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66.涙

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 ネイトの記憶から解放されたアイラは、瞼をそっと持ち上げた。


 目の前に立つネイトは、冷めた瞳でアイラを見下ろしている。
 その瞳を見つめ返しながら、ゆっくりと口を開いた。


「……この邸宅に移ったあとの記憶も、見せてください」


 隣に立つマーヴィンから殺気が放たれる。けれど、ネイトは無表情のままだった。


「何が知りたい?もういいだろう」

「いいえ、全然理解できません。私に声を掛けて来たのは貴方だし、嫌がっても聞き入れてくれなかったのは貴方です。それなのに、どうして私をそんなに憎むのですか?」

「………」

「私が貴方の立場だったなら、まず恨むのは家族です。話すらまともに聞いてもらえず、家を追い出されるなんて…」

「………黙れ」


 ネイトが低く絞り出すような声で、アイラの言葉を遮った。
 冷ややかだった瞳が、今は怒りに燃えている。


「父の判断は、公爵の立場として当然の判断だったと、今は理解している。家族を恨むことはしない。……お前の存在が、そもそもの原因なんだ」


 そう吐き捨てるように言われても、アイラはどうしても納得できないし、したいとも思わなかった。
 あのとき無理やり迫られ、それを拒否した。そのことが原因で家族から責められ、次期公爵の座を失ったことが、アイラのせいだと言う。

 そんな逆恨みで何度も命を狙われるなど、とても理不尽だと感じた。


「……では、私の命を狙ったところで、どうするのです?私が命を落としたとして、貴方に爵位の継承権が戻るわけではないでしょう?」

「うるさい、黙れ…!お前が魔術で俺を誘惑しなければ、こんなことにはならなかった…!お前が…っ!」


 ネイトの周りに、黒い影が渦巻き始めた。感情に禁術の力が左右されているようで、とても危険だ。
 それでも、アイラには聞き逃がせない言葉があった。


「待ってください…!魔術?誘惑?何のことですか!」

「とぼけるな!男に見境無しに、魅了の魔術を使っていたんだろう!知っているぞ!」

「なっ…、」


 ネイトがどうしてそんな結論に至ったのか、アイラには分からなかった。
 そもそも魅了の魔術の使用は禁術に近く、使用するのは魔術師でも難しい高度な魔術だ。
 それに、アイラは魅了の魔術など使ったことはないし、使い方も知らない。


 ―――貴族の間で、そんな噂が流れていたのかしら?でも、私の耳には一度も入ってきたことはないし…。


 アイラがどんなに否定したところで、今のネイトは聞く耳を持たないように思えた。

 ネイトの中で、アイラは魅了の魔術をネイトに使い、その身を破滅させた、憎い存在なのだろう。
 例えそれが思い込みだとしても、四年もそう思い続けていれば、本人にとって揺るぎない真実になってしまう。

 そしてその憎しみが殺意に代わり、アイラを狙うようになってしまったのだろう。


「……お前が魔術師を目指して学校に入るなら、マーヴィンを講師として潜入させ、お前を狙おうと思っていた。それなのに、何故騎士を目指した?」

「………」


 憎しみのこもった目を向けられる。アイラは答えずに黙っていた。

 魔術学校に通っていたときは、最終的に邸宅の火事で命を落とした。
 これもネイトの仕業だとすれば、マーヴィンを学校へ潜入させる作戦は失敗したのだろうか。それとも、気付かない内に近くにいたのだろうか。
 もしくは、数々の嫌がらせをしてきた女子生徒と、繋がっていたのだろうか。

 今となっては真相は分からないが、確実なのは、全てが重なった結果、アイラは今騎士の人生を歩んでいるということだった。


「騎士になり、寮に入れば手を出しづらくなる。手っ取り早く邸宅ごと焼こうと思えば、運悪く入団の日と重なるとはな。雇った男は実行できずに姿を消すし…衛兵が捕らえでもしたか?」

「………?」


 自嘲気味に笑ったネイトの言葉に、アイラは眉をひそめた。


 ―――まさか、今回の人生でも火事が起ころうとしていたの?あの日、念のため家族や使用人たちには出かけてもらっていたけれど…。
 そのあと、衛兵が不審者を捕らえたなんて情報は届いていないわ。なら、どうして…?


 アイラの表情を見て、ネイトは何か気付いたようだった。


「何だ、知らなかったのか?それとも、刺客が勝手に消えたとでも?……まあ、それはどうでもいい。お前を狙う作戦は、ことごとく失敗したしな…よほど運が良いか、守護霊でもついているんじゃないか?」

「……守護霊…」


 アイラはポツリと呟く。そんな大層な護りはない。それに、運が良ければそもそも命を落とさなかっただろう。
 人生をやり直せたことは、強運だったけれど。


「私が……貴方からここまで逃れられたのは、私一人の力ではありません」


 何度も危機に陥り、その度に救われた。
 アイラ一人では、すぐに命を落としていただろうと思う。


「私は、たくさんの仲間に恵まれました。励まし合い、背中を護ってくれる仲間に」


 騎士団の仲間の顔を思い出せば、アイラは自然と笑みが零れた。
 騎士として歩む人生で出会った、大切な人たち。

 そしてきっと今、皆はアイラの元へ駆けつけようとしてくれているのだろう。
 自惚れではなく、自信を持ってそう思える。


「私は、ひとりじゃない。その事実がある限り、私は貴方の手に堕ちようとは思いません」


 アイラは微笑みながら、そう言ってみせた。
 一瞬目を見張ったネイトだったが、すぐに唇を噛みしめる。


「うるさい…!どうせ、騎士団の男たちにも魅了の魔術を使ったんだろう!悪女め!」


 ネイトが手をかざすと、黒い炎のようなモヤがアイラへ向かって飛んできた。
 首元が何かに締めつけられている感覚に陥り、呼吸が苦しくなる。


「……っ、ま、待って…!私は、魅了の魔術なんて、使えません…!」

「そんな嘘が通用すると思うな!あの日の俺は、どこかおかしかった…!お前に目を奪われ、視線を逸らせず、どうやったらお前を手に入れられるかしか頭に無かったんだ!」

「……う、ぐっ…」


 どんどん締めつける力が強まり、アイラは苦しさで言葉が出せない。


 確かに、ネイトの記憶をまるで自分が体験したかのように見ていたアイラは、ネイトが女性にうつつを抜かす性格だとは思えなかった。
 あの舐めるような視線も、異常に執着を見せていたのも、魅了されていたからだと言われたら、可能性としては考えられる気がする。

 けれど、アイラは魅了の魔術など使っていないのだ。
 ならば、魅了というより、気持ちを増幅させる魔術か何かが、ネイト自身に使われていたのでは。

 ほんの少しの興味が、燃え上がる熱となって本人を支配してしまうような―――。


「…………っ」


 それは、アイラの考えた、ただの仮説にすぎない。
 それでも問い掛けたかった。まだ他にも、引っかかっていることがあったからだ。


 ―――私が魅了の魔術を使用したなんて、一体誰が―――…?


 なんとかネイトに聞く耳を持ってほしいが、このままだと呼吸ができずに意識を失ってしまう。
 禁術から逃れる方法は、術者を倒すか、術を止めさせるかしかない。

 アイラが今自由に動かせるのは、手足だけ。それならば、と力を振り絞る。


「……何のつもりだ?」


 アイラはドレスの裾を捲り、隠し持っていた短剣を手に取った。その短剣を見て、ネイトが表情を変えずに言う。


「そんな短剣で、俺に敵うとでも?お前の呼吸など、俺がこの手を握れば…」

「ネイトさま、違います!この女は…!」


 それまで黙って成り行きを見ていたマーヴィンが、声を上げた。
 アイラが短剣を振り上げたとき、その短剣を逆手に持っていたことに気づいたのだ。

 アイラは魔術具開発局で眠気に逆らったときのように、自分自身を傷つけようと、その手を振り下ろした。


「―――…!」


 カラン、と音を立てて短剣が床に落ちる。同時に、アイラは首を締めつける痛みから解放された。


「……は、あっ…」


 大きく息を吸い、乱れた呼吸を整える。首元を押さえて視線を移せば、呆然としているネイトと、怒りで震えるマーヴィンが目に入る。
 アイラの短剣を弾き飛ばしたのは、マーヴィンの魔術だった。


「何を、勝手なことを…!お前の命はネイトさまのものだ!自分で消そうとするなど、許さない…!」

「……っ…だって、こうでもしないと、話を聞いてくれないでしょう…?」


 ゲホッと咳き込んでから、アイラはネイトを見る。


「……お願い、です。話を…話を、聞いてください」

「………」


 眉を寄せたネイトは、何かと葛藤しているようだった。その隙に付け入るように、アイラは訴える。


「私には、魅了の魔術は使えません…!誰から、そのようなことを聞いたのですか!?」

「………」

「もしかしたら、貴方に…、貴方自身に、誰かに焦がれてしまうような魔術がかかっていた可能性もあります…!」

「ネイトさま!この女の戯れ言に、耳を傾ける必要などありません!」


 マーヴィンがアイラの腕を掴んだ。
 それでも、アイラは言葉を止めない。ここで止めてしまえば、ネイトにはもう届かないと思った。


「思い出してください!考えてください!先入観で決めつけずに…っ、貴方の心を救う手伝いを、私にさせてくださいっ…!!」


 アイラは身を持って知っている。心が壊されていく痛みと、恐怖を。
 そしてその傷ついた心は、決して一人では治せないということを。


「貴方は、何もかも失ったわけではありません!ここに、マーヴィンさまという味方がいるでしょう…!まだ、正しい道に戻れます!ネイトさま、貴方はっ……」

「……もう、手遅れだ」


 静かにそう言うネイトを見て、アイラは言葉を止めた。焼けただれた頬の上を、一筋の涙が伝っていく。
 マーヴィンが息を呑み、アイラの腕を掴んでいた手が緩んだ。


「俺は…お前に復讐することだけを糧に生きてきたんだ。そのために悪事に手を染め、禁術に手を出した。俺を慕ってくれるマーヴィンも巻き込んだ…それが間違っていたと、認めろと言うのか?」


 涙を流したまま、ネイトがクッと笑う。


「無理だよ、アイラ・タルコット。俺の歩んだ道が間違いだと認めるくらいなら…俺は……消えたほうがマシだ」


 ネイトの手に、今までと比較にならない禍々しい魔力が集まっていく。
 瞬時に危険だと判断したアイラとマーヴィンが、同時にネイトに向かって手を伸ばす。


「―――だめ!!」

「―――ネイトさま!!」


 次の瞬間、パァンと何かが弾けるような音が響いた。

 ネイトの体がぐらりと揺れ、アイラに覆いかぶさるように倒れてくる。
 その体を支えきれなかったアイラは床に倒れ、慌てて体を起こそうとしたとき、手のひらのぬるりとした感覚に気付いた。


「……え…」


 アイラの手のひらが、真っ赤に染まっていた。
 それはアイラではなく、ぐったりと動かないネイトの血だった。腹部から出血しているのが目に映る。


「ネイトさま!しっかりしてください!」


 マーヴィンが駆け寄り、ネイトの傷口に手を当てながら魔術を唱え始めた。
 ポゥ、と温かい光が灯る。難易度の高い、癒やしの力を持つ魔術だ。


 ―――ネイトさまは、この人に任せておけば命を落とす心配はないわ。それより…。


 ネイトを抱きかかえるように支えながら、アイラは視線を動かす。やがて、一人の人物に目が止まった。

 灰色の髪に、同じ色の瞳。ネイトに似た容姿のその人物を、アイラはネイトの記憶の中で見ていた。


「……あーあ。癒やしの魔術も使えたのか。望み通り消してあげようかと思ったのに、残念」


 二階の手摺に片手を乗せ、もう片手で銃をくるくると回しているのは―――ネイトの、弟だ。


「サイラスさま…?」


 マーヴィンが目を見開き、そう名前を呼んだ。


「ど…どうして、貴方がネイトさまを…?」


 震えるマーヴィンの言葉に、ネイトの弟…サイラスは、屈託のない笑顔を浮かべる。


「そんなの、もちろん兄さんが邪魔だからに決まっているだろう?」


 笑いながら、そう言葉にできる人間が、どれほどいるのだろうか。
 アイラはすぐに、全てを悟った。


 本当の元凶は―――目の前にいる、悪魔のような人物なのだと。

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