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07.そして始まる婚約破棄
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翌日の朝食の際、マインラートから改めて婚約披露の夜会を打診されて、アンジェリーナは微笑みをもって返答とした。感極まったのか彼に抱き締められて、面映いやら照れくさいやらで突き飛ばしたいところだったが、せっかくなのでと彼女は彼のしたいようにさせてあげた。
城内は急速に慌ただしくなった。誰も彼もが、侍女や使用人や騎士団員は元より出入りの商人さえもが浮足立ち、彼女を見かけるたびにお祝いを述べるようになった。
それがものすごく照れくさくて、顔も火照るし上手く言葉も返せないしで、あっという間に「殿下の婚約者さまが可愛い」と評判になってしまった。恥ずかしいのでそんな噂は何とかして取り消したかったが、なんか雰囲気的に何を言っても逆効果のような気がして、結局彼女は流されるままに時を過ごすしかなかった。
彼女は城内の散策を止めてしまった。食事や入浴で出てくる以外ではほとんど自室で過ごすようになり、それがまた「婚約者さまは緊張から不安になっておられるのではないか」と噂になった。
そんな噂を真に受けてマインラートが部屋まで突撃してきたりして、結局否定することも追い返すこともできずにソファで抱き締められたまま日中を過ごしたこともあった。
お披露目の夜会の準備は着々と進み、城へ来てちょうど2ヶ月目の日の夜に開かれることになった。
季節は花季を過ぎ、もう雨季に入っていた。
お披露目の夜会のためにと用意されたのは、あの日のエンパイアラインのイブニングドレスだ。あれからほぼ2ヶ月が経過していたが、アンジェリーナの体型はさほども変わっておらずサイズ直しも必要なかったほどだ。
ただし裏地だけは綿素材ではなく通気性の良い麻素材に手直しされたとのこと。きっと雨季の高い湿度への対策だろう。
髪の毛も丁寧にまとめられ美しく飾られた。今度は黒髪の、しかも彼女の髪色に合わせたウィッグがきちんと用意されて、彼女の美しさをより一層際立たせた。
あの日の衣装合わせと同じように、いやそれ以上に着飾らされて、鏡の中の自身の姿に思わず彼女でさえ見惚れてしまう。そこには顔を真っ赤に染めた美しい娘が立っていたのだから。
ドアがノックされ、着付けを手伝ってくれていた侍女のひとりが応答しドアを開ける音がした。なのにノックの主がいつまでも入ってくる気配がなくて彼女が振り返ると、そこにはやはり顔を真っ赤に染めたマインラートが立っていた。
「……………殿下?」
「……………………あ、ああ。済まない」
呼びかけにもしばらく応じなかった皇子は、ややあって我に返ったように返事をすると室内に入ってきた。ようやく彼女の前まで来るが、顔は赤いままだ。
「とても綺麗だ、アンジェリーナ………」
「ええと、ありがとう………」
言葉少なに見つめ合うふたりだったが、侍女のひとりがすかさず「ここでイチャつくのはご遠慮下さいませ!」と割って入ったので、ふたりして気まずくなって離れてしまった。
ふと彼女がその侍女を見ると、なんと変装したオーロラである。顔も声も全く別人に変わっていたが、藍色の瞳がそのままで彼女にはすぐ分かった。
オーロラは誰にも気付かれないようサッと彼女にウインクすると、「準備が全て整いましたらお呼びしますから、殿下はそれまでお待ちになって」などと言いながら彼を部屋から追い出してしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いよいよ夜会が始まり、来賓や招待客が続々と会場の大広間に入ってゆく。以前、直前になって延期と発表された皇弟殿下の婚約発表である。きっと訪れる招待客の誰もが期待に胸を膨らませていることだろう。
