175 / 319
第四章【騒乱のアナトリア】
4-23.悪夢は現実に(1)
しおりを挟む皇后の出てきた奥の扉が開かれて姿を現したのは、レギーナの予測したとおり皇太子アブドゥラである。
「なんじゃ、そんなに余と逢うのが待ち遠しかったのか。愛い奴め」
のほほほほと品のない笑い声とともに目尻を下げ、だらしない笑みを浮かべてテーブルに近寄るアブドゥラ35歳。背は高いがそれ以上に長年甘やかされて弛みきった目立つ腹を揺らしてにじり寄るその姿に、まず挨拶もできないのかという叱咤よりも先に嫌悪が出てしまい、思わずレギーナは座った椅子の上で身をわずかに避けようとしてしまった。
「皆まで言わずとも良い。そなたの望みどおり、余の妃としてやろう」
「嫌よ、お断りだわ」
「そう照れずとも良い。そなたの心の裡はちゃあんとこの皇太子に伝わっておるでのほほほほ」
「何をどう聞いたらそうなるのよ!」
押し問答しつつも皇太子は席に着くでもなくレギーナの側まで歩み寄り、その手を取ろうとする。贅肉のついた青白いその手をレギーナは手に持った扇ではたき落とした。
「ほほほ。正式な婚約まで手も触れぬとは奥ゆかしいの。大丈夫であるぞ、この場には余とそなたしかおらぬでな」
いやそこに皇后陛下がいるじゃない。それに周りに何人侍女がいると思ってるのよ。そう言いたかったが嫌悪に喉が詰まって咄嗟に声が出なかった。代わりにレギーナは席を立って一歩引く。
ちょうどレギーナの座っていた椅子を挟んで睨み合う形となり、それでようやく皇太子の進撃が止まる。
「ほほ、まあ良い。ゆっくり愛を育んでいくのも一興じゃとも」
何を満足したのか、皇太子はそんなことを言いつつ残された最後の椅子に腰を下ろす。素早く寄ってきたサロンの侍女がサッと椅子を引き、皇太子の腰の動きに合わせて絶妙なタイミングで椅子を滑り込ませた。なかなか手慣れた動きである。
「何度も言うけどお断りよ。私はまだ結婚するつもりはないわ」
ようやく気を取り直して、レギーナも元のように席に戻る。椅子はべステがサッと整えてくれた。
「本当に照れ屋で愛いのうそなたは。まあ茶でも飲んで落ち着くと良い」
アブドゥラは鷹揚に笑ってそんな事を言いつつ、サッと侍女が用意したカップの紅茶を一息に飲み干した。
テーブルに肘をついてレギーナに身体を向けて、つまりテーブルに対して半身になっているのもそうだが、出された茶を一口で飲み干すなど有り得ないマナー違反である。この国の教育はどうなっているのか。
「それで、婚約式はいつにするかね?余としては今日これからすぐでも一向に構わんぞ」
「なんでよ!お断りだと言っているでしょう!?」
「いっそ婚約などと言わず婚姻でもよいな」
「冗談じゃないわよ!勝手に決めないで!」
「そうと決まれば準備をさせねばのほほほほ」
「勝手に話を進めるなと言っているのが解らないの!?」
どうにも話が噛み合わない。まるで世の女性は全て自分に懸想しているとでも思い込んでいるかのようだ。
もしかしてこの調子で、無理矢理手篭めにしてもむしろ悦ばれるとでも考えていたのだろうか。だとしたら下衆の極みとしか言いようがないが。
ついうっかり相手のペースに呑まれかけていることに気付いて、レギーナはひとつ咳払いして気を落ち着かせる。
とにかく冷静に、今ここで取り乱すのは得策ではないのだから落ち着かねば。そう自分に言い聞かせつつ、彼女は冷静に事実の指摘にかかる。
「だいたい、皇太子妃ならもうアダレトを立てているでしょう?今になって替えるのは外聞が悪いのではなくて?」
「なに、問題ない。アダレトごときが今まで太子妃だったのは、単に余とそなたが逢うておらなんだからじゃ。あやつなぞそなたの美しさに比べるべくもない。こうして余とそなたが逢うたからには、あれは第二妃で充分じゃ」
