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第四章 帰雲
(二)
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備前守氏綱を赤谷に残して、帰雲へと戻った右近は、懐かしい屋敷の前に辿り着くなり、疲れ果てて崩れるように膝をついた。
出迎えに飛び出してきた刑部も、兄のあまりの様子に言葉を失くしていた。おそらく父の最期も、またそれを齎したのが長兄の裏切りであることも、すでに耳に入っているのであろう。今にも泣き出しそうなのを堪えるような顔で、じっとこちらを見つめていた。
しかしそんな刑部の頭を、ふわりと撫でる掌があった。顔を上げると、かれら若武者たち全員の母代わりでもある「お方さま」、阿通の方の笑顔があった。
「こら、刑部。さような顔をしてはならぬ」優しくそう窘めると、笑顔を右近へ向けて朗らかな声で言った。「よう戻った、右近。お役目ご苦労であったな」
「そんな……苦労などと。我は……」
右近は恥じ入るように顔を伏せ、消え入りそうな声でぽつりぽつりと答える。されど阿通の方は着物のまま土に跪き、両の掌で右近の頬を包み込んだ。
「何も恥じることはない……おぬしはよう戦った。そしてよう帰ってきた。立派な初陣じゃ」
「あう……」
喉から嗚咽にも似た呻きが漏れた。それ以外、右近にはもう何も言えなかった。阿通の方はゆっくりと立ち上がると、控えていた女衆に指示を送る。
「夕餉の支度はできておるな。では熱い湯を用意してやるのじゃ。そら刑部、兄の足を洗ってやらぬか!」
名指しされた刑部はようやく我に返り、兄の元に駆け寄った。しかし右近は差し伸べられた手を払い除け、ひとりで屋敷の中へと上がってゆく。
今は優しくされることが苦痛だった。何をどう言われようと、おのれが父を見捨てて逃げたことは慥かなのだ。それに、この敗戦を齎したのは兄である勘兵衛である。三年前のあの夜、この手で兄を斬ることができていればこうはならなかった。つまりは今のこの状況は、おのれの弱さがすべての元凶なのだ。そんなおのれが、優しくなどされて良いわけがない。
奥の間まで入ると、鎧を脱いで座り込んだ。そうして脇差を抜き、じっとその刀身を見つめる。戦場では一度も抜かなかった刀だ。父に贈られたときのまま綺麗で、刃毀れのひとつもなかった。
襖の向こうから「兄上……」と声がした。刑部が不安がって様子を見に来たのであろう。右近は短く入るなと命じて、またぬらりと光る刃に目を戻した。
今ごろ氏綱はどうしているか。向牧戸を落とした勢いのまま押し寄せる金森勢と、合戦の只中であろうか。あるいはすでに討ち取られ、その命も露と消えてしまっているか。そう考えるといてもたってもいられず、何もできずに逃げてきたおのれが情けなく、大声で叫び出したくなる。
そのとき背後の襖が開き、何者かが入ってきた。刑部かと思って追い出そうとしたが、相手が予想外の人物であることに気付いて、口にしかけた罵倒を飲み込んだ。
「よう、どうした若いの。そんなものを抜いて、腹でも召されるつもりかの?」
「あ……あなたさまは……七郎さま?」
と、間抜けな声を漏らすしかできなかった。そもそも、これまで一度だって話したことすらなかった相手である。東七郎左衛門常堯。あの「お方さま」のご亭主ではあるが、悪いがこれまで右近をはじめとした若衆の間では侮蔑の対象ですらあった。
右近は手にしていた脇差を、小さく咳払いしながら鞘に収めた。そうしてむっとした顔を向け、常堯に言う。
「まさか。ただ、見ていただけでござる」
「ほう……さようか。何だ、つまらぬ」
常堯はそのようなことを言いながら、目の前にどっかと座り込んだ。追い払うに追い払えず、右近はただ戸惑うばかりだった。
「な……何なんですか、つまらぬとは……」
「いやの、ここで腹を切るつもりなら、いっちょわしが介錯なぞをしてやろうかと思ったのだがな。やってみたかったのよ……武士たるもの、一度くらいはな」
「そんな……そんなつもりはございませぬ。七郎さま、あなっ……あなたは我を馬鹿にしておるのですかっ!」
本当は、ここに来るまでに何度も考えていた。実際に腹を切ろうともした。されどそのたびに、あのときに聞いた言葉が耳に蘇ってくるのだった。あの乱破……慥か善十郎の庵でいつも会う下女。かの女が言った、「この者は恐いのでござるよ」という言葉が。
おのれもやっぱり恐いのだろうか。この先起こることが。そしてそれをおのが目で見届けなければならないことが。だからその前に、何もかも放り出して逃げようとしているのか。そんな考えが頭の中をぐるぐると巡って、結局刃を腹に突き立てることができなかった。
慥かに恐い。逃げ出してしまいたい。今のおのれは、死ぬことよりも生きることのほうがよほど恐ろしい。
「……馬鹿になどしておらぬ」常堯はじっと右近の顔を覗き込むように身を屈めて、へらへらと笑いながら答えた。「まあ、本気で腹を切ろうなどと言い出すようなら、思い切り馬鹿にしてやろうとは思ったがの。まずまず、上出来よ」
「切腹が、馬鹿なことだとでも申されるか」
「その通り。切腹など、老い先短い年寄りが見栄を張ってするものよ。おぬしごとき若僧が真似たとて、格好が付くはずもなかろう」
あなたがそれを言うか、と口をついた言葉を、右近は辛うじて飲み込んだ。この者のことは、父からも、馬廻の頃の仲間たちからも、さんざん悪しざまに聞かされてきた。義兄弟に裏切られ、父を殺されて家も奪われ、それでもおめおめと生き延び、この帰雲に逃げ延びてきた男。しかしそれは、今のおのれととてもよく似ているということに気が付いたからだった。この七郎常堯を嗤うということは、おのれを嗤うのと同じだということに。
「ですが……ならば、我はどうすれば……」
右近はとうとう肩をがっくりと落とした。おのれが腹を切ったところで、何にもならないことくらいわかっている。だがそれなら、おのれはどうすれば良いのか。金森勢がこの帰雲にも押し寄せたとき、弟たちを守って戦えば良いのか。されどあの父でさえどうにもならなかった敵を、おのれが食い止めることなどできる気がしない。
「どうもせんで良いのではないか?」
と、常堯は平然と答えてくる。思わず睨みつけたが、老人は相変わらずへらへらと笑うのみで、堪える様子もない。
「とりあえずはまず飯を食い、風呂に入って寝るがよかろう。難しいことは、目が覚めてから考えれば良いことよ」
「されど……下手をすれば明日にも、ここに金森勢が攻めてくるかもしれませぬ。寝てなど……」
「そのときはそのときよ。すべて放り出して、尻を捲って逃げるのも悪くないの」
「そんな、あまりにも無責任な……仮にも殿の義兄であろう!」
「仮にも、は酷いのう……」
常堯は白くなった髭を慈しむように撫でる。そうしてようやく笑みを消し、じっとこちらを見つめてくる。
「のう右近よ……おぬしらが、陰でわしのことを笑っておるのは知っておるよ。慥かにおぬしらの目には、わしはさぞ滑稽で情けなく見ゆるであろうの。それもよくわかっておる」
そんなことは……と言いかけて、右近はまた言葉を飲み込む。それは、まごうことなく真であったからだ。
「だがの、わしから見ればおぬしらも滑稽よ。暇さえあれば槍や刀を振り回し、威勢のいい言葉を並べて、それでいったい何を得る。何を得たというのだ?」
「それは……いや」
「父を殺し、わしを追い落とした六左(遠藤六郎左衛門盛数)にしてもそうよ。かように卑劣な返り忠までして大名となり、いったい何を得たのだ。織田だ、羽柴だと襤褸切れのように使い回され、戦から戦へと渡り歩き、おのれも息子たちも泥塗れになって、次々に死んでゆく。翻って敗れたはずのわしは、日々下手な歌を詠み、花を愛で、碁を愉しんで生きておる。はて、本当の勝者はどちらであろうな?」
「それが、七郎さまの戦だと……そう申されたいのですか?」
「戦……ふむ、そうかもしれんの」
常堯はそこで言葉を切り、顔を上げて中空を見やる。つられて右近も目を上げたが、老人がそこに何を見ているのかはわからなかった。
ややあって、老人はまた「のう、右近よ」と口を開いた。それはひどく優しげな声であった。
「生くれば良いのよ、生くれば。誰が笑おうと、謗ろうと、ぬけぬけと生くれば良い。急いで腹など召さぬとも、ときが来れば天は勝手にこの命を取り上げてゆこう。いとも呆気なく、情け容赦なくの。されどそのとき、わしの人間(生涯)もそう悪いものではなかったと思えれば……そこそこ愉しいものであったと思えさえすれば、それで良いではないか。さすればこの戦は、わしの勝ちよ」
「七郎さま……」あまりに身勝手な物言いだと思った。されどどういうわけか、右近は目頭が熱くなってゆくのを感じていた。「されどそれでは、父上に申し訳が……それに、兄が」
「知ったことか。おぬしの父も、兄も関係ない。おぬしはただ、おぬしの人間を生くれば良い。おぬしの戦をすれば良い」
右近はまた、何も言えなくなった。口を開けば嗚咽が溢れそうで、必死に奥歯を噛み締める。されど堪え切れなかった涙は頬を伝い、顎から滴って拳の上に落ちていった。
「そうだ……右近、おぬし碁は打つかの?」
「い……いえ」
ようやくそれだけ絞り出すように答え、首を振る。
「さようか、さようか……では教えて進ぜよう。ほれ、そこに殿の碁盤があるではないか……」
常堯はそう言うといそいそと立ち上がり、部屋の隅の碁盤を取りに行った。
奥の間を出ると、襖の向こうにはよりにもよって阿通の方が座っていた。常堯はぎょっとして身を引くが、怒っている様子はなかった。その傍らでは、刑部が蹲踞したまま舟を漕いでいる。
「おっ、お通よ……いつからいたのだ」
「先ほどからずっとでございます。右近がなかなか出て来ぬゆえ、様子を窺いに来たのでございますが……」
と、阿通は部屋の中を覗き込む。そうして碁盤の上に突っ伏して眠っている右近を見て、くすりと笑った。
「湯の用意も無駄になってしまいましたね。それではお前さま、使われまするか?」
いつになく優しげな妻の言葉に、常堯はいっそ恐ろしさを覚えて言葉を詰まらせる。そうしてしばし戸惑った末、思い出したように話を変えた。
「ところで先ほど右近が申しておったが、ここに金森勢が攻め寄せてくるというのはまことか?」
「そういえば、申しておりましたの」歌うように言いながら、阿通は小さく頷く。「まさかとは思いますが、右近が言うのであればまことやも知れませぬなぁ」
「な、何を呑気な。えらいことではないか!」
常堯は急に慌て出し、落ち着かなげに足踏みをはじめる。されど阿通はなおも平然と、その裾を摘まんで止めさせた。
「何を焦っておいでですか。尻を捲って逃げれば良いのではなかったのですか?」
「あ、あほう。武士がそんなことできるか!」
震える声でそう言うと、常堯は阿通の手を振り払って歩き出す。まるで逃げるように足早に。
「まったく、兵庫どのは何をしておるのじゃ。かようなときに、なにゆえ戻って来ぬ!」
遠ざかってゆく亭主の背中を見ながら、阿通はまた可笑しそうにくすくすと笑った。そうしていつの間にか肩にもたれてきていた、刑部の頭をそっと撫でる。
出迎えに飛び出してきた刑部も、兄のあまりの様子に言葉を失くしていた。おそらく父の最期も、またそれを齎したのが長兄の裏切りであることも、すでに耳に入っているのであろう。今にも泣き出しそうなのを堪えるような顔で、じっとこちらを見つめていた。
しかしそんな刑部の頭を、ふわりと撫でる掌があった。顔を上げると、かれら若武者たち全員の母代わりでもある「お方さま」、阿通の方の笑顔があった。
「こら、刑部。さような顔をしてはならぬ」優しくそう窘めると、笑顔を右近へ向けて朗らかな声で言った。「よう戻った、右近。お役目ご苦労であったな」
「そんな……苦労などと。我は……」
右近は恥じ入るように顔を伏せ、消え入りそうな声でぽつりぽつりと答える。されど阿通の方は着物のまま土に跪き、両の掌で右近の頬を包み込んだ。
「何も恥じることはない……おぬしはよう戦った。そしてよう帰ってきた。立派な初陣じゃ」
「あう……」
喉から嗚咽にも似た呻きが漏れた。それ以外、右近にはもう何も言えなかった。阿通の方はゆっくりと立ち上がると、控えていた女衆に指示を送る。
「夕餉の支度はできておるな。では熱い湯を用意してやるのじゃ。そら刑部、兄の足を洗ってやらぬか!」
名指しされた刑部はようやく我に返り、兄の元に駆け寄った。しかし右近は差し伸べられた手を払い除け、ひとりで屋敷の中へと上がってゆく。
今は優しくされることが苦痛だった。何をどう言われようと、おのれが父を見捨てて逃げたことは慥かなのだ。それに、この敗戦を齎したのは兄である勘兵衛である。三年前のあの夜、この手で兄を斬ることができていればこうはならなかった。つまりは今のこの状況は、おのれの弱さがすべての元凶なのだ。そんなおのれが、優しくなどされて良いわけがない。
奥の間まで入ると、鎧を脱いで座り込んだ。そうして脇差を抜き、じっとその刀身を見つめる。戦場では一度も抜かなかった刀だ。父に贈られたときのまま綺麗で、刃毀れのひとつもなかった。
襖の向こうから「兄上……」と声がした。刑部が不安がって様子を見に来たのであろう。右近は短く入るなと命じて、またぬらりと光る刃に目を戻した。
今ごろ氏綱はどうしているか。向牧戸を落とした勢いのまま押し寄せる金森勢と、合戦の只中であろうか。あるいはすでに討ち取られ、その命も露と消えてしまっているか。そう考えるといてもたってもいられず、何もできずに逃げてきたおのれが情けなく、大声で叫び出したくなる。
そのとき背後の襖が開き、何者かが入ってきた。刑部かと思って追い出そうとしたが、相手が予想外の人物であることに気付いて、口にしかけた罵倒を飲み込んだ。
「よう、どうした若いの。そんなものを抜いて、腹でも召されるつもりかの?」
「あ……あなたさまは……七郎さま?」
と、間抜けな声を漏らすしかできなかった。そもそも、これまで一度だって話したことすらなかった相手である。東七郎左衛門常堯。あの「お方さま」のご亭主ではあるが、悪いがこれまで右近をはじめとした若衆の間では侮蔑の対象ですらあった。
右近は手にしていた脇差を、小さく咳払いしながら鞘に収めた。そうしてむっとした顔を向け、常堯に言う。
「まさか。ただ、見ていただけでござる」
「ほう……さようか。何だ、つまらぬ」
常堯はそのようなことを言いながら、目の前にどっかと座り込んだ。追い払うに追い払えず、右近はただ戸惑うばかりだった。
「な……何なんですか、つまらぬとは……」
「いやの、ここで腹を切るつもりなら、いっちょわしが介錯なぞをしてやろうかと思ったのだがな。やってみたかったのよ……武士たるもの、一度くらいはな」
「そんな……そんなつもりはございませぬ。七郎さま、あなっ……あなたは我を馬鹿にしておるのですかっ!」
本当は、ここに来るまでに何度も考えていた。実際に腹を切ろうともした。されどそのたびに、あのときに聞いた言葉が耳に蘇ってくるのだった。あの乱破……慥か善十郎の庵でいつも会う下女。かの女が言った、「この者は恐いのでござるよ」という言葉が。
おのれもやっぱり恐いのだろうか。この先起こることが。そしてそれをおのが目で見届けなければならないことが。だからその前に、何もかも放り出して逃げようとしているのか。そんな考えが頭の中をぐるぐると巡って、結局刃を腹に突き立てることができなかった。
慥かに恐い。逃げ出してしまいたい。今のおのれは、死ぬことよりも生きることのほうがよほど恐ろしい。
「……馬鹿になどしておらぬ」常堯はじっと右近の顔を覗き込むように身を屈めて、へらへらと笑いながら答えた。「まあ、本気で腹を切ろうなどと言い出すようなら、思い切り馬鹿にしてやろうとは思ったがの。まずまず、上出来よ」
「切腹が、馬鹿なことだとでも申されるか」
「その通り。切腹など、老い先短い年寄りが見栄を張ってするものよ。おぬしごとき若僧が真似たとて、格好が付くはずもなかろう」
あなたがそれを言うか、と口をついた言葉を、右近は辛うじて飲み込んだ。この者のことは、父からも、馬廻の頃の仲間たちからも、さんざん悪しざまに聞かされてきた。義兄弟に裏切られ、父を殺されて家も奪われ、それでもおめおめと生き延び、この帰雲に逃げ延びてきた男。しかしそれは、今のおのれととてもよく似ているということに気が付いたからだった。この七郎常堯を嗤うということは、おのれを嗤うのと同じだということに。
「ですが……ならば、我はどうすれば……」
右近はとうとう肩をがっくりと落とした。おのれが腹を切ったところで、何にもならないことくらいわかっている。だがそれなら、おのれはどうすれば良いのか。金森勢がこの帰雲にも押し寄せたとき、弟たちを守って戦えば良いのか。されどあの父でさえどうにもならなかった敵を、おのれが食い止めることなどできる気がしない。
「どうもせんで良いのではないか?」
と、常堯は平然と答えてくる。思わず睨みつけたが、老人は相変わらずへらへらと笑うのみで、堪える様子もない。
「とりあえずはまず飯を食い、風呂に入って寝るがよかろう。難しいことは、目が覚めてから考えれば良いことよ」
「されど……下手をすれば明日にも、ここに金森勢が攻めてくるかもしれませぬ。寝てなど……」
「そのときはそのときよ。すべて放り出して、尻を捲って逃げるのも悪くないの」
「そんな、あまりにも無責任な……仮にも殿の義兄であろう!」
「仮にも、は酷いのう……」
常堯は白くなった髭を慈しむように撫でる。そうしてようやく笑みを消し、じっとこちらを見つめてくる。
「のう右近よ……おぬしらが、陰でわしのことを笑っておるのは知っておるよ。慥かにおぬしらの目には、わしはさぞ滑稽で情けなく見ゆるであろうの。それもよくわかっておる」
そんなことは……と言いかけて、右近はまた言葉を飲み込む。それは、まごうことなく真であったからだ。
「だがの、わしから見ればおぬしらも滑稽よ。暇さえあれば槍や刀を振り回し、威勢のいい言葉を並べて、それでいったい何を得る。何を得たというのだ?」
「それは……いや」
「父を殺し、わしを追い落とした六左(遠藤六郎左衛門盛数)にしてもそうよ。かように卑劣な返り忠までして大名となり、いったい何を得たのだ。織田だ、羽柴だと襤褸切れのように使い回され、戦から戦へと渡り歩き、おのれも息子たちも泥塗れになって、次々に死んでゆく。翻って敗れたはずのわしは、日々下手な歌を詠み、花を愛で、碁を愉しんで生きておる。はて、本当の勝者はどちらであろうな?」
「それが、七郎さまの戦だと……そう申されたいのですか?」
「戦……ふむ、そうかもしれんの」
常堯はそこで言葉を切り、顔を上げて中空を見やる。つられて右近も目を上げたが、老人がそこに何を見ているのかはわからなかった。
ややあって、老人はまた「のう、右近よ」と口を開いた。それはひどく優しげな声であった。
「生くれば良いのよ、生くれば。誰が笑おうと、謗ろうと、ぬけぬけと生くれば良い。急いで腹など召さぬとも、ときが来れば天は勝手にこの命を取り上げてゆこう。いとも呆気なく、情け容赦なくの。されどそのとき、わしの人間(生涯)もそう悪いものではなかったと思えれば……そこそこ愉しいものであったと思えさえすれば、それで良いではないか。さすればこの戦は、わしの勝ちよ」
「七郎さま……」あまりに身勝手な物言いだと思った。されどどういうわけか、右近は目頭が熱くなってゆくのを感じていた。「されどそれでは、父上に申し訳が……それに、兄が」
「知ったことか。おぬしの父も、兄も関係ない。おぬしはただ、おぬしの人間を生くれば良い。おぬしの戦をすれば良い」
右近はまた、何も言えなくなった。口を開けば嗚咽が溢れそうで、必死に奥歯を噛み締める。されど堪え切れなかった涙は頬を伝い、顎から滴って拳の上に落ちていった。
「そうだ……右近、おぬし碁は打つかの?」
「い……いえ」
ようやくそれだけ絞り出すように答え、首を振る。
「さようか、さようか……では教えて進ぜよう。ほれ、そこに殿の碁盤があるではないか……」
常堯はそう言うといそいそと立ち上がり、部屋の隅の碁盤を取りに行った。
奥の間を出ると、襖の向こうにはよりにもよって阿通の方が座っていた。常堯はぎょっとして身を引くが、怒っている様子はなかった。その傍らでは、刑部が蹲踞したまま舟を漕いでいる。
「おっ、お通よ……いつからいたのだ」
「先ほどからずっとでございます。右近がなかなか出て来ぬゆえ、様子を窺いに来たのでございますが……」
と、阿通は部屋の中を覗き込む。そうして碁盤の上に突っ伏して眠っている右近を見て、くすりと笑った。
「湯の用意も無駄になってしまいましたね。それではお前さま、使われまするか?」
いつになく優しげな妻の言葉に、常堯はいっそ恐ろしさを覚えて言葉を詰まらせる。そうしてしばし戸惑った末、思い出したように話を変えた。
「ところで先ほど右近が申しておったが、ここに金森勢が攻め寄せてくるというのはまことか?」
「そういえば、申しておりましたの」歌うように言いながら、阿通は小さく頷く。「まさかとは思いますが、右近が言うのであればまことやも知れませぬなぁ」
「な、何を呑気な。えらいことではないか!」
常堯は急に慌て出し、落ち着かなげに足踏みをはじめる。されど阿通はなおも平然と、その裾を摘まんで止めさせた。
「何を焦っておいでですか。尻を捲って逃げれば良いのではなかったのですか?」
「あ、あほう。武士がそんなことできるか!」
震える声でそう言うと、常堯は阿通の手を振り払って歩き出す。まるで逃げるように足早に。
「まったく、兵庫どのは何をしておるのじゃ。かようなときに、なにゆえ戻って来ぬ!」
遠ざかってゆく亭主の背中を見ながら、阿通はまた可笑しそうにくすくすと笑った。そうしていつの間にか肩にもたれてきていた、刑部の頭をそっと撫でる。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
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(2022.04.04)
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「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視する者なし、これ我が東行高杉君に非ずや」
明治四十二(一九〇九)年、伊藤博文はこの一文で始まる高杉晋作の碑文を、遂に完成させることに成功した。
晋作のかつての同志である井上馨や山県有朋、そして伊藤博文等が晋作の碑文の作成をすることを決意してから、まる二年の月日が流れていた。
碑文完成の報を聞きつけ、喜びのあまり伊藤の元に駆けつけた井上馨が碑文を全て読み終えると、長年の疑問であった晋作と伊藤の出会いについて尋ねて……
この小説は二十九歳の若さでこの世を去った高杉晋作の短くも濃い人生にスポットライトを当てつつも、久坂玄瑞や吉田松陰、桂小五郎、伊藤博文、吉田稔麿などの長州の志士達、さらには近藤勇や土方歳三といった幕府方の人物の活躍にもスポットをあてた群像劇です!
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