ホストであり主賓でもあるマインラートとアンジェリーナは最後の入場だ。
「私、今日この日を一生忘れないわ」
ホスト専用の入場扉の前でお披露目のその時を待ちながら、彼女は傍らの婚約者に声をかけた。
「ああ。私もだ」
彼も同じ気持ちだと応えてくれて、彼女はたまらなく嬉しいような、申し訳ないような、そんな気持ちを抱いていた。
広間への扉が開く。
きっと集まった大勢の人々は、今か今かと待ちわびているに違いない。
ようやく姿を現したふたりを、会場の人々は万雷の拍手で出迎えた。
彼と彼女はそれに礼をもって応えてから、すぐに始まった楽団の演奏に合わせて広間の中心でふたりだけのファースト・ダンスを踊る。彼はブロイス皇族、彼女は由緒ある伯爵家の令嬢。互いに基礎教養としてダンスはひと通り習得済みで、幸せを振りまくように優雅に華麗にステップを刻んだ。
「アンジェラ、お前を愛している」
「ええ、私もよマイン」
ふたりは互いにだけ聞こえるように、互いの冒険者名で呼びあった。それはあたかも、地位も権力も何もかも脱ぎ捨てた、ひとりの男と女として互いにかけた言葉のようだった。
そのことに、かすかに彼女の心が痛んだ。お互いにその名で呼び合うのもこれが最後だと、分かってしまったからだった。
もうあの日々には戻れない。立ち止まることも許されない。どんなに関係性が変わろうとも、先へ進むしか道はないのだ。
ふたりだけのダンスが終わり、今度は招待客たちが思い思いにそれぞれのパートナーたちと踊り始める。ふたりは互いに一旦離れて、ダンスに参加しない招待客たちと歓談に回る。
招待客はブロイス国内の主要貴族が大半で、ブロイスの友好国であるアウストリー公国やポーリタニア王国、アレマニア公国、シレジア侯国などの要人はもちろん、普段は敵対しているガリオン王国やイヴェリアス王国、エトルリア連邦王国、それにアルヴァイオン大公国などからも少数が招かれていた。つまり世界の主要各国から大勢の客たちが参列しているわけだ。
アルヴァイオンから来ていたのはオリバー・ド・ストーン前侯爵夫妻で、女王陛下の名代として招待されたとのことだった。
「それにしても、貴女が噂の婚約者だったとは驚きましたよアンジェリーナ嬢」
ストーン前侯爵が、にこやかに彼女に話しかける。
「驚かせて申し訳ありません。陛下が情報統制をなさって、敢えて我が国で噂が広まらぬよう計らって下さったのです」
「そうでしたか。我々も何も知らされておりませんでしてな。此度も陛下は『行けば分かる』としか仰せにならずに…」
イタズラ好きでサプライズを好む陛下らしい、とアンジェリーナは内心で苦笑するしかない。
「ああそれと、愚息が大変なご迷惑をおかけしたようで改めてお詫びを申し上げる」
そう、全ては現ストーン侯爵、ショーン・ド・ストーンが彼女を無理やり妻にしようとしたことから始まったことだった。だがそのおかげで数奇な紆余曲折を経て、そして今日この日があるのだから、今となってはそれを怒っていいものやら。
「愚息には真に反省の色が見えるまで無期限の謹慎処分を言い渡してあります。それでどうかお納め頂ければ」
ショーンの処分は女王も裁可してのことだとストーン前侯は語った。謹慎が解けるまでは前侯が当主代行としてすべての執務を肩代わりするのだそうだ。
まあそれに関してはアンジェリーナがどうこう言える立場でもないし権利もない。それよりも老境に差し掛かっている前侯の負担が増さないかの方が心配である。
「ははは。なんのこれしき、まだまだ若い者には負けませんとも」
そう言って微笑う顔は確かに無理している感じではなかったので、まあ大丈夫そうだ。何か彼なりのモチベーション維持の方法でもあるのだろう。
「それにお恥ずかしい話ですが、愚息めはどうやら“六本指”にまで恨みを買っているようでしてな」
六本指、とは数年前まで西方世界の各地を騒がせていた大盗賊のことだ。主に悪徳貴族を襲って金品を奪い、庶民やスラムに施しをするので世間からは義賊と持て囃されているが、貴族たちからは恐怖と怨嗟の象徴でもある。
ここ最近はほとんど名を聞かなくなっていたが、再び現れたのだという。そしてストーン家ではなくショーンの個人資産を狙って派手に盗んでいったのだとか。ショーン自身も一度遭遇したらしく、護衛たちが発見した時には恐怖に染まった顔で失禁したまま気絶していたという。
以来彼は怯えきって、実のところ謹慎させるまでもなく自室から出てこないのだそうだ。
何があったかは知らないが、まあヤツのことだ、きっと自業自得の案件だろう。
「お姉様、お久しゅうございます。ご機嫌うるわしゅう」
ストーン前侯爵夫妻と挨拶を交して別れたアンジェリーナの元へ、ひとりの令嬢が歩み寄って挨拶してきた。
相変わらず一分の隙もない完璧な淑女礼だ。
「あ、サーヤちゃん。来てくれたんだ」
「本当に、いつもいつもお姉様には驚かされますわ。母国で行方不明になられたから心配しておりましたのに、いきなりマインラート従兄様の婚約者だなんて」
サーヤ・フォン・シュヴァルツヴァルトはアレマニア公国の筆頭宮廷魔術師で、公国を治めるアルフレート・フォン・シュヴァルツヴァルト・アレマニア公爵の従妹でもある。アルフレートだけでなくブロイス現皇帝のヴィルヘルム三世の従妹にもあたり、だからマインラートとも義理ではあるが又従兄妹の関係になる。
そして〈賢者の学院〉674年度、つまり去年の“知識の塔”首席卒塔生でもある。アンジェリーナが在塔中に親しく付き合っていた、数少ない後輩のひとりだ。
今回彼女は従兄にして主でもあるアルフレートの名代として出席したのだという。なんだ、あの超絶イケメン今日は来てないのか。残念。
「それで?お姉様今度は何を企んでらっしゃいますの?」
「あはは、やっぱサーヤちゃんにはバレちゃうか」
でも内緒、とアンジェリーナは微笑う。サーヤはため息を吐きつつ、困らせるのはマインラート従兄様だけにして下さいませ、と言うので、笑顔で安請け合いしておいた。
「アンジェリーナ、こちらへ」
そうして歓談を続けていると、マインラートから呼ばれた。彼女が彼に歩み寄ると、目ざとく察知した周囲がサッと引いて、広間の真ん中にはふたりだけが残る。
心臓がドキドキしてきて、顔が上気してくるのが自分でも分かる。
いよいよ来たのだ、この時が。
「私の求婚を受けてくれて感謝している」
マインラートはどこか陶酔した様子で話し始めた。
「最初に会った時から、私はそなたのことが忘れられなかった。今にして思えばあの時から、私はそなたに惹かれていたのだろう。
アルヴァイオンまで追っていったのもそのためだ。せめてもうひと目逢いたいと、そう願わずにはおれなかったのだ。
そして、かの国でそなたが誰であるか知った。同時に、上位の貴族から無理やり婚約させられそうになっている事も知った。だから居ても立ってもおれずにそなたの後を追い、無我夢中でそなたを救い出した」
長い。要点は簡潔に。
そう言いたかったが彼女は我慢して聞いていた。
周りの招待客たちはその馴れ初めをうっとりしたように聴き入っている。
「あの時、そなたのことを手放したくないと強く願ったのだ。だから少々強引な手も使ってしまったが、どうか許して欲しい。
そして、よく私の想いに応えてくれた。この婚約を受けてくれたこと、改めて礼を言う。
そしてこの場を借りて改めて申し込みたい。
私と結婚をして欲しい。私の傍で、妃となって生涯にわたって私を支えてはくれまいか」
マインラートはそう言って彼女の眼前に跪き、その右手を取って手の甲にキスを落とした。
感動的で、熱烈な求愛を目の当たりにして、居並ぶ令嬢方が息を呑んで感動しているのが手に取るように分かる。
「ええ」
努めて冷静に、満面の笑みを浮かべながらアンジェリーナははっきりと宣言した。
「お断りいたします」
城内は急速に慌ただしくなった。誰も彼もが、侍女や使用人や騎士団員は元より出入りの商人さえもが浮足立ち、彼女を見かけるたびにお祝いを述べるようになった。
それがものすごく照れくさくて、顔も火照るし上手く言葉も返せないしで、あっという間に「殿下の婚約者さまが可愛い」と評判になってしまった。恥ずかしいのでそんな噂は何とかして取り消したかったが、なんか雰囲気的に何を言っても逆効果のような気がして、結局彼女は流されるままに時を過ごすしかなかった。
彼女は城内の散策を止めてしまった。食事や入浴で出てくる以外ではほとんど自室で過ごすようになり、それがまた「婚約者さまは緊張から不安になっておられるのではないか」と噂になった。
そんな噂を真に受けてマインラートが部屋まで突撃してきたりして、結局否定することも追い返すこともできずにソファで抱き締められたまま日中を過ごしたこともあった。
お披露目の夜会の準備は着々と進み、城へ来てちょうど2ヶ月目の日の夜に開かれることになった。
季節は花季を過ぎ、もう雨季に入っていた。
お披露目の夜会のためにと用意されたのは、あの日のエンパイアラインのイブニングドレスだ。あれからほぼ2ヶ月が経過していたが、アンジェリーナの体型はさほども変わっておらずサイズ直しも必要なかったほどだ。
ただし裏地だけは綿素材ではなく通気性の良い麻素材に手直しされたとのこと。きっと雨季の高い湿度への対策だろう。
髪の毛も丁寧にまとめられ美しく飾られた。今度は黒髪の、しかも彼女の髪色に合わせたウィッグがきちんと用意されて、彼女の美しさをより一層際立たせた。
あの日の衣装合わせと同じように、いやそれ以上に着飾らされて、鏡の中の自身の姿に思わず彼女でさえ見惚れてしまう。そこには顔を真っ赤に染めた美しい娘が立っていたのだから。
ドアがノックされ、着付けを手伝ってくれていた侍女のひとりが応答しドアを開ける音がした。なのにノックの主がいつまでも入ってくる気配がなくて彼女が振り返ると、そこにはやはり顔を真っ赤に染めたマインラートが立っていた。
「……………殿下?」
「……………………あ、ああ。済まない」
呼びかけにもしばらく応じなかった皇子は、ややあって我に返ったように返事をすると室内に入ってきた。ようやく彼女の前まで来るが、顔は赤いままだ。
「とても綺麗だ、アンジェリーナ………」
「ええと、ありがとう………」
言葉少なに見つめ合うふたりだったが、侍女のひとりがすかさず「ここでイチャつくのはご遠慮下さいませ!」と割って入ったので、ふたりして気まずくなって離れてしまった。
ふと彼女がその侍女を見ると、なんと変装したオーロラである。顔も声も全く別人に変わっていたが、藍色の瞳がそのままで彼女にはすぐ分かった。
オーロラは誰にも気付かれないようサッと彼女にウインクすると、「準備が全て整いましたらお呼びしますから、殿下はそれまでお待ちになって」などと言いながら彼を部屋から追い出してしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いよいよ夜会が始まり、来賓や招待客が続々と会場の大広間に入ってゆく。以前、直前になって延期と発表された皇弟殿下の婚約発表である。きっと訪れる招待客の誰もが期待に胸を膨らませていることだろう。
ホストであり主賓でもあるマインラートとアンジェリーナは最後の入場だ。
「私、今日この日を一生忘れないわ」
ホスト専用の入場扉の前でお披露目のその時を待ちながら、彼女は傍らの婚約者に声をかけた。
「ああ。私もだ」
彼も同じ気持ちだと応えてくれて、彼女はたまらなく嬉しいような、申し訳ないような、そんな気持ちを抱いていた。
広間への扉が開く。
きっと集まった大勢の人々は、今か今かと待ちわびているに違いない。
ようやく姿を現したふたりを、会場の人々は万雷の拍手で出迎えた。
彼と彼女はそれに礼をもって応えてから、すぐに始まった楽団の演奏に合わせて広間の中心でふたりだけのファースト・ダンスを踊る。彼はブロイス皇族、彼女は由緒ある伯爵家の令嬢。互いに基礎教養としてダンスはひと通り習得済みで、幸せを振りまくように優雅に華麗にステップを刻んだ。
「アンジェラ、お前を愛している」
「ええ、私もよマイン」
ふたりは互いにだけ聞こえるように、互いの冒険者名で呼びあった。それはあたかも、地位も権力も何もかも脱ぎ捨てた、ひとりの男と女として互いにかけた言葉のようだった。
そのことに、かすかに彼女の心が痛んだ。お互いにその名で呼び合うのもこれが最後だと、分かってしまったからだった。
もうあの日々には戻れない。立ち止まることも許されない。どんなに関係性が変わろうとも、先へ進むしか道はないのだ。
ふたりだけのダンスが終わり、今度は招待客たちが思い思いにそれぞれのパートナーたちと踊り始める。ふたりは互いに一旦離れて、ダンスに参加しない招待客たちと歓談に回る。
招待客はブロイス国内の主要貴族が大半で、ブロイスの友好国であるアウストリー公国やポーリタニア王国、アレマニア公国、シレジア侯国などの要人はもちろん、普段は敵対しているガリオン王国やイヴェリアス王国、エトルリア連邦王国、それにアルヴァイオン大公国などからも少数が招かれていた。つまり世界の主要各国から大勢の客たちが参列しているわけだ。
アルヴァイオンから来ていたのはオリバー・ド・ストーン前侯爵夫妻で、女王陛下の名代として招待されたとのことだった。
「それにしても、貴女が噂の婚約者だったとは驚きましたよアンジェリーナ嬢」
ストーン前侯爵が、にこやかに彼女に話しかける。
「驚かせて申し訳ありません。陛下が情報統制をなさって、敢えて我が国で噂が広まらぬよう計らって下さったのです」
「そうでしたか。我々も何も知らされておりませんでしてな。此度も陛下は『行けば分かる』としか仰せにならずに…」
イタズラ好きでサプライズを好む陛下らしい、とアンジェリーナは内心で苦笑するしかない。
「ああそれと、愚息が大変なご迷惑をおかけしたようで改めてお詫びを申し上げる」
そう、全ては現ストーン侯爵、ショーン・ド・ストーンが彼女を無理やり妻にしようとしたことから始まったことだった。だがそのおかげで数奇な紆余曲折を経て、そして今日この日があるのだから、今となってはそれを怒っていいものやら。
「愚息には真に反省の色が見えるまで無期限の謹慎処分を言い渡してあります。それでどうかお納め頂ければ」
ショーンの処分は女王も裁可してのことだとストーン前侯は語った。謹慎が解けるまでは前侯が当主代行としてすべての執務を肩代わりするのだそうだ。
まあそれに関してはアンジェリーナがどうこう言える立場でもないし権利もない。それよりも老境に差し掛かっている前侯の負担が増さないかの方が心配である。
「ははは。なんのこれしき、まだまだ若い者には負けませんとも」
そう言って微笑う顔は確かに無理している感じではなかったので、まあ大丈夫そうだ。何か彼なりのモチベーション維持の方法でもあるのだろう。
「それにお恥ずかしい話ですが、愚息めはどうやら“六本指”にまで恨みを買っているようでしてな」
六本指、とは数年前まで西方世界の各地を騒がせていた大盗賊のことだ。主に悪徳貴族を襲って金品を奪い、庶民やスラムに施しをするので世間からは義賊と持て囃されているが、貴族たちからは恐怖と怨嗟の象徴でもある。
ここ最近はほとんど名を聞かなくなっていたが、再び現れたのだという。そしてストーン家ではなくショーンの個人資産を狙って派手に盗んでいったのだとか。ショーン自身も一度遭遇したらしく、護衛たちが発見した時には恐怖に染まった顔で失禁したまま気絶していたという。
以来彼は怯えきって、実のところ謹慎させるまでもなく自室から出てこないのだそうだ。
何があったかは知らないが、まあヤツのことだ、きっと自業自得の案件だろう。
「お姉様、お久しゅうございます。ご機嫌うるわしゅう」
ストーン前侯爵夫妻と挨拶を交して別れたアンジェリーナの元へ、ひとりの令嬢が歩み寄って挨拶してきた。
相変わらず一分の隙もない完璧な淑女礼だ。
「あ、サーヤちゃん。来てくれたんだ」
「本当に、いつもいつもお姉様には驚かされますわ。母国で行方不明になられたから心配しておりましたのに、いきなりマインラート従兄様の婚約者だなんて」
サーヤ・フォン・シュヴァルツヴァルトはアレマニア公国の筆頭宮廷魔術師で、公国を治めるアルフレート・フォン・シュヴァルツヴァルト・アレマニア公爵の従妹でもある。アルフレートだけでなくブロイス現皇帝のヴィルヘルム三世の従妹にもあたり、だからマインラートとも義理ではあるが又従兄妹の関係になる。
そして〈賢者の学院〉674年度、つまり去年の“知識の塔”首席卒塔生でもある。アンジェリーナが在塔中に親しく付き合っていた、数少ない後輩のひとりだ。
今回彼女は従兄にして主でもあるアルフレートの名代として出席したのだという。なんだ、あの超絶イケメン今日は来てないのか。残念。
「それで?お姉様今度は何を企んでらっしゃいますの?」
「あはは、やっぱサーヤちゃんにはバレちゃうか」
でも内緒、とアンジェリーナは微笑う。サーヤはため息を吐きつつ、困らせるのはマインラート従兄様だけにして下さいませ、と言うので、笑顔で安請け合いしておいた。
「アンジェリーナ、こちらへ」
そうして歓談を続けていると、マインラートから呼ばれた。彼女が彼に歩み寄ると、目ざとく察知した周囲がサッと引いて、広間の真ん中にはふたりだけが残る。
心臓がドキドキしてきて、顔が上気してくるのが自分でも分かる。
いよいよ来たのだ、この時が。
「私の求婚を受けてくれて感謝している」
マインラートはどこか陶酔した様子で話し始めた。
「最初に会った時から、私はそなたのことが忘れられなかった。今にして思えばあの時から、私はそなたに惹かれていたのだろう。
アルヴァイオンまで追っていったのもそのためだ。せめてもうひと目逢いたいと、そう願わずにはおれなかったのだ。
そして、かの国でそなたが誰であるか知った。同時に、上位の貴族から無理やり婚約させられそうになっている事も知った。だから居ても立ってもおれずにそなたの後を追い、無我夢中でそなたを救い出した」
長い。要点は簡潔に。
そう言いたかったが彼女は我慢して聞いていた。
周りの招待客たちはその馴れ初めをうっとりしたように聴き入っている。
「あの時、そなたのことを手放したくないと強く願ったのだ。だから少々強引な手も使ってしまったが、どうか許して欲しい。
そして、よく私の想いに応えてくれた。この婚約を受けてくれたこと、改めて礼を言う。
そしてこの場を借りて改めて申し込みたい。
私と結婚をして欲しい。私の傍で、妃となって生涯にわたって私を支えてはくれまいか」
マインラートはそう言って彼女の眼前に跪き、その右手を取って手の甲にキスを落とした。
感動的で、熱烈な求愛を目の当たりにして、居並ぶ令嬢方が息を呑んで感動しているのが手に取るように分かる。
「ええ」
努めて冷静に、満面の笑みを浮かべながらアンジェリーナははっきりと宣言した。
「お断りいたします」
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