そりゃまあ御年36歳で子供も産んでいるアダレトと、その半分ほどの年齢の未婚のレギーナとでは比べるべくもなかろうが、それは単に若さの問題でしかない。アダレトだって今でも充分美しいし、レギーナと同じ19歳のころはもっと輝ける美貌だったはずである。そしてレギーナの方も、今のアダレトと同じ歳になった時にどこまで容姿を保てているものやら。
というかよく考えると、アダレトはレギーナの母にしてエトルリア先代王妃のヴィットーリアとひとつしか違わないのだ。それほど歳の離れた相手に美貌で負けることなど基本的には有り得ない。
だから問題はそこではなくて。
「今さら皇太子妃を替えたりすれば絶対に波風が立つでしょう?殿下は国が荒れてもいいと仰るのかしら?」
皇太子と皇太子妃の確執ではなく、皇后ハリーデと第二妃サブリエとの我が子を代理とした政争と考えれば、どう考えても『これ触らんとこ』案件である。そんなものに巻き込まれたら本当に、東方に旅するどころではなくなってしまう。
「なあに心配は要らぬ。次期皇帝に楯突けばどうなるか、あの女にも第二妃サブリエにも知らしめてやるだけじゃ。それに」
皇太子はそこでわざと言葉を切り、ずいと身を乗り出してくる。
「余とそなたは、真実の愛で結ばれておるのじゃからのほほほほ!」
「うげぇ!」
あまりにも悍ましい一言が飛び出してきて、王女としても勇者としてもやっちゃいけない顔で、出しちゃいけない声を出してしまったレギーナである。
0
お気に入りに追加
167
あなたにおすすめの小説
【完結】おじいちゃんは元勇者
三園 七詩
ファンタジー
元勇者のおじいさんに拾われた子供の話…
親に捨てられ、周りからも見放され生きる事をあきらめた子供の前に国から追放された元勇者のおじいさんが現れる。
エイトを息子のように可愛がり…いつしか子供は強くなり過ぎてしまっていた…
うっかり『野良犬』を手懐けてしまった底辺男の逆転人生
野良 乃人
ファンタジー
辺境の田舎街に住むエリオは落ちこぼれの底辺冒険者。
普段から無能だの底辺だのと馬鹿にされ、薬草拾いと揶揄されている。
そんなエリオだが、ふとした事がきっかけで『野良犬』を手懐けてしまう。
そこから始まる底辺落ちこぼれエリオの成り上がりストーリー。
そしてこの世界に存在する宝玉がエリオに力を与えてくれる。
うっかり野良犬を手懐けた底辺男。冒険者という枠を超え乱世での逆転人生が始まります。
いずれは王となるのも夢ではないかも!?
◇世界観的に命の価値は軽いです◇
カクヨムでも同タイトルで掲載しています。
普通の勇者とハーレム勇者
リョウタ
ファンタジー
【ファンタジー小説大賞】に投稿しました。
超イケメン勇者は幼馴染や妹達と一緒に異世界に召喚された、驚くべき程に頭の痛い男である。
だが、この物語の主人公は彼では無く、それに巻き込まれた普通の高校生。
国王や第一王女がイケメン勇者に期待する中、優秀である第二王女、第一王子はだんだん普通の勇者に興味を持っていく。
そんな普通の勇者の周りには、とんでもない奴らが集まって来て彼は過保護過ぎる扱いを受けてしまう…
最終的にイケメン勇者は酷い目にあいますが、基本ほのぼのした物語にしていくつもりです。
狼の子 ~教えてもらった常識はかなり古い!?~
一片
ファンタジー
バイト帰りに何かに引っ張られた俺は、次の瞬間突然山の中に放り出された。
しかも体をピクリとも動かせない様な瀕死の状態でだ。
流石に諦めかけていたのだけど、そんな俺を白い狼が救ってくれた。
その狼は天狼という神獣で、今俺がいるのは今までいた世界とは異なる世界だという。
右も左も分からないどころか、右も左も向けなかった俺は天狼さんに魔法で癒され、ついでに色々な知識を教えてもらう。
この世界の事、生き延び方、戦う術、そして魔法。
数年後、俺は天狼さんの庇護下から離れ新しい世界へと飛び出した。
元の世界に戻ることは無理かもしれない……でも両親に連絡くらいはしておきたい。
根拠は特にないけど、魔法がある世界なんだし……連絡くらいは出来るよね?
そんな些細な目標と、天狼さん以外の神獣様へとお使いを頼まれた俺はこの世界を東奔西走することになる。
色々な仲間に出会い、ダンジョンや遺跡を探索したり、何故か謎の組織の陰謀を防いだり……。
……これは、現代では失われた強大な魔法を使い、小さな目標とお使いの為に大陸をまたにかける小市民の冒険譚!
【完結】魔力なしの役立たずだとパーティを追放されたんだけど、実は次の約束があんだよね〜〜なので今更戻って来いとか言われても知らんがな
杜野秋人
ファンタジー
「ただでさえ“魔力なし”の役立たずのくせに、パーティの資金まで横領していたお前をリーダーとして許すことはできない!よってレイク、お前を“雷竜の咆哮”から追放する!」
探索者として“雷竜の咆哮”に所属するレイクは、“魔力なし”であることを理由に冤罪までかけられて、リーダーの戦士ソティンの宣言によりパーティを追われることになってしまった。
森羅万象の全てが構成元素としての“魔力”で成り立つ世界、ラティアース。当然そこに生まれる人類も、必ずその身に魔力を宿して生まれてくる。
だがエルフ、ドワーフや人間といった“人類”の中で、唯一人間にだけは、その身を構成する最低限の魔力しか持たず、魔術を行使する魔力的な余力のない者が一定数存在する。それを“魔力なし”と俗に称するが、探索者のレイクはそうした魔力なしのひとりだった。
魔力なしは十人にひとり程度いるもので、特に差別や迫害の対象にはならない。それでもソティンのように、高い魔力を鼻にかけ魔力なしを蔑むような連中はどこにでもいるものだ。
「ああ、そうかよ」
ニヤつくソティンの顔を見て、もうこれは何を言っても無駄だと悟ったレイク。
だったらもう、言われたとおりに出ていってやろう。
「じゃ、今まで世話になった。あとは達者で頑張れよ。じゃあな!」
そうしてレイクはソティンが何か言う前にあらかじめまとめてあった荷物を手に、とっととパーティの根城を後にしたのだった。
そしてこれをきっかけに、レイクとソティンの運命は正反対の結末を辿ることになる⸺!
◆たまにはなろう風の説明調長文タイトルを……とか思ってつけたけど、70字超えてたので削りました(笑)。
◆テンプレのパーティ追放物。世界観は作者のいつものアリウステラ/ラティアースです。初見の人もおられるかと思って、ちょっと色々説明文多めですゴメンナサイ。
◆執筆完了しました。全13話、約3万5千字の短め中編です。
最終話に若干の性的表現があるのでR15で。
◆同一作者の連載中ハイファンタジー長編『落第冒険者“薬草殺し”は人の縁で成り上がる』のサイドストーリーというか、微妙に伏線を含んだ繋がりのある内容です。どちらも単体でお楽しみ頂けますが、両方読めばそれはそれでニマニマできます。多分。
◆この作品はアルファポリスのほか、小説家になろうとカクヨムでも同時公開します。3サイト同時は多分初。
◆急に読まれ出したと思ったらHOTランキング初登場27位!?ビックリですありがとうございます!
……おいNEWが付いたまま12位まで上がってるよどういう事だよ(汗)。
8/29:HOTランキング5位……だと!?(((゚д゚;)))
8/31:5〜6位から落ちてこねえ……だと!?(((゚∀゚;)))
9/3:お気に入り初の1000件超え!ありがとうございます!
最弱の職業【弱体術師】となった俺は弱いと言う理由でクラスメイトに裏切られ大多数から笑われてしまったのでこの力を使いクラスメイトを見返します!
ルシェ(Twitter名はカイトGT)
ファンタジー
俺は高坂和希。
普通の高校生だ。
ある日ひょんなことから異世界に繋がるゲートが出来て俺はその中に巻き込まれてしまった。
そこで覚醒し得た職業がなんと【弱体術師】とかいう雑魚職だった。
それを見ていた当たり職業を引いた連中にボコボコにされた俺はダンジョンに置いていかれてしまう。
クラスメイト達も全員その当たり職業を引いた連中について行ってしまったので俺は1人で出口を探索するしかなくなった。
しかもその最中にゴブリンに襲われてしまい足を滑らせて地下の奥深くへと落ちてしまうのだった。
凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる