慌てて悲鳴を上げる侍女たち。だが誰も飛び込もうとはしない。なにしろ貴族出身なので誰も泳いだ事などないのだ。
そしてアナスタシアも当然それは同じであり、そもそも5歳児が泳げるわけもない。もっと幼い時分、例えば歩くことも出来ないような乳児であれば案外余計な力が入らず水に浮かんでいられたりもするのだが、しっかり自我も育って手足も自由に動かせる5歳のアナスタシアは、水に驚いて思いっきり暴れた。
そうするとどうなるか。
着ていたお気に入りの普段着が水を吸ってまとわりつき、一気に重くなった衣服は5歳児の身体の自由を奪ってゆく。そうしてアナスタシアは完全に水中に没した。
5歳児だからやむを得ないことだが、アナスタシアの身長では水底に足がつかなかった。大人であれば立ち上がれば溺れることはなかっただろうが、彼女にはそれができなかったのだ。
身体が自由に動かず、足をついて水面に顔を出せない彼女は、酸素を求めて水中で呼吸した。そのせいで大量に水を吸い込むことになった。
騒ぎを聞きつけて近くにいた近衛騎士が駆けつけてきて、水中に飛び込んでアナスタシアを引き上げた。だがその時には、もう彼女の呼吸は止まってしまっていたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ぼんやりと視界が開く。
ベッドの天蓋が目に入った。
自分の大好きな空色の天蓋…………待って、わたくし、ピンクが好きなのだけれど?
パチリと目を開く。
どうやら寝かされていたようだ。ふかふかの上掛けに、陽神の匂いが鼻孔をくすぐる。
ああ、そうね。普段からわたくし、寝具をよく陽射しに当てておくように指示していたものね。
………………え、普段からほとんどベッドに入らないのに、なぜわたくしはそんな指示を?
「姫様!」
「お気付きになられたわ!」
「誰か、御典医をお呼びして!」
目を開いたことで、周囲が一気に騒がしくなる。今の声はディーアとエリッサと、イオレイアかしら。
…………待って?わたくしの侍女にそんな名前の子たちいたかしら?
頭がぼうっとするのは、わたくしが寝ていることと関係があるのかしら。
あっ、もしかしてわたくし、公務の途中で倒れたのでは!?
と思って慌てて起き出そうとしたのに、侍女たちに押さえられて寝かされ、再び上掛けを被せられてしまった。お陽さまの匂い、気持ちいいわ。
しばらくしてやってきた典医は、知ってるけど知らない人だった。名前、何だったかしら?
「姫。私のことがお分かりになりますかな」
「…………ごめんなさい、名前は覚えていないわ」
典医の後ろで侍女たちが息を呑んでいる。なぜ?
「ご自身のお名前は、覚えておられますかな」
「わたくしは…………オフィーリア?」
あっ、イオレイアが倒れたわ。
「……姫様。姫様の御名はそんな名前ではございませんぞ」
「あっ、そうだったわね。わたくしはアナスタシアだったわ」
ねえ、ディーアもエリッサもどうして涙を流して喜んでいるの?
「姫は目を覚まされたばかりで、まだ混乱しておられます。処置は完璧に済んでおるので、しばらくはゆっくり静養なさると良いでしょう」
典医はわたくしの腕を取って脈を見て、目や口の中を覗き込んで何やら確かめて、それからそう言って一礼して下がったわ。
ゆっくり静養だなんて、そんなわけにはいかないのに。後でその旨しっかり言い含めておかなくては。
…………なぜ言い含める必要が?
「アナ!」
「アナスタシア!」
「気がついたって!?」
「ちょっと!大丈夫なの!?」
あっ、今度はお母さまとお父さま、それにお兄さまとお姉さままでいらしたわ。
……あら?わたくしには兄弟姉妹は居ないはず、では?
えっでも、確かにニケフォロスお父さまとオイノエーお母さま、それにヒュアキントスお兄さまとディミトラお姉さまよね。一番上のクレウーサお姉さまはいらっしゃらないのかしら。
待って?わたくしの母はアレサお母さまでは?父親は…………名前を思い出すのも嫌だわ。汚らわしい。
「…………アナ。どうしてそんな目で父を見るんだい?」
あっ、ニケフォロスお父さまがこの世の終わりみたいなお顔をなさっているわ。もしかして、顔に出てしまったのかしら?
と思う間もなく、ディミトラお姉さまに抱きつかれてしまったわ。
「アナ!もう、心配したのよ!」
涙を流して喜んで下さるディミトラお姉さま。オイノエーお母さまにも抱きしめられて喜ばれて、それから池に落ちたことをたっぷり叱られてしまったわ。
叱られたことなんてもういつ以来になるのか思い出せないほどだったけれど、不思議と嫌な思いはしなかったわ。わたくしのことを本当に心の底から心配して下さっているのが分かって、怖いどころかちょっと嬉しかった。
そうしてしばらく叱られ心配され無事を喜ばれて、今日のところはしっかり静養するよう言いつけられて、お母さまたちは寝室を出て行かれたわ。
わたくしは自分で思っていたより疲れていたのか、その後すぐに眠ってしまったの。
184
お気に入りに追加
3,786
あなたにおすすめの小説
婚約破棄される令嬢の心は、断罪された王子様の手の中。
待鳥園子
恋愛
公爵令嬢ミレイユは婚約者の王太子ジェレミアに、夜会会場で婚約破棄を宣言された!
「この時を、ずっと待っておりました。ジェレミア様。これから、断罪のお時間です。よろしいですわね?」
そう言って、艶やかに微笑む断罪されるはずだったミレイユ……ジェレミアは予想もしなかった展開に、愕然としていたのだが……。
※あらすじ詐欺をしています。(両片思いすれ違いものです)
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
【R18】翡翠の鎖
環名
ファンタジー
ここは異階。六皇家の一角――翠一族、その本流であるウィリデコルヌ家のリーファは、【翠の疫病神】という異名を持つようになった。嫁した相手が不幸に見舞われ続け、ついには命を落としたからだ。だが、その葬儀の夜、喧嘩別れしたと思っていた翠一族当主・ヴェルドライトがリーファを迎えに来た。「貴女は【幸運の運び手】だよ」と言って――…。
※R18描写あり→*
今さら、私に構わないでください
ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。
彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。
愛し合う二人の前では私は悪役。
幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。
しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……?
タイトル変更しました。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
ほらやっぱり、結局貴方は彼女を好きになるんでしょう?
望月 或
恋愛
ベラトリクス侯爵家のセイフィーラと、ライオロック王国の第一王子であるユークリットは婚約者同士だ。二人は周りが羨むほどの相思相愛な仲で、通っている学園で日々仲睦まじく過ごしていた。
ある日、セイフィーラは落馬をし、その衝撃で《前世》の記憶を取り戻す。ここはゲームの中の世界で、自分は“悪役令嬢”だということを。
転入生のヒロインにユークリットが一目惚れをしてしまい、セイフィーラは二人の仲に嫉妬してヒロインを虐め、最後は『婚約破棄』をされ修道院に送られる運命であることを――
そのことをユークリットに告げると、「絶対にその彼女に目移りなんてしない。俺がこの世で愛しているのは君だけなんだ」と真剣に言ってくれたのだが……。
その日の朝礼後、ゲームの展開通り、ヒロインのリルカが転入してくる。
――そして、セイフィーラは見てしまった。
目を見開き、頬を紅潮させながらリルカを見つめているユークリットの顔を――
※作者独自の世界設定です。ゆるめなので、突っ込みは心の中でお手柔らかに願います……。
※たまに第三者視点が入ります。(タイトルに記載)
モブだった私、今日からヒロインです!
まぁ
恋愛
かもなく不可もない人生を歩んで二十八年。周りが次々と結婚していく中、彼氏いない歴が長い陽菜は焦って……はいなかった。
このまま人生静かに流れるならそれでもいいかな。
そう思っていた時、突然目の前に金髪碧眼のイケメン外国人アレンが…… アレンは陽菜を気に入り迫る。
だがイケメンなだけのアレンには金持ち、有名会社CEOなど、とんでもないセレブ様。まるで少女漫画のような付属品がいっぱいのアレン……
モブ人生街道まっしぐらな自分がどうして?
※モブ止まりの私がヒロインになる?の完全R指定付きの姉妹ものですが、単品で全然お召し上がりになれます。
※印はR部分になります。
稀代の大賢者は0歳児から暗躍する〜公爵家のご令息は運命に抵抗する〜
撫羽
ファンタジー
ある邸で秘密の会議が開かれていた。
そこに出席している3歳児、王弟殿下の一人息子。実は前世を覚えていた。しかもやり直しの生だった!?
どうしてちびっ子が秘密の会議に出席するような事になっているのか? 何があったのか?
それは生後半年の頃に遡る。
『ばぶぁッ!』と元気な声で目覚めた赤ん坊。
おかしいぞ。確かに俺は刺されて死んだ筈だ。
なのに、目が覚めたら見覚えのある部屋だった。両親が心配そうに見ている。
しかも若い。え? どうなってんだ?
体を起こすと、嫌でも目に入る自分のポヨンとした赤ちゃん体型。マジかよ!?
神がいるなら、0歳児スタートはやめてほしかった。
何故だか分からないけど、人生をやり直す事になった。実は将来、大賢者に選ばれ魔族討伐に出る筈だ。だが、それは避けないといけない。
何故ならそこで、俺は殺されたからだ。
ならば、大賢者に選ばれなければいいじゃん!と、小さな使い魔と一緒に奮闘する。
でも、それなら魔族の問題はどうするんだ?
それも解決してやろうではないか!
小さな胸を張って、根拠もないのに自信満々だ。
今回は初めての0歳児スタートです。
小さな賢者が自分の家族と、大好きな婚約者を守る為に奮闘します。
今度こそ、殺されずに生き残れるのか!?
とは言うものの、全然ハードな内容ではありません。
今回も癒しをお届けできればと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる