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59.戦いの始まり④

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 アイラは、クローネに待っていてもらい、先に手洗いを済ませた。
 ハンカチで手を拭きながら、うきうきと問い掛ける。


「お待たせ、クローネ。それで、相談とは何かしら?」


 どこか遠くを見てぼんやりとしていたクローネが、ハッとしてアイラに視線を移す。


「………あ…」

「……?どうしたの、クローネ」

「いえ…すみません。少し疲れていて、ぼうっとしてしまいました」

「あら、大丈夫?」


 確かに、クローネの顔色は少し悪い。
 アイラがそっと頬に触れると、クローネは力無く微笑んだ。


「……はい。それで…相談のことですが、この近くに開放されている化粧室があるので、そこでお話しませんか…?」

「そんなところがあるの?」

「はい。ウェルバー侯爵主催の夜会には、私は何度か参加していますので」


 それは、前ウェルバー侯爵…つまり、バージルの父親が主催していた夜会のことだろう。
 年頃の令嬢ばかりを招待していたらしいので、クローネがそこに当てはまるのも納得がいく。


「分かったわ、そこへ行きましょう。その前に…あの、すみません」


 アイラは近くにいた衛兵に声を掛けた。


「私は、アイラ・タルコットと申します。お手数ですが、会場にいるリアム・オドネルに言伝をお願いできますか?」

「はい、構いません」

「ありがとうございます。クローネと一緒に開放されている化粧室にいます、とお伝えください」


 衛兵に念のためリアムの容姿を伝えてから、クローネと一緒に化粧室へと向かった。
 数名の衛兵が近くに立っていることを確認して、部屋の中へ入る。


「ずいぶんと広い部屋ね。まだ誰もいないみたい」


 それもそうか、とアイラは思った。まだ夜会が始まってそんなに時間は経っていない。
 化粧室が令嬢たちで賑わうとしたら、ダンスの前あたりだろう。


「クローネは、リアムにダンスを申し込むのかしら?」


 アイラが振り返れば、クローネはぎこちなく微笑んだ。どんどん顔色が悪くなっているような気がするが、大丈夫だろうか。


「……私は…リアムさまには、相応しくありません…」

「……クローネ?大丈夫?」

「……それどころか、私は…っ、私は、アイラさまにこのように心配してもらえる資格もありませんっ…!」


 クローネの瞳から、大粒の涙が零れた。
 その涙に気を取られているうちに、クローネがアイラのすぐ目の前に迫る。


「……ごめんなさい、アイラさま」


 クローネにハンカチで口を塞がれ、アイラは息を吸ってしまった。そしてすぐ、その過ちに気付く。


「クロー…ネ…」


 すぐに体が痺れだし、アイラは立っていられずに膝をついた。即効性の薬品か何かだろうか。
 口元を押さえながら顔を上げれば、涙を流し続けるクローネが、アイラを見下ろしていた。


 ―――どうして…。


「……どうして…貴女が、そんなに苦しそうな、顔をしているの…?」


 全身の痺れから、あまり口を大きく動かすこともできない。
 アイラが小さな声で問い掛ければ、クローネがビクッと肩を震わせた。


「………」

「……どうして…謝ったの…?」

「………」

「……どうして……泣いて、いるの…?」


 クローネは涙に濡れる瞳で、アイラをキッと睨みつける。


「貴女にこんなことをした私を、心配なんてしないでくださいっ!これから貴女を待ち受ける運命は、きっと残酷なはずです!……私は、自分の身と家族を護るために、貴女を売った女なのです…!」

「……そう…」


 アイラはそれだけ言うと、震える拳をぎゅっと握りしめるクローネを見ていた。


 ―――クローネは、自分の身と家族を護るため、と言った…。きっと、脅されているのね。
 彼女に私を襲うように指示したのは、私の命を狙う人物か、もしくはその近しい人物…。


 眠り薬を使用していないのは、何故だろうかとアイラは考える。このままどこかへ連れて行くつもりなら、意識を奪うほうが確実だ。

 それをしないのは、眠り薬の用意ができなかったのか、別の目的で使用するために残しているのか、それとも、アイラに意識がある方が都合がいいのか―――…。


「……クローネ…誰、なの…?」

「………」

「……貴女を、巻き込んでいるのは…誰、なの…?」


 クローネは、唇をきつく結んで首を振る。

 ずっと顔色が悪かったのは、アイラに対する罪悪感からなのか、それとも背後にいる人物への恐れからなのか。
 どちらにせよ、アイラは怒りを感じていた。


「……教えて、ちょうだい…クローネ。貴女を、苦しめるその人物を…、私が、懲らしめるから」

「懲らしめる?……この期に及んで、私の心配をしているのですか?……なぜです!」


 戸惑うクローネの表情を見て、アイラはフッと笑う。答えなど、簡単だった。


「……貴女が、私の…弟子であり、友達だからよ…クローネ」

「………っ、」

 両手で口元を覆ったクローネが、ボロボロと大粒の涙を零す。

 クローネがアイラに弟子入りしたいと近付いてきたのは、最初からこの瞬間のためのものだったのだろう。
 けれど、一緒に過ごした時間も、リアムに対する態度も、全てが偽りのものだったとは、アイラには到底思えなかった。


 だからこそアイラは、クローネを巻き込んだ人物が許せなかったのだ。


「……アイラ、さま…」


 クローネは、しゃくりをあげながら震える唇を開く。


「アイラさま…っ、私は…」

「おっとクローネ嬢、余計なことは言うなよ」


 乱暴に扉が開かれ、二人の男が部屋に入って来た。それは先ほど廊下にいた衛兵だったが、どう見ても衛兵の態度ではないことが分かる。


「痺れ薬は…っと、ちゃんと効いてるようだな。いいねぇ、綺麗な女が弱ってる姿ってのは」


 一人の男が、舌なめずりをしてアイラを見る。そしてもう一人を振り返った。


「おい、この嬢ちゃん縛っておけ。俺はこっちの嬢ちゃんに用がある」

「………っ」


 クローネがカタカタと震えだした。男嫌いが本当の話なら、ニヤリと笑って近付いてくる姿は相当な恐怖だろう。
 それでも、震えながらクローネは声を絞り出して言った。


「……ア、アイラさまに、乱暴なことはしないって約束して…!」


 その言葉に、男は何が可笑しいのかクッと笑う。


「その約束をしたところで、意味はねぇんだよな、クローネ嬢」

「……どういうこと?」

「こういうことだ」


 男が腰の剣をスルリと抜くと、クローネがすぐに反応した。
 距離をとろうとしたのだろうが、それができずにカクンと膝をつく。クローネの目が大きく見開かれた。


「………なっ…」

「お、効いてきたか?さっきお前さんが飲んだグラスの中に、遅効性の痺れ薬を入れておいた。いやー、騎士の相手はしたくねぇからな」


 男がくるくると剣を回す。切っ先をピッとクローネに向けると、不気味に笑った。


「恨むなら、依頼主を恨んでくれよな。このお嬢ちゃんの前で斬り伏せろとの指示だ」


 ちら、と男の視線がアイラに向く。その言葉に、アイラは愕然とした。


 ―――私の、前で…?だから、意識を奪わなかったの…?


「……や、やめなさいっ…!」

「ははっ。クローネ嬢を庇うのか?随分と正義感が溢れることで。……ま、安心しろよ。クローネ嬢はお前さんを助けようとして命を落とした、っていう筋書きにしてやるんだから。名誉の死だぜ?」

「……クローネッ…!」


 クローネに、もう戦う意志はないようだった。静かに涙を流したまま、無理やり微笑んでアイラを見る。


「……アイラさま…、私は、貴女といて…とても、楽しかったです」

「…………っ!」

「おいお前、早く拘束しとけよ。さて、時間だ」


 男が剣を振り上げる。もう一人の男は、アイラの両腕を縛ろうと手を伸ばして来た。
 痺れのせいで、うまく魔術が唱えられない。それでも、ほんの一瞬でも、補助魔術が使えたら。

 アイラは祈るような気持ちで瞼を閉じ、集中して魔術を小さく唱えた。


 ―――いけるっ…!


 ほんの僅かな補助魔術を片足にかけ、思い切り地面を蹴る。
 振り下ろされた剣からクローネを庇うように体を滑りこませると、背中に焼け付くような痛みが走った。


「なっ…!」


 焦ったような声を上げたのは、クローネを斬り伏せようとした男だった。
 その反応に、アイラは痛みで呻きながらも確信を得る。


 ―――やはり、私は傷付けずに連れ帰るように言われているのね…!


 背中を斬られたアイラは、ずるずるとクローネに覆いかぶさるように倒れた。


「…………っ、」

「……しっ、クローネ…このまま、気絶したフリを…」


 クローネの耳元で囁くようにそう言うと、アイラもそのまま気絶したフリをする。
 背後で、男がイラついたように声を荒げた。


「……くそっ、この女、余計な真似しやがって!お前が早く縛らねぇからだぞ!?」

「……悪かった。それよりどうする?早く連れて行かないと、引き渡す前に死んじまうかもしれないぜ」

「はぁ…、計画変更だ。オレが逃走経路を見張ってる間に、目的の女を縛って連れて行け。クローネ嬢は身ぐるみひん剥いて衣装棚にでも放り込んでおけ。どっちにしろ家族を人質にされてんだ、下手なことは言わねぇだろ」


 早くしろ、と男が急かすように言い、バタバタと去って行くのが分かる。
 残ったもう一人の男が、アイラを移動させると腕を後ろで縛った。背中の傷はそんなに深くないはずだが、それでも痛みが走る。

 アイラがうっすらと目を開けると、クローネが担ぎ上げられるのが見えた。
 あの男に身ぐるみを剥げと言われていたが、どうやらそのまま衣装棚に入れられたようだ。

 扉を閉めた男がアイラに近付いて来る。そのまま担ぎ上げられ、部屋を出た。


「……おい!こっちだ!」


 先ほどの男の声が聞こえ、アイラを担ぐ男が走り出す。
 その振動で背中が痛むが、ひとまずクローネの命が助かったことにホッとしていた。


 ―――ああ、また皆に怒られてしまうわね…。


 痺れと痛みで、だんだんと意識が遠のいていく。
 この先に待ち受ける自身の運命を憂いながら、アイラは意識を手放した。





***


 フィンは、バージルと共に邸宅の玄関口へ向かっていた。

 夜会の主催者と副団長が、会場とは違う方向へ足早に向かう様子を見て、騎士団の団員たちの間に緊張が走る。
 近くを巡回していた第一騎士団のオーティスが、素早くフィンの元へ駆け寄ってきた。


「……副団長、何か?」

「ああ、オーティス。ちょうど良かった…会場の近くにいるギルバルトへ伝言を頼む」


 フィンは足を止めずにそう言った。


「会場周辺と、出入りする人物を警戒してほしい。アイラはリアムに任せているけど、なんとか理由を付けて接近してくれと、そう伝えて欲しい。そのあと、オーティスも会場付近の警備だ」

「はっ」


 短く返事をすると、オーティスはすぐに背を向けて歩き出した。
 オーティスとギルバルトに任せておけば、会場で何かあっても瞬時に対応してくれるだろうと、フィンは判断する。


「……本当に、裏で何か起きてると思うか?」


 バージルはフィンにそう問い掛けながらも、眉間にシワが寄っている。それは、何も起きていないと思っている顔では無かった。
 フィンは苦笑して答える。


「……ただの杞憂で終わるといいなって気持ちと、アイラがいるから何も起きないわけないよなって気持ちが戦ってる」

「それは、どっちが勝ちそうなんだ?」

「もちろんアイラだね」


 バージルと話していて、どうもきな臭い部分が見えてきたため、こうして二人で玄関口へと向かっていた。
 外へ出ると、衛兵がバージルを見て目を丸くする。


「バージルさま?夜会はどうされたのですか?」

「一つ聞きたい。蜂蜜色の髪の、女に人気のありそうな男が、騎士団の団員について訊ねてこなかったか?」

「お、女に人気の…?」


 バージルのなんとも言えないクライドの人物像に、衛兵が眉を寄せた。
 すると、近くにいた別の衛兵が手を挙げる。


「バージルさま、おそらくその男性に話し掛けられました。タルコット男爵家のご令息ですよね?」

「!そうだ、どう対応した?」

「騎士団の皆さんは、中庭から奥の配置でしたので、そちらをご説明したらすぐに向かって行きましたが…そういえば、ここへ戻って来た覚えはありませんね」


 衛兵の言葉に、フィンの中の嫌な予感が大きくなる。


 ―――あの妹大好きなお兄さんが、いつまでもアイラを待たせるはずがない。
 なら、デレクに会ったあとに何かがあったか、もしくはデレクや他の団員たちにも何か…。


「おい、フィン!」


 駆け出したフィンの背中に、バージルの声が掛けられる。
 フィンは足を止めずに振り返った。


「バージルはそこに!弱いから!」

「よわっ…、」

「そこの君たち、バージルを頼んだよ!」


 暗闇に包まれた中庭を駆け抜ける。
 ふと甘い匂いがフィンの鼻をつき、咄嗟に足を止めた。


「………」


 フィンはハンカチを取り出し、鼻と口元を覆う。
 花の香りなど、そういうものではない。人工的に作られたような、嫌な甘い匂いだ。

 それを吸わないように注意して、フィンはゆっくりと足を進める。
 その先に広がる光景に、目を見張った。


「………!!」


 騎士たちが地面に倒れている。一番手前にデレクが倒れており、その上に重なっているのはクライドだった。

 フィンは片手で口元を覆ったまま、クライドを揺さぶるが反応はない。


 ―――外傷は無し。胸が上下しているから呼吸はある。……眠っているのか…?ということは、この匂いは催眠作用が…。


 念の為、吸わないようにしていて良かったとフィンは思った。
 この匂いの元が魔術なのか、魔術具なのか、ただの薬品なのか…それが分からないと、下手に動けない。


 フィンは口元の手を離し、息を止めたままポケットから魔術具を取り出した。
 魔力を込めれば、魔術具が形を変えて荷台になる。これは、任務で罪人を捕らえたあとや、ケガ人を運ぶのに役に立つものだ。

 そこへ、とりあえずクライドとデレクを引っ張って乗せた。
 息の限界が近付いてきたため、フィンは走るようにして荷台を引っ張る。


「……フィンさま!」


 普通に呼吸が出来ていた場所まで戻ると、バージルの護衛のコリーが走って来るのが見えた。


「フィンさま…何が?」

「この先にまだ数名倒れている。甘い匂いが漂っていて、それが原因のようなんだけど…特定できそうな人物はいる?」

「すぐ手配します。それと、アイラさまですが…」

「え?アイラが何?」


 持ち歩いている気付け薬を取り出そうとしていたフィンは、その名前に動きを止めた。


「アイラさまはファーガス伯爵家のご令嬢とお手洗いに向かいましたが、お戻りになられず…」

「クローネと?」


 フィンが眉を寄せたそのとき、ガシャンとガラスの割れるような音が聞こえてきた。次いで、邸宅の中から悲鳴が上がる。


 ―――ああもう、次から次へと…!アイラ、無事でいてくれよ…!


 フィンは舌打ちをすると、気付け薬をクライドとデレクの口の中に容赦なく突っ込んだ。

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