2 / 81
【公女が死ぬまで】
02.オフィーリアと王宮の人々(1)
しおりを挟む「カストリア公女、今朝になってそのようなことを仰せられましても困りますぞ」
「本当に申し訳ありません。わたくしが至らぬばかりにご迷惑をおかけすることとなってしまいまして」
申し訳なさそうに謝罪する小柄なオフィーリアに対して、はるか頭上から冷ややかな目を向けるのは、王国の宰相を務めるヴェロイア侯爵。現在のバシレイオス王の先代の時代から国に仕えている、廷臣たちのなかでも長老格の人物である。長年出仕してきたことによる政治手腕と調整能力を買われて、宰相の地位を任されてもう10年になる。
誰からも一目置かれる切れ者というわけではなく、他を圧するカリスマ性があるわけでもなく。長身であること以外にさして目立たぬ、敵の少ないだけの穏健派だとしか見られていなかったヴェロイア侯爵だったが、そんな彼が長く宰相の地位を占めるとは誰も予想しなかったことだろう。抜群の調整能力と、巧みに失点を回避する手腕はまさに老獪というべきであり、宮中の誰よりも長身痩躯で、老いてなお全く曲がることのないその背とも相まって、今では陰で密かに“怪物”などと徒名されている。
だが、そんな彼とて神ならぬ人の身であり、できる事があればできない事も当然ある。朝になって宮廷の宰相執務室に顔を出すなり面会を求められ、昼から予定されていた重装戦士団の閲兵式を延期したいなどと言われても、できるわけがない。
「もう各部署とも準備を万端に整えて、あとは本日の閲兵式に臨むだけだったというのに。まだ予算も組めておらぬとは一体どういうことでございますかな」
各種公務の予算は、各部署から提出された概算要求を元にあらかじめ確保しておかねばならないものだ。終了後に正確に計算された最終決算報告の提出を待って、その確保予算から迅速に交付しなければならないからである。
各部署とも準備段階で予算を消化しているのだから、すでに支出は確定なのだ。だがその予算確保も出来ていないとなれば、決算報告が上がってきても支出できない。できなければ各部署の資金が目減りしてその後の様々な公務の遂行に支障が出かねないし、ひとつの案件が終わらなければ、いつまでも文官の手を取られる事になる。
「それは……その」
まさかボアネルジェスが提出された計画書の存在に気付いていなかった、などとオフィーリアの口から言えるわけもない。だから彼女も咄嗟には上手く言い逃れることができない。
結局、彼女はいつもの言い訳を使うしかなかった。
「わたくしが見落としていたのです。お詫びのしようもございません」
筆頭公爵家のご令嬢、それも立太子が濃厚な第二王子の婚約者に深く頭を下げられて、宰相は天を仰ぐ。本来なら宰相よりもずっと地位の高い相手なのだ。まだ学生で令嬢の身とはいえ、筆頭公爵家の次期公爵にして第二王子の婚約者、ゆくゆくは王妃となる予定の人物にそこまでされては、それ以上責めることもできそうにない。
しかも元より長身で老境に差し掛かってなお腰も曲がらず、そのせいで普段から人を見下していると陰口を叩かれる自分に対して、成人したばかりで同世代の子女の中でもひときわ小柄なオフィーリアが頭を下げているのだ。第三者から見ればどうしたって、老宰相が幼気な公女を虐めているようにしか見えないだろう。
「…………本日の閲兵式は中止と致すほかありますまいな」
だから宰相は諦めるしかなかった。だがその代わり、彼は聞こえるようにわざとため息をつく。その程度の意趣返しくらいは容認せよとでも言わんばかりに。
「本当に、申し訳ありません」
「ですが、このような事が何度も続くのはやつがれとしてもご容赦願いたいものですな」
「…………はい。返す言葉もございません」
オフィーリアは縮こまるしかない。
だって今に始まったことではないのだ。
ボアネルジェスはこれまでにも度々、書類の確認を怠って現場に迷惑をかけてきているのだ。ほとんどはオフィーリアか、ボアネルジェスの最側近であるヨルゴスのどちらかが事前に気付いてボアネルジェスにそれとなく気付かせ、決定的なミスになるのを防いでいるのだが、それでもこうしてどうにもならない事態に陥って、現場に迷惑をかけたことが何度もあったのだ。
さすがに当日の朝にまで発覚が遅れた事例はこれまでなかったのだが、今の調子では今後もないとは限らない。というかボアネルジェスが調子に乗って引き受ける公務を増やせば増やすほど、今後こうしたトラブルは増えるに違いない。
だからこそオフィーリアは、『今後は二度とないようにする』という約束の一言が言えない。言ってもし二度目をやらかしたら。それを想像するだけで心胆が冷える。
「…………二度と起こさぬよう努力する、その一言さえ言えぬのですかな」
「……!」
まだ下げたままのオフィーリアの頭上に、宰相の冷めきった声が降り、思わず息を呑んだ。
言われて当然の一言だが、実際に失望の声音を浴びせられるのはやはり辛いものがある。
「聞くところによると、公女が自ら望まれて第二王子殿下のご公務の補佐を買って出ておられるとか。⸺ですが、これではのう」
そう。オフィーリアがボアネルジェスの公務に関連して宮廷内を常に駆けずり回っているのは、廷臣たちの誰もが知っていることだ。
そしてそれが、次期王妃として積極的に公務に関わりたいオフィーリアが、志願してボアネルジェスの公務を手伝っているからだということも、廷臣たち皆が承知しているのだ。
ただしオフィーリア自身がそう公言した事は一度もない。ボアネルジェスがそう吹聴しているのだ。『いくら婚約関係にあるとはいえ、ご公務を手伝わせるのはいかがなものか』と宰相ヴェロイア侯爵が呈した苦言に咄嗟にそう返してから、ボアネルジェスはずっとそう言い続けていて、オフィーリアはそれを否定しなかった。否定すればボアネルジェスが虚偽を述べたことになり、彼の評価が落ちるからである。
そうして自ら望んで関わっている第二王子の公務で、表向きはオフィーリアの失態が繰り返されているわけで、宰相に限らず宮廷内での彼女の評価は下がるばかりだ。
「各部署への連絡と謝罪も、当然やって頂けるのでしょうな」
「⸺は、はい。それはもちろん」
「結構。では次こそ、しっかりお頼み申しますぞ」
本来ならばオフィーリアには他にも手をつけなければならない第二王子の公務が山とある。だが宰相の言葉を断れるわけもない。頭も上げられぬままオフィーリアはさらに深く低頭して、宰相が踵を返して執務机に向かう気配を追うしかなかった。
ちなみに宰相は宰相で、中止するしかない閲兵式の無駄になった予算策定をはじめ、予定になかった仕事をこれからこなさねばならない。オフィーリアに全て負わせて嫌味を言って終わりではないのだ。
なお延期は不可である。魔獣被害に喘ぐ辺境に「閲兵式の日程を組み直すので派遣が遅れる」などと言えるわけがないので、重装戦士団は今日のうちに出発しなければならない。
予定外の公務を増やされたことに頭や胃を痛めつつ、宰相はため息とともにそれらを飲み込むしかなかった。
新たに組み上げるしかない予算計画書は、全て準備を整えて決裁の署名を賜るだけの状態にせねば。もはやオフィーリアを信用していない宰相は、そう心に決めて執務室を退出する彼女を見送った。
107
お気に入りに追加
3,785
あなたにおすすめの小説
婚約破棄される令嬢の心は、断罪された王子様の手の中。
待鳥園子
恋愛
公爵令嬢ミレイユは婚約者の王太子ジェレミアに、夜会会場で婚約破棄を宣言された!
「この時を、ずっと待っておりました。ジェレミア様。これから、断罪のお時間です。よろしいですわね?」
そう言って、艶やかに微笑む断罪されるはずだったミレイユ……ジェレミアは予想もしなかった展開に、愕然としていたのだが……。
※あらすじ詐欺をしています。(両片思いすれ違いものです)
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
【R18】翡翠の鎖
環名
ファンタジー
ここは異階。六皇家の一角――翠一族、その本流であるウィリデコルヌ家のリーファは、【翠の疫病神】という異名を持つようになった。嫁した相手が不幸に見舞われ続け、ついには命を落としたからだ。だが、その葬儀の夜、喧嘩別れしたと思っていた翠一族当主・ヴェルドライトがリーファを迎えに来た。「貴女は【幸運の運び手】だよ」と言って――…。
※R18描写あり→*
今さら、私に構わないでください
ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。
彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。
愛し合う二人の前では私は悪役。
幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。
しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……?
タイトル変更しました。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
ほらやっぱり、結局貴方は彼女を好きになるんでしょう?
望月 或
恋愛
ベラトリクス侯爵家のセイフィーラと、ライオロック王国の第一王子であるユークリットは婚約者同士だ。二人は周りが羨むほどの相思相愛な仲で、通っている学園で日々仲睦まじく過ごしていた。
ある日、セイフィーラは落馬をし、その衝撃で《前世》の記憶を取り戻す。ここはゲームの中の世界で、自分は“悪役令嬢”だということを。
転入生のヒロインにユークリットが一目惚れをしてしまい、セイフィーラは二人の仲に嫉妬してヒロインを虐め、最後は『婚約破棄』をされ修道院に送られる運命であることを――
そのことをユークリットに告げると、「絶対にその彼女に目移りなんてしない。俺がこの世で愛しているのは君だけなんだ」と真剣に言ってくれたのだが……。
その日の朝礼後、ゲームの展開通り、ヒロインのリルカが転入してくる。
――そして、セイフィーラは見てしまった。
目を見開き、頬を紅潮させながらリルカを見つめているユークリットの顔を――
※作者独自の世界設定です。ゆるめなので、突っ込みは心の中でお手柔らかに願います……。
※たまに第三者視点が入ります。(タイトルに記載)
モブだった私、今日からヒロインです!
まぁ
恋愛
かもなく不可もない人生を歩んで二十八年。周りが次々と結婚していく中、彼氏いない歴が長い陽菜は焦って……はいなかった。
このまま人生静かに流れるならそれでもいいかな。
そう思っていた時、突然目の前に金髪碧眼のイケメン外国人アレンが…… アレンは陽菜を気に入り迫る。
だがイケメンなだけのアレンには金持ち、有名会社CEOなど、とんでもないセレブ様。まるで少女漫画のような付属品がいっぱいのアレン……
モブ人生街道まっしぐらな自分がどうして?
※モブ止まりの私がヒロインになる?の完全R指定付きの姉妹ものですが、単品で全然お召し上がりになれます。
※印はR部分になります。
稀代の大賢者は0歳児から暗躍する〜公爵家のご令息は運命に抵抗する〜
撫羽
ファンタジー
ある邸で秘密の会議が開かれていた。
そこに出席している3歳児、王弟殿下の一人息子。実は前世を覚えていた。しかもやり直しの生だった!?
どうしてちびっ子が秘密の会議に出席するような事になっているのか? 何があったのか?
それは生後半年の頃に遡る。
『ばぶぁッ!』と元気な声で目覚めた赤ん坊。
おかしいぞ。確かに俺は刺されて死んだ筈だ。
なのに、目が覚めたら見覚えのある部屋だった。両親が心配そうに見ている。
しかも若い。え? どうなってんだ?
体を起こすと、嫌でも目に入る自分のポヨンとした赤ちゃん体型。マジかよ!?
神がいるなら、0歳児スタートはやめてほしかった。
何故だか分からないけど、人生をやり直す事になった。実は将来、大賢者に選ばれ魔族討伐に出る筈だ。だが、それは避けないといけない。
何故ならそこで、俺は殺されたからだ。
ならば、大賢者に選ばれなければいいじゃん!と、小さな使い魔と一緒に奮闘する。
でも、それなら魔族の問題はどうするんだ?
それも解決してやろうではないか!
小さな胸を張って、根拠もないのに自信満々だ。
今回は初めての0歳児スタートです。
小さな賢者が自分の家族と、大好きな婚約者を守る為に奮闘します。
今度こそ、殺されずに生き残れるのか!?
とは言うものの、全然ハードな内容ではありません。
今回も癒しをお届けできればと